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復讐と報恩の双剣(アイデース・フィロソフォス)  作者: enhancedcat
*最終章「地上に幸福を返す者」*
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第29話

 かつてラヴオス伯爵の館があった場所には、小さな石造りの家が建てられていた。

 楽しい舞踏会が行われた客間も、たくさんの馬を飼っていた牧舎も、今はその影さえ見えなくなっている。

 そうした贅沢な施設の代わりに、穀物や野菜を植えた畑が、その質素な建物を囲んでいた。

 辺りはひっそりとしていて、昔、大勢の召使いがきびきびと働いていた時の、あのにぎやかな雰囲気はない。

 召使いの代わりに、多くの鳥や虫がひらひら舞い、草花が風にそよいでいるのだった。


「知ってるかい、ここは昔ね、ラヴオス伯爵という立派な方が住んでいらしてな」


 一人のみすぼらしい格好をした老婆が、畑のはたに据えられたベンチに座り、通りすがりの商人に語りかけている。老婆の額には大きなあばたがあった。


「それはそれは立派な方じゃった……」

「そうなんですかい」

「そうですともよ。民のことを第一に考えてらしってな、困ったことがあったならみんなが相談した。何でも助けてくれたもんじゃ」


「今はいないんですか?」

「……殺されてしまわれた。伯爵のお墓は、ほれ、そこの楡の木の下に」

「つつましいお墓ですね」

「伯爵は常々、墓は質素に、家族の近くにこしらえてくれと言っておったんじゃ」

「今ここの土地にはあんたのようなばあさんたちが住んでるんですな」

「そうじゃ。あたしのような孤独なおばばが、住まわせてもらっている」

「そうみたいですな。今は誰の土地なんで?」

「ここはね、ラヴオス伯爵の夫人がね、夫も息子も奪われた後、フィロソフォス聖堂に寄付したのだよ。代理司祭様はね、ここにこうして慈善院をお建てになったのじゃ」

「へえ。その独り身のご夫人はどちらに?」


「さあねえ。悲しいことだが、あたしらはそれを知らん。どうか息子のニケ様と再び会うことが出来ていればいいがな……実際、あたしはそのことばかり刀剣神フィロソフォス様に祈っておるよ」

