第5話
フィロソフォス聖堂を襲撃した三人の刺客――国王の地位を奪い、権力を掌握しようと画策する剣者集団「七剣人」に所属する、メルメラ、オムブロス、シンテスの三人――は聖堂を出ると、用意させておいた巨大な箱馬車に乗り込み、全速力で忘却牢獄シャトーディフへと出発した。
――忘却牢獄シャトーディフ。
その名の通り、一度放り込まれれば地上の人々からは忘れられてしまうほど、地下深くに設えられた牢屋である。クシフォ王国の誇る、もっとも巨大で陰惨な施設であり、国王の威厳を世に示す重要な効果を発揮している。
これまで数々の重罪人たちが閉じこめられ、非業の死を遂げてきた。クシフォ王国に生まれ育った子供であれば、シャトーディフで死んだ恐ろしい囚人たちの寓話をいくつも知っているものだ。
エピザメ地方の南端にあるその牢獄までは、かなりの距離がある。三人はニケを縄で縛り付けて寝かしておいてから、各々好き勝手な姿勢で馬車の席に納まっていた。
オムブロスとシンテスは早々に寝てしまったが、メルメラだけは目を覚ましている。
「おい、もっと速くならないか!」
馬の蹄の音に負けないよう、メルメラが御者に声を張り上げる。出発当初の速度に比べて、だいぶ遅くなっていると感じたのだ。
馬が疲れるにしては、あまりに早すぎる。
「俺たちは急いでるんだ!」
「駄目です旦那! これ以上は速くなりようがありませんや!」
「金なら払うと言ってるんだぞ!」
「いくら頂きましてもね、人をはねるわけにはいきませんで」
「人?」
「そうです。どうしたわけか進むのを邪魔する人間たちがいるんでして」
「どういうことだ? おいちょっと馬を止めろ」
馬車から降りたメルメラは、瞬く間に人々に取り囲まれてしまった。
「人殺し!」
「無礼な奴ら! 血も涙もない!」
「どうして伯爵様たちを殺した!?」
行く手を遮っているのは、フィロソフォス聖堂で三人が伯爵たちに決闘を挑む際、その一部始終を見ていた民衆たちだった。
老いも若いも一様に怒りを爆発させ、相手が剣者だということをまるで気にしない様子で掴みかかる。
誰も彼もが自分の親を殺されたような怒りようだ。伯爵とその友人たちが、どれほど人々に慕われていたかうかがえる光景だった。
「さっき小僧を走らせて様子を見に行かせたら、あの立派なお三方の遺骸があったのだ! ニケ様はいなくなっていた! お前たちが殺したに違いない!」
「あれは決闘などではなかった! 人質をとったりして、ただの殺人だよ! 裁かれなくちゃいけない!」
「亡くなられた紳士方の、奥様や子供たちの心というものを考えないのか! 鬼!」
詰め寄る青年や婦人をかき分けて、聖堂でラヴオス伯爵にお礼を述べていた老婆が、涙を浮かべながらメルメラにしがみつく。
「見ているぞ! 見ているぞ! 神様は見ているぞ! いつか必ずお前たちに復讐の刃が襲いかかるんだ! 刀剣の神様! 神様は正しい人間が誰だったかご存じだ! お前たちが大罪を犯したということをご存じだ! きっと恐ろしい復讐の嵐を、神様はお前たちに差し向けるだろうよ!」
「黙りたまえ!」
メルメラはしがみつく老婆を突き飛ばした。
「ああ!」
道に倒れ込む老婆。そばにいた子供が彼女を助け起こし、メルメラを睨みつける。
「おれは忘れないからな、悪い奴の顔を! お優しいラヴオス様たちを殺した、極悪人の顔を!」
「勝手にするがいいさ」
「メルメラ! 何の騒ぎなんだ」
オムブロスが目を覚まし、馬車を這い出てきた。
「ニケの坊主も起きちまったじゃねえか」
この一言に、群衆はどよめき立った。
「ニケ様が馬車の中にいるのか!?」
「そんなら救い出さなきゃいけない!」
「ラヴオス伯爵夫人の手にニケ様を返そうじゃないか!」
男たちは隠し持っていた短剣や鉄の棒を振りかざし、今にも馬車を襲撃しようという形勢だ。事態が飲み込めず、目をまん丸に開いて、オムブロスはメルメラに説明を求める。
「いったい何だこれは」
「見て分からないか。仇討ちのまねごとだよ」
「さっさと蹴散らせばいいじゃないか」
「今、そうしようとしていたところだ」
「俺も加勢しよう」
二人は胸の前の空間から、瞬時に剣を抜いた。
さすがに気負い立った男たちも聖剣を見て怖じ気づき、一歩後退する。
「それじゃあメルメラ、俺はこの辺の男たちを全員やる」
「待て。剣者が剣を抜いた際には、相手が人間だろうが動物だろうが、名乗り上げるのが形式というものだ」
「そんな面倒なことを」
「お前の刀剣神に愛想を尽かされたくなかったら、やるんだよ」
「はあ。分かったさ」
暗い雨雲の色をたたえるごてごてした剣をかかげ、オムブロスは歌うように、
「我が名は、我が剣の名は、
そして剣に宿る刀剣神の名は、『オムブロス』!
