第30話
かつてラヴオス伯爵が幸福な家庭を営んでいた土地、アテナイ。
突如訪れた悲劇のために、ある者は家族を奪われ、ある者は財産を失い、ある者は有力者の庇護を失うことによって、ここ数年は大きな不幸の境遇に置かれていた。
ラヴオス伯爵とその友人たちが殺害されてしまったことで、彼らの尽力によって与えられていた政府からの年金が打ち切られてしまった老人や、学問を修めて身を立てようという志が中断されてしまった子供など、失意のうちに、懐かしい伯爵たちを忍びながら暮らすものは少なくなかったのだ。
そうした不幸が前触れもなく襲い来るものなら、また幸運も突然やってくるものなのだろうか。
ラヴオス伯爵の館跡に建てられた「ニケ慈善院」に、若い二人の旅人が姿を現した頃からのことである。この地域の人々は不思議な出来事に見舞われていた。
「昨日はね、家に帰ったら金貨が詰まった袋が置いてあったんだよ。驚いたね」
街の井戸に集まった人々が、自分の身に起きた体験を共有するべく、順番に語り合っている。今は墓堀り労働に従事している、老人の番だった。
「金貨の袋かい」
「そうなんだよ。家に帰ったらね、しっかりと鍵をかけたはずの扉が開いてたんだな。そんで驚いて、泥棒でも入ったかと思ったんだが、なに、おれの家に盗むものなんて一つもないからね、勇気を出して調べてみた。そしたらなにも盗まれてはなかったんだ。代わりに、藁のベッドの上に袋が置いてあった。中をあけたらどうだい、暗い部屋だってのに、ぴかぴかお天道様みたいに輝いてやがる。他でもない、金貨がたくさん入ってたんだよ。いやあ驚いたね、こりゃ刀剣神フィロソフォス様が、おれのような老人を哀れみ恵んで下さったに違いないよ」
「へえ。そりゃ確かに驚きだ。でも本当のことなんだろうね」
「本当も本当さ。だからこそこうしておれは、今ぴんぴんしてるんだから。というのも、おれは肺を患ってたんだが、その金貨のおかげで医者にかかって、高い薬を買って、それを飲んでこの通り元気を取り戻したのさ。ついでに空気のいい部屋に引っ越しして、服も新しいのにした。しばらくは牛肉も買って食えそうだよ」
「よかったなあ爺さん。やっぱり爺さんが刀剣神フィロソフォス様に毎晩のお祈りを欠かさなかったから、そういう良い事が起こったんだと思うね。ひとつおいらの話も聞いてくれよみんな。おいらも刀剣神フィロソフォス様に生まれてこの方一日もお祈りを欠かしたことがないんだから、この爺さんと一緒で、良い事が起こったのさ」
人々の好奇心に溢れた視線が、一人の少年に集まる。
「おう、坊主にはどんな良いことがあったな?」
墓堀りの爺さんも少年の話に耳を澄ます。
「おいらは昔からね、偉い学者になって王様の教師になって、たんまりお金をもらって勲章をもらって、母ちゃんたちに楽させたいっていう野望を持ってるたのさ。そんでここいらで文字が読める人といったら今はもう代理司祭様くらいしかいないから、代理司祭様に文字を習いたいと思ってたんだけどね、やっぱり病気の母ちゃんとたくさんの弟たち妹たちに飯を食わせるために、おいら働かなくちゃいけない。だからやりたくもない仕事をなんでもおいらはするんだけど、こないだ売るための痩せ馬を引っ張って隣町からとぼとぼ歩いてたら、貴族の身なりした男の人と、その妹みたいな人がおいらに近づいてきてこう言ったんだ。『きみ、その馬を売ってくれないかい』ってね。馬を見る目がある人なら、一目で駄目な馬だと分かるほど痩せこけた馬を売ってくれってんだよ。どういうつもりでそんなことを言うのか、なんの冗談のつもりなのか分からなくておいら黙ってたら、その人たちはね、おいらの手に金貨の袋を押しつけて馬を持っていっちゃったんだ。あっという間のことだから、いったい何が起こったのかすぐに分からなかったよ。でもその金貨のおかげで、母ちゃんたちにはたらふく食わせてやれたし、代理司祭様のところへ通う暇も出来そうなんだ。しばらくは暮らしも楽になりそうだからね、おいら、これから勉強が楽しみで仕方ないんだ」
「代理司祭様はその出来事を、どういう風におっしゃってたかね?」
一人の農夫が、嬉々として語った少年に尋ねる。
「そりゃもう、『それはきっと刀剣神フィロソフォス様がお前を哀れんで、地上に降りて来なすったのだ。それはフィロソフォス様がくれた金貨だから、大事に使うように。そしてお祈りを忘れないように』ってさ」
