後編 三十六色のキスを
ピンポーン
ため息混じりの白い息を吐いて、私は一体何をやっているのだろう。
まだ汚れのない玄関の前に立ち、軒先の駐車スペースにあるピンク色の幼児用自転車が視界に入る。
「はい、どうぞー」
付き合っていた人の奥さんかもしれない人が、扉を開けて出迎えてくれた。
「寒かったでしょ、入って入って」
グレーのニットカーディガンにマスタードイエローのフレアスカートが揺れる。新しく建てられたばかりの家には、ところどころに彼女のこだわりが垣間見えた。明るい色合いのリトグラフ、ワイヤーのみで構成されたダイアモンドチェア、……、写真立てはない。ああ、違う違う、だめだめ。
「紅茶かコーヒーか、どっちがいいかな?」
「ああー、そんな、いいのにー。ごめん、ありがとうね。じゃあ、コーヒーで」
私から旦那さんのことを話題に出す勇気もなく、同じ中学校卒業であることと名字しか知らないまま。ついに家にまで来てしまった。
佳乃はすでに奈美ちゃんとプリルンのステッキで遊んでいる。
もし仮に、彼女が彼の奥さんだったら私はどうするんだろう?
「お砂糖とミルクいるー?」
彼女がオープンキッチンから顔を覗かせる。
「あ、どちらもお願いしまーす」
何ともない言葉のやり取りにさえ、気持ちは落ち着かない。
私は無意識の中、何かを探すかのように視線で弧を描いた。
その時。
ダークブラウンの本棚、上から二番目の左端。
見たことがある、それは。
「あ、同じ中学だったって言ってたもんね」
振り向くと、淹れ立てのコーヒーをテーブルに置く彼女の姿が。
視線の先を当てられ心臓が飛び出しそうになったのを抑えて、精一杯『普通』を装う。
「あ、そうそう、あ、でも二00一年って、どうだろ、歳はひとつ上かな」
言ってから気づく。流暢に喋り過ぎてないだろうか。
「へえー……」
彼女はスカートを揺らしながら本棚に近づき、一冊の大きなアルバムを手に取った。
その背表紙には『田丸中学 二00一』とある。
二00一、二00一、二00一、この学年に、『小林』という名字の人は、他にもいたのだろうか。
どうする、どうしたい。知るのが恐い。
でもここで言わなきゃおかしい。きっとここで言わなきゃ不自然だ。
「旦那さん、見せてよー」
どくんどくんどくんどくんどくんどくんどくんどくん。
「ええー、恥ずかしいなー」
……そ、それはあえてためてるの?それとも本当に恥ずかしくて見せる気がない?
「ひとつ上なら、憧れてる先輩とかいなかったの?」
彼女は話題を意外な方向にくるりと変えた。
「ええと、そうだ、バスケ部にいたなあ」
脳に無理矢理思い出させたのは、当時やけにモテていたバスケ部の先輩。名前も顔も、ぼんやりしている。
「へー、バスケ部か」
彼女はパラパラとページをめくり始めた。
「ねー、ママ、佳乃ちゃんとジュース飲みたい」
ページの動きがはたと止まる。
「あーごめんごめん。大人の分だけ出しちゃってたねー」
アルバムは裏表紙を上にしてテーブルに置かれ、キッチンに戻る彼女に子供たちがついてゆく。
指がひくっと動いた。
私の中の誰かが人差し指をページにかけさせる。
徐々に開いてゆくページから、発光するように滲み出たのは。
あの日、寄せ書きページを埋め尽くした濃いピンク色。
暖房の効いた暖かい部屋で、そのページだけは桜の花びらが舞っていた。
「ラストは雪吹雪ですよー」
児童館の休日特別行事『冬祭り』は、終わりを迎えようとしていた。冬祭りと言っても、雪像が立ち並んだりする規模のものとは程遠く。幼い子供が新聞紙や色紙で雪だるまの工作をしたり、ママさんバンドが冬の童謡を演奏してくれたりと、児童館としての冬を提供してくれるものだった。
