和解、晩酌の席にて
「アインス、暇じゃない?」
ソファに突っ伏していたナシが言った。
「……そうだね」
私は読んでいた本───天宵に落つる涙という題名の小説───を閉じて答えた。
何度目か分からないほど読み返されたその本は、私が暇な時に適当な場面から読んでいるものだ。
今日は三月三十一日、ナシとの生活ももうすぐ三週間になろうとしている。
あまりに暇だった。
最初のうちはお互い手探りだったためなにかと暇はしなかったのだが、既に二人での生活に慣れきってしまった今となってはあまり刺激がない。
さらに言えば私は謹慎中なので下手に出歩く訳にもいかないし、ナシも迂闊に外に出すと面倒事になりかねない、なので自ずと暇つぶしは家の中でできることに限られる。
起床後こそAEARTHの歴史を教えていたがナシが飽きてしまい、何をするでもなくぼーっと時間を過ごしてきて今に至る、もうすぐ午前が終わってしまう。
「友達呼んだり出来ないの? アハトとか」
ナシも無闇に外出できないことを知ってか知らずか、家にいながらできる暇つぶしを提案した。
「アハトはまだ車につきっきりだから無理だし、他の人を呼んでもナシが神だと知られたらお互い面倒でしょ? そもそもPSEF隊員は友達が少ないの、入隊時にチップで入隊前の記憶が制限されちゃうし、入隊前に関わりがあった人とは基本的に会えないから」
教会でクルデシム医師を疑ったのもこれが理由である、今でもまったく信じていない。
だが彼の真意が読めない現状ではなんともならないのも事実だ。
「へぇー、なんでそんなことするの?」
「PSEFは国防上かなり重要な位置にあるから、下手にスパイが潜り込むと厄介なの。 チップで行動も監視されてるから、怪しいことをしてると本部に連行されて尋問されるなんてざらだよ」
「うわぁ厳しい、てっきりアインスに友達が少ないのかと」
「友達はいる!」
───実際のところ、他の隊員と比べて友人と呼べる人は少ない気はしているが。
「あっ……なんか、ごめんね? それよりさ、記憶が制限されるってどういうこと?」
ナシがいろいろと察した顔をして聞いてきた、たぶん気を利かせて話題を変えてくれたのだろう。
弁解の余地はあるが、何を言っても逆効果な気がするので普通に答えることにする。
「言葉の通り、入隊前の経験や知識を除いた記憶を思い出せなくするの、だから制限って表現したわけ」
「なんか残酷だね」
「PSEFへの“信仰”があって初めて隊員になれる……その通過儀礼として捉えられてるからみんな納得してる事だよ、退役したら記憶は戻されるしね」
その代わり入隊中の記憶を無くしてしまうのだが、希望を出せば虚偽記憶を埋め込むこともできるし、その後の生活の保証も手厚い。
「でも怖くないの? 自分がどうやって生きてきたかわからないってさ」
「確かにそうなんだけど、過去を捨てて生きられるのが魅力だって人もいる。 それに一応、入隊直前の面談で自分が何を思って入隊するのか入隊後の自分に宛ててメッセージを残せるしね」
「なるほど、奥が深いなあ」
会話が途切れる、時計を確認すると十二時を過ぎていた、そろそろナシが腹を空かせる頃だ。
「お腹すいてない?」
「ちょうど言おうと思ってたところだったの、パスタが食べたい!」
「パスタかぁ、材料が無いから……」
「じゃあ食べに行こうよ! 前から家の近くのお店が気になってたんだよねー」
家の近くであればよほど心配ないだろう、その上神の思し召しに誰も文句は言えまい。
そうして私達は外出の準備を始めた。
◇
扉を開けるとカランカランという音が鳴り、同時に食欲をそそる酸味のある匂いが鼻腔を刺激した。
店内は年季が入ったこじんまりとした雰囲気で、いかにも個人経営らしい。
カウンターの奥から開いている席にどうぞと声をかけられたので、窓際の二人掛けテーブルに座る。
ナシは落ち着きなく、興味津々と言った面持ちであちこちを見回している。
「ここのパスタ美味しいんだよ、ナシも気に入ると思う」
「うん、楽しみ!」
病院のような自動注文プログラムなどという気の利いたものはなく、品名が印字されたプラパネルが一枚だけ、昔ながらの店員を呼んでオーダーする形式だ。
「この……ぷったねすか?ってやつはなに?」
「プッタネスカはアンチョビとかオリーブが入ったトマトパスタのこと。 唐辛子が入っててちょっと辛いけど、ここのプッタネスカは有名なパスタのレシピ本に載るくらいだからおすすめだよ、私はそれにするつもり」
「じゃあわたしもこれー」
テーブルの片隅に置かれたベルを鳴らすと、はーいという返事が聞こえ、中年の女性がエプロンで手を拭きながらやってきた。
「ご注文をどうぞ」
「プッタネスカを二つおねがいします」
「プッタネスカを二つですね、お待ちください。 お水はご自由にどうぞ」
オーダーを“紙”にメモして女性が厨房に消える。
