プロローグ ~ 森の奥へ ~
――たとえ見知らぬ世界でも、大切なあなたが、どうか幸せでありますように。
※ ※ ※
フィフジャ・テイトーは走っていた。
とはいえ、体力が尽きかけた彼の足は鉛を引きずるように重く、走っているつもりでも早足にも満たない速さでしか進んでいない。
体力の問題だけでもない。整備されていない森の中を進むのは平常でも速度は落ちる。
そもそも進んでいるのか、どうなのか。
いったいどれほどの時間そうしているのか。少なくとも数日ではないことは認識している。
ズァムナ大森林に入った時には、他に熟練の探険家が9名いた。彼らと共に大森林の領域に入ってから10日ほどは、不便ながらも野営しながら探索をしていた。
その探検家たちがどうなったのか、フィフジャにはわからない。
何人かの末路は知っている。そう、人生の末路だ。
どういった生き物なのか観察する余裕もなかったが、森の住民の腹に収まったのだろう。
11日目に、そういった混乱で2人が命を落とした。
進むべきか、戻るべきか。探険家は危険手当込みで雇われているとはいえ、自分の命より高い価値とは言えないだろう。成功報酬で残りの人生を遊んで暮らせる程度の金銭だ。生きて帰ってこそ意味がある。
そんな報酬とは別の欲求。
およそ人が未だ足を踏み入れたことのない大森林を探索する栄誉。
探検家などという人生を選んだ人間にとって、それは命と秤にかけてもいい程度の重さではあった。
誰もがそれなりに自信のある専門家だ。
死んだ奴は間抜け。生き抜く技能のある自分は生きている。
結局、襲ってきた生き物を警戒するという方向で、進むことを決めた。
その結果が、この惨めな敗走だ。
「なにが『人生を変えるチャンス』だよ、エンニィの奴め。くそっ」
毒づいて、自分の声の響きに思わず周囲を見回す。
その声を聞いたナニカが、襲い掛かってくるのではないかと。
縄張り意識が強く、数匹の群れを作って生活する石猿。
岩をも切り裂く爪牙を持ち、音を立てずに忍び寄る銀狼。
木々の間を飛び回り、獲物の顔に撒きついて窒息させる皮穿血。
死肉を漁るだけでなく、弱った大型の動物を食らう廻躯鳥。
あるいは森に入る前に近くの集落で聞かされた、このズァムナ大森林を荒らすものを皆殺しにするという妖魔《朱紋》か。
妖魔というのなら、神出鬼没で世界中の人々の脅威になっている《青小人》とて、今ここに現れないという保障はない。
「……」
周囲は鬱蒼と茂った植物ばかりしか見えない。日の光も遮られ、太陽がどちら側にあるのかさえ定かではない。
風とともに、枝と葉が擦れる音だけが聞こえてくる。
何もいない。いないように見える。いないと信じたい。
ちょうどフィフジャの額から少し上に、まだ熟れていない小粒の青い木の実がなっていた。
「……」
おそるおそる手を伸ばして、その実をもぎ取る。少しつぶれて青い果汁が手についた。
名前は知らないが、食用としてこんなものが露天で売られていた覚えがあった。
「……こんな手ごろな場所の食べ物、近くに動物がいたら先に食べてるよな」
フィフジャは、わざと楽観的な想定を口にしてみた。言葉にしたらそういう理屈が現実になるかと、期待しての発言。
それでなくとも数十日以上逃げ回った体は食べ物を欲している。最初に持ち込んだ食料など逃げ回った際になくしていた。
「なんだ、まあ、俺やっぱり幸運なのか。普通生き延びられないだろ」
いつ命を失ってもおかしくない状況で、こうして数十日を生き延びている。
不運ではないだろう。
フィフジャは探検家ではない。
探検家を雇った側の監督代理として指名を受け、同行しただけの人間だ。
本人の感覚で言えば、厄介なことを押し付けられたという所だが。
選ばれたのは、彼が若く優秀な人材で、危険に対応する能力ならベテランの探険家にも勝るものがあったからという理由もある。
雇い主側の都合が良かったということもあるだろう。
それとは別に、彼は自分の運命を切り開くという目的もあった。命運が尽きそうな状況になっているわけだが。
「うえ、すっぺぇ」
口にした木の実の渋さに顔をしかめる。
とはいえ、他に食べられそうなものも見当たらない。
動物を狩って食う手段もないではないが、現時点でのフィフジャの体力では逆に相手の食事になってしまいかねない。
とりあえず名の知れぬその実を乱暴にもいで、口につっこむ。