「ふうんそうかい。そりゃ本当によかったなあ!」
農夫は感激に手を打った。
少年の言葉を引き取って、商人風の女が続ける。
「代理司祭様のお言葉はね、嘘じゃないんだよ。なんてったってね、聖剣フィロソフォスを管理されているのは代理司祭様だけど、数ヶ月前、聖剣フィロソフォスはどこかへ飛去っていったというんだ。青い綺麗な光を放ってね。たぶん、聖剣フィロソフォス様がお気に召した人間を、自身の使い手として選ばれたんだ」
「なんだって!」
「ええ確かだよ。あたしゃ嘘は言ってない。代理司祭様はそのことをかたくなに隠して、まだ誰にも言ってなかったがね。なんてったってまた『七剣人』のようなのが出てきて、聖剣フィロソフォスと新しい剣者様を狙いはじめたら大変だから。あたしにだけこっそり教えてくれたのさ。あたしがあまりにしつこく訊くもんだからね。だからもしかしたら、あんがい刀剣神フィロソフォスに選ばれた剣者様、この時代の新しい剣者フィロソフォス様がそうした幸運を運んできてくれているのかもしれないよ! だとするなら、刀剣神フィロソフォス様自身が金貨を配られているのと同じことじゃないかい!」
場はどよめき、互いが互いと顔を見合わせる。
刀剣神フィロソフォスは、堕落した今世紀の人間を好かず、長らく自身の使い手を見いだすことをしていなかった。もし剣者フィロソフォスが現れたというのなら、それは刀剣神フィロソフォスが選ぶほど素晴らしい、数百年に一度の立派な人間に違いないのだ。
人々は自分たちにこうした心ある金貨のプレゼントをしてくれた人間を、なんとかして探しだそうと躍起になっている。
井戸端に集まって会話しているこの地域の住民たちのほとんどが、近頃そうした恩恵に浴していたのだ。
さてその集会には、老人たちの世話の合間に足を運んだミリミの姿もあった。
「もしかしたらその無名の慈善家というのは……あの方たちじゃないかしら?」
誰にも聞こえない声で、そうつぶやく。
ミリミには心当たりがあったのだ。
他でもないそれは、数日前、ニケ慈善院を訪れて金貨の袋を置いていったあの二人の男女のことだ。
少年から馬を破格で買い取った二人の男女というのと、完全に一致する。
あの時の金貨のおかげで、ニケ慈善院に暮らす老人、孤児たちに、畑ではとれないより栄養ある肉や魚の食事を出すことが出来た。人を雇って、みんなで温泉や海水浴に出かけることも出来るだろう。
さらに俗世を捨てたニケの母に、ささやかな送金をすることも――。
「こんなに大きなお金を下さった方には、しっかりとしたお礼をしなくちゃ。その人がどういう方であれ、詮索はしないことにして。……本当に刀剣神フィロソフォス様に選ばれた、新しい剣者様だったとしても。必ず探し出すわ」
ミリミは街へ走った。
街へ着いてからは、宿屋や人の集まる酒場でひたすらにあの二人の行方を訊ね回った。
だが二人の居場所はようとして知れなかった。
「もうここを発ってしまっていたら、どうしましょう……?」
そんな不安も頭を過ぎったが、しかしそれは一瞬のことだった。
きっと二人はまだ近くにいる。そんな確信があった。
どうしてそう感じるのか、ちゃんとした説明をすることは出来ないが、なんとなくそんな気がするのだ。あの二人にとって、この土地は何か特別な意味をもつ場所なのではないか。だからこそ、ああして不思議な慈善事業をして回っているのだろう――。
またそれ以上にあの青年の方には、いつかどこかで、会っているような気がする――。
一日中歩き回り、知り合いにも見知らぬ旅人、商人にもかまわず情報を求めたが、確かなことは分からずじまいで終わってしまった。
もう日は落ちかかっていた。
「また、明日にしましょうか……」
肩を落としてミリミは、木々に囲まれた慈善院への道をとる。
途中で出会った朝の件の少年は、いつになく落ち込んでいる様子を案じてミリミに話しかけた。ミリミは空元気で応対していたが、そのせいですっかり辺りが暗くなってしまった。
「もう暗くなっちまったね。お姉ちゃん引き留めてごめんね。またね。刀剣神フィロソフォス様が、導いて下さいますよう」
「ええ、ありがとう。お勉強がんばってね。あなたにも、刀剣神フィロソフォス様のお導きがありますように」
