第1話
武闘会の翌日、秋の安息日。
ニケ一家と老僕ムルートンはフィロソフォス聖堂へやって来ていた。
この日は地域の住民みなが聖堂に集まり、刀剣神に祈りを捧げる習慣になっている。農夫も商人も子供も老人も誰も彼も、決して広くはない聖堂の中で、心を一つにして神々へと思いを馳せるのだ。
「どうも旦那様、おはようございます」
「こりゃどうもラヴオス様、お世話様で」
「伯爵のおじ様、ごきげんよう!」
「おぼっちゃま大きくなられましたな」
「奥様もごきげんよろしゅう」
庶民たちは愛想良く、ラヴオス一家に挨拶を送る。
ラヴオス夫妻もそれに対して、愛情のこもった返事をする。
ラヴオス伯爵は民衆派の政治家として名高く、あらゆる階層の人々の尊敬を勝ち得ているのだ。
「まあ可愛いぼっちゃん。大きくなって」
一人の老婆が二ケの頭を撫でる。
ニケはくすぐったそうだが、されるがままになっている。
「ラヴオス様、こんな年寄りにも慈悲をかけて下さりありがとうございます」
老婆はニケを撫で続けながら、伯爵に感謝の眼差しを浴びせる。
「おかげで年金をいただけるようになりまして、なんとかやっていけそうなのでございます。一時は火事で全てを失い、もう生きていけないものと覚悟しました」
「それは良かった。政治家の使命は、困った方を救済することにありますから」
「滅多に出来ることではございません。特に昨今では心ない剣者たちが……」
「おっとお婆さん、刀剣神様の前ですからな。あまり俗世の愉快でない話はなさらないほうがよろしいのでは……」
「あら、わたくしとしたことが!」
ぺこぺことお辞儀を繰り返しながら、席に収まる老婆。
ニケの母であるラヴオス夫人が、腰の弱い老婆の着席を助けた。
この老婆以外にも数人の男女が、ラヴオス伯爵にお礼を述べたり、新しい政策の提案や懇願にやって来たりしていた。伯爵は誰に対しても丁寧に受け答えをし、どのような意見もぞんざいに扱わなかった。
そんな様子を眺めながら、農夫たちがささやき交わす。
「やはりラヴオス伯爵様は大したお方だよ」
「違いないね。あのお方のおかげで、この地域の老人は足腰が立たなくなっても飢えることなく、子供たちは向上心があれば必ず、学問をしたり技術を身につけたりする機会を得ることが出来るんだ」
「ああしたお方がいなくなったらどうなるだろう」
「今言ったのと反対のことが起こるのさ。老人は飢え、子供は放っておかれる。俺たちは税金に悩まされる」
そうこうしている内に、聖堂の奥の扉から、年老いた男の代理司祭が現れた。
人々は席に戻り、おしゃべりを止めて静まり返る。
「代理司祭」というのは、司祭の権利を持ってはいないのだが、本来の権利者に代わって司祭の職務を遂行する人間のことを言う。では本来の司祭にはどういった者がなるのかというと、「剣が選んだ者」である。
ここクシフォ王国では、優れた剣に神が宿ると信じられている。
剣に宿った刀剣神は、適切な使い手を自分の持ち主に選ぶのだ。人間が剣を選ぶのではなく、剣が人間を選ぶのである。
刀剣神の宿っている、聖なる剣を祭った施設が聖堂であり、その聖堂に祭られている剣に選ばれた者が「司祭」と見なされるのだ。
「剣」と「刀剣神」と「剣士」の三位一体は、この地上でもっともめでたく喜ばしいことであると考えられており、実際剣に選ばれた「剣者」は貴族の位を与えられ、聖堂の司祭の終身職を得ることとなる。
もっとも、刀剣神に認められて「剣者」になるためには、相当の修練と高潔な精神が必要だと言われている。
剣の扱いが上手くなれば必ず「剣者」になれるというわけではなく、その他、刀剣神しか知らない様々な基準があるらしいのだ。ちなみにラヴオス伯の友人であり、ミリミの父であるイフティムス男爵はまさしくその「剣者」である。
イフティムスというのは親に名付けられた名前ではない。彼の「剣」の名前だ。「剣」に選ばれた者は自分の名前を捨て、「剣」の名を名乗らなくてはいけないのだ。
「剣」の名称は「刀剣神」の名でもあるから、文字通り剣と神と人の三位一体が実現されるのである。
「お集まりのみなさん。ここ、フィロソフォソス聖堂に祭られているのは、聖堂の名の示す通り、知恵の剣フィロソフォスでございます。みなさんご存じのことと思いますが」
代理司祭の説教が始まった。
人々は心地よい静寂の中、歌うように発せられるその説教の声に耳を傾ける。
「現在、この老いぼれの私が代理司祭を務めていることからもお分かりいただける通り、今日、剣フィロソフォスに選ばれた者はおりません。しかし古代、フィロソフォスに選ばれ、剣の名であり刀剣神の名でもある『フィロソフォス』を名乗った剣者は、確かにおりました。どういった者たちがフィロソフォスに選ばれたかと言えば、古代の詩に謡われているように、
