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第二十三話 勇気の一歩(4)

× × ×


「エデルくん!」


 ボーツギン市の大型書店の店内にエデルはいた。エデルが昔から本を読むことが好きだというのは知っていたし、こういう自由時間のとき、彼は決まって書店にいた。だから、ここでもあたりをつけて店内をしらみつぶしに捜そうとしていたところ、難なく見つけることができたのだ。


「ミーシャ? あれ、ミーシャって、本好きだっけ?」


 痛いところを突かれてしまった。自分はまったく本を読むようなタイプではないし、こんなところで偶然出くわしたというのも少しおかしい。頬をぽりぽりと掻きながら、精一杯の言い訳を試みる。


「うん。お料理の本がないかって、探しに来たんだ」

「料理の本なら一階だぞ。入ってすぐのところになかったか?」

「あ、気付かなかった」


 てへへ、と笑ってみせると、エデルはそれだけの言葉で納得してしまった。鈍感なのも相変わらずである。


「こっち」

「へ?」

「料理の本」

「あ、うん。ありがとう」


 本当は料理の本になんて全然興味がなかったのではあるが、エデルの優しさを素直に受け入れることにした。料理本コーナーに行って、本を手に、つなぎ程度の適当な会話を楽しんだ後、「ちょっと、外歩こうよ」とミーシャから声をかけた。


「ねえ、エデルくん」

「どうした?」

「この前話したこと、覚えてる?」


 明後日の方向を眺めて答えを探している姿を見て、ミーシャは思わず微笑をこぼす。


「私が男の人と付き合ったこともなければ、手をつないだことすらないっていう話」

「ああ。そういえば、そんな話もしたっけ」


 せっかく話題を切り出しても、まだ反応をしてくれない。困ったものである。


「あのさーー」


 エデルは、ぎょっとして目を見開いた。急に手の平を柔らかな感触で包まれ、何が起こったのか理解することができなかったからだ。まさか、あのミーシャが手を握ってくるだなんて! 親しいエデルだからこそ、思わなかったのだ。


(また、殴られる!)


 手が握られていたから、背筋を硬直させるに留まる。けれど、ミーシャの拳が飛んでくることはなかった。


「……やっと、握れた」


 エデルの頭には、クエスチョンマークがいっぱいに浮かんだ。ミーシャは、顔を真っ赤にしながら続ける。


「男の人の手を握れたの、初めて」

「……お、おう」


 人の賑わう大通りの真ん中で、一組だけ動きを止めて、手を握っている女の子と男の子。人々の視線に気付き、ミーシャの顔の紅潮は、緊張から恥ずかしさへと変わった。


「ご、ごめんね! エデルくん! 急に、変なことしちゃって」

「いや……」

「それじゃあ、また、後でね!」


 エデルからしたら「急にどうしたんだろう」というような不自然な動き。本当は、もっと深いところまで話をしたかったし、いつかは深い関係になりたいとも思っていたけれど。それでも、これはミーシャ・アーカンサーが人生で一番の勇気を振り絞って、精一杯「軽い女」になろうとした、最大限の愛情表現であった。


× × ×


 戻るな、と言われてはいたものの、リョゼは再びナルキサのかつての戦いの舞台に戻っていた。閑散とした街の中で沈黙と風の音だけが木霊して、廃墟のようなその場所には、化け物の死体がピクリとすることもなく横たわっていた。


「親父……」


 リョゼはドーブルクの前まで歩み寄った。

 ここには、様々な人が眠っている。「ボーツギンの亡霊」に連れ去られた人々。兄。姉。愛する人。

 ポケットからピンクの花柄のハンカチを取り出し、じいっと見つめていた。この化け物の死体とハンカチには、彼のすべてが含まれていた。あの場所で交わした他愛ない会話。頬の蜂蜜を拭き取ってくれたあの瞬間。そこで見た、愛しい笑顔。すべては、すでに失われてしまったものだ。


(俺は、どうすれば良かったんだろうか)


 どうすれば、すべてを失わずに済んだのだろうか。そもそも、あのとき親父に付いて行ったこと自体が間違いだったのだろうか。ルイーナの救いを、彼女の無邪気な愛情を知ってしまったことが、間違いだったのだろうか。

 ハンカチをぎゅっと握りしめた。しわくちゃになったそれは、彼の行き場のない悲しみを黙ったまま受け止めていた。落ちた涙で濡れ、まるでそのピンクの布切れまでもが泣いているみたいだった。


「リョゼ様……」


 ふと後ろから聞こえた声に振り返る。


「ナルチカか」

「あ、あの、申し訳っ……ございませんっ! せっかくお一人でおられるところを、邪魔してしまって……で、でも、なるべく急いだ方がいいって、言ってます! あの、他の人がっ!」

「相変わらずうるさい奴だな」


 他の人なんていないだろ、とリョゼは呆れたような笑みをこぼした。


「ああ。わかっている。もともと、無理を言って寄ってもらったんだものな」


 しばらくクロガネは解散し、何でもない一般人の中に紛れるようにしよう、という話になった。忠誠心はあるが淡白で聞き分けの良いメンバーたちは彼の言に従ったが、ナルチカだけはリョゼの後に付いてきた。「ごめんなさい!」と大声で謝る姿に苦笑し、「じゃあ、俺と一緒に来るか?」と彼の方から誘ったのだ。

 すべては終わったのだ。

 そして、新しい何かが始まるのだ。失ってしまったものは戻らない。それならば、今目の前にあるものだけでも大切に守っていくべきではあるまいか。


「ナルチカ」

「は、はいっ!」

「あんまり頑張りすぎるなよ」

「……?」

「お前は、いつも張り切り過ぎているから、一緒にいて疲れるんだよ。だから、あんまり頑張り過ぎないでくれ」

「わ、わっかりましたぁっ!」

「ほら、それ」

「ごめんなさいっ!」


 リョゼは肩をすくめた。そして、もう一度後ろの死体を振り返り、その場でしゃがんで胸のあたりにピンクの花柄のハンカチをかけておいた。

 親父……。ルイーナ……。

 両手を合わせ、小さく頭を下げる。



 そこで、ゆっくり休んでいてくれよーー。



 いつかは俺もそこに逝くから。

 もちろん、それがいつになるのかはまったくわからないけど。


「リョゼ様、もうよろしいのですか?」


 いや、大分後のことになりそうだけど。


「ああ、大丈夫だ。それじゃあ、行こうか。まずは、ウィヴァンの街へ行こうか」

「えー……。じゃあ、あの山を越えていくんですか?」

「いや、焦る旅じゃない。遠回りしながら、ゆっくり行こうか」

「良かったぁ。あそこ、急に魔物が出てくるから、すごい怖いんですよね」

「そんなんじゃ先が思いやられるな」

「あ、でも、私、リョゼ様のために頑張りますから!」


 リョゼは笑った。


「はは。期待しているぞ」


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