「おれもそれを祈りましょう」

「是非そうして下され。聖堂はね、あっちの方角だから寄っていきなされ……」


 しばらく雑談を続けた後、商人は去っていった。

 老婆は黙りこくって、木を見つめながら日がな座っている。

 また誰かよその土地の者が通りがかると、昔話を始める。それが老婆の習慣だった。


「ああ、刀剣神フィロソフォス様……地上に正義を取り戻して下され……」


 毎日つぶやく祈りの言葉を口にして、老婆はじっと木を見つめている。


「お婆さん、お婆さん」


 畑を耕していた青年が、静かに笑いながら老婆の様子を見にやってきた。

 青年はまだ若く、仕事で鍛えられた上半身が日を浴びて、健康そうな血色に輝いている。


「お婆さん。のどはかわいていませんか? おいしい桃がありますよ」


 老婆はゆっくりと首だけで振り返る。


「……ああパリモさん。あたしは大丈夫だよ。桃は子供たちにおやり」

「そうですか。涼しくなったらすぐに戻って下さいね。風邪をひいたらいけないから」

「おお。ありがとよ……」


 青年は畑仕事に戻る。

 ざく、ざく、という土を掘り返す音が、小気味よく辺りに響く。

 やがて別の畑へ移動したらしく、音は遠くなっていった。


「ああ、刀剣神フィロソフォス様……地上に正義を取り戻して下され……」


 老婆は目をつむりつぶやく。

 そのまま風の音、虫の鳴き声、鳥のさえずりに耳を澄ましているようだった。


「ああ……フィロソフォス様……」


 重たげに目を開けたとき、老婆の瞳に飛び込んできたのは、楡の木の下、伯爵の墓の前に立ち尽くしている二人の若い男女の姿だった。


「おお……若い人たち……」


 まるで地面から生えてきたかのように、そこにいきなり二人の人間が現れたのだ。老婆は驚いた。

 老婆の声に、二人は振り向く。


「どうもこんにちは、お婆さん」

「いい天気ですね」


 挨拶のおかげで、突如出現した二人が幽霊や妖怪の類ではなく、ちゃんと血の通った人間だと言うことが分かった老婆は、しわくちゃの顔で会釈していつものように語り出す。


「若い人たち……そのお墓にはな、ラヴオス伯爵という、それはそれは立派な方が眠られているのじゃ。こっちに来なされ。おばばの昔話に付き合っては下さらんかね……」

「もちろんです、喜んで」


 青年の方が、老婆の隣に座った。

 幼い外見の少女も、それに倣って腰を下ろす。


「伯爵はな、民のことを第一に考えてらしってな、困ったことがあったならみんなが相談した。何でも助けてくれたもんじゃ……」

 

 二人の男女は老婆の話にこの上なく感動したらしかった。青年は懐から金貨を取り出して、老婆に押しつける。


「これを、お納め下さい」

「なんだね、これは……?」

「今のお話に対する、ほんのささやかなお礼です」

「いや、受けとれん……あたしは金など欲しくないんじゃ」

「……でもお婆さん、あなたのお話にとても感動しました。なんとかあなたにお礼を差し上げたいのですが」

「あたしはもう死ぬのを待つだけの身。何をもらっても使い道がないのでな……すまんがな、若い人。その金貨は慈善院の、かわいそうな子供たちに渡してくれんか」

「あなたがそうおっしゃるのなら、そうしましょう。でもあなたにも幸せになっていただきたい。何か、あなたが幸せを感じるために必要なものはありますか?」


 やけに熱心にお礼をしようという青年に若干面食らいつつ、老婆は答える。


「あたしが幸せを感じるのは……失われた幸せが取り戻される時じゃよ。昔、幸せだったラヴオス家に、また幸せが戻ればなあ。せめてご夫人だけでも生きていらっしゃればなあ。ご夫人と、生き別れになった息子ニケ様が再会なさるのをこの目で見ることが出来れば、あたしはもう地上で一番の幸せ者だよ。実際、そのことばかり刀剣神フィロソフォス様に祈っておる」


 それを聞いて、青年は顔を真っ赤にした。何やら興奮した様子だった。

 少女の方も、胸に迫る思いを必死に押さえつけるような呼吸をしている。


「ではお婆さん、さようなら」

「ああ、さよなら……」


 二人は立ち去り、石の家へ向かった。

 老婆は再び木を眺め始める。

 

