第9話
ネストルは、ある物語に対してニケが微妙な反応を示すことに気がついた。その物語というのは、古代の英雄たちの仇討ちが題材となったもののことだ。父と母を殺した蛮族に、見事復讐を果たした勇士の叙事詩や、故郷を奪われた王が力を蓄え、武力で土地を奪還する話などを聞くと、ニケは少しだけ顔をひきつらせる。
ここでの生活に慣れ、暗いところでも目が利くネストルだからこそ、それを見逃さなかった。
それ以来ネストルは、積極的に仇討ちの物語を大きな声で読むようになった。昨日が古代の仇討ちならば、今日は現代の仇討ち、明日は異民族の仇討ちで、明後日は神々の仇討ちの伝説。その様子を見た人ならば、彼の老いぼれた頭のどこにそんな豊富なストーリーが詰まっていたのかと、強く疑問に思ったことだろう。
――そんなことを続けて、数ヶ月の月日が流れた。
「今日はこの辺にしておくかの。わしは眠くなってきた。坊やももう眠かろう」
いつものように物語を終え、酷使した喉を水で潤してから、ネストルは冷たい床に横になる。
牢に毛布は一つしかないので、ずっと横たわっていたニケの毛布へと、おけらのように潜り込んだ。
「ああ寒い。地熱のおかげか死ぬほど寒いというわけではないが、お天道様が懐かしくて涙が出そうじゃな」
ブルブル震えながら、自分の長い髪と髭をかき抱いて目を閉じる。
そのまましばらく静寂の時が過ぎた。
「………………」
「――――て」
「………………?」
ふと、覚醒状態と睡眠状態の幻想的な境界、あの現実と夢がとけ込むようなまどろみに陥ったネストルは、聞き覚えのない少年の声を耳にしたような気がした。
「――――して」
「………………ん?」
夢ならばどんな人間の声がしてもおかしくはない。死んだ者とすら会話することが出来るのが、夢だ。生きながらにしてこんな墓場に入れられてしまったのだから、せめて夢だけは愉快なものを見たい。
不審に思いながらも、そう自分を納得させてふたたび、まどろみの海へと泳ぎ出す。
しかし――
「――――っとして」
「…………なんだ…………?」
どうやら少年の声は、夢の大海の方角から聞こえるのではないらしかった。
「――――をもっとして」
「――夢か? 夢ではないのか?」
毛布をはねのけて、ネストルは起きあがった。
鉄格子の向こう側の様子を伺い、自分の住まいである牢の中を見渡す。
「…………やはり夢か」
声の主は見つからない。
ドロイ爺さんが来ている気配はないし、ここにいるのは自分とカビと壁、そして出会ってから何もしゃべったことのない子供だけなのだ。
「何もいるはずはないな」
隣や向かいの牢も無人である。
こんな深い階層までいれられる囚人はそうそういない。
「…………寝ようかの」
ふたたび身を横たえようとした時、
「――――もっと話、して」
「――――!」
今度こそはっきりと、自分の真下から声を聞き取った。
「お爺さん、もっと話をして」
「――坊や! しゃべれるのか!」
声の主は他でもない、ニケだったのだ!
