第十二話 エースを狙え!(1)
※今回の話は、この小説にしては珍しく、「少し」ではありますがシリアスなシーンが入ります。
東雲莉奈は、生まれたときから東雲莉奈だった。
隙間を狙い、時には計算高く、夢や理想よりも現実的な幸せを手に入れようとする人間性は、あるいはこの家に生まれたときから決まっていたのかもしれない。
「そろばん教室、行きたくないなあ」
小学生の頃は、周りの生徒たちと比べて陰のあるキャラクターだった。昼休みの教室、他の子供たちが外に遊びに行くのを、片隅の机に頬杖をついて、重たい眼差しで見送っている。どんよりとした瞳の奥には、過去のすれ違いの光景が映し出されていた。
「……でも、頑張らなくちゃ」
× × ×
「ねえ、今日の放課後、洋ちゃん家で遊ぼうよ!」
初めて仲が良くなった同級生数人で話をしていると、誰かがこんなことを言い出す。他の子供たちも口々に「賛成!」と声を揃えた。
「莉奈ちゃんも、来るでしょ?」
内心、莉奈は行きたい気持ちでいっぱいだった。だけど、母親の言いつけを破ってまで自由を行うには、彼女はまだ幼すぎた。
「……ごめんね。今日はそろばん教室があるの」
そっかー、残念!、と苦笑まじりに言う声。その後も「何して遊ぶ?」と盛り上がる空気の圧力に耐えきれず、「トイレ行ってくるね!」と言い残してその輪を離れた。
同じような出来事は、何回か続いた。
「莉奈ちゃん、今日は大丈夫そう?」
「ごめんね。今日は英会話教室があるの」
「莉奈ちゃん、今日もだめ?」
「ごめんね。今日は習字教室があるの」
「莉奈ちゃんは、今日は無理だよね」
「うん。そろばん教室があるんだ」
「…………」
「…………」
× × ×
過去に一度だけ、何かの習い事を飛ばして、友達と公園で遊んだことがある。ママに言われているのに、行かなきゃいけないのに、という罪悪感は頭の片隅で悶々としていたが、同時にその背徳感が快感に変わり、いつもの堅苦しい時間にひたすらバカ騒ぎをしているのが、ただただ楽しかった。
しかし————
「莉奈、今日のそろばん教室はどうだった?」
一瞬、背筋がピンと伸びた。しかし、昌子の口調が穏やかだったこともあり、莉奈は嘘を吐いた。
「うん。難しい問題もあったけど、だんだん計算も早くできるようになってきたよ」
すると、昌子の態度が一変した。
「嘘を吐くなっ!」
ビクッと体が芯から震えて、思わず尻餅をついてしまった。昌子は怯えた莉奈にも構わず、キッと眦を吊り上げて詰め寄ってくる。
「そろばん教室から電話があったわよ。莉奈が来てないって。あんた、今日はどこで何をしていたの?」
すべてを包み隠さず、正直に話した。話さざるを得なかった。嘘を吐いたら必ずバレると思って。バレたらすごく怒られるという恐怖感に心を支配されて。
「このバカッ!」
娘が自分の言うことを聞かないとき、昌子は普段では考えられないくらいに怒り狂った。
「あんたの習い事のためにいくらかけてると思ってんのよ! 全部、あんたが将来幸せに生きていけるためにやってることなのよ! それをどうしてわからないの! お父さんが毎日働いてくれたお金で習い事に行けるっていうのに、この親不孝者がっ!」
圧倒的な正義の前に、莉奈には返す言葉はなかった。しかし、厳しく暴力的とも言える叱責を終えた後、昌子は必ず涙をはらはらと流しながら莉奈を抱きしめるのであった。
「ごめんね。ごめんね、莉奈。でも、これは全部あなたのためにやってることなのよ。だから、どうかお願い。ママの気持ちをわかって」
ママは、こんなにも私のことを思ってくれているんだ。
叱ってくれるのも、ぜんぶ私のためなんだ。
そんな安堵感から、莉奈は滂沱の涙を流した。緊張の糸がほつれ、開いた心からいっぱいの涙が溢れた。頑張らなくちゃ。ママのために、頑張らなくちゃ。ママはこんなにも、私のことを思ってくれているんだもの。
そして中学受験——大学入試第ゼロ次試験を通過し、莉奈は中学生になった。
昌子が本格的に莉奈の将来に口出しするようになったのは、そのころからだった。
人生は中学、高校時代にすべてが決まると言っても過言ではない。
それは、莉奈がよく言い聞かせられた名言のひとつだった。他にも、女として最も華がある十代半ばから二十代後半、その間に「理想的な恋人」を見つけなければいけないのよ、とか。環境が人を育てるのだから、良い大学に行かなければだめなのよ、とか。
「極端に能力が高すぎるのも、かえってよくないものなのよ」
それも昌子の教えだった。
世の中はうまく釣り合いが取れるようにできていて、能力が高い人間には必ずどこかに欠陥がある。たとえば、結婚をしたら急に暴力を振るってくるとか。実はものすごく浮気性、とか。だから、平均点よりもちょっと上くらいの男の子が実は一番いいのよ。
「知識は広く、浅くが重要よ。とりあえず相手にしゃべらせて、適当に『わー、すごーい』って相槌を打って気分をよくさせておけばいいの」
流行を知っておくこととか、女の子らしい可愛い振る舞いをするとか。最終的には家庭に入って専業主婦になることが女の一番の幸せなんだから、力の入れどころは間違っちゃだめ。でも、だからと言って勉強をおろそかにして良いわけじゃないわ。成績が落ちると、周りにバカが集まってくるからね。いつも言っているでしょう。環境は大切だって。




