第五話 桜井家の母(3)
軽い返事をして、すみれはなるべく音を立てずに書斎のドアを閉める。それから湯船にお湯をためて最初にお風呂に入る。出た後に顔に保湿クリームを塗るなどのケアをして、夕食を作り始める。今日のメニューは、にんにくとトマトのパスタだ。
「雪菜ちゃん、早くお風呂に入ってね」
三人が洗濯物を畳み終えた頃に声をかける。
ティナが来てから、雪菜はときどき彼女と一緒にお風呂に入ることがあった。基本的には人見知りをする子だけれど、ティナの明るく開放的な性格に引っ張られているらしい。「一緒に入ろうよー」と服の裾を引っ張ってくるティナに「それじゃあ、一回だけね」と顔を赤らめながら許したのが切っ掛けだ。きゃっきゃ言いながら盛り上がり、それ以来ティナとはほとんど親友みたいになっている。雪菜は、友達がお泊まりに来てくれているみたいに感じているのか、前よりも家の中での笑い声が大きくなっていた。
「優馬くん、回覧板を鈴木さんのところに回してきて」
優馬はぶつぶつと文句を言いながらも、すみれの言うことに大人しく従う。捻くれているように見えて実は素直だってことを、すみれは重々承知していた。家に戻ってきてからは、お風呂の時間まで自分の部屋で何かをしている。優馬も雪菜も繊細で感じやすい年頃だし、きっとひとつや二つくらい秘密もあるだろう。掃除をするとき、すみれは二人の部屋の細かいところまで綺麗にすることはしなかった。
晴敏の分の夕食はサランラップに包んでおき、「温めて食べてね!」というメモ書きと一緒にしておいた。四人で食卓に座り、「いただきます」をする。
「あー、慶太くん出てるじゃん」
たまたま見ていたバラエティ番組を見て、雪菜が声を上げる。彼女は「Hey! An! Jump」というアイドルグループにハマっていた。彼らは平安時代からタイムスリップ(ジャンプ)してきた貴族たちという設定のグループだった。全員が煌びやかな着物の衣装を纏い、一人のボーカルと四人のダンサーから成るダンス&ボーカルグループで、代名詞とも言える「蹴鞠ダンス」や、ボーカルがバラエティ番組で和歌を詠んだりしており、デニーズ(※)でも現在人気ナンバーワンのアイドルグループである。
メンバーの岡田慶太はダンサーで、彼が華麗なバク転を決めると、雪菜は「格好良い……」と声を漏らした。
※デニーズ:デニー西川という人物が代表を務める日本を代表する男性アイドル事務所。
「なあ、雪菜」
「何?」
「もし俺がバク転を決めたら、俺にも『格好良い』って言ってくれるのかな?」
「一生決めないだろうから想像できない」
「想像くらいしてくれよ……」
「私は、優馬がご飯食べてるだけでも『格好良い』って言ってあげるよ」とティナがきらきらした視線を向けて言った。「格好良い、格好良い、格好良い!」
「あ、それじゃあ私も言ってあげる!」と雪菜が突然楽しそうな口調になる。「すごぉい! 優馬がご飯食べてるぅ!」
「食べてるだけで褒められるって、俺は新生児のパンダかよ」
じっとりとした視線を向ける優馬を見て三人で笑い合い、すみれは「ティナちゃんがいてくれて、やっぱり食事が楽しくなったな」と改めて思った。夕食が終わると、雪菜は興奮気味に言う。
「ねえ、ねえ、みんなで人狼やろうよ」
「今日、学校で友達とやったのか?」と優馬が言う。
「どうしてわかったの?」
「いや、クラスで流行ったからやりたがるんだろうなーって思って」
「その見透かした感じ、マジで嫌いなんだけど」
「好きの反対は無関心だ。だから、雪菜が俺に何らかの感情を持ってる時点で、好きに一歩近付いているんだよ」
「じゃあ、優馬は仲間に入れてあげない!」
雪菜は腕を組み、ぷいとそっぽを向く。
「ティナとすみれちゃんと三人で人狼やるのか? 絶対につまらないと思うぞ」
「…………」
しばらくの沈黙の後、雪菜は苛立たしそうに優馬を見た。
「今回だけ、優馬も仲間に入れてあげるよ」
「俺にも選ぶ権利はあるんだけどなー」と優馬はわざとらしく言う。
「マジでムカつくんだけど。そういうやつ」
優馬はからかうように口笛を吹き始める。彼らを見て、すみれは苦笑した。
「雪菜ちゃん、悪いんだけど、私も洗い物したり、他にもやることあるから」
「えー、それじゃあ、手伝うよ!」
「それに、四人でっていうのも、やっぱり少なくない?」
むー、と雪菜は唇を真一文字に結んだ。すると、ティナが「だったら」と提案をする。
「トランプでもやろうよ。神経衰弱とかはどう?」
「トランプなら大富豪が良かったんだけどなー。まあ、ティナちゃんが言うならいっか。ほら、優馬」
「結局、俺は強制かよ……」
「どうせ暇でしょ」
雪菜は両手で優馬の服をつかみ、リビングの方に引っ張ろうとする。すみれが「雪菜ちゃん、服が伸びちゃうからやめなさい」と言うと、優馬は雪菜の手を離し、しぶしぶと言った様子で立ち上がる。
三人がトランプで遊んでいる内に、すみれもぼうっとテレビを眺めながら食事を終え、洗い物を始める。ティナは自分の家に戻り、優馬と雪菜もそれぞれ部屋に戻って、リビングは急に静かになった。サランラップに包んである晴敏の分の夕食を眺める。ここ最近は仕事がスランプ気味らしく、すみれはずっとそれが気にかかっていた。だからと言って、彼女にはただ後ろから支えることだけしかできない。寝支度を整えた後に書斎の近くまで立ち寄る。「少し休んだ方がいいんじゃない?」と声をかけようとドアノブを握ったが、思い直して手を離した。余計なことをしても、きっと邪魔になるだけだ。早くいつものお父さんに戻ってくれるといいのだけれど、と思いながら、すみれは寝室へと戻った。