筆記具の入った鞄と分厚い聖典を抱えて、少年は足取り軽く帰っていった。
ミリミもゆったりと歩き出す。
人の姿のない、ほとんど森と言っていいほど寂しく、暗い道だ。
かつてニケ慈善院がラヴオス伯爵の館だった頃は、道の両端の木々に手入れがなされており、刈り上げられた枝葉が目を楽しませたものだった。
今では背丈ほどある雑草や木にからみつく蔦が、空を覆うほどに茂っている。
そうした植物の間から見える、わずかな星々を眺めながらミリミは歩いた。
ニケ慈善院の敷地への入り口、ラヴオス伯爵のつつましい墓の前に差しかかったところで、ミリミはそこに人がいることに気がついた。
こんな時間に、こんな辺鄙な場所に来る人間はそうそういない。
「盗賊かしら……?」
相手には気づかれていないらしかったので、一応相手の様子をうかがうべく、ミリミは大木の裏に隠れた。
耳を澄ますと、話し声が聞こえてきた。
どうやら二人いるらしい。男と女、二人分の声がする。
「どうして、早く名乗り出ないの?」
女――それもかなり若い、ほとんど子供のそれに近い声がもう一人に訊ねる。
「みんな、あなたの正体を知ったら喜んでくれるわ」
「どうしてかって? それはねイーリス、あまりに懐かしいことが多すぎて、ぼくの心がはちきれそうだったからだよ! 心の準備がまだ出来ていないんだ」
男が答える。男の声も若い。まだ十代、多く見ても二十代前半だろうと思われる。
「ああ、何もかもが懐かしいんだ。ぼくの暮らしていた家はなくなっていたけれど、そこには見覚えある近所のお年寄りや、パリモとミリミが住んでいる。やっぱり帰ってきたっていう実感があるよ」
ミリミは飛び上がるほどにぎょっとした。
転んで大きな音を立ててしまうところだった。
自分とパリモの名前が出てくるとは思わなかったのだ。
それに「帰ってきた」という言葉。
どうやら若い男の方は、過去にこの辺りに住んでいたことがあるらしい。
声色や会話の雰囲気から、二人が盗賊など危険な人間でないということはもう分かっていたが、ミリミは好奇心からその会話を聞き続けることにした。
「それにしてもここは、いいところね」
「そうでしょう。自然は豊かだし、人々は温かい」
「私も、お父上のために祈るね」
「……ありがとうイーリス。ぼくの父上のために、祈ってくれ」
ぼくの父上。そう男の方は言った。
そして二人はラヴオス伯爵の墓にひざまずき、祈りを捧げている。
ミリミはその行為の意味を理解できなかった。
「どうしてラヴオス伯爵のお墓を、お父上だなんて呼ぶのかしら……?」
ミリミの隠れている大木からでは、二人の顔をよく見ることが出来ない。
なんとかミリミは二人の顔を見たいと考え、大木の陰から移動する時機をうかがう。
だがその必要はなかった。
二人が祈りを終えて立ち上がり、街の方へ引き返そうとしたのだろう、身を翻して歩き出した時、月明かりに照らされた顔が明らかになった。
「――! ああ!」
思わず小さい叫び声をミリミは上げた。
確かにそれは、先日ニケ慈善院を訪れた、二人の若い旅人の顔だった。
「でも、どうしてこんな時間に、こんなところにいるのかしら――?」
木の陰から姿を現して、直接それを訊くことも出来ただろうが、会話を盗み聞きしていたことがバレるのはなんだか気まずいので踏みとどまる。
何はともあれ、一日中探し続けた尋ね人が見つかった。
ミリミはこっそり二人の後をついて行こうと思った。
街へ出てから偶然を装って話しかけ、ちゃんと金貨のお礼を言おうというつもりで。
しかしその計画は――二人の発した次の言葉のために、すっかり雲散霧消した。
「ニケ、明日こそ名乗り出ましょうね? あなたがラヴオス伯爵の息子だということを」
「うん。そうするよ。父上のお墓に、こうして静かにお参りすることが出来て、だいぶ心が安らかになった気がする。明日には全てを打ち明けよう。そしてパリモとミリミに、母上の居場所を教えてもらわなくちゃならない。母上はきっと、一秒でも早くぼくに会いたいと思ってくれているだろうし、それはぼくも同じなんだ」
ミリミは全身が硬直するのを感じた。
今こそ全てが明らかになったのだ。
なんとなく抱いていた違和感や既視感が、全て一つの明白な答えに結びつく時の強烈な浮遊感に、打ちのめされてしまいかけた。
ニケ! ニケ・ラヴオス!