口の中で溢れた果汁が、忘れかけていたのどの渇きを潤す。フィフジャは水もまともに飲んでいないことを思い出した。
「う、うあ……あぁ」
思い出したついでのように彼の全身を耐え難い疲労がまとわりつき、そのまま腰を落としてしまう。
ナニカの気配に、こうして逃げては力尽きて休息して、また逃げてと繰り返してきた。
「結局、何日逃げ回ってるんだ。ああ、こないだも三旬(一旬で十日)は軽く過ぎてるって考えてたじゃんか」
森に入ったのは初春、まだ少し肌寒い頃だった。今は日中にはやや温くなった空気を感じる。
その間、森に潜む見えぬ恐怖に抗い、逃げ回ってきた。
一番ひどかったのは、排泄してる最中に近くの茂みから物音がして、糞尿をそのままにあわてて逃げ出したときだ。
着替えもないのだから、その時の湿った感触は、今では尻にこびりついている。
座り込むと、なんとなくそれがわかる。
気にしている場合でもないが、まったく気にしなくなったら人としての尊厳を失うような不安もあるし、逆に開放感もあるかもしれない。
前向きに考えれば、夜露や果実やらでなんとか食いつなげるのは、ここが大森林という好条件だからと言えた。
「いや、そもそも大森林じゃなかったらこんな遭難してないだろ」
海を漂流するよりは、生存確率が高いという程度だ。
「来た道を戻ってるつもりだったんだけど、なぁ」
誰にともなく同意を求める。お喋りな性格ではなかったはずだが、こんな状況で独り言が増えているのがおかしいものだ。
逆方向だったみたいだな、と。
混乱していろいろと見失っていた最中に、鬱蒼と茂った森の中で正しい方角を進むことなどできなかった。
前を逃げていく探険家が、大弓の直撃でも食らったかのように頭を吹き飛ばされたのを見て、進む方向を変えた。
後ろからついてくる足音が、恐ろしい魔獣だったのか、連れの誰かだったのか。
確認することも出来ず、その気配が消えてからも当分は走り続けた。
ふと気がつくと大木のせりだした根の横で目が覚めた。転んで意識を失ったのか、逆の順番で意識を失って転んだのかわからない。
荷物はほとんど失っていたし、服も泥まみれ。他の探険家の姿はもちろんどこにもなかった。
それから何十日もさまよっていることになる。正確な日数はわからない。初春だった季節が暖かくなってきているのだから50日程度だろうか。
「あー、どっちに行ったら出られるんだよ……頼むよ、ほんと……」
そのぼやきに応えるものは、木々の葉が擦れる音と、虫の声ばかり。
「神様とかさ……本当にいるなら、助けてくれよ」
答えのない呟きにうなだれながら、フィフジャの意識は深い闇につつまれていった。
――瞼を透過して突き刺す光の眩しさに目を覚ます。
「……」
相変わらずの深緑の世界。
まだ命運は尽きていない。今は、まだ。
「朝、か」
とっくに昼なのかもしれないが、また新しい一日を生きて迎えることができたのだろう。
起き上がる気力がなく、そのまま後頭部で大地の柔らかさを感じていると、わずかな震動を感じた。
震動。かすかな大地の揺れ。
「……」
未知の獣の足音か。
逃げ切る自信はなかったし、そもそも逃げたところで生き延びる算段がつかない。
希望がなく、立ち上がる気力が湧かない。
(ここまで、か。痛いのはいやだなぁ)
死に方を選べる状況ではないが、それくらい願ってもいいのではないかと考える。
全身から力が抜けて、後頭部に感じる大地の揺れがより顕著になった。
「……?」
一定の調子で響き続ける振動。
(そういえば、寝ている間もずっとこのリズムを聞いていたような)
なんとなく心地よい、流れるような――
「川だ」
――ヒューイッ!
フィフジャががばっと体を起こすと同時に、さほど遠くない場所から笛のような音が聞こえた。
鳥の鳴き声のようだった。
それまで動くことも諦めていた彼の体が嘘のような機敏さで駆け出す。
「こっちだ」
ずっと頭に響いていた水音と、鳴き声の方角は一致していた。
水場があれば鳥くらいいる。鳴き声の調子は軽い印象を受けたので、大型で獰猛な鳥類ではないだろうと思えた。
(大型で獰猛な生き物が待っていたら、その時はもうそれまでだ)
フィフジャに残された選択肢など多くはない。
水場に行って、水を飲む。
それが生き延びるために最も必要なことだと、考えたわけでもないがそう行動するしかなかった。
どれくらい走ったのか、フィフジャの耳にも川の水音が確かに聞こえてくる。
――ヒューイッ、ヒューイッ!