「紙、まだ使われてるんだね」
紙に代表されるように、技術がここまで進んでいても昔からずっと変わらないものは多い、“変わらない”と言うよりは“変えない”ものと言った方が適切かもしれないが。
結局は紙ほど費用対効果に優れたものはなかなかないのだろう。
「そう、一時は紙の本まで無くなりかけたんだけど印刷業やら製紙業が猛反対してね、私も本は紙がいいし」
「本かー、やっぱり紙がいいよね」
テーブルに置かれていたグラスに水を注ぎながらふと湧いた疑問を投げかける。
「そういえばナシ、PSEFの本部ではなにしてたの?」
「あー、アンドロイドのお兄さんが持ってきてくれた本を読んだり、ぼーっとしてた、」
「アンドロイドのお兄さん……ドライのこと? そういえばチーズケーキはいつ持ってくるんだろ」
ドライのチーズケーキもだが、ゼクスとアワビ───────アブサンという酒の中でも特に度数の高いもの───────を飲むという“約束”もある。
「チーズケーキ? 私も食べたい!」
「家に持ってくるらしいからナシの分もあるよ、安心して」
「お待たせしました、プッタネスカです」
お待たせしましたというほど私達は待っていないが、パスタと伝票を置いて女性が再び厨房に消える。
驚くほどの早さで提供されたプッタネスカは、鮮やかな赤いトマトソースが絡んだスパゲッティーニの中に、黒く艶やかなオリーブが輝き、その上に刻まれたパセリの緑が入る、見た目からして食欲をそそるものだった。
「わぁ、おいしそう! いただきまーす!」
「食べる前にいっつも言ってるよね、いただきますって、神の文化なのそれ」
パスタの中に埋めようとしたフォークを止めて私は聞いた。
ナシは食事の度にいただきます、ごちそうさまと言いながら手を合わせる、。
「えっ、そういえばアインスは言ってなかったよね」
「正式な場だと食べる前に黙祷するけど、普通はなにもしないかな、どういう意味なの?」
「いただきますっていうのは食材を作った人や食材となった生き物の命、料理を作った人への感謝を表してるんだよ、そういう文化は伝えなかったかなぁ」
普段のナシの振る舞いからは想像できないほどに高尚な理由で驚くと共に、ナシを神として見直した気がする、てっきり癖だと思っていた。
「へー、思ったよりもいろんな意味がこもっててびっくり、じゃあ私も……いただきます」
手を合わせてそう言うと、フォークの先端をパスタの中に埋める。
フォークを回しパスタを絡めとって口に運ぶと、トマトの酸味と程よい塩気に続いて唐辛子の辛みがやってくる。
たまにやってくるジューシーな黒オリーブの一風変わった食感も相まって、いくら食べても飽きない味わいだ。
あっという間に皿の上からスパゲッティーニは姿を消し、残された黒オリーブとトマトソースを口に運んで完食、非常に満足感がある。
ほぼ同時にナシも完食し、ふぅと一息ついて言った。
「ごちそうさまでした」
◇
会計を済ませて店を出ると、ナシが満足気に言った。
「いやぁおなかいっぱいだよ」
「ほんと、美味しいんだよねここのパスタ、なんか懐かしい味だし」
「記憶はなくても懐かしいって気持ちになるんだね、不思議だなー」
言われてみれば確かに不思議である、流石に味の記憶までは厳しく制限されていないのだろうか。
「確かにね、まぁなんとなくだよ……早く帰ろう」
「別に家まで近いんだから急がなくてもいいじゃんかー」
このパスタの店は居住区から出てすぐの飲食店街にあるため家まではほど近い、ナシの昼はパスタという案は謹慎中の身としてはなかなかにありがたい妙案だったのだ。
しかし、早く帰りたいのは私が謹慎者だからではない。
ナシに小声で囁く。
「ナシ、行きの途中から尾行されてる」
「えっ!?」
「それにかなりの手練……いざとなったらナシ一人で家に帰ってアハトでも誰でもいいから助けを呼んで」
気配とかすかに足音がするのみで姿は一度も見なかった、家の近くとはいえ迂闊だったか。
「アインスは一人で大丈夫なの?」
「相手が一人ならよっぽど大丈夫、とりあえず居住区内を回って撒いてみる……たぶん無理だけど」
おそらく家の特定が目的だ、近頃外出を繰り返したツケが来たらしい。
しかし知らないうちに居住区まで突き止めてくるとは空恐ろしい、ナシが近くにいる病院を襲撃したことからもリベリオンの一員と見るのが妥当だ。
一人なら適当に距離を詰めて倒せるところだが、今はナシがいる。
銃撃戦になった場合ナシを守りきれないかもしれないし、周辺の注目を浴びてしまうことで他にもナシの存在が露見する可能性すらある。
居住区に入ると整然と立ち並ぶ高層マンションの間を縫うように進む、だが尾行の気配は消えない。
「次の曲がり角で私が待ち伏せる、ナシはこれまで通り普通に歩いてマンションのエントランスに隠れてて」
