第8話
ニケが投獄されてから、何日が経過したのか。
それはニケも同室の老人ネストルも、知りようがなかった。
しかしとにかく数日は経っているに違いない。
なぜなら不定期にやってくる「エサ係」のドロイ爺さんが、十四回ほど粗末な穀物と質の悪い肉の汁を運んできたからだ。一日二回から三回来るとして、だいたい五日から七日くらいになるだろうと推測出来る。
ドロイ爺さんが初めてネストルの牢にニケがいるのを見つけた時は当然、
「どこから来たんだ、その子供は?」
とネストルに訝しげに訊ねた。
「この子供かい」
「そうだよ。そんな小さな新入りが来たとは聞いていない。かといってここであんた以外の人間を見かけた覚えはないから、もともとここにいたというわけでもないんだろう」
「何も上役から聞かされてないのかい?」
「ないね」
「いいかげんな役人だなあ、あんたは」
「お上がいいかげんな時代だからな。で、その子供は?」
「わしが産んだのさ」
「ばか言うな」
「じゃあ壁から産まれたんだろうよ」
「そうかもしれんな」
そもそもドロイ爺さんは仕事熱心な人間ではなかったので、細かいことを気にせず、ニケの分の食事も置いていった。
ところがニケは相変わらず何も口にしようとしない。
ネストルが食べさせてやると、抵抗せず飲み込む。
「人形みたいな子だな。生きようとする意志もなければ、死のうとする意志もないのだ。何も思っていないのだ。考えることをやめてしまっている」
シャトーディフの囚人は、暗闇に目が慣れてしまっているので、明かりがなくても近くのものを見ることが出来る。
ドロイ爺さんは囚人ではなかったが、長年この仕事をしているために、わずかな蝋燭の明かりしか使わずに囚人たちの世話が出来るようになっていた。
そのドロイの小さな蝋燭の火に照らされると、座っていても床まで届くネストルの白い長髪と、ごわごわした髭がてらてらと輝いた。囚人は散髪することが許されていないのだ。纏っているシミだらけの粗末な布きれよりも、髪と髭が服の役割を果たしているらしい。
彼の大きな顔には深いしわが刻まれており、それはあたかも試練続きだった長い人生の、険しさそのものを表しているかのようだった。全体として、偉大な仕事をやり遂げてきた、非常に力のある老人の顔をしている。ただし両目の瞳だけは、少年の頃の無邪気な好奇心を残しているかのように、闇の中で鋭く光っていた。
ネストルは甲斐甲斐しくニケの世話をし続けた。
数回目に食事を持ってきたドロイ爺さんは言った。
「その子供のための飯だって、ただじゃないんだ。どこから湧いてきたか知らないが、せめて食事代をもらわないとな」
「こんな食べ物に金を取る! 人間の食べ物にしては粗末過ぎる、家畜に食わせるべきものを寄越しておいて、無一文の囚人から金を取ろうというのかい」
「無一文じゃないだろう。少なくともその子供は。だって上等な服を着てるじゃないか。それをくれたら、これからも飯を持ってきてやる。服は売れば金になるんだ」
「飯じゃなくて、こんなのは、エサと言うべきだろうな」
堅い穀物ばかりの入った器を叩きながら、ネストルが非難がましくつぶやく。
「文句があるなら飢え死にしてくれてもいいんだぞ」
「囚人が死んだらあんたは上役に罰金を払わなきゃいけないんだろう」
「子供は死んでもかまわない。上役も把握していないからな、そんな子供のことは」
「…………分かった、分かった。この子の服はあんたに渡そう。ここじゃどんなに着飾っててもしょうがないからな。売る相手もないし。代わりに、囚人用の布切れをくれよ。まさか裸で暮らさせるわけじゃないだろう」
「よし、商談成立だ」
「こんな地底の墓場で商売とは。ろくな死に方しない」
こうしてニケはネストルによって職人の手になる立派な服を脱がされ、囚人がみな身につけている、ぼろぼろの薄い布をあてがわれた。
「それにしても…………」
エサ係がホクホク顔で去ったのち、ネストルはぽつりと言った。
