マインドノート
【1.プロローグ】
「私はこんな現実を知りたくなかった」
目覚めたばかりの沢渡 美耶は暗い病室で立ちすくみ、呟いた。
肩までのショートヘアが、つぶやきとともに揺れる。
視線は暗く、隣のベッドで横たわる人物に向けられるが、彼女の瞳は涙で濡れ、視界をぼやかし、その現実と間に壁を作る。
「私は私なんだから...」
唇をかみ、涙を拭くこともなく病室のドアを開けると、途端に蛍光灯の光が明るく差し込む。
"コツンッ"
廊下に彼女の足音だけが寂しく響く。
美耶は正面玄関には向かわず病院の裏口へと足を運ぶ。
1年も入院していた病院ということもあり、その道順に迷うことはなかった。
"カチャ"
裏口から出た美耶は辺りを見回し、人の気配がないことを確認してから腕にかけたフード付のコートを羽織った。
ボタンを締め、不意に見上げた美耶の顔に粉雪が落ちた。暗闇の中、わずかに街頭の明かりに照らされながら、白く落ちるその雪を美耶はしばらく見つめ、そしてフードを深くかぶり顔を隠す。
足元は既に深く雪が積もっていた。
昔はこの雪を踏みしめる感覚が、とても好きだったと"覚えて"いる。でも今はその過去が自分を苦しめていた。
美耶は一歩ずつゆっくりと歩く。自分が感じている感覚が、過去のそれと本当に同じものであるかを確認するように。
美耶の姿が夜の暗闇に消えるまで、まだもうしばらく時間がかかりそうだった。
【2.雪の街】
2-1
二月。
東北にあるこの街は中央に大学を置き、周辺を都市が囲う。
また高速道路も面しているが、この時期は深い雪で覆われることもあり交通は電車に頼っていた。
朝のバイトを終えた山崎 浩司は、小雪の振る中、大通りを避け足元の雪を気にすることなく歩いていた。
この街は大通りを一つ外れると閑静な住宅地になり、朝のこの時間は特に人通りも少なくなる。
山崎浩司のアパートはこの通りを進み、小川を越えたすぐ先にあった。それを渡るための小さな橋が視界に入るが、それもまた雪が覆っている。
浩司は、この小さな橋が気に入っていた。
飾りもない橋だったが、一人そこから眺める小川は美しく無為にここで時間を過ごす時間は気持ちがよい。
今日もいつもと変わらない、小川に視線を移しアパートで軽く一眠りして今日の授業に出る。いつもの習慣に従おうとした浩司は、誰もいないと思った橋の上に人がいることに気づいた。
コートをまとい、フードを深くかぶった小柄な姿。
珍しいな、と浩司は思いながら通り過ぎようとしたとき、その二人の間に風が吹き込みそのフードを払う。
浩司はその光景に足を止めた。見知った女性の姿がそこにあったからだ。
「沢渡、、、さん?」
浩司は思わず声をかけてしまった。
見間違えるはずがない、志望校を一つに絞り不眠不休で勉強した成果で受かったこの大学、そしてあの場で彼女と出会ったことを忘れはしない。
しかし、きっと彼女の記憶には残ってはいないのだろうと浩司は思う。
「山崎君?」
美耶は自分に声をかけた相手の顔をしばらく見てから、顔を赤らめながら声を出す。
その声は驚きとも、羞恥とも取れるような複雑な感情を秘めた声だった。
美耶は彼の顔と名前は知っている。同じゼミに出ている男子だ。
特に個人的に話したことはないはずだったが、こんな姿を見られてしまった事に美耶は恥ずかしく感じていた。
昨日の夜、美耶は生まれ育ったこの街を、家に帰ること無く夜の街を彷徨い続けていた。
不思議に寒さは感じず冬の朝を向かえ、この場所で小川に反射する光を美耶は見て動けなくなっていたところを、浩司に声を掛けられたのだ。
「沢渡さんがこんな時間にここにいるなんて珍しいよね?」
浩司は、軽く頭をかきながら話す。
美耶は無言のままだったが、浩司は彼女の心境も心境もつかめず、話を続ける。
浩司は真剣だった。
こういった機会も無いとまともに話せなかったからだ、あのときから。だから引き下がらず会話を続ける。
「まだ今日の授業がはじまるまでは、かなり時間あるけど、散歩とか?