  *


 ラヴオス伯の館跡に建てられた石の家には、三つの部屋があった。

 一つ目の、一番広い部屋には、八つのベッドが並べられている。 

 そのうちの三つには、起きあがることの出来ない老人が常に寝ていた。

 二つ目の部屋は台所として使われていた。

 三つ目の部屋にはここの老人たち、子供たちを世話している人間の寝床がしつらえてある。

 一つ目の大部屋は、玄関に隣接していた。

 滅多に人の訪れてくることはなかったのだが、それでもたまには心ある近所の人が顔を見せることもある。

 外にでられない老人たちは、そうした来客を楽しみにしているのだった。

 だから見知らぬ二人の若い男女がやってきた時、老人たちは笑顔で二人を歓迎した。


「これはこれは、珍しいこともあるもんじゃな、こんな若い外国の方々がいらしてくれるとは」

「あなたはラミシャ人ですかな? きれいな白い肌をしている。あの国はいい国だ。若いときに旅行に行ったことがありますでな」

「お二人はご兄妹で? 刀剣神フィロソフォス様のご加護がありますように!」


 二人が老人たちに挨拶を返し、にこやかに世間話などをしていると、奥の部屋から一人の少女――だいたい十七、十八歳くらいの少女が現れた。


「あら、珍しいわ。よそのお客さんだなんて。こんにちは」

「どうも、こんにちは」

「こんにちはっ」


 一人の老婆がその少女へ嬉しそうに言う。


「ミリミさん、ほら、この方たちは外国人なのに、こうして孤独なわたしたちの家に来て下さったのじゃ。嬉しいことじゃ」


 ミリミ、と呼ばれた少女は二人に頭を下げた。


「どうもわざわざ、ありがとうございます。大したおもてなしも出来ませんが……」


 青年は大きく開いた目でミリミを見つめ、何か大きな感情のうねりをこらきれないとでもいったように、胸を堅く押さえて息を整えてから、


「かまいませんよ。実は先ほど、前の道でお婆さんからラヴオス伯爵という方の話を聞かせていただいたもので」

「まあ、そうでしたか。ではあなた方は、ラヴオス伯爵家を襲った悲劇に、同情をして下さいますのね?」

「もちろんです。そんなに悲しいことは、二度と地上で行われてはなりません」

「ありがとうございます。私も、強くそう思います」


 まるで悲劇の当事者でもあるかのように、ミリミは顔に悲壮な色を浮かべる。

 その声には強い決意と意志が込められていた。


「とりあえず、お座りになって下さい」


 ミリミの用意した木の椅子に、二人は座った。 


「何もないのですが……ここの畑でとれた、桃があります。是非召し上がって下さい」

「いただきましょう」


 ミリミはナイフで桃の皮を器用に剥き始める。


「この桃はパリモが育てたのです。……あっ、パリモというのは、私の夫のことなのですけど」

「そうなのですか! あなたはパリモと結婚していらっしゃる!」

「え……ええ」


 青年の突然の驚きように、ミリミは当惑した。


「……ああ、失礼しました」


 すぐに落ち着きを取り戻した青年は続ける。


「あなたの夫のパリモさんという方を、是非紹介していただけませんか?」

「もちろんそれはかまいませんが……もしかしてあなたはパリモと知り合いなのですか?」

「いえ……あなたは私を知っていますか?」


 奇妙な質問返しだが、ミリミはじっと青年を観察してから答えた。


「……ごめんなさい。お会いしたことはたぶんないんじゃないかと思いますが……」


 青年は気を悪くした風もなく、むしろ楽しそうに言った。


「そうでしょうね。それならばきっと、パリモも私を知らないでしょう」

「?」


 謎の物言いに首を傾げつつも、ミリミは剥いた桃を客に振る舞った。

 不思議とミリミは、この謎の二人の客に警戒感を持つことはなかった。どこか親しみやすい雰囲気を感じていたのだ。


「やっぱり……どこかで会ったことがあるのかしら……?」


 老人たちと楽しそうに会話する青年を横から眺め、独りごちる。


「パリモが来たら聞いてみましょうか」

 

