問い掛け、鳥の腹にて
「だめだゼクス、てんでなってない」
「すみません……フンフさん」
青々と茂った芝生の新芽に突っ伏して、恩師を見上げた。
その顔は陽の光の逆光で陰ってよく見えないが、茶色の瞳がこちらを見据えているのがわかる。
「体全体を通して力が入りすぎだ、動きの流れを意識しろ」
口数が少ない彼がこうしてものを教える時だけ発する言葉、それが自分だけに向けられたものであることを意識すると、満たされた気持ちになる。
「……だが筋はいい、明日も来い」
それから毎日、俺はフンフさんの元へ通いつめた。
最初は余裕綽々としていたフンフさんの顔を、少しずつ真剣な顔にしていくのが楽しくて仕方がなかったのだ。
「うちの班に来ないか」
その甲斐あって、およそ十ヶ月の訓練期間が終わった日、フンフさんはPSEFの精鋭中の精鋭が集うツヴァイ班への勧誘にやってきた。
そして───
「“国立第54N学園”のキャンパスをリベリオン過激派が占拠した、国軍が制圧を図ったが圧倒的な人手不足だ、まもなくPSEFも支援に加わる」
あの事件が起こったのも、そのすぐあとだった。
◆
「なにも考えなくていいよ」
優しく、穏やかな声。
「……私は……こんなふうに……なりたかったわけじゃ……」
私は、ほんとうは、あんなふうに。
「今は何も考えずに、夢でも見ていてね……アインス」
冷たい指が、私の瞼を撫ぜた。
途端、柔らかなものと暖かな光に包まれている感覚が去来した。
「起きてくれ……俺に朝飯を作らせるなんて……前のフレンチトーストの件を忘れたのか?」
その低く、落ち着いた声には聞き覚えがあった。
「……おじさん?」
「そうだぞ、寝ぼけてるのか?」
ゆったりと体を起こすとタオルケットがずり落ちて自分が寝巻き姿であることがわかった、どこか違和感を覚える。
さっきまで自分が置かれていた状況がどうしても思い出せない。
ベッドの横に立ち尽くすおじさんをちらと見やると、私は言った。
「朝ごはんくらい自分でどうにかしてよ……」
「来週からはお前ともわかれて暮らすことになる、最後の一週間くらい……お前の作った飯が食いたいんだ」
「……はいはい」
素っ気ない返事とは裏腹に、形容し難い喜びの感情が違和感を上回って、私はキッチンに向かっていた。
◇
「やっぱり美味しいな」
「当たり前でしょ、そういうレシピなんだから」
「いいや、お前が作ってくれたってことが隠し味だ」
「……そう」
私には、眼前に盛られたトマトパスタがやけに味気なく思えた。
緩慢にフォークを回しながらまだ半分以上残っているパスタを絡めている間に、おじさんは早くも一皿目を平らげておかわりを皿に盛りつけるべく席を立った。
どうしても違和感が拭えない、“おじさん”を見る度その感覚は強くなる。
「ねぇ、なにかあった?」
違和感の正体を探ろうと呼び止めた、おじさんは立ち止まると、こちらを見た。
見たところ裸足にハーフパンツ、Tシャツとラフな格好であること以外いつもと変わりない、つま先からじりじりと視線を上げていく。
───────そういえば、おじさんの顔をしっかりと見ていない。
「お前はまだ気づいてはいけないんだ」
その声を最後に、視界は暗転した。
───────そろそろ、死んじゃうかもね
視界が明るくなると、私には銃口が向けられていた。
反射的に避けようとして、床に横たえられていることに気がつく。
「随分てこずらせてくれたなぁ? 」
遅れて自分が置かれている絶望的な状況を理解するが、それと同時に私は右手に何かの感触を感じ、顔を傾ける。
そこには絹のような艶やかで滑らかな銀髪の女性───“神”がいた。
男は私に覆いかぶさり、腕を押さえつけて、半壊したバイザーから蛍光色の血液を零しながら下卑た笑い声を出した。