知恵の優れし探究者
愛智の気高き隠遁者
神と大地の業を知る
汝は仕えよ叡智の剣
知恵と真理を求め、かつ神々に対して謙虚であった人々だということが分かります。我々の時代、つまり現代では、人々は知恵などを獲得するよりも、よりたくさんの金銭や権力を得ることに躍起になっておると私は思います。だから剣フィロソフォスは、現代人の中から自分の使い手となる者を選ぶことが出来ないでいるのです。みなさん、私たちはこうして刀剣神フィロソフォス様に護られながら、日々の生活を送っております。感謝を忘れず、知恵への畏敬を忘れず、日頃の己の行いを反省しながら、祈りを捧げることにいたしましょう」
聖堂の椅子の横には、礼拝用の短剣が備え付けられている。
人々はそれを取り出して、鞘から刃を親指ほどの長さ引き出す。
そして代理司祭の、
「Philio lette nen! (古代クシフォ語:刀剣神よ護り給え!)」
という合図に合わせて勢いよく、少し露出させた白い刃を再び鞘に納めた。
ガチャリという、高らかな金属音が鳴り響く。
それはまるで刀剣神を讃える神々しい拍手のように、聖堂内に長くこだました。この瞬間こそ、人々は目をじっとつむって神の存在を確信し、信仰を新たにする神聖な一瞬なのだ。
だがしかし、まだ十二歳のやんちゃ盛りであるニケは、両親の目を盗んでミリミとパリモの姿を探していた。
「お説教が始まるまで、来てなかったからな、あの二人。きっと遅れて来たんで、後ろの方の席にいるだろうなあ」
席の背もたれに身を乗り出して、入り口付近の席を確認する。
「……いた!」
入り口のすぐ側の席で、ミリミ一家とパリモ一家は祈りを捧げていた。
パリモは大人たちと同じように、目を閉じて下を向いていたが、ミリミの方はミリミの方でニケを探していたらしく、ニケと目が合うとにっこり笑った。
「た・い・く・つ」
ミリミはニケに、声を出さず口の動きだけでそう伝えた。
ニケも面白がって身振り手振りで返事をしようとしたところ――
――聖堂の入り口に、三人の男が現れた。
「フィロソフォス聖堂ってのはここかい」
「そうらしいな」
「さびれたところだな。小さいし」
三人は並び立ち、じっと聖堂内を観察している。
中央の男は一番背が高く、細い体つきだが鋭い目つきをしていた。
ニケから見てその右側に立つ男は、背こそ低いががっしりした体格が肉体の屈強さを表している。
左側の男は二人の男のちょうど中間くらいの背丈で、中肉中背。
どの男も金色に輝く髪を持っており、貴族らしい品のよい、足下まで届く白いガウンを身につけていた。
安息日だというのに、あまりに不躾な態度で訪問してきた三人に、聖堂内の人々は冷たい視線を向ける。
「入り口で聖堂の悪口を言ってるよあの男たち」
「人の故郷の神様を悪く言うとは許せない奴らだ」
「いったい何の用事で来たのかしら」
入り口の付近にいたマクネス氏とイフティムス男爵は立ち上がり、応対に出た。
「どちら様ですかな? ただいま神へ祈りを捧げております。ご一緒にどうぞ」
マクネス氏の言葉を聞いた男たちは、顔を見合わせて笑った。
「ははははは。お祈りですか。あいにくそういう気分でないし、そういう目的でここまで足を運んだわけでもないのでしてね」
「ではいったいどういうご用件で?」
「こういう用件でして」
「――!」
入り口でのやりとりを見守っている聖堂内のすべての人は、ゾッと全身の毛が逆立つのを感じた。
金髪の訪問者のうち、真ん中ののっぽの男が、中空の何もない空間からおもむろに剣を引き抜いたのだ。
その剣というのは一見、金属というよりも宝石に近い素材で作られているようだった。
なぜなら柄から刃の先まで、黄水晶のように透き通った黄色をしており、刀身自体がぼんやりと発光しているように見えるのだ。
けれどもただの宝石で出来た剣というわけではない。それが何で出来ているにせよ、男はそれを手品のように何もない空間から取り出したのだから。
――このような不思議な剣を人々は知っている。
それはこのフィロソフォス聖堂に祭られている知恵の剣フィロソフォスや、イフティムス男爵の用いる剣である「イフティムス」などと同じもの――つまり、刀剣神の宿る、聖剣である。
そしてそれを自由にどこからでも取り出すことの出来る男は――聖剣に選ばれた、剣者なのだ。
「剣者の決闘の形式に則り、名乗ることにしよう」
透明黄色の剣を構え、男は前へ一歩踏み出す。
マクネス氏とイフティムス男爵は、一歩退がった。
「我が名は、我が剣の名は、
そして剣に宿る刀剣神の名は、『メルメラ』!
転変もたらす、恐怖と陰惨の剣!
イフティムス男爵、剣を抜くんだ」