中編 碧い花、夜空に届かずとも
あんな名前、腐るほどいる。
随分と使い込まれた下駄箱に点々と収まる大小の靴。
彼女が私と同い年ぐらいに見えるというだけで、旦那さんの年齢だって分からないじゃない。何に反応してしまったんだか。
日々、床に散らばる宿命を背負った幾つもの玩具。
でも私、今ここで、児童館で、妙に足が地に着いていない。来るって言ってたけど、本当に来るのかなって。
来たら来たで、どうするの。来たら来たで。
「こんにちは」
それはまるで冷えた外気のきらめく粒子を身に纏っているかのように。彼女はまた、女の子の手をひいて現れた。
私はその時、初めてその子の顔をちゃんと見た。あの人に似てるとか似てないとかの正常な判断は、動揺している今の私にはできない。ただ、ただ可愛い、それだけだ。
「奈実ちゃん、お絵描きしよ?」
佳乃がその女の子の名前を呼んだ。手作り教室での短時間の間に、もう遊びに誘える仲になっていたらしい。
「ねぇ、ママもだよーっ」
「はいはい」
昔から絵を描くのが好きな私は……と言っても簡単なイラストのようなものだけど、よく我が子の前でも好き勝手に描いている。
色鉛筆と自由に使える用紙一枚を棚から取ってきて、彼女と娘さんと我が子でミニテーブルを囲む形になった。内心穏やかではない。
「ママ、草原描いてー」
「はいはい」
黄色と黄緑と緑の色鉛筆で薄く線を重ねてゆく、子供が動物や花を描きやすいスペースを空けて。
「奈実ちゃん、私プリルン描けるんだよ」
「え?そっち?動物とか描くんじゃないの?」
アニメのキャラクターを描こうとしていた佳乃へのツッコミに、彼女はオフホワイトのピアスを揺らしてふふふと笑う。
「いいよー、ママはママで好きなもの描くもーん」
プリルンを描く佳乃とそれを覗き込む奈実ちゃんの隣で、私は桃色の小さなウサギを描き始めた。
「ここにはよく来るんですか?」
透き通る声を浴びて、色鉛筆の動きが鈍る。
「そうですね、家にいても煮詰まっちゃうんですよね、子供といると」
どきどきしている、意味もなく。
「私もですよ」
彼女はふんわり笑う。
「あ、そうだ」
彼女の言葉の続きに、桃色の色鉛筆は完全に動きを止めることとなる。
「今度、家に遊びに来てくださいよ」
この狭い世界の中で幾度となく聞いてきた言葉、聞いてきた言葉、を。
また、私は。
必死で掴もうとしていた。
「はい、ぜひ」
私の中の桃色のうさぎは。
「いつがいいですかね?」
一体、何を目撃したいのだろう。
「おーいっ、そっちまでいってる?」
晴れ渡る空の下、澄んだ空気が冬の訪れを予感させる。彼は十メートルもある木の中程辺りで、小さな花びら型の電飾が無数についたコードを手にしていた。
「いってるいってる……、ってゆうかやっぱり危ないよー」
受験生で休日さえも遠出を渋る私のために、彼が自分の実家でイルミネーションを飾りつけてくることになった。
「俺毎日どんな高いとこで作業してるんだっつーの」
仕事柄、慣れた立ち姿でコードを上から順に木に巻きつけてゆく。透明の小花がところどころ太陽にきらりきらりと反射して、すでにもう見とれている自分がいる。
「よーし、こんなもんかな」
彼は脚立を軽々と降り、私の隣に勢いよく踏み込んだ。思わず足元を見て、声にならない声が唇から漏れる。そんなこととはつゆ知らずコードの巻かれ具合を遠目から確認している彼の姿に、徐々に愛情が勝ってゆく。
「いい感じだろ?」
「うん、綺麗」
「まだ、点けてねえぞ」
「分かってるよーっ、太陽が反射してんのーっ」
二人で笑った。笑った分だけ、また更にきらりきらりが増してゆく気がした。
「じゃあ点けてみっかー」
どこからともなく伸びている延長コードに、電飾コードのコンセントを差し込む。そしてスイッチを入れた。
「わぁーっ」
声をあげて、木に散りばめられた碧と銀に輝く花の開花を二人で見届ける。暗くなくたって十分綺麗だ。
彼はいつものように、私を肩から鎖骨にかけて抱きしめる。
「ねえ、家の人帰って来たらどうするのよ」
「まだ帰って来ないよ」
澄んだ冷たい空気の中、彼の吐息を感じる。
「夜も見に来ればいいのに」
「予備校あるし」
「ちょっとでいいから」
「毎日終わるの遅いし」
「遅くてもいいから」
「夜はすっごく集中できる時間なの、逃したくない」
無言の落胆が、微かに腕を通して伝わる。私だって彼と一緒にいたい。でも、今、私は。
不意に彼が、右瞼の端にキスをした。
「なあ」
この澄み渡った青空に。
「大学って」
どんな罪があるっていうの?
「行かなきゃいけないの?」
輝く碧い花たちを、夜空の下で見れないというだけで。
結ばれているはずの私たちの心は、ほどけてゆくのです。