「奈美ちゃん、雪吹雪だってー、ステージの方に行こうよー」
またいつものように佳乃と奈美ちゃんは一緒だ。でもこの子たちは四月になれば別々の幼稚園に通うことが決まっている。私が彼女と接することもなくなるような気がした。
「みなさーん!この銀色の紙吹雪は雪の形に切ってあるので、良かったらあとで持って帰ってもらっていいのでねー」
何かが起こる前に、離れた方がいい。
「あと、主人の仕事場からブロワー借りてきちゃいましたー」
児童館のスタッフさんの一人が、得意気に筒型の機械のひとつを顔の横まであげてにんまりとした。どうやらその機械で紙吹雪を起こすらしい。他のスタッフさんとお手伝いのママさんもブロワーと銀色の紙吹雪がたくさん入ったカゴを手に、それぞれステージや脚立にスタンバイし始める。
ピコン
何かを予感させる通知音が聞こえた。
隣にいる彼女がスマートフォンに視線を落とす。
「パパだわ」
どくん
「用事が終わったから迎えに来たって」
どくん、どくん、どくん
狂おしいほどの鼓動が物語る。
「それじゃあいきますよー。3」
一目でいい。
「2」
会いたい。
「1」
雪の結晶に型取られた銀色の紙吹雪が、閃光を発しながら舞い上がる。
創られた美しい雪吹雪の中、起こるは微々たる空気の歪み。
ステージ付近の扉を開けて入って来たのは、紛れもない彼だった。
はらはら白銀に舞い光る雪の中に、あの日よりも大人になった、彼が。
息を呑んで、見つめた。
その足が向かうは、ただひとつ。
抱き上げる愛娘。
そして、彼は。
その右瞼の端に、キスをした。
私の中で、時が止まる。
右瞼へのキスは、彼にとっての独占の証。
微笑むあの子は全身で、彼の独占欲を受け止めているように見えた。
思わず自分の、今やもう熱を帯びない右瞼の端に触れる。
そう、彼から逃げたのは私だ。
大好きだったけど。
自分をなくしてまで、あなたのものになる覚悟はできなかったの。
当時、手作りのイルミネーションを夜空の下で初めて見たのは、予備校から帰る車内の助手席だった。
車で通り過ぎる、ほんの一瞬、私の眼球に青銀色の光が散りばめられた。
その時私にはまるでその光が、彼の独占欲の顕示に見えたの。
だってあなたは私の落書きを踏んでいたから。
イルミネーションを取りつけ終わった後に、地面に描いてあったうさぎを何の躊躇もなく。
そしてあなたは、私がもがきながら追いかけているものまで否定した。
あなたはそもそも、
私自身に
興味はなかったんだよね?
「おかえり~」
冬祭りから帰宅すると、あの人が友達との一泊旅行からすでに帰宅していた。
「パパ~、佳乃にお土産は~?」
「あるぞ、あるぞ~」
放心気味の状態がまだ抜けきれないでいる私は、テーブルに座って頬杖をついた。
「わ~プリルンが雪だるまになってるーっ」
佳乃はぬいぐるみを抱きしめてぴょんこぴょんこ飛び跳ねている。
そうか、これが私の日常。
いいじゃない。
長い夢を見てたのかな……。
「ほらっ、ママにもあるぞ」
ナチュラルブラウンのテーブルに置かれたそれは、私の瞳を丸くさせた。
「いつも、佳乃より絵描いてるだろ」
有名なドイツ製の色鉛筆。
「そうだ、今度何かに応募してみれば?」
三十六色。
「って、俺全然そういうの詳しくないけど」
缶の表面に描かれているのは、女の子が男の子の頬にキスをしているものだった。
「まあ、俺はママの絵好きなんだよなあ」
右瞼の端に内側から熱が込み上がり。
私の世界が。
滲んだ。