闇の中でも光るように浮き出ている大きな瞳が、懇願するようにじっとネストルを見据えている。
「寝ずにもっと話をしろ、というのかい」
うなずくニケ。
「どんな話がいいんだね? 神々のお話かい?」
「違う」
「では人間の話かな」
「そう」
「人間の話にもいろいろあるからな。可愛い娘っ子たちの話なんておもしろいかな」
ニケは首を左右に振る。
「じゃあ古代の英雄たちの話かな。父親を殺されて、復讐を誓った勇士バルドローデスなんてどうかね。――どうやらこれがいいらしいね」
ネストルは急にしゃべるようになったニケに、いろいろと問いたいこともあったのだが、それをぐっと我慢した。
まだその時ではない。だが確実に、自分に心を開いてくれている。順調だ、と胸の中でつぶやく。
そして普段と変わらぬ何気ない調子で、物語を始めるのだった。
「あれは神々が人間を創り出して間もない時代の話だった――――」
*
「お爺さん今日も話を」
「分かった分かった。早起きなんだな坊やは」
「坊や……じゃない。ニケ」
「ニケ! ニケか。それが名前かい!」
「そう」
「良い名前だ! ニケ! 英雄みたいな名前だよ!」
「…………」
「わしの名前もな、『お爺さん』ではなくてな、ネストルというんだ」
「ネストル…………」
「そうじゃ、ネストル! ニケに物語を聞かせてやっている、この老いぼれの名は、この毛むくじゃら詩人の名は、ネストルじゃ!」
ニケが言葉を口にしてから数日後、二人は名前で呼び合うようにまでなった。
それだけでなく、これまでのようにネストルに介抱されなくても、ニケは自分から食事を採るようになった。
何がきっかけとなったか、どうやら生きる欲求を取り戻したらしい。
起きている時は、猫のように鋭い目つきで語り手の老人や壁を眺めているが、その瞳には以前と違い、何らかの意志が宿っているようにも見える。
寝ている時は寝息一つ聞こえないほど、死んだように静かだったのだが、時折、
「父上」
「母上」
などと、寝言を言うようになった。
それを見抜いたネストルは、徐々にニケの生命力を復活させていこうと、一方的にしゃべり続けるだけでなく、たまには質問を浴びせてみることにした。
「ネストル……もっと話を。復讐の話を」
「もうわしはしゃべり疲れてしまったよ。もっとこの老人を酷使したいなら、さ、ニケ、今度はニケの話をしておくれよ」
「…………」
「何か好きな食べ物は?」
「…………」
「どこの生まれだね?」
「…………」
「……まあいい。そろそろわしの喉も回復した。それじゃあ物語を再会するとしようかの」
ニケが質問に答えることは滅多になかった。
それでもネストルは辛抱強く、話しかけ続ける。
――その努力は、意外に早く実ることになった。
ある日の食事の時のことだ。
「そろそろニケよ、わしばかりにしゃべらせないで、自分のことを語ってみてもいいんじゃないかね」
「……どうしてそんなに、たくさんの話を知ってる?」
「わしがか? わしの下らないおしゃべりのことだな。なに、長く生きていれば、嫌でも多くのことを知るのさ」
「でもそれにしては、多い」
「そうかもしれんな。確かにわしは他の老人よりも、少しだけものを知っているかもしれんな」
「どうして?」
「どうしてわしが物知りかって? それは……知りたければ、ほれ、ニケや、自分のことを話してみい。そしたらわしのことも教えてやるからな」
「…………」
いつもならばそのまま黙り込んでしまうはずだった。
だがこの時、ニケは初めて自分のことについて口を開いた。
「――父上を殺された」
「…………ほう」
「聖堂でお祈りをしていて、三人の剣者が来て、父上たちを殺していった」
「………………」
「殺されたのは父上と、その友だちのマクネス様。イフティムス様。マクネス様はパリモのお父上で、イフティムス様はミリミのお父上」
一度漏れ出た言葉はやがて勢いを増し、止められないほどの激流となっていく。
初めは断片的な語り方だったのが、次第に順を追って事件を整理するようになり、最終的にはかなりすらすらと出来事の全容を描写してみせた。
ニケの小さな口からとめどなく溢れ出る言葉をせき止めることなくネストルは、うんうんとうなずいたり、瞳で同情を表しながら最後まで聞き通した。
「初めは……イフティムス様がやられた。一番背の高い奴のおでこを斬りつけたけど、胸を斬られちゃった」
「次にマクネス様が刺された。ぼくを動けなくした背の低い奴が、マクネス様を刺したんだ。最後の力で反撃したけれど、そいつの頬に切り傷をつけただけだった」
「二人が死んでしまってから……最後に、父上が、ラヴオス伯爵がやられた。ぼくに最後の言葉を遺して、お祈り用の短剣で中くらいの背の奴に向かっていったけど、殺されてしまった」
