第24話
その名乗りは先ほどまでの片言ではなく、明瞭な口調でなされた。
それも少女アビオイ一人の声ではなく、大勢が唱和するような荘厳な響きをもっていた。
空間の歪みが閉じるとともに、剣アビオイの色が闇に映える。
それは――虹色だった。
一つの色に留まらない、地上に存在するあらゆる色が混合し、思わず魅了されてしまうほど鮮やかに光っている。
「お前の死を刀剣神アビオイがお望みだ。死ね」
――アビオイがニケに刃を向けた!
「くっ……!」
アビオイの動きは――速い。
身軽な少女の姿に違わぬ、鳥のように素早い襲撃。
刀剣神フィロソフォスの力を借りていなければ、とても防御出来なかったろう。
――グアオオオオン! グアオン! グアオン!
剣アビオイは細身だが、剣が交差するたび、とてつもない威力を発揮する。
銀色の火花が散り、狂犬の唸りのような不快音が繰り返される。
――グアオン! グアオン! グアオン!
「――フィロソフォスよ、力を!」
剣フィロソフォスから、まばゆい光の粒がニケの頭へ飛び込んでいく。
「アビオイ、お前の動きはすべて読める――!」
『真理領域』に導かれて、的確に攻撃を防いでいくニケ。
しかし身体が追いつかず、反撃に転じることは出来ない。
アビオイは容赦のない突き、払い、身を翻しての強烈な斬撃を繰り返しながら、
「……刀剣神アビオイより預言が下った。一、刀剣神フィロソフォスは『真理領域』に接近出来るが、人間のお前の頭がそれに長く耐えることは出来ない。二、刀剣神フィロソフォスの選んだ剣者のお前は、この地上にいてはならない――刀剣神アビオイの邪魔になる」
「――預言……!」
アビオイに下った預言が正しいことを、ニケは認めざるをえなかった。
確かに『真理領域』と通信することの出来る、刀剣神フィロソフォスの能力はこの上なく強力だ。
だが弱点もある。
長時間の使用が不可能なのだ。
人間の理解を超えた、神のみが干渉することの出来る領域に足を踏み入れるということは、人体にかなりの負荷をもたらす。
事実、剣フィロソフォスの力を発揮してからしばらく経っているため、ニケは疲弊している。
あと数分もしないうちに、体力の限界が訪れることを察知していた。
「いったいどういう聖剣なんだ、アビオイというのは……ぐはっ!」
ニケはすでに脳に焼き切れそうなほどの負担を感じ始めている。
視線はぶれ、目蓋は重くなり、わき腹を狙った攻撃をかわし損ねた。
血が飛び散る。
鋭い痛みが唇を歪ませる。
まだかすり傷で済んだが、さらに何回か刃を合わせるうち、致命的な一撃を受けてしまうだろう。
「限界が近い。かくなるうえは……」
ニケは刃を退けつつ後退する。
アビオイはそれを許さず、ニケが退く分だけ踏み込んで攻撃する。
「逃れられないか――なら仕方ない! 賭ける!」
決死の覚悟――ニケは防御を解いた!
両腕をだらりと下げ、剣の切っ先が地面につく。
死をも辞さない最後の賭け――ニケの意識は加速、刃の迫り来る光景は、時間の流れが停滞したかのように、ひどくゆっくりと映る。
敵の前で無防備になってまで選択した手段、それは――
「『真理領域』よ、示したまえ、剣アビオイの正体を、刀剣神アビオイの系譜を――!」
刀剣神フィロソフォスの息吹を耳元で感じながら、ニケは神の知恵の書庫へと意識を飛ばしたのだ――!