でも佐渡さんの家って逆方向だったよね、、って、、あっ、、」
浩司はできるだけ会話を続けるようにしていたが、美耶の表情が曇っていることにやっと気づいた。
浩司が知っている美耶はどんなときも笑顔を絶やさない。
それが今日に限ってはその笑顔は見られず、ただ沈んだ表情をしているだけだった。
美耶はゆっくりと視線を浩司に向けた。
「ごめんね、山崎君。私、、」
美耶が会話を続けようとしたとき、黒塗りの車が橋の上に急停車した。ドアが勢いよく開き、中から黒いスーツを着た男たちが現れる。
「やっと見つけましたよ、さあ我々と来てください」
リーダー格と思われるやや細めで長身の男が美耶に向かい言う。
呆然としている浩司とは違い、美耶は肩が振るえ、その男たちから半歩足を引き、後ろに下がる。そして、力なく口を開いた。
「私は戻らない、あそこは私の帰る場所じゃないから!」
男たちは一瞬困ったといった表情をしたものの、すぐに美耶を囲むようにし片手をつかんだ。
「困りますね、お嬢様。一緒に来ていただかないと。。」
「いやっ離してっ、あなたたちに私を束縛する権利なんてっ」
男の手に力が入るが、その手は鈍い音とともに、自分の顔を覆おうことになった。
「ぐあっ」
男の額から赤い血が流れ落ち、鈍い音が響いた。
振り返った美耶の目に同じように他の男たちも頭や鼻を抑えている姿が映る。
「沢渡さん、こっちだっ」
再び振り返った美耶の前にはいくつかの石を抱え、今にも投げつけようとしている浩司の姿があった。
美耶はその場から這い出るように逃げ出し、浩司に向かう。その美耶の手を浩司は出来るだけやさしく掴み、引き上げた。
「走るよ!」
浩司の言葉に美耶は無言で頷く。今はなんでもいい、この場所から逃げ出したいと美耶は思っていた。
男の一人が血にまみれた顔を抑えながら叫ぶ。
「こらっ、待てっ!」
男の声が響いたとき、突風が雪とともにその間を遮りホワイトアウトのように彼らの視界を遮る。
再び視界が戻っときはもう、浩司と美耶の姿を見つけることが出来なかった。
男は顔をゆがませつつ、携帯を取り出す。
「申し訳ありません、美耶様を取り逃がしてしまいました。・・・はい、分かりました。では私達はここまでとして、戻ります。で、後任は・・・・」
男の携帯を握る手に力が入り、口の端がゆがむ。
「はい、では」
切ると同時に、男は携帯を雪の積もった地面にたたきつけた。
「ふざけるなっ、我々があんなものより劣るというのか」
男のコブシは強く握られ、爪の間から血が滲んでいた。
2-2
部屋に電話のベルが鳴り響いた。
部屋は整理されているが、一つの机の上だけは写真、書類、書物の束が無造作に積まれている。
鳴り続ける電話を、男がめんどくさそうに取り上げた。
「はい、柳ですが、、」
柳 真一、これが彼の名である。この街にある大学の付属病院、教授、45歳、これが彼だ。柳は電話の相手の声を少し嫌煙するかのように聞き入っていた。そして、疲れた声で答えた。
「分かりました、お嬢さんは私が探しましょう。ええ、丁度よくあれが定期チェックで戻っていますので。なぁに、大丈夫ですよ。ええ、術後の経過も順調ですし、こちらはいつでも作業を行えますよ」
柳は電話を切り、内線をかけなおした。そして椅子に深く腰を落とし、手を額に置き何かを確かめるかのように何度が瞬きをする。
"コンッコンッ"
部屋のドアが鳴った。
入れ、と柳が短く言う。
ドアが開き、小柄な姿が現れる。頭から黒いフードをかぶり、同じく黒いコートが頭から足先までを覆っていた。
「ジュリア、仕事だ。なぁに簡単な仕事だ、人探しだ」
ジュリアと呼ばれた、黒く身を包んだ姿の口先が動く。
「人探し?私がするほどのものとは思えないが」
落ち着いた、いや無感情とも言える、女の声だった。
「彼女を探すのは、君が適任だと思ったからね。戦地から帰ってからしばらく間も空いたし、軽く感を取り戻すのには丁度いいだろう」
「分かった」