「ぼくは気を失ったけれど、次に目を覚ました時、知らない馬車の中にいた。そこには父上たちを殺した剣者たちが乗っていた。縄で縛られて身動きはとれなかった。停まっていた馬車が動き出してすぐ、窓にぼくの母上の顔が映った。必死にぼくの名前を呼んでいたけど、いなくなった」
「それから先は――あんまり覚えてない。ただ暗闇の中で、ネストルおじいさんの話をずっと聞いているだけだった……」
ネストルはなぜまだ子供のニケが忘却牢獄シャトーディフへ、それも自分の閉じこめられている最深部の方へ送られてきたのかを理解することが出来た。
「辛かったな………………ニケ」
苦しそうに告白したニケを、髭の中に抱き寄せる。
「目の前で父親たちの死を見せられ、母親とは離ればなれにされ、何も知らぬまま、殺人者たちの手でこんなところへ連れてこられたとは……!」
老人の胸のなかで、ニケは思い出したように言った。
「ところでここはどこ?」
「――なんじゃと!」
ネストルは驚いて、ニケの顔をじっとのぞき込む。
「ここがどこだか、分からないだと?」
「うん。暗くて寒いけどどこなの?」
「――おお! この子は自分がいったいどこにいるのか、今までそれに気づいていなかったのか!」
ネストルは天を仰いだ。
「わずかばかりの慈悲がおありなら、聞こし召せ、各地に散らばりたる刀剣の神々よ! 人間の造り出した中では、もっとも巨大でもっとも悲惨なこの墓場の内部に! 世にも哀れな子供が葬られていることをお忘れなく!」
嘆息するネストルを、ニケは不思議そうに見つめる。
「――?」
「ここはな、ニケ」
「うん」
「忘却牢獄シャトーディフというところだよ」
「……シャトーディフ」
「知っているかい」
「……うん」
「そうだろう。この国の昔話には、必ずシャトーディフだ出てくるからな。きっと母上に読み聞かされた物語の中にも、シャトーディフの名前が出てきたに違いない」
「出てきた」
「うむ。してここは他でもない、そのシャトーディフなのだ」
「生きて出た者はいないという……?」
「ああ、ああ、そうとも!」
ネストルの頬を涙がつたい落ち、髭にしみこんでいく。
「どんな力持ちであろうとも、知恵者であろうとも、ここから出た者はかつていなかったのだ! ああニケよ! この老人ネストルであれば、残りの人生など知れたもの、この岩壁の地下で尽き果てたって構わないのだが! まだまだ先の長い、君の命は別だ! このまま子供の人生が、真っ暗な土の中で朽ちてしまうなど、あってはならんことだ!」
「出られない…………?」
ニケは自分を固く抱きしめるネストルの嘆きを聞きながら、小さくつぶやく。
「いや、出てみせる……」
もはや叫ぶようにして号泣するネストルは、不思議とそれを聞き逃さなかった。あたかもわざと大げさに嘆いているのであって、実際は、ニケの表情一つ見逃さないように気を張っていたかのように。
「出られないのだよ、ニケや。悲しいことだが!」
「出たい…………」
「そりゃ出たいだろう! まだ若いのだ、外に出てなんだってしてみたいだろう!」
「…………したい」
「……ん? そうだろう、やりたいことは色々あるだろうが、特に何をしたいんだね?」
「…………復讐」
「――復讐!」
ネストルは素っ頓狂な叫び声を上げた。
「こんな子供に復讐を決意させる、愚かな世の中よ!」
「復讐したいんだ」
「そうか! だからわしから、古今東西様々な復讐の物語を聞きたがっていたんだな」
「…………」
「だがなニケ――」
急にトーンダウンして、ネストルはニケの耳元でささやくように言う。
「――諦めなさい。出来ないことを夢見ていても、それは辛いだけだから」
「……だ」
「え?」
「……いやだ」
「いやだ、というと、つまり……?」
「復讐する、必ず」
「――そうか、そうか。分かった。でもなニケ、どうやってここから逃げ出すんだね?」
「………………」
「知っての通り、わしの物語に出てきたクシフォ王国の勇士たちにしても、一度ここへ投獄されてしまっては、二度と地上へ這い出た例がないのだ」
「でも…………やる」
これまでに見せたことのない、強い意志の閃きをニケは瞳に宿していた。
「やってみせる」
ネストルはその目の光をみとめると、
「ではもうわしは知らん。あとは好きにするがいいさ」
と言って、ニケに背を向け寝ころんでしまった。
そして自分にしか聞こえないように、口の中でこうつぶやいていた。
「――やはり順調だ。わしの思い通りになってきてるわい。ニケは生きる欲求を取り戻しつつある。あとは正しく誘導してやるだけ…………」