「この子の心は壊れてしまっているんだろうか。服を脱がされてももの一つ言わない。それどころか表情一つ変えようとしない。…………かわいそうに。わしの孫とそれほど変わらぬ年齢で、大人でも耐えきれないほど悲惨な目に遭ったんだろう!」
*
「今日も一日、せいぜい生きることにしよう、坊や」
眠りから覚めたネストルが、じっと虚空を見つめているニケに話しかける。
「地上が果たして朝なのか夜なのか分からないが、とりあえずわしの目覚めた今を朝としておこう。この牢ではわし自身が時計というわけさ。そんで――朝ご飯はまだ来ないかね?」
水差しの水で喉をうるおし、ニケにも水を飲ませてから、鉄格子を掴んで外の様子をうかがう。
「――かすかな足音が聞こえるな。もうすぐドロイ爺さんがくるだろう」
実際その通りになった。
いつもと変わらず弱い火を頼りに、ドロイ爺さんは貧相な食事を置いていった。
ドロイ爺さんはもうニケを珍しそうな目で見ることもなくなっていた。服を譲り受けてしまってからは、この若すぎる囚人に興味を失ったらしい。
「さてさて、朝食にしよう。その後は、眠くなるまで起きていよう。眠くなったら寝よう」
――衝撃的な父親たちの死、そして母親との別れの日――ニケにとって、人生が正反対に転換してしまった運命の日。あの日からもう一ヶ月は経っているはずだった。
それでもニケはまだ、心を閉ざしたままだ。
老人ネストルは何かを察したのか、ニケを問いつめたりすることはなかった。
ただ一方的に世話をして、一方的に語りかけるのだ。
「わしは自分の声を聴くのが好きでなあ。独り言を大声でやっていたら狂人だが、坊や、相手がいれば立派な会話だ。だからわしの物語を聞いてくれ」
食事と睡眠以外の時間のほとんどを、ネストルは物語に費やす。
彼の話す内容はかなり豊富だった。
こんな老人でもかつては要職にあったのか、一昔前の王宮の様子を精密に描写してみせるかと思えば、古代の英雄たちの合戦の様子を、勇壮な調子で歌ってみせもする。
クシフォ王国の人々についてに限らず、想像も出来ないほど遠い異国の民族のことや、天空の星のこと、刀剣神の伝説や優れた剣者たちの冒険も話題になった。
聞き役のニケは何の反応もしないのだが、しばらく同じ話を続けていることに気がつくと、
「そろそろ飽きてきただろう、今度はまったく違う話にしよう」
などと言って物語を中断し、話題を転換することもあった。かと思うと、起きてから再び寝床につくまで、クシフォ国の歴史物語をぶっ通しでやる日もあった。
テーマの選択はネストルの気分次第であり、聴衆のニケの意向はまったく考慮されないのだ。しかしそれも仕方がない。なんといってもニケは文句一つ言わないし、注文一つしないのだから。老人の声を聞くのが苦痛であるとも、楽しいとも言わない。
これでは人形を相手にしているのと変わらず、話し甲斐がなさそうなものだが、ネストルはいつも楽しそうにしていた。
そんな二人の様子を見て、ある時ドロイ爺さんが言った。
「とうとう狂ったな、ネストルの爺さん」
「何?」
「ついに狂ったな、と言ったんだ」
「わしはこんな陰気な仕事を続けているお前さんほど、狂ってはいないつもりだが」
「だって食事を持ってくると、いつもその人形に話しかけているじゃないか」
「人形だって?」
「人形さ」
ドロイはニケを顎で指してみせる。
「その子供が笑っているところも、怒っているところも、泣いているところも、しゃべっているところも見たことがないからな。そんなのは人間じゃない。人形だ」
「この子が人形だとしたら、どうしてわしが狂っていることになるのだ?」
「だって人形に話しかける男は、狂っているに違いないからな」
「でもなあ、それなら、ドロイ爺さん」
ネストルは唐突に笑いだした。
「人形に食事を運んでくる男もまた、狂っていると言えるんじゃないのかね」
「……こりゃ一本とられた」
頓知にやられて退散したドロイの背中を見送ってから、ネストルがニケに優しい顔を向ける。
「坊やは人形などではない。絶対にな」