ジュリアはしばらく考えてから一言答えた。それを見た柳はにんまりとし、椅子から気だるそうに立ち上がる。
「なんといっても彼は私のスポンサーだからね、下手な扱いは極力避けたいのだよ。もちろん君の今の勤務先もそうだけどね」
めんどくさいといった感じに柳は頭をかく。
ジュリアは黙って柳の話を聞く、柳の口まだ止まらない。
「どんな研究も先に進むためには、スポンサーが必要だ。もちろん我々も変わりない。この研究は大きな金となって返ってくる。なぁ?」
と、柳はジュリアを見つめなから言う。
「それは私の仕事ではない。確認するが、手段は選ばないということでいいな」
「ああ、かまわないさ。しかし取り扱いには気をつけろよ、大事なお嬢様だからな」
柳は、自分の頭を指でつつくようなしぐさで答えた。
「承知した」
ジュリアは柳に背を向けドアを開けた。鈍い音が一瞬し、ジュリアが出るとともに静かにドアが閉まる。
柳は再び深く椅子に腰掛けながらそれを見ていた。
「まだまだ油が足りないか。。」
軽くため息をついた柳は、瞼を閉じ闇の中へ落ちた。
2-3
息が荒く、白く湯気が上がる。過呼吸のように彼の肺は酸素を求める。
自宅のアパートのドアにもたれながら、浩司は胸が今にも押しつぶされそうになっていた。
たいした距離は無かったが、浩司は無呼吸で走り続けあの場所から逃げ、その結果激しく肩で息をする。
彼のそばにはもう一人いた。
「大丈夫、美耶さん?」
美耶は浩司の隣で座り込み膝に額を付け、静かに言う。
「大丈夫、ありがとう。助けてくれて、本当にありがとう」
美耶は、息を切らせることなく言葉を出した。浩司は自分の体力の無さと、美耶の普段と違った冷静な態度が悲しく思う。これほど全速力で走ったのは久しぶりだった。大学に入ってからろくな運動もしていない浩司は、まだ呼吸が戻らないでいる。
暗い玄関の内側、明かりを付けることも無く二人は玄関に座ったままの時間を過ごす。
「お邪魔します」
美耶はその言葉とともにブーツを綺麗に揃え、浩司がすすめるまま先に玄関を上がった。
浩司はどうしてこの環境がこんな状態でしかありえないのかを、考え、嘆いた。
彼女は浩司にとって憧れの存在だった。
頭をドアにもたせさせ、浩司は始めて出会ったときを思い出す。
二年前の春、電車を避けあえてタクシーで大学に向かったあの日、何の悪戯か道路は車両事故で大渋滞となってしまった。
途中電車を乗り継ぎ、大学に着いたときはもう二十分ほど時間が過ぎていた。
こんなスタートがあるものかと浩司は大学の門の前で悔しく思いそこを超えられないでいたが、不意にその背中を押され浩司は一歩進んだ。
足を止め、驚いて振り返った浩司の目に映ったのは、一人の女性の笑顔だった。
「新入生がこんなところで何しているの?さっさと前へ進みなさい、もう式は始まっているわ」
「なんだよ、君も新入生だろ?こんな所にいてていいのかよ、君も行くんだろ?」
浩司は少しふてくされて言う。それを聞いた女性はすこし困った顔をして答えた。
「確かに私は新入生なんだけど、受かったのはあなたより一年前だからね。気分だけ味わいたくてここにいるの。」
女性は両手を上げ、落ちてきた花びらを手のひらに乗せる。
「ほら、ここは桜の木がたくさんあってね、この季節はとっても気持ちがいいの、そして春しか感じられない。あなたの式なんて同じ春でも一度だけしかないものだからね。早く行ってきなさいよ、ちょっとの遅れなんて気にしないこと」
浩司は再び背中を押され、そしてそのまま走り出した。女性はそれを見送ってから、ゆっくり振り返り桜の花びらを握り締め歩き出す。
この遅れで浩司は他の生徒の注目の的になったが、色々含め彼にとっては忘れられない式、そして出会い。
その日はもう出会うことは無かったが、翌日同じゼミで再び彼女の姿を見た浩司の感動は大変なものだった。
それが、沢渡美耶だった。
しかし、彼女は浩司の顔を見ても覚えておらず、それに気づいた浩司の激しい落ち込みは例えようの無いものだった。