災いもたらす、激流と暗雲の剣!」
続いてメルメラも、黄金色の刃をかざして、
「我が名は、我が剣の名は、
そして剣に宿る刀剣神の名は、『メルメラ』!
転変もたらす、恐怖と陰惨の剣!」
武器を持った男たちは、さすがにこの剣者の名乗りを耳にして、攻撃を繰り出す勇気を取り去られてしまった。
「どうした。そちらから来ないなら、こっちから遠慮なく攻めたてようと思うが。死にたくない者は去れ」
人々は脅しを前に、隣同士顔を見合わせる。
それでもそこから立ち去る者はいなかった。
「立派なことだな」
「ああ、実際、泣かせてくれる」
そんな皮肉を口にしてから、二人が剣を振り上げようとしたその時――!
「ニケ! ニケがいるというのは本当なのかしら!? ニケ! ニケ!?」
一人の貴婦人が、馬車の前に走ってきた。剣者とその周りの人々の緊迫した雰囲気が見えないかのように、一直線に馬車へと入り込もうとする。
「ニケ! ニケ!」
「無茶な奥さんだ。いったいこれは誰だ?」
片手で貴婦人を押し留めながら、メルメラはオムブロスに訊いた。
「俺が知るもんかい」
「狂ったようにニケ、ニケと名前を呼んでいるところを見ると――」
「ニケの母親なんだなきっと。ラヴオス伯爵の夫人だ」
「なるほどな」
「まあ、そんなことはどうでもいいだろう」
「ああ。俺たちが剣を抜いたら、全員下がってくれたからな。とにかく馬車を出発することが出来る」
半狂乱の婦人――それは実際ニケの母親、ラヴオス夫人だったのだが――は、メルメラによって群衆の方へと放り投げられた。
人々はそれを抱きとめた。だがラヴオス夫人はそれに懲りず、またしても馬車へと突っ込んでいこうとした。
「どこへ連れていくんです! 私の息子を! 夫を奪っただけでなく、私の宝物、息子ニケすらも盗んでいこうというのですか!」
悲痛な叫びが辺りにこだまする。
それにかまわずメルメラとオムブロスは馬車に乗り込み、
「御者! 馬を走らせろ! さっさとやるんだ!」
「ですが旦那方…………」
「文句は言わせんぞ! 俺たちの剣がそのどんぐりみたいな眼にもちゃんと見えているだろうな!?」
「は、はいい…………!」
「心配するな、金なら払う。さ、鞭を打て! 打て! 打て!」
脅えた御者は馬を乱暴に打ち、焦って車を出発させる。
「待って! ニケや!」
すでに駆けだした馬車の車窓に取り付いた夫人は、大胆に中をのぞき込んだ。
「――――ニケ!」
「――――母上!?」
そこには驚きの表情を浮かべたニケが、ぐるぐる巻きになって伏せられていた。
「危ないですよ! 奥様! 奥様!」
「お止めください! お降りになって!」
後から走って追いかけてくる群衆が、夫人を止めようと大声を上げた。
御者はそれらから逃げるように、やたらめったら鞭を打ち、馬をぐんぐん加速させる。
「――――きゃっ!」
取り付いていられないほどの速度になってとうとう、夫人は振り落とされてしまった。
「ニケ! ニケ!! 行かないでおくれ!」
「――母上! 母上!!」
地面に叩きつけられてもなお、母親は息子の名前を叫び続け、息子の方は身動きがとれないながらも、救いを求めるようにずっと母親を呼び続けるのだった。
「――ニケ! ――――――ニケ……」