少女は青年をそう呼んだ!
そして青年は、ラヴオス伯爵の墓を父上と呼んでいる!
――そうだ、それはまったくありえることだ! ニケは死んではいなかった!
旅人の、若い男の方にはなんとなく見覚えがあった。
それは夫のパリモ――自分と同じくニケの無二の親友、パリモも同じだった。
しかしあの無邪気な男の子のニケからは連想出来ないくらいに成長し、肌の色もラミシャ人のように白くなっていたせいで、またニケがいきなり自分たちの前に姿を現すはずがないという先入観のせいで、彼がニケその人だということに気がつかなかったのだ!
――ニケが帰ってきた!
ひと回りもふた回りも成長し、ラヴオス伯爵にも劣らないほど立派な貴族としての貫禄、上品さ、そしておそらく――強さを身につけて!
「ニケ! ニケ!」
「「――!」」
気がつくとミリミは、二人の背後に飛び出し、ニケの名を叫んでいた。
二人は飛び上がるほどに驚き、振り向いた。
野獣かあるいは暴漢かと、二人は一瞬身構えたが、そこにあったのはミリミ一人の姿。
「あなたは――!」
少女イーリスが目をまんまるにひん剥く。
ニケは――確かに彼はニケだ――じっとミリミを見据え、観念するように笑った。
「ミリミ。久しぶり。ああ、明日、打ち明けるつもりだったんだけどな」
「ニケなのね! ニケなのね、本当に!」
「ああ、聞かれてたか、やっぱり」
ミリミは飛びかかるようにして、ニケに抱きつく。ニケもそれをそっと受け止めた。
「ああニケ! ニケ! あなた、よく生きて……!」
「うん。生きてたさ。その経緯を話すと長くなるけど……」
「ああ、どうしましょう! 私どうしたらいいのかしら! ニケが来たのね! ニケが帰ってきた!」
「帰ってきたよ、ミリミ……長かった。きみもすっかり、綺麗になったね。パリモと結婚していたなんて、驚いたよ!」
「そうだわ! パリモだわ! パリモにまず知らせなくっちゃ!」
混乱と興奮の極致にあるミリミは、ニケとイーリスの手を取って、ぐいぐい引っ張りながら慈善院へと突き進む。
ニケは笑いながらそれを制止し、イーリスは何度もつまづきそうになって悲鳴を上げるが、ミリミの耳にはまったく入らない。
月に照らされる野菜の群を抜け、勢いよくミリミは慈善院の玄関を開けた。
「パリモ! 大変よ! パリモ!」
パリモのみならず、ベッドから起きあがり、ちょうどパリモの介助で夕食をとっていた老人たちや、台所に座って果物を頬張っていた子供たちまでもが、取り乱したミリミに注目する。
「どうしたんだい、ミリミ」
「お姉ちゃんどうしたの、熊でも出たかい」
「どうしたんだねそんなに慌てて、まるで天地がひっくり返りでもしたようだよ」
「そうよ! 天地がひっくり返ったと言っても、あながち間違いじゃないわ!」
そう言ってミリミは、ニケをみんなの前に突き出す。
ニケは苦笑いしながら、みなの視線を一手に浴びる。
「ニケよ! ニケ・ラヴオスよ!」
じれったそうにミリミは叫ぶ。ニケも膝を軽く折り曲げて、
「パリモ、そしてみなさん、お久しぶりです。ニケ・ラヴオスです」
呆気にとられていたパリモたちは、口をあんぐり開けたままニケの顔を見つめていたが、そのまま顔色を二三回変えたかと思うと、
「ああああああ!」
「帰ってきた! 帰ってきたんじゃ!」
「ニケ様! ニケ様じゃ! ああ刀剣神様!」
口々に驚嘆と歓喜の悲鳴を上げる。
パリモはニケに駆け寄り、その手を力強く握った。
「ニケだね! 間違いない! 君はニケだね! 面影があるよ! 君の顔を忘れるもんか! だいぶ大きくなったから初めは分からなかったけど、ああ、君はニケだ!」