先ほどよりもはっきりと、今度は二度、やはり鳥の鳴き声のような音が響いた。
「頼むっ!」
幸運の方に転がってくれと、祈りの言葉を口にした瞬間。
世界が明るくなった。
「っ!?」
強い光に差された目をとっさに手でかばう。
川面に反射した日の光。鬱蒼と茂った木々の壁がなくなり、急に日向に出ただけだった。
森を切り拓くように、小川が流れていた。
「……み、水っ!」
フィフジャは膝をついて、両手で川の水を掬って口に運ぶ。
慌てていて、慌てる必要などないのに、その手に掬った水のほとんどが零れながらも、彼の喉を鳴らす。
(うまいっ! こんなに水がおいしいなんて、生まれて初めてだ)
澄んだ水だった。この森のどこから湧き出しているのだろう。
今のフィフジャにとっては比喩でも大げさでもなく生命の水と呼んでよかった。
幼児のように零しながら掬い続けてから、ようやく少し落ち着いて、ゆっくりと掬って天に掲げるようにしながら流れ落ちてくる水を飲む。
「っく……ふあああぁ」
大きく息をついて、尻を大地につける。
仰ぎ見る空。もう日差しは目に痛くなかった。
「生き返ったぁ」
当分、飲料水の心配はしなくていいというだけではない。
この川に沿って進めば、森の外に出られるかもしれない。
(川沿いに進むのは危険を伴うって、一緒に来た誰かが言ってたっけ。ニネッタさんだったか)
理由までは聞かなかったが、現状で考えたら他の目印がない以上、川を伝っていくことがそれほど悪手だとも思えなかった。
川沿いであれば、木の実なども容易に採取できるのではないかと。
(一休みしたら、このまま下流に進もう)
考えても仕方ない。意思を決定すると、フィフジャはもう一度水を飲もうと、空を仰いでいた顔を川面に――
「……?」
川幅はそれほど広くはなかった。普通に歩いて7歩くらい。
向こう岸と呼ぶには近すぎるくらいの距離に、三つの瞳がある。
その瞳がゆっくりと立ち上がるフィフジャを見据える。
立ち上がったフィフジャと同じくらい目線の高さに、その顔はあった。
「……」
やや条件が違うのは、その生き物は四足で、前の足を川辺についた状態で、フィフジャの全高と同じ程度の背丈になっている。
三つ目なのは、それの生物的な特徴だ。鼻の上あたりに左右よりも大きめの瞳がある。三つとも赤黒い色をしている。
そして、おそらく種族の中では誇りになるだろう黒い角が2本、額から突き出している。
「……ここ、縄張りだったか?」
《黒鬼虎》と呼ばれる獰猛な獣に、出来るだけおだやかに話しかけ――
『グルァァァァァっ!!!』
「止まれ!」
即座に開戦。
フィフジャの言葉になど構わず、小川に踏み込んで襲い掛かる黒鬼虎。その獣が止まらないことくらいフィフジャもわかっている。
威嚇の咆哮と同時にフィフジャは足元の水の流れを止めていた。
話しかけながら準備していた《術》で、川の流れの一部を瞬間的に堰き止める。
上流から流れ込む水がそれとぶつかり、水しぶきが上がった。
『グルウゥ!?』
急に顔にかかった水に、わずかに黒鬼虎が躊躇を見せるが、水がかかった程度で何の痛痒もない。
咄嗟につむってしまった瞳を開いて獲物を捕らえようとする。
逃げようとする小賢しい獲物はどこにいるのか、と。
「左よ凍れ!」
次の瞬間、逃げるどころか距離を詰めてきたフィフジャの左手が黒鬼虎の目の前に突き出される。
と同時に、左手周辺の水分が瞬時に凍りついた。
『キャンッ』
開いた目の周りの水が凍ったのだから、いかに凶暴な獣といえどたまらず幼い獣のような悲鳴を上げる。
その怯んだ獣の顎に、熱くなった右の拳を叩き込む。
「どっかいってくれよ!」
川の中に左足を踏み込み、渾身の右フック。
先ほど凍った左の代わりに、熱くなった右拳。体力もほぼ尽きかけたフィフジャにとっては後のない一撃だった。
『ゴビョッ』
完璧に入った。
そういう手応えにフィフジャの口元が思わず緩む。
と、その直後に、世界が揺れた。
「っ⁉」
青空が、その視界に広がる。
(……あれ?)
