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第五話 桜井家の母(2)

 だから恋人には一度、別れみたいなものを切り出したことがある。彼は東京に住んでいるから会える機会も少ないし、相手のことを考えたら、そこでもっと良い人を見つけるべきなんじゃないかと思ったからだ。しかし、結局は別れることはしなかった。


「今日は一日オフなんだ。だから、トレーニングをしたり、本を読んだりして過ごすかな。すみれちゃんは?」


 ちょうど遅めの朝食を取り終えた頃、すみれのスマートフォンに電話がかかってきた。相手は恋人の大介だった。


「今日も相変わらずよ。優馬くんや雪菜ちゃんのお弁当を作ったり、いつもみたいに掃除や洗濯……あ、そう言えば最近、桜井家に家族が一人増えたのよ」

「どういうこと?」


 大介の声は、訝しむように一段低くなる。


「当ててみて」

「まさか、誰かが妊娠したとか、そういうわけじゃないだろうね?」


 警戒心たっぷりな言葉に、すみれは思わず苦笑してしまう。


「そんなわけないじゃない。そこらへんのことは徹底させているわ」


 電話越しにほっと一息吐いたのがわかった。


「二人ともまだ学生だし、恋愛もセックスも自由にするべきだけど、同時に妊娠や性病の予防だってしっかりするべきだ。いくらそこに愛があったとしても、子供が子供を作ることに、僕はあまり同意できないからね」

「私も同じ気持ちよ」

「それに、すみれちゃんが、なんて言ったら、僕たちは別れなければいけないからね。とりあえず安心したよ」

「大介くん、愛しているわ」

「僕も君のことを愛しているよ、すみれちゃん」


 甘いやりとりを交わしてから、大介は不思議そうに尋ねる。


「っていうことは、お父さんが再婚でも決めたのかい?」

「それも違うわ」


 大介は電話越しに低いうなり声を上げたが、やがて諦めたようだった。


「それ以上のことは、僕にはまったく想像がつかないな」

「隣のお家に女の子が引っ越してきたんだけどね、ご家族の方がお仕事で忙しいみたいで、毎日一緒にご飯を食べているのよ」

「へえ、そうなんだ」

「どんな偶然なのかって思うと不思議な話なんだけど、その子と優馬くんが……」


 会話を終えて電話を切り、しばらく本を読むことに夢中になっていると、いつのまにか十二時を回っていた。冷凍食品のスパゲティを簡単に食べてから、すみれは買い物に出かけた。スーパーまでは、いつも晴敏の車を使っている。


「あら、桜井さん、こんにちは」


 すると、スーパーでご近所の鈴木さんと出会った。鈴木さんは、ちょうど買い物を終えたところらしかった。


「優馬くんと雪菜ちゃんは大丈夫なの?」


 例の事件のことだ。


「それが、私もすごく驚いたんですけど、優馬くんってひょろひょろしていると思っていたら、思った以上に度胸があるんですよ」

「へえ、そうなんだ」

「あんな事件があったすぐ後にティナちゃんの看病に行って」

「ティナちゃんって、あの子よね、最近桜井さんのところに居候(いそうろう)しているっていう」

「正確に言えば、居候ってわけじゃないんですけどね」


 すみれは苦笑混じりに否定するが、なぜか「違う」と断定することはできなかった。

 そこでくだらない世間話をしていると、また時間が経ってしまう。「それじゃあ、また」と別れてから夕食のおかずなどを買い、ティッシュの箱がもう少しで切れそうになっているのを思い出して、今度はドラッグストアに向かった。それから家に戻って車のドアを開けると、ちょうど優馬が学校から戻ってきた。


「あら、優馬くん、おかえりなさい」

「すみれちゃん、ただいま。買い物?」

「うん。荷物家の中に運ぶの、手伝ってくれない?」

「ええ……、面倒臭えよ……」

「まあ、それなら仕方がないんだけど」


 何の悪意も含まない調子で言ったつもりだったが、優馬はわかりやすく舌打ちをすると、車に近寄っていった。


「わかったよ。どれ運べばいいんだよ」

「手伝ってくれるんだ」

「仕方ねえだろ。すみれちゃんが目で『やれ』って言ってくるんだから」

「別に言ってないわよ」

「いいや、絶対に言ったね」

「じゃあ、言ったってことでいいわ」優馬の言葉を軽く受け流し、すみれは続けてお願いする。「それじゃあ、トランクにお水のケースが二箱入ってるから、家に運んでおいてくれない?」

「わーったよ!」


 優馬に手伝ってもらって買い物袋などをすべて家の中に入れると、ティナと雪菜が同じタイミングで帰宅する。


「ちょっと、優馬、酷いじゃない!」


 雪菜は帰って来ると早々、優馬に詰め寄る。


「俺が何をしたんだよ」

「せっかくティナちゃんが『一緒に帰ろう』って誘ってくれたのに、それを無視して勝手に一人で帰ったんでしょ! ほら、ティナちゃん、泣いちゃってるじゃない!」


 優馬は両手の平を顔に当ててしくしくと泣いているティナに目をやった。指の間から覗かせた瞳で嘘泣きだとわかり、すぐさま抗弁をする。


「いやいやいや、泣きたいのは俺の方だよ! こいつのおかげで他の男からは嫉妬されるし、クラスで目立つし、逃げても追いかけてくるし!」

「そりゃあ、嫉妬するでしょ。こんなに可愛い彼女がいるんだもん。モテ税みたいなもんよ」

「モテたことなんて一度もないね。自分で言ってて悲しくなってくるけど」

「大好きな一人に好かれたら、それはモテたも同然よ」

「ちょっと待て。俺がいつティナのことが好きだと言った」

「だって、二人は結婚を前提に付き合ってるんでしょ。ティナちゃん、いつも言ってるじゃない」

「おい、お前」と優馬はティナに詰め寄る。

「約束は約束だからね。破ったら針千本……」


 ティナは、優馬にだけ見えるように不適な笑みを浮かべた。優馬は悔しそうに歯ぎしりをする。俺にも魔術が使えれば、ティナともある程度まともにやりあえたはずなのに、と思った。


「優馬くんと雪菜ちゃんさ、暇なら洗濯物取り込んで畳んでおいてくれない? 畳み方は、優馬くん、わかるでしょ」

「はぁ、嫌だね」と優馬はそっぽ向いた。

「わかった!」と雪菜は快活な返事をして手を挙げる。

「私に任せて!」とティナも思い切り笑顔を浮かべて手を挙げる。


 二人で力を合わせて頑張るもんねー!、と勝手にベランダに出ていく二人を見て、優馬は疲れたように大きなため息を吐いた。


「あぁ、もう、まったく。仕方ねえ奴らだなあ! 畳み方間違えられる方が面倒臭えんだよ!」


 三人がわいわいと洗濯物を取り込んでいる内に、すみれは夕食の準備を進める……。


「……と、その前に」


 コンコンとノックして、すみれは晴敏の部屋にちょこんと顔を出した。晴敏は机の上で頭を抱えており、ピリピリしているのが空気感だけで伝わった。すみれは心の底から申し訳なさそうな声で晴敏に尋ねる(実際、彼女は上辺ではなく本心から申し訳ないと思っていた)。


「お父さん、お仕事中にごめんなさい。夜ご飯はどうするのかってことだけ訊いておきたくて……」


 晴敏は、すみれの方を振り向くこともなく、いつもよりオクターブ低い声音で答える。


「……すまん。冷凍食品か何か、簡単に置いておいてくれればいいから」

「はぁい……」


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