「パリモ! たくましくなったね。ミリミと結婚するなんてね! おめでとう!」
「ありがとう! でもそんなことは今はいいんだ! 君を連れて行かなくちゃいけない場所があるんだ! ミリミ、そうだろう!」
「ええ、そうよ!」
パリモとミリミはニケの腕を両脇からがっちり掴むと、夢中で外へ飛び出した。
その後から子供たちや動くことの出来る老人たちもついて行く。
寝たきりの老人は、イーリスや体の大きな子に背負われ、やはりニケたちを追う。
「ぼくを連れて行くって、いったいどこへだい?」
半ば引きずられながら、ニケが訊ねる。
「決まってるじゃないか! ニケ、きみの母上のところへだよ!」
「みんなこの日をどれだけ待ち望んでいたことか! どうしてもっと早く、正体を明かしてくれなかったの!」
怒りながら笑い、嬉しさを隠しきれないミリミの複雑な表情を見て、ニケは思わず笑わずにはいられなかった。
「ごめん。でも、心の準備が必要だったんだ!」
「いいさいいさ。とにかくこうして帰ってきてくれたんだから!」
パリモが興奮のままに咆哮する。
「刀剣神フィロソフォス様! ありがとうございます!」
「ああ、そのことだけど……ちょっとパリモ、ごめんよ」
ニケは顔に一種のユーモアを浮かべて、パリモの腕を抜け出した。
そして――
「――我が刀剣神よ聞こし召せ、我が知恵の幸福、我が四肢の驚喜、我が胸の感激は、汝、理の刃を求めんとす――」
月よりも怜悧で鮮やかな、蒼い輝きを発した剣が、ニケの空いた方の手に収まる。
「我が名は、我が剣の名は、
そして剣に宿る刀剣神の名は、『フィロソフォス』。
秩序もたらす、知識と理性の剣!」
パリモとミリミ、そして後ろからついてくる慈善院の老人、子供たちは度肝を抜かれた。ニケが聖剣を取り出したのだ。さらにその上、「フィロソフォス」と名乗った――
驚きの連続。だが驚きはすぐに、喜びと感動に変わった。
「刀剣神フィロソフォス様への祈りが通じたのだ!」
「やはり刀剣神フィロソフォス様は、こうして運命を善い方向へ導いて下さるのだ!」
「フィロソフォス様だ! 剣者様だ! ニケ様は剣者様だ!」
「ニケ、あなた、フィロソフォス様に導かれていたのね!」
歩みを止めることなく、ニケを引き続き引っ張りながら、ミリミが悲鳴に近い感激の声を上げる。
「聖剣フィロソフォスが、ニケに宿っていたなんて! こんなに数奇な出来事って、あるだろうか! ああ!」
パリモは空を見上げて、涙を瞳いっぱいに溜める。
「これからゆっくり、ニケ、語り合おう。夜通しね。その時きみがどんな労苦を背負ってきたのか、それが分かるだろう。でもね、剣者になるくらいだもの。並大抵のことじゃないかったんだろう。どれほど辛い思いをして、自分を鍛え、逆境に抵抗してきたことか! それを想像するだけで、ぼくは胸が締め付けられる!」
「ああ、パリモ、語ろう。なによりきみたちの結婚の経緯を知りたいからね!」
一行が街に出ると、その不思議な光景――噂の旅人をミリミが馬を扱うように引っ立てる光景――に、人々が集まってきた。
ミリミはそうした人々に大声で伝えた。
「ニケよ! ニケ・ラヴオスよ! さらに――剣者フィロソフォスよ!」
ニケは剣フィロソフォスを握ったままだ。
サファイアのように透き通る青色と、聖剣特有の発光現象から、ニケが剣者であるということを疑う者はなかった。
「七剣者」が現れる以前、年に一度の祝祭で聖剣フィロソフォスを見たことのあった者たちは、ニケの手にしているものが他でもない、フィロソフォスであるということを確かに認めた。