状況を理解できないでいると、呼吸が出来なくなる勢いで背中を地面に叩きつけられた。
「ぉふっ! ぶぉ、っく……」
呼吸困難の苦しさと、腹に感じる熱い痛み。背中ではなくて。
(腹……? あぁ、殴り飛ばされた、のか)
フィフジャの渾身の一撃とほぼ同時に、カウンターで獣の右前足がフィフジャの腹を殴打していた。
服が裂けているが裂傷は浅い。胴には金属の薄い板が何重か仕込まれているから裂けてはいない。
当たり方が良かったのだろう。黒鬼虎の爪なら鉄板でも貫いていても不思議はないのだから。
ただ腹を打った衝撃と背中を叩きつけられたことで、呼吸が満足に出来ない。
幸いと言っていいのかどうか、その一振りは強烈で、獣からは十歩ほど離れた場所まで吹き飛ばされていたが。
(……立てない、かな。無理だ、もう無理だ)
背中を強打した痛みと呼吸困難で立てないフィフジャ。
視界を取り戻しつつある黒鬼虎の姿が、涙でにじむフィフジャの目に映る。
顎に当てた一撃程度では、森の王者とも言える黒鬼虎の戦意を削ることはできなかったようだ。
そもそも素手で戦えるような相手でもない。武器があったところで、熟練の戦士が数人がかりでようやく挑めるような獣だ。
(ああ、どっかの野蛮な部族だと、一人でこれに勝てたら長だとか。バカなんじゃないか)
五感を取り戻しながらフィフジャに近寄ってくる黒鬼虎。
逆に、朦朧とした意識でそれを見つめる敗者。
弱肉強食。
人間の生活圏ではない大森林では、これの他に決まりはない。
「まあ、どっちにしても、死ぬのか……」
ぼやく。
近づいてくる獣だけが、その言葉を聞き届ける。
理解はない。
「人間同士でも、他人のことなんて、理解できないし」
死ぬときは一人。生きるのも一人。
――ヒューイッ!
高い鳴き声が、空に響く。
何を伝えて鳴いているのか、わからない。
『グルルルルゥ』
獣も、唸る。
何を伝えているのか、フィフジャには理解できない。
なんとなくその感情を想像する。
(警戒している、みたいな声だ)
そんな風に感じられた。
(お前みたいな強いのが、こんな死に掛け一匹に何を警戒してんだよ)
もう言葉にする気力もなかった。
『ヒューイッ! ヒューイっ!』
笛のように、やけにはっきりと、川の上流側から聞こえた。
「……?」
獣は、フィフジャの方を見ていなかった。
上流側、その高い鳴き声のする側を見て、身構えている。
『――ッ! ウォンッ!!』
黒鬼虎の右前足を掠めるように、銀色の線が走った。
『グルァォゥ!』
黒い左足がその銀線に振り下ろされるが、空を切る。
森の王者である黒い虎の脇を抜けたのは、灰色の狼だった。
走り抜けるあまりの速さに、銀色の線にしか見えないほどの。
(おおか、み……銀狼、なのか)
生まれ故郷のリゴベッテ大陸で見たことがある犬という獣に似ている。
あれもユエフェンという別の大陸から連れられてきていたのだが。大きさは一回りほど違うが。
『グルゥゥ』
黒鬼虎が灰色の狼の方を向き直る。その大きさは、黒鬼虎がフィフジャと同等の背丈だったのに対して、狼はフィフジャの腹程度の体高だ。
体高がそれだけ違えば、体格にはもっと大きな差がある。ヘビー級闘士と、子供のような体格差。
重量差は四倍では済まないだろう。
比較して子供のように見える大きさの灰色の狼が、フィフジャを守るかのように黒鬼虎との間に立って威嚇していた。
圧倒的な戦力差。
覆すことのできるレベルではない。生物として、戦いになるような関係ではない。
狼に出来ることは、その素早さで逃げ延びることだけ。
そんな頼りない応援だが、朦朧としたフィフジャの目には英雄の背中のように見えていた。
「Yaaaa!」
次の瞬間、黒鬼虎はその背後からの攻撃に咄嗟に振り向く。
『ウォンッ!』
視線が逸れた猛獣を、再び狼の牙が襲う。
『グラアァァッ』
前後からの攻撃を受けて、その場で大きく爪を振るう黒鬼虎だったが、攻撃をした二体は既に通り過ぎた後だった。
狼は、フィフジャから離れた側に。
もう一体……一人が、狼の代わりにフィフジャを守るかのように背中を向けていた。
「お、……」
その小さな背中に、生きる希望がある。
もう声を出すことも出来ずにいたフィフジャが、思わず呻いた。
「おん、なの……子?」
そこで初めて、彼女はフィフジャを見て、首を少しだけ傾けた。
後ろに束ねた黒い髪が揺れる。
「Hito Ga Iru?」
何を言ったのか。
その言葉は、黒鬼虎の唸り声よりも、フィフジャには理解できない。
考えるより先に、既に活動の限界だった彼の意識はそこでぷっつりと途切れた。
※ ※ ※