「――ぐああああああ!」
「お前は死んだ――」
――アビオイの刀身が、ニケの腹部の中心に突き立った。
ニケが『真理領域』に旅立ってから、一秒と経過していない。
その短い時間で、ニケは望み通り、刀剣神アビオイについての知識を得た。
しかし――その代償として、致命傷を負ったのだ。
「愚かな奴だ。知識の探究に溺れ、自ら死を選択するとは」
「……がはっ…………」
アビオイは剣を抜いた。
ニケの腹から、とめどなく鮮血が噴出する。
すでにニケの剣フィロソフォスは、純白の輝きを失っていた。
刀剣神フィロソフォスとの接触が断絶され、元の蒼色に戻っている。
「知に殉じた賢者たちとともに、地獄で永遠の責め苦を楽しめ」
アビオイはニケに背を向け、剣の血を払った。
もはや瞳に生命の色を失ってしまったニケは――
「……理解した…………アビオイ……『刀剣預言神系』の神々……」
死に際に獲得した知識。
それを赤黒い血とともに、口から吐き出す。
「あっけない奴だった。これで障害の一つが潰えた」
瀕死のニケ、倒れている部下を後に、立ち去ろうとするアビオイ。
月はいよいよ夜空の中央を占め、冷ややかな月光がその壮麗な姿を照らし出す。
「疲れた。三人の処刑は後ほど行う――今日は寝る」
「――いや、寝るにはまだ早い――」
「――!」
死にゆくはずの人間が、背後で語った。
はじめて表情らしい表情――目に驚きの光を浮かべ、アビオイは振り返る。
「なんだと…………!」
そこには地獄でしか見られないような、おぞましい死者のうごめきがあった。
半ば死に飲み込まれつつあったニケは――腹の致命的な出血、生命の流れ去っていくその傷口から――
――鮮血の色、紅に妖しく発光する、もう一振りの剣を取り出していた。
「――我が名は、我が剣の名は、
そして剣に宿る刀剣神の名は、『アイデース』。
死をも征服する、復讐と狂気の剣」
目覚めたのだ、ニケに宿っていたもう一方の剣、紅の刃。
ケパロス老人が恐れ、ニケにその善用を任せた凶器。
伝説では忘却牢獄シャトーディフの囚人の、無念の涙や血が地底にしたたり落ち、それが結晶したことで剣アイデースは造られたのだという。
牢獄で悲壮な復讐を誓い、並々ならぬ努力と克己で知恵を獲得、奇跡的に刀剣神との契約を成し遂げ、見事初志を貫徹し、脱獄してみせたニケこそ、もっともその呪わしき剣の使用者にふさわしいと言えるのかもしれない――。
「この剣は――よほどのことがない限り抜くことはない、と心に決めていた。私の師もそう望んでいた。だが後で気づいたことだが、よほどのことがない限り抜くことが『出来ない』のだ。なぜならこの剣アイデースは――私が致命傷を負った時、その傷からのみ出現するのだから」
ニケは紅の剣から生命力を吸収し、身体を回復させながら立ち上がった。
傷はみるみるふさぎ、出血も完全に止まった。
「ああ……この剣を握っていると、駄目だ、私の魂に刻まれた、復讐への欲望が一段と強化されていく。……よくも、『刀剣神アビオイ』よ、お前の野望のために、私の幸福な家庭を、そしてかつて存在していた多くの幸福な家庭を破壊してくれたな!」
「刀剣神だと……? 今、私のことを刀剣神アビオイと呼んだか?」
アビオイは瞳に驚愕を宿したまま、ニケに問うた。
「そうだ、お前は『刀剣神アビオイ』。先ほど『真理領域』に意識を送ったことで、それに気がつくことが出来た」
ニケの口から出てくるのは、喉からではなく、あたかも地の底から響くような声――。
「……お前は人間ではない。かつて人間だったものの肉体と魂を乗っ取り、あたかも人間であるように振る舞っているに過ぎない」
「…………」
「図星のようだな。『七剣人』の正体は、邪悪な神アビオイよ、お前が地上を支配するための、私兵の集まりだ。お前の神としての恐ろしさに魅入られた剣者が、憑かれたように仕えているのだ」
「…………そうだ」
――今や正体の明らかになった刀剣神アビオイは、乗っ取っている少女の顔を醜く歪ませ、笑った。
「我こそは刀剣神アビオイ。地上から人間を放逐するため、人間の姿を借りて現れた神。人間よ、いや……ニケとやらの肉体を通じて我に対面しているお前、復讐の神アイデースよ、我の邪魔をしてくれるな」
「私は……『まだ』刀剣神アイデースに飲み込まれてはいない!」
ニケが叫ぶ。
「だがそうだ、アビオイ、お前の言うとおり、復讐の念をいたずらに燃え上がらせる神、アイデースに意識を乗っ取られるのも時間の問題。そうなる前に、お前をこの地上から追い出してやる。……神々の都合で、人間の幸福を奪うというのなら――人間もまた、お前たちに抵抗してやる!」
「――人間の分際で!」
アビオイが動いた。
少女の肉体は独楽のように回転し、竜巻のような刃がニケに迫る。
ニケはそれを剣アイデースで受け止めるも、あまりの衝撃にふらついてしまう。
その隙を逃さず、ニケの首、鳩尾、大腿部を執拗に攻めるアビオイ。
防御するだけでニケは精一杯だ。
「所詮、人間の力などそんなもの。いくらアイデースの助力を受けていようが、我のような神そのものの動きには及ばぬ」
「人間には……人間のやり方がある!」
乾坤一擲、なんとか懐にもぐり込み、ニケはアビオイに体当たりを食らわせた!
華奢な少女の身体はよろめき、ニケにとっては幾ばくか時間の余裕が生まれた。
「人間は無力だ、無知だ。だからこそ知恵を蓄え、それを伝承する。偉大な人間たちといえども不死ではなく、必ず死んでしまう――しかし残されるものもある! その遺産こそが人間の力だ! 私は復讐に身を任せることはしない! 師ケパロスよ、知恵の守り神フィロソフォスよ、力をお借りします!」
「――我が刀剣神よ聞こし召せ、我が知恵の卓越、我が四肢の強靱、我が胸の憤激は、汝、理の刃を求めんとす――」
ニケの左手には、紅の剣アイデース。
そして今、右手に再び現れたのは――蒼き知恵の剣、フィロソフォス!