また彼が、その不思議な旅人がニケであるということも、確かなことだと思われた。
大人たちはその青白い顔の中にも、あのかつてのやんちゃな少年ニケの面影を見つけることが出来たのだ。
それになにより、誰よりも高潔な貴族、ラヴオス伯爵の息子ニケ・ラヴオスが父の素質を受け継ぎ、妥協なき鍛錬によって自己を高め、知恵の剣フィロソフォスに選ばれた剣者になるというような物語は、まさにありえそうなことだった。
そうした奇跡を、みな心のどこかで期待していた節さえあったのだ。
――街はお祭り騒ぎになった。
人々は家を出て、どんちゃん楽器を打ち鳴らしながら行進する。
口々に刀剣神フィロソフォスを讃え、伯爵家万歳の三唱をする。
ニケの帰還と、剣者フィロソフォスの生誕という二つのめでたい出来事が同時に起こったのであるから、群衆の喜びのボルテージも並大抵ではない。
「ばんざい! 刀剣神フィロソフォス様ばんざい!」
「ニケ様が帰ってこられた! フィロソフォス様のお導きだ!」
「代理司祭様に知らせなくては! この土地を守護する、正式な剣者様が現れた!」
蝋燭を手にして、どんどん行進に合流する人々。
めでたい知らせを耳にした飲食店は、酒や料理をただで振る舞った。
旅の楽士はきらびやかな音楽を奏で、踊り子たちは誰彼かまわず相手を見つけて舞う。
家という家からはあらゆる人が参加し、街道は喜びに埋め尽くされた。
行進の先頭はやがて――フィロソフォス聖堂にたどり着いた。
何事かと起き出してきた代理司祭は、ニケの姿とその手の剣を見て、すぐに事情を把握してしまった。
「わしの生きているうちにこのような幸運が訪れたこと、ああ、これだけでもうわしは死んでも後悔はない。ニケだね。一目で分かったよ。さ、こちらへ」
日没とともに閉じられた聖堂の戸が開かれる。
踊り込むようにして入った一行。すぐに聖堂は満杯になった。
パリモとミリミ、そして代理司祭は、説教壇の下に潜り込み、床の一部を剥がした。
「さあ、ニケ、入るんだ。お母様が待ってるよ」
「ここに……?」
「そうさ。ニケのお母様は、ぼくたち夫婦二人と、代理司祭様以外は知らないここ、聖堂の地下室で、安らかな生活を送ることを選ばれた。次に人に会う時、それは相手がニケの場合だけだという誓いをお立てになられてね」
「母上が、そんな生活を……!」
「ぼくたちは必死に止めたんだが、意志の強い方だからね。ご自分の望み通りにならないなら、いっそ夫の伯爵のところへ行くと仰られたのだ。だから泣く泣く、お母様のお望み通りにしていただくしかなかった。でもニケ、それも今日で終わりだ」
「そうだ。終わりだ。ぼくは失われた幸福を、取り戻すために来たんだ。そんな孤独な平安とはお別れしてもらおう。今日から母上は、ぼくたちと毎日、一緒にご飯を食べたり、散歩をしたり、歌を歌ったり、たくさんの楽しいことをして暮らすんだ!」
説教壇の下には深い穴が空いており、ほこりっぽい階段が据えられてあった。
地下室への唯一の隠された入り口だ。
ニケはそこを下っていった。パリモとミリミ、代理司祭もそれに続いた。
イーリスや他の人々も一人ずつ、恐る恐る階段を下る。
*
「母上…………!」
たった一つの、か細いろうそくの火に照らされた、剣の聖像。
それに向かって祈る、一人の女性の影。
彼女は長らく、人の声を聞いていなかった。
代理司祭も気を利かせて、彼女が祈りに没入しているうちに、そっと食料を部屋に置いていくので、言葉を交わすことはなかったのだ。
身体も精神もすっかりくたびれ、年齢以上に老いてしまった女性は、もう生涯聞くこともないであろう「母上」という言葉を幻聴と思い、動作一つしなかった。