 しばらくして、青年パリモが畑仕事から帰ってきた。

 二人の来客には驚いていたが、お互い品のよい丁寧な挨拶を交わした。


「初めまして、パリモといいます。妻からお聞き及びとは思いますが、ええ、ミリミは私の妻でして、ミリミの夫は私です」

「どうもこんにちは。通りすがりの旅の者です」

「その妹ですっ」

「なるほど、ご兄妹で旅をされているのですね」

「ええ、そうなんです」


 ミリミがパリモに耳打ちする。


「こちらの二人……、いえ、こっちの男の方になんだか見覚えがあるようなないような、そんな気がするのだけれど、パリモあなた、お知り合いじゃない……わよね?」

「知らない人だよミリミ。でも……決して悪い人じゃない。直感がそう言ってる」

「うん、その点は私もそう思うわ」

「ミリミさん、パリモさん、お訊きしたいことがあるのですがよろしいですか?」


 青年は三つ目の桃を食べながら、二人に向き合った。


「私どもに答えられることなら、なんでもどうぞ」


 パリモがそう返答する。


「ではお訊ねしますが……お二人はどういった経緯でこの慈善院に暮らすようになられたのですか?」

「それはわしから教えてあげますよ」


 老人の一人が口を挟む。


「それについては、ミリミさんとパリモさんが直接語るよりも、わしがしゃべった方がいい。だって二人は謙遜しすぎるからね」

「そうなんですか?」

「そうなのさ。いいでしょね、二人とも?」

「かまいませんけど、あまりお客さんを退屈させてはいけませんよ、おじいさん。私たちの身の上話なんて、つまらないですからね」


 そう言ってパリモが伸びをする。 


「ということで、お客さん、お聞きなされ」

「聞きましょう」


 老人はゆったりと、しかし熱心に語り出した。


「あなたたちもラヴオス伯爵のことはいつもベンチに座ってるばあさんからお聞きになったと思いますがな、実はミリミさんとパリモさんもその時、お父上を殺されてしまったのじゃ――おお刀剣神フィロソフォス様よ! そんな事件の後、家族を失ったラヴオス伯爵夫人は財産を全てフィロソフォス聖堂に寄付され、行方をくらまされた。ミリミさんとパリモさんのお二人は伯爵夫人のことを心配して、夫人を捜すという目的とともに、広い国を歩き回って見識を広げようということで、身分を捨て旅に出られた。そうして一年前、帰ってこられたのだった。代理司祭が運営なされていた、このささやかな慈善院の仕事を二人は引継ぎ、またこの土地で結婚もなされた。そして代理司祭の大賛成を得て、この慈善院に『ニケ慈善院』という名前をつけたのじゃ。……ああ、『ニケ』というのは、かつて『七剣人』に連れ去られて今どこへいるのやら、かわいそうな伯爵の息子だよ。ミリミさんの母上もパリモさんの母上も、身分を捨てて僧職に入られているのだが、たまにここへ訪問して下さるからありがたい。あの優しい方たちのお顔を見ていると、こちらまで優しい気分になってくるんじゃからなあ」


 青年と少女はまるで生き分かれた自分の家族の消息を聞いているのでもあるように、この上なく真剣な聞き手となった。とりわけ「ニケ」という単語が出てきてからは、二人とも息を飲んで拳を堅く握りしめたり、小さく天を仰いだりした。


「お話、ありがたく聞かせていただきました」


 青年が立ち上がる。


「私に出来るのはまだこれくらいのことなのですが、ご勘弁を」


 そう言って懐からぎっしり何かが詰まった袋を取り出し、ミリミに手渡す。

 ミリミは怪訝な顔をしてそれを受け取ったが、中に入っているのが金貨であることに気づき、大いにあわてた。


「こんなに受け取れませんよ!」 

「いいんですよ。受け取って下さい」

「で、でも…………」

「その代わりと言ってはなんですが」


 青年の瞳が、一瞬だけ鋭く光った。


「ラヴオス伯爵夫人の行方について、何か知っていることがおありでしたら教えていただきたいのです」


 戸惑うミリミの代わりに、パリモが落ち着き払って口を開いた。


「クシフォ国の大抵の場所には足を運んだのですが、残念ながら伯爵夫人の姿をお見かけすることはありませんでした」

「そうなのですか。私はてっきりお二人が伯爵夫人と会うことが出来たために、一年前、この土地へ帰ってこられたものとばかり思っていました」

「そうではないのです」


 ミリミも金貨の袋を困ったようにつかんだまま、パリモのあとを引き取って言う。


「伯爵夫人様がいなくなられる前、私たちに言い残されたことがあります。それは『聖堂に寄付した財産は、息子がいつでも帰ってこれるように、館のあった土地に慈善院を建てるという用途に使って欲しい。慈善院には是非、息子の知り合いだったミリミさん、パリモさんや代理司祭様、その他近所の方々が常に暮らしていて欲しい。自分はにぎやかな人間界から離れる。ひたすらに刀剣神に祈る生涯を送る。殺された者たちの魂のために』と。きっと、会えなくてよかったのです。伯爵夫人様は静かな生活をお望みなのです」

「しかし……仮に息子が帰ってきたとして、ご夫人は息子にも会わないのでしょうか」


 それを聞いてミリミとパリモは目を見合わせた。

 ほんの一瞬のことだから、少女はその様子を見逃していた。

 しかし青年の方は見逃していなかった。さっとその頬に朱が差した。


「きっと、会われることでしょう! そしてあなたたちは、実は息子のニケさんが帰ってきた時、それをご夫人に伝える役目を引き受けているのではないですか? つまりご夫人の居場所を知っておられるのでは?」


 パリモはじっと青年を見つめてから、重い口を開く。


「もしそうだとしても……ごめんなさい。いずれにせよ旅の方、あなたにそれをお教えするわけにはいかないのです」

「そうなのです。どうかお気を悪くなさらずに。こちらはお返ししますわ」


 ミリミが金貨の袋を青年に押し返す。

 だが青年はくるりと玄関につま先を向けた。少女もそれに倣った。


「どうもお邪魔しました。決して気など悪くしておりませんよ。とても楽しい時間を過ごすことが出来ました。その金貨はどうか、みなさまの幸福のためにお使い下さい」


 そう言い残して、二人の客人は颯爽と去っていった。 

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