それから軽く話すことはあっても一緒に遊に誘うようなことも無く、度胸が無いといえばそれまでだが、彼女がある資産家の娘であったことを知ったせいもある。
浩司にとっては、自分の手が届かない相手として彼の目に映ったからだ。
そんな沢渡 美耶が、今は自分と並んですぐそばにいる。
「ごめんね山崎君、迷惑かけてしまったよね」
顔を下に向けたまま美耶は言い、
「ありがとう、とても嬉しかった。でも少し落ち着けたらすぐに出るから」
何度かの深呼吸と、アパートの低い天井と窓の外の雪景色に視線を移しながら、しばらく美耶は無言でいた。
5分ほどそうした後、美耶は急に立ち上がり、玄関で再びブーツを履き、ドアをゆっくりと開け外を伺う。
「沢渡さん、どこへ行くつもりだよ、良くは分からないけどまた、さっきのやつらが君の事を。」
浩司は片膝をつき心配そうに美耶を見上げる。美耶の顔は沈んだままだった。
「これ以上迷惑はかけれないからね、そんな顔しなくても、、」
美耶は浩司の顔をしばらく見つめ、そしてすこしだけ優しい目になる。
「そっか、あのときの彼、山崎君だったんだね」
「沢渡さん、、」
また浩司は勇気が出なかった。
今は彼女を支えたい、そんな気持ちだったはずなのに、その言葉を掛けることも出来ないへたれな自分に嫌気がさした。
もう美耶はドアの外へと消えていた。鉄のドアはゆっくり閉じられ、浩司は一人闇の中に残される。
そんな浩司に、
「はやく次の桜が見たいよね...」
風に流れて美耶の言葉が届いた。浩司は闇の中、まだ動けないでいた。
【3.暗闇の逃亡】
3-1
「ふざけるなよ、本当に、、」
暗い室内に一人いた浩司は、もっと酸素がほしい、と息を大きく吸い込む。
肺から毛細血管、血液から各器官に酸素が運ばれ、やっと浩司は立ち上がることができた。
「沢渡さん、俺が見たいのはそんな顔じゃないんだよ」
浩司はドアを開け、外へと飛び出す。そして勢いよくドアは閉まり、鉄の音を響かせる。
外は一面、雪で白化粧をされていた。
あれから何分たったかわからないが、雪は大粒となりすでに二十㎝は積もっている。走る浩司にとってはその雪は足かせにしかならない。
美弥の姿は彼の視界には入らない。美弥の向かった方向もわからないまま、浩司ただ闇雲に走ることしかできなかった。再び、体が酸素を深く要求した。
「どこにいったんだよ、沢渡さん...」
浩司は大通りにでていた、この雪のためか人影はまばらで、街は寂しい姿を作り出している。
通りの電光掲示板には、スリップ注意、チェーン着用といった言葉が光っていた。
この大雪で交通網が麻痺していた。残った交通網はこの近くでは地下鉄ぐらいだったが、一部地上に出ている区間があることを思い出し、浩司は地下鉄も使えない状態だと感じていた。
なら、彼女はどこへ行ってしまったのだろう。交通機関を使えないとなれば、その行動範囲は極端に狭くなる。
隠れるにしてもそんないい場所がこの近くにあるとは思えなかった。
雪を踏みしめ浩司は美弥を探す。
さらに雪は強くなり、風も出てきた。これで屋外にいることなどは考えられない。
寒さ、せめて風や雪を避けることができる場所で人目につかない場所、そんな場所がこの近くになんてあるはずが。
「あった」
足を止めた浩司の目の前にあったのは地下鉄の構内への入り口だった。
この雪のため、地下鉄は運休しているらしく入り口のシャッターは下りていた。
いや正確には、下から三十㎝ぐらいの隙間が開く形で降りている。
ここだ、と浩司は思った。
浩司は体をその隙間に滑り込ませ中へと入る。その中は薄暗い明かりだけが光っていたが、歩けないことはない。周りには人影も気配もなかった。
駅の改札が見えてきた。ここにもやはり人がいなかった。本当なら誰かいるはずだろうが、点検か何かで出払っているのかもしれない。
「雪だ」
改札機にわずかだが雪が付着していた。
「佐渡さんは、中に入ったのか」