ついに幻聴が聞こえるようになったということは、夫のところへ行く日も近いのではないだろうか。
それが刀剣神の導きなら、決して悪くない。
もしかしたら夫のみならず、息子にも会えるかも知れない。
息子が生きている可能性は、雀の涙ほどもないだろうから。
「母上! 母上!」
――いや、幻聴ではなかった。
確かに繰り返し、自分に向かって「母上」という声がかけられた。
さらに一人のみでなく、複数の人の気配が背後から感じられる。
女性はゆっくりと、もはやこの世の者の持つ生気を失った、緩慢にして機械的な動作で振り返った。
――そこには成長した息子が、涙を流して立っていた。
女性は――ニケの母、ラヴオス伯爵夫人は――他の人々のように、初見でニケに気づかないなどということはなかった。一目で見抜いた。
それは失った自分の息子の姿を頭の中に幾度となく描き出し、その成長した姿を何度も想像しては涙する、そんな生活を送っていたためでもあるだろう。だがそれ以上に、母親としての直感が、自分を呼ぶ「母上」の声に、真の息子の懐かしい響き、音色を見いだしたのだった。
次の瞬間、気がつくと伯爵夫人は、息子の胸に抱かれていた。
全身は震え、瞳からはいつもと違う質の涙が――悲しみではなく、嬉しさのためにほとばしる涙が溢れくるのだった。
「母さん! お母さん!」
「ニケ……なの?」
「ニケだよ! ニケさ! ぼくはニケだよ! 帰ってきたんだ!」
「おお……おお!」
ニケの後から降りてきた群衆たちは、狭い地下室に身を滑らせ、引き裂かれた親子の再会を自分のことのように喜び、涙している。
パリモとミリミも、そしてイーリスもお互いに抱き合い、感動に身を震わせる。
代理司祭は聖像を前にひれ伏し、床に唇を強く押し当てていた――。
*
ニケと母親の再会、そして剣者フィロソフォスの誕生を祝う祭りは、数日の間盛大に続けられた。
ニケは正式にフィロソフォスを名乗り、代理司祭から聖堂を守る職を譲られた。
そのための式典には、遠方からも多くの客人がやってきた。
ラヴオス伯爵と旧知の仲にある貴族たちや、伯爵と同じく「七剣人」の犠牲になった者の遺族たちが遠路はるばる出席したのだ。
というのも、ニケがどういった試練をくぐり抜けて故郷に帰還したのかということが、パルセを中心にしてクシフォ国全体に広まっていたのだ。
客人の中にはリリナルゼーテ公、フォンクラン公とその娘たち、フィリナとフランの姿もあった。
ニケとイーリスは彼女たちと、存外早い再会を果たしたのだった。
伯爵夫人は地下生活によって、少なからず健康を損ねていたものの、大きな喜びとともに地上での生活に帰ったことで、すぐに元気を取り戻した。
慈善院の隣にささやかな邸宅を構え、そこでニケ、イーリスとともに暮らしているのだ。
聖堂の司祭の職を務めつつ、今度はイーリスの家族を探すべく、ニケは様々な手回しをしている。ある程度目処が立ったので、近いうちにイーリスと短い旅に出る予定だ。
パルセに潜伏していた頃、ケパロス師によって授けられた知恵により莫大な富を築いていたニケだが、少し手元に残した上で、大部分は各地の聖堂や救貧院、慈善院に寄付してしまった。金を儲ける力を最大限発揮したならば、得た金を正しい目的で用いなければならない。それこそが知者の務めである、とニケは確信しているのだ。
ニケは毎日ラヴオス伯爵の墓と、マクネス氏、イフティムス氏の墓にお参りすることを怠らない。アテナイの人は誰でも、早朝イーリスと連れ立って、彼らの墓の前にひざまずくニケの姿を見ることが出来るのだった。