角を曲がって私はそのまま壁に張り付き、ナシはエントランスへと向かう、私は尾行に気づいてからは足音を殺して歩いていたため、ナシ一人分の足音しか聞こえなくても尾行者は私が居ないことな気づけない。
正午辺りということで影が伸びないことも幸いだ、私は聴覚に全神経を集中させ、尾行者の気配を探る。
そして───
尾行者と思わしき人物に掴みかかった。
すんでの所で避けられたらしい、しかしニット帽にサングラスにマスクといういかにもな出で立ちの尾行者と対面する形に持ち込んだ。
「女の子をストーキングとはいい趣味してるわね」
煽りながら相手を観察する、背はそこまで大きくないが体格はかなりいい男性、少し大きめの上着を前を開いて着ている、おそらく銃を隠し持っているだろう。
しかしそれはこちらとて同じだった、私も羽織っている上着の下にカスタムハンドガン“efkp”を収めている。
さながら早撃ち対決のような様相を呈し始めるが、相手は直立不動のまま無言を貫いている、私をこうして足止めしてナシを別の人物が攫いに行く算段かもしれない。
「何か話したらどう?」
「……」
「こっちは急いでるの、五秒待つからその間に何かしらの行動を起こさなければ撃つ」
一、二、三───
「わかったよ嬢ちゃん、流石だな」
尾行者がサングラスとマスクを外し、ニット帽を取るとそこには見慣れた顔があった。
「……ゼクス?」
◇
やかましいバーのカウンター席に三人は座っている。
男性アンドロイドが運んできた“アワビ”を一口呷り、私は問いただす。
「で? なんで尾行してたのよ」
「普通に酒飲むのに誘おうと思ったんだがよ。 連絡先も住所も知らないもんで、俺が知ってるとこで待ち伏せしてたんだよ」
「なにもそんなことしなくたって、アハトもドライも私の連絡先は知ってるから聞けばよかったのに」
たしか以前ゼクスに地下街を案内してもらったあと、私の居住区まで彼が見送りに来てくれた、おそらくそれを覚えていたのだろう。
「んな小っ恥ずかしい真似できるかよ! どっちもお前の連絡先なんか聞いた日には茶化してくるに決まってるし、あんな気まずい中連絡なんて出来ねぇよ……」
ゼクスもアワビを呷り、気まずい沈黙が続く。
……これは、どちらかが謝らないとなんともならない流れだ、隣に座るナシが私を小突く。
しかし、先に口を開いたのはゼクスだった。
「その……悪かったな、俺が一方的に怒って気まずくしちまってよ」
「こちらこそごめんなさい。 ゼクスは怒っても仕方ないし、そもそも私が一人で突っ込んだのが悪いんだから」
「いいや、嬢ちゃんは悪くないぜ。 思えば嬢ちゃんが一人で突っ込んだ時はその場で考えられる最良の結果になってた……実際ヘイヴン解放作戦は嬢ちゃん無しじゃなんともならなかったからな。 あそこでドライを助けられたのも嬢ちゃんのおかげだ、だからあそこでフンフさんが死んだのは仕方がないことだったんだと思う。 きっとあれは“運命”なんだ」
「……運命」
ゼクスにはなかなか似合わない言葉だ、荒削りな彼の口から出るとは思えない。
「たまに考えちまうんだよ、今まで知り合って死んでいった仲間達が生きていたらどうなってるのかって。 でもいくら思い返してもそのほとんどはどうしようもないことだった。 フンフさんは自分からお前を助けに行って死んだが、誰よりも優しいあの人はきっと誰が嬢ちゃんの立場になっても助けに行く……だからあれは仕方がなかった、俺の身にだって起り得たことだ」
「ゼクス……」
いつもの彼は楽天的で飄々として、実にいい加減な印象がある。
だがこうして言葉を交わすと分かるが、彼は誰よりも物事を冷静に観察し考えている、今回はその対象が恩師だったから冷静さを欠いたのだろう。
「それに、見てて思ったがお嬢ちゃんたちがあんまり仲が良さそうで楽しそうだったからさ。 お嬢ちゃんが呼ばれてたって言ったのもなんかわかった気がしてな」
「見てたのね……」
話していたのは今日の服装のこととか他愛ない話題ばかりだったが、とても楽しくてよく笑ったのを覚えている。
それを見られていたかと思うとどこか恥ずかしさを覚える。
「嬢ちゃんは友達が少ないし、そうやって誰かと仲良くしてるのを見るのが新鮮で……」
「ちょっとストップ! 友達はいる!!」
それを聞いたナシが笑いをこらえて肩を震わしている、悔しい。
「そりゃあアハトとかドライとか……うん? あれ……?」
「それ以上私の友達を数えるのはやめて!」
ナシが飲んでいたジュースでむせながら笑う、とても悔しい。
「やっぱり友達いないんじゃんか! あははっ!」
「う、うるさい!」
「まぁまぁ落ち着けって、ナシ……だったか? 俺はゼクスだ、自己紹介してなかったよな」
「そう、わたしはナシ! よろしくねゼクス!」
ナシとゼクスの自己紹介を皮切りに騒がしい晩酌は続き、気がつけば今までの気まずさは無くなっていた。