浩司は、改札機を潜り抜け、さらに地下にあるホームへと急ぐ。走る音が地下に響いた。その足音が一人分であることを浩司は理解する。
「いない、一体どこへ...」
ホームに来た浩司は端から端まで、美弥の姿を探したがその姿を見つけることができなかった。
電車に乗った、いやそれはないはずだ。電車が動いている様子なんて見られない。
暗闇に続く線路にも、電車の走る音なんてものは聞こえても来ない。
"カツーン"
ごく小さな音が一瞬鳴った。それを浩司は聞き逃さない。
大きく振り返った浩司の視線の先は、先ほどの暗闇に続く線路があった。
「まさか、冗談だろ」
浩司は迷うことなく、線路に飛び降りた。普通なら考えられない行動だったが、浩司はそのまま暗闇に向かって走り出した。
「うわっ」
なにかに躓き、浩司はコンクリートの地面に倒れこむ。
さすがに危険だ。せめて明かりのひとつでもあればと思い、ポケットをまさぐる。
「あった」
それはLEDのランプがついたキーホルダーだった。その先にはアパートの鍵がついている。スイッチを入れるとわずかであるが、白い明かりが放たれ視界を暗闇から解き放つ。
「これでどうにか先にすすめるぞ」
浩司は、その小さい光を頼りに、線路を歩き続けた。美弥がいる保証はないが、ここにいるに違いないと考えることにした。
あんな分かれ方だけはしたくなかった、どうせ別れるならまだ笑顔で別れた方がいい。
浩司がそう思った瞬間、そこに小さな膝を抱えた人影をLEDの明かりは照らしていた。
「沢渡さん、やっと見つけたよ」
3-2
「ジュリアからの連絡は入ったか?」
柳の声が、広い無機質な部屋の中に響いた。
周りはたくさんの機械が配備され、何かの研究員らしく白衣に身を包んだ男たちが数人、またその部屋の向こうにはカラスで仕切られた別室がある。
「いえ、まだ報告はありません」
研究員らしき男の回答を柳は目を細くして聞いた。
「お嬢様の生体情報はジュリアには登録済みのはずだったな、地上であれは半径10km圏内は補足可能なはずだ。、、、となると、地下か」
柳は視線で合図を送る。
「ジュリアに指示を送ります」
その声とともに、スピーカーが鳴った。
「地下に降りれば良いのだな、でも暗視スコープは持参していなかったが」
ジュリアの皮肉めいた声がスピーカーから返ってきた。それを柳はやろやれといった感じで答える。
「君の能力であれば問題ないでしょう。さっきも言いましたが勘を取り戻す練習と思ってほしい」
瞬間、"バリバリッ"とスピーカーから金属の引きちぎられるような音が響いた。
「何をしたジュリア!」
柳はマイクに向かって叫ぶ。
「地下へ降りる丁度いい入り口を見つけたが、生憎塞がっていたので、こじ開けさせてもらっただけだ。手段は選ばなくて良いのだろ?」
スピーカーから、わずかに笑い声かと感じる声が流れる。
柳は片手で頭を抑え、マイクを握る。
「手段は選ばなくてもいいといったが、勝手に破壊してもいいとは言っていない。まあ、これは米軍に請求させてもらうことにするがな」
"プツッ"と音声が途切れた。
「さて、後は待つだけか」
柳は、ガラスで仕切られた別室の側まで歩み寄る。
そこには、ベッドで横になる一人の姿があった。頭は包帯で巻かれ、人工呼吸器による酸素吸入を受けている。
呼吸は一定で、機械のようにも映るが、その顔ははっきりとしない。
「さて、早く目を覚ましていただきたいのは山々だけど、差分が無いとスポンサーが激怒するするからね。しばらく待っててくださいよ」
柳は横たわる人物に向かって語る。
「しかし、どうしたものだろうね、今のままでも良いような気もするのだけど、親心というやつか。あまりに偏り過ぎているともいえなくはないが、それがプラスかどうかわからないけども、まあこちらはその結果いい素材を手に入れて、さらに研究を発展させることができたわけだが」
柳は沢渡 美弥の父親をスポンサーとして、ある研究を行ってきた。