「その腕で何人“やってきた”んだ? あぁ?」
額にハンドガンの銃口が接する。
───────こっちにおいで……こっちに……
黒い掌が私に向かって伸びてくる。
あと三十センチ
あと十センチ
あと一センチ
あと───
「がっ!」
銃口を向けていた敵が倒れた。
直後、頭や腕を包帯でぐるぐる巻きにしたフンフが私の腕を掴んで無理やり立ち上げて、早口で要点を伝える。
「ヘリがすぐにくる、まっすぐ行って左に曲がればあとは表示に従って屋上に行け、分かったな? “神”を連れてはやくツヴァイ達と合流しろ」
「フンフ、あんたは!?」
「陽動だ、他の奴らがヘリに乗るまでの時間を稼ぐ」
「そんなの……どうして!?」
「……お前をアインスにしたのは、俺だからだ」
確固たる意志を宿す茶色の瞳に見据えられて、神を再び抱えた。
「ありがとう……ごめんなさい」
最後に私はそう言い残して、走り出した。
◇
どうやってツヴァイ達と合流したか覚えていない。
気がつけば閉鎖不良を起こしたハンドガンを片手に、神を抱えて階段を登っていた。
ゼクスに殴られたらしい左頬の疼痛に顔をしかめながら、神を抱えなおす。
いつの間にか彼女は話さなくなっていた、先程まで曖昧模糊としていた意識もはっきりしている。
上方に扉が見えた。
扉を押し開けた先には沛然と雨が降り、けたたましい警報とヘリのプロペラ音が響いている。
「こちらズィーベン、急いで乗ってくれ!」
高度を落とすヘリに向かって走る。
とうの昔に疲労は限界を迎えていたが、最後の力を振り絞って走る。
私の前を走るツヴァイとアハトがヘリに乗り込んだ、あともう少し。
「ヘリを狙え!」
銃弾が体を掠め、ヘリの装甲から火花が散る。
横殴りの銃弾の雨を潜り抜け、ようやくヘリにたどり着き、機内に乗り込んだ。
「離脱する、何かに掴まれ!」
ヘリが急加速し強い慣性が体を襲う。
荒い呼吸を整える暇もなく、立て続けに屋上へも爆撃が始まった。
爆風が濡れた前髪を揺らす、紅く照らしあげられる世界を私は静かに眺めた。
そして神の手を握り、その美しい顔を見つめた。
雨に濡れたその顔は、何事にも例えられないほど美しく、愛おしい。
「先輩! 避けて!」
アハトの叫びに反応する前に、私の視界は暗転した。
◇
「ねぇ、───────いつ死ぬの?」
私は死にたくない。
「どうして生きてるの?」
……わからない。
「生きてる意味を聞いてるの、ねぇ、なんで?」
…………わからない。
「そんな人の為にわたし達は死んだの?」
ごめんなさい
ごめんなさい……
ごめんなさい…………
「……っぁ!?」
目を開くと、白い天井が見えた。
消毒の匂いと、右腕に繋がれている点滴、周りはカーテンとパーテーションで囲まれているが、自分が病院にいることを理解する。
尋常でないほど汗をかいていた、左手で顔の汗を拭って荒い呼吸を整える。
とりあえずナースコールをするべきかと思い、ベッドの傍らに設置されている箱型の機械を起動した。
ディスプレイが発光し、箱状の機会が浮かび上がると自動応答プログラムが話しかけてきた。
「おはようございます、患者様」
「ナースコールしてくれる? あと、名称を……そうね……“アン”に設定して」
「承知しましたアン様、ナースコール致します」
ディスプレイにナースコール中と表示され、まもなくナースと医者がやってきた。
「おはようございます、ご気分の方はいかがですか?」
若い男の医者が貼り付けたような笑顔を浮かべながら言う。
「ええ、まぁ」
適当に答え、タオルケットを取ろうとした時、私は気づいてしまった。
医者の顔からすっと笑顔が消えた。
「……ひとつ、言っておかねばなりません」
これから言われることを察してすっと血の気が引いた。
「貴女の右腕はおそらく一生、貴女の意思に従うことは無いでしょう」