第二十二話 愛を知って(3)
× × ×
ルイーナが思ったよりもリョゼの怪我の治りは早く(彼女が食生活の面などでサポートをしてくれたためだろう)、一ヶ月ほどで立って歩けるまでに回復した。
「信じられない。あんなに酷い怪我をしていたのに」
「ルイーナが回復魔法やら薬草やらで世話をしてくれたおかげだよ。ありがとう」
どういたしまして、とルイーナは照れ臭そうに言った。
「それで……これから、どうするの?」
「そうだなーー」
別れの時が訪れ、玄関口でルイーナと向かい合った。この家を離れるのが、何だか惜しい気がした。一ヶ月もこの家に滞在していたのは、あるいはそれ以上の感情が芽生えてしまったからなのかもしれない。
「親父のために医者を捜すつもりだったのに、とんだ足止めを食ってしまった」
「そういう健気な気持ちも大切だとは思うけどさ、自分の面倒すら見れない人に、他人の面倒を見る資格なんてないんだよ」
リョゼはふっと小さく笑った。いずれにしても、もし助けられなかったら、あのまま山奥で死んでいた身だ。
「ルイーナの言うことも、一理あるのかもしれないな」
「それに、言った通りでしょ」
「ん?」
リョゼが目を向けると、ルイーナはしたり顔で自分の頭を人差し指で差した。
「女の勘。リョゼくん、やっぱり良い人じゃん。出会った頃はものすごく寂しそうな目をしていたのに、今は優しそうな笑顔をしてる」
思わぬ気の緩みを恥じ、リョゼは真顔を作る。
「バカにするのも大概にしろよ」
「ねえ、リョゼくん」
「今度は何だ?」
「また、いつでも遊びに来てね。うちの絶品の林檎、ごちそうするから」
リョゼは肩をすくめ、そしてルイーナの家を出ていった。今更ウィヴァンへ行ったところで遅いだろう。カイルやラミーも、死体すらない自分の行方は、少なくとも気にしてはいるはずだ。
「それじゃあな」
そう言って、二人は別れた。もう会うことはないだろうと思っていた。ルイーナと自分とでは、そもそも住んでいる世界が違うのだから。彼女は陽のあたる世界で笑っていて、自分は地獄の底で、いつも命を懸けて生きている。ルイーナは、自分なんかと関わるべきではない。自分の世界に巻き込むべきではない。
しかし、クロガネのアジトに戻ってからも、リョゼはルイーナのことを一向に忘れることができないでいた。誰かからの優しさを受けたのは、これで二度目だった。それに、同年代の少女と友人のように他愛ない会話をしたことは、リョゼの歪みきっていた精神に一筋の光を灯した。常に周囲を警戒し、殺伐とした視線を向けていた少年の瞳には、奥底で凝り固まっていた緊張感をごっそりと取り抜かれたようなふんわりとした甘さが生まれた。
「…………」
忘れようとはしていたけれど、どうしても彼女のことが頭から離れなかった。そしてついに、リョゼは再びルイーナの元を訪れることにした。
コン、コン。
ドアをノックするものの、応答はなかった。時間を置いて、もう一度ノックする。しかし、反応はない。どこかに出掛けているのだろうか、と思いつつ、三度目の正直とばかりに拳を向けたとき、声が聞こえた。
「ヤンパスさんのところに、何か用かい?」
ルイーナのラストネームが耳に届き、リョゼは反射的に顔を向ける。そこでは、見知らぬ老女が浮かない顔をして彼の方を見ていた。
「ああ、いや……」
曖昧な返事をこぼしていると、老女は言った。
「残念だけど、その家には今は誰もいないよ。孫娘のルイーナちゃんが行方不明になっちまったみたいでねぇ……」
「ルイーナが?」
ルイーナが行方不明?
それを聞いた瞬間に、リョゼの顔つきが変わった。「どういうことだ?」と迫る剣幕に気圧されつつ、老女はその先を続けた。
「何でも、一昨日の夜に飼い猫が逃げ出したみたいで、近頃の夜の街は危ないからおよしって言ったのにーーほら、最近物騒な噂があるだろ、『ボーツギンの亡霊』とか何とかってーーそれで、オットーさんの言うことも聞かないで、『大丈夫だから』って探しに行ったらしいのよ。そしたら、オットーさんの不安が的中ってわけらしくて。オットーさんにしても、たった一人の孫娘だろう。ルイーナちゃんがいなくなってからすっかり落ち込んで体調崩しちゃって、今は入院しているのよ」
「ボーツギンの亡霊……」
その噂はちらと聞いたことがある。夜に外出した者がボーツギンの亡霊に取り憑かれ、そのまま行方不明になっているという噂だ。以前、彼女が面白おかしく話していたところを見ると、ルイーナも信じていない様子だった。そのときはさして気にも留めず聞き流していた話だったが、今改めて思い返してみると、不穏な考えがリョゼの脳裏をよぎった。
(夜に外出した者が、行方不明)
クロガネでは、ドーブルクの「餌」は、夜のボーツギン市に捕りにいくことになっている。もし、それがそのまま「ボーツギンの亡霊」として噂されているのだとしたら、ルイーナは……。
(いや、まさかな……)
確率論から導き出したというよりも、信じたくない気持ちの方が強かった。その答えを確かめたいと思った。少なくとも、今ならまだ間に合うと思っていた。老女に礼を言うこともなく歩き出し、気付けばゆったりとした昼下がりのボーツギンの街を、リョゼは駆け抜けていた。
「リョ、リョゼ様!?」
「餌」の牢獄のある階に降り、ひとつひとつの檻の中を捜した。しかし、ルイーナらしき人物の姿は見えなかった。
「おい、親父の餌は、これですべてか!?」
「あ、いえ、たった今、一人連れていったところですが」
「何だって? どんな奴だ?」
「若い女です」
次の瞬間には、リョゼは走り出していた。間に合え、間に合え、と強く念じながら、しかし、ドーブルクの間へ向かう途中の廊下で、あるものが目に留まった。
「…………!」
頭を雷に撃たれたような衝撃が走った。
それは、ピンクの花柄のハンカチだった。あのときの優しい出来事が、リョゼの記憶の底から蘇った。
まさか……。
まさか……。
まさか……。
息を切らしながら、ドーブルクの元へと走った。間に合え。間に合え。そう願いながら。強く祈りながら。神よ、どうか、と初めて非現実的な偶像を頼った。
「やめてええええええええええ!!!!!」
誰かの悲鳴がリョゼの耳に届く。「誰か!」「助けて!」と彼女は連呼する。
「ルイーナァァァァァ!!!」
刹那、リョゼの背筋は凍てつき固まった。
バキッ。
ゴキッ。
グシャ。
惨たらしく肉が噛みちぎられ、骨が砕かれる乾いた音が室内に響き渡った。ゴトンと痛い音がして、少女の胴体は地面に落ちた。その右腕はすでになく、赤黒い血が床に止めどなく流れ出していた。彼の叫び声が耳に届いたのだろうか、少女は恐怖と苦痛に満ちた絶望的な表情で、首を向けた。
「リョゼ……く……
ゴキッ。
ドーブルクはおもむろにルイーナの首元に手をやり、それをへし折った。頭を食らい、体を食った。
何が起こっているのか、理解が追いつかなかった。ドーブルクはそのまま「食事」を終え、血で汚れた口元を拭った。
リョゼは、一歩足を退いた。この現実に耐えることができなかった。ピンクの花柄のハンカチを、ぐしゃっと握りしめた。
ルイーナ……。
ルイーナ…………。
ルイーナ………………。
「ルイーナァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!!」
痛みを知って、初めて気づいた。自分が今まで、何をしてきたのかということに。これまで自分がボーツギンの街で捕らえ、牢獄に放り込んでいた人々にも、同じように愛する者がいたはずだ。オットーがルイーナの行方不明を知って倒れたように、どれだけの人々が悲しみに打ちひしがれただろうか。
親父はもう、人間ではない。
人を食う化け物なのだ。
そして、俺にはもう、この化け物のために餌を持ってくることはできない。俺は、愛を知ってしまった。そしてその愛を、無残な形で失ってしまった。
怒りよりも、喪失感の方が酷かった。一刻も早く、この場を離れたかった。いつのまにか、ボーツギンの街の片隅をふらふらと彷徨い、物思いに耽っていた。それからどのくらいの時間が経ったのかはわからない。しかし、リョゼは改めて決意した。あの化け物を殺すことを。化け物のために人を殺す十六代目のあの組織を潰すことを。もちろん、それが身勝手な復讐であることはわかっている。自分を拾ってくれた親父を、今まで慕ってくれた兄姉を裏切る形になるのだから。
この理不尽な心の動きのことを「感情」と呼ぶのか、とふと思った。こんな心の動きをするのは、まったく初めての経験だった。しかし、それはこれまでにたまたま感情的になるような出来事が起こらなかっただけで、自分自身が「感情的な人間ではない」ことの裏付けにはならなかった。人は誰しも、理不尽な行動を取り得る。愛のために。人のために。もともと間違った道を歩んできた身であるのだ。今更「正しさ」がどうとか言うつもりはない。自分はただ、自分が「正しい」と思った方向に進んでいくに過ぎないのだ。リョゼは涙を流した。人生で初めて流した涙かもしれない。少なくとも、愛のためには。
リョゼの手の平では、ピンクの花柄のハンカチが、彼の悲しみとは対照的な可愛らしさを保ち続けていた。
第二十三話は、最終回スペシャルとして4月11日19:00より一時間ごとにお送りいたします。
楽しみにしていてください!