この研究の最中生まれた素体は各方面に好評であり、金となった。また、この結果を論文にすれば自分の地位は大きく変わる。
こんな病院の枠内で収まる事もなく、もっと大きい舞台に出ることができる。
別室の中に入った。ただ、今の柳には気になる点が一点だけある。
この横たわる人物、呼吸はしているがまるで植物状態のように反応がない。目は覚まさないが一定の刺激を与えても、脳波に一切波が現れないのだ。
それが"沢渡 美弥"が戻ることですべて揃うと柳は考えている。このデータの集計、またそこから回答を出すには多くの時間がかかることになるだろうが、それは仕方ないことだ。
すべてを理解できないまでも、答えを求めることができる今の自分に、柳は今感謝していた。
3-3
沢渡 美弥には、二つの現実があった。
今ここにいる自分、そして、それまでの自分。それは全く同一のようでそうでは無かった。
現実というのは常に厳しいものだということぐらい、美弥は誰よりも体感して分かっていた。
昔から病弱で学校よりも病院に通った日のほうが多かったこと、授業が受けられず必死に独学で学んでいた高校時代、大学受験を乗り越え受かった感動、そして一年の入院と共に本当は同級生だったはずの人たちが上級生になってしまったこと、春なのに見上げた桜の木がとても悲しかったこと。
そんな現実でも美弥はとても楽しむようにした。退院してから二年、体は嘘のように丈夫になり、憧れていた普通の生活を送ることができた。たった一人の肉親である父親も非常に喜んでくれた。
「笑顔でいられることは本当にいいことね」
それが美弥にとっての希望となり、現実だと考えていたのだ。
「沢渡さん」
美弥の意識はその声に思い出から"現実"に戻された。
周りは暗いが、自分を照らす白い光が見える。そして自分を心配そうに見つめる顔がそこにあった。
この人のこんな顔を見るのはこれで二度目ね、と美弥は思う。
「良かった、無事で。さあ、立ってこんなところにいるといつ電車が来るかわからないからさ、次のホームまで急ごう」
浩司は美弥の手を差し伸べる。
「どうしてここに? 私にはこれ以上、関わらないほうがいいよ、山崎君」
それでも美弥はその手を握り返して、立ち上がった。浩司の顔は少し赤くなる。
二人はわずかに照らされた線路を並んで歩いていた。互いに言葉も無く歩く。
浩司は美弥の表情を暗い中で見つめていた。
「こんなときに言うのもなんだけどさ、沢渡さんは笑っていたほうがいいよ。実は俺は沢渡さんの笑顔がとても好きなんだよ」
浩司の言葉に美弥は振り返り、そして顔を地面の線路に向けた。
「私ね、変かもしれないけど昔は笑うのことが苦手だったの」
美弥の表情は伺えない。
「そうなの?でも俺の第一印象は、笑っている佐渡さんだったんだけどな」
その言葉に美弥は軽く首振り、浩司に視線を向ける。
「知ってる? 私に笑うきっかけをくれたのは、山崎君だったんだよ」
目を細め、少しだけ感情を載せた言葉だった。浩司の足が止まった。
「あの日はじめてあったとき、私は今にも泣き出しそうだった。自分の現実がとても悲しくて。でもそんな時、私よりも悔しい顔をして立っていた山崎君を見たの。なんだ、自分もそんな顔をしていたんだって思ったら、気がついたら笑っていたの」
美弥は続けた。
「この人の遅れはちょっとだけ、まだ取り戻せる。だから押してあげないと、ってあの時思ったの。それが私の初めて笑う事が好きになれたきっかけになったの」
浩司は、ライトを美弥の顔に向けた。
「沢渡さんの遅れもちょっとだけだよ、ちょっとだけ俺よりも遅いだけだよ。だからまだ間に合うって」
美弥は笑顔でもなく、悲しい顔でもなく見つめ返す。
「うれしいな、ほんと。でも、私のこの記憶も感情も作り物のフェイクだから...。もう進むことも、間に合うことも無いの」
「沢渡さん、どういう意味それ?」
浩司が美弥の肩をつかもうとした瞬間、光が二人を包んだ。電車のライトではない。
黒い姿に身を包んだ一人の人物が二人に対してライトを当てていた。
「見つけた」
それは、ジュリアと呼ばれた彼女だった。
「かくれんぼはもう終わりだ。一緒に来てもらおう、"沢渡 美弥"」
ジュリアは美弥に近づき、その手をきつく掴む。美弥に激痛が走った。
「痛っ」
それを見た浩司はとっさにジュリアの手を離そうとするが、引き剥がすこともできない。
異常な力だった。
「おまえ何すんだよ、その手を離しやがれっ!」
勢いあまった浩司の手はジュリアのフードを捲り上げ、もう一方の手に持っていたライトを弾き飛ばした。ライトはコンクリートの地面を転がり、下から三人の姿を照らし出す。
「離せって言っているんだよ、てめえ!」
浩司がジュリアに拳をあげたが、しかしそれはジュリアに当たることなく宙で静止する。浩司は何かの錯覚かと思った。
何故、ここにもあるんだ、その顔が。と浩司は自分の中で自問自答する。そんな浩司に対してジュリアは軽くもう片方の手を浩司に振るう。
「邪魔だ、お前」
浩司は弾き飛ばされ、コンクリートの地面に背中を打ち付けさせられた。
その激痛に再び呼吸ができなくなった浩司は、それでも信じられないといった顔でジュリアを見つめた。
そこには彼が見間違うはずのない、"沢渡 美弥"がもう一人いた。
【4.心の宿りしモノ】
4-1
今から三年前になる。
受験を無事終えた沢渡 美弥は、受験の疲れか、頭痛の程度が徐々に強くなり、そして激しい嘔吐に苦しむようになった。
父親は美弥を病院で検査を受けされたが、その絶望的な診断結果は父を苦しめた。
悪性の「脳腫瘍」との診断結果が下されたのだ。
化学療法は難しく外科療法による患部の全部摘出が必要だったが、この当時の医術では腫瘍を摘出することは厳しく、美弥は余命三ヶ月の宣告を受ける。
娘をどうしても助けたい父親は、美弥が入院していた大学病院の教授であった柳のスポンサーとなる契約をすることで、手術可能な医術が見つかるまで美弥の体を冷凍睡眠させることにした。
また、眠り続ける娘を不憫に思った父親は、柳に姿形が美弥と瓜二つな素体を作らせた。
柳は美弥の記憶、感情を彼が実験中の機械を用いデータ化、その作られた美弥の素体にデータの移植。
これは未発表ながら、感情、記憶のデータ化が初めて成功した例であり、現在最後の例である。
目覚めた美弥は、自分自身が作られたものとも知らず、偽りの沢渡 美弥として生きることになる。
彼女は眠っている美弥の代わりとなって生活し、そして再び本当の美弥が目覚める時、その差分の記憶が本当の美弥に戻される予定となっていた。
父親は、その美弥を本当の娘として扱った、本当の肉体ではないにしろ心は美弥そのものだったからだ。
また、この素体についてはパワーレベルを調節することにより、軍事向けに転用できる事に気づいた柳は、同じ器での量産を行い、美弥の父親に隠して米軍などに支給した。
量産した素体には、美弥のように記憶と感情のコピーはできず、柳は代わりに超高度なAIを同じ頭脳に利用することにした。
その一人がジュリアである。
それから時間が流れ、医学は美弥の手術が可能なレベルへと向上した。
冷凍睡眠から目覚め手術を受けた本当の美弥の回復は順調に見えたが、不思議なことにいつまでたっても意識だけが戻らない。
生命反応はあるが、意識レベルだけがどうしても戻らない。
柳はこのことを美弥の父親に伝えず、まずは今までデータ化し今の美弥の中で育ったデータを本当の美弥に戻すことで、何かしらの変化が訪れると考えていたのだ。
だが、データとしての美弥は逃げ出した。
あの日、定期健診ということで病院を訪れた美弥は、昔自分が入院していた病室を懐かしい気持ちで訪れ、そして偶然にもベッドに横たわる術後の美弥と出会ってしまった。
美弥は初め何がなんだかわからずそのまま意識が飛び、再び意識が戻ったのは夜になってからのことだ。
そして、うっすらと記憶の片隅にある辛すぎる事実を思い出してしまった。
私は本当の私じゃない、と気づいた美弥の衝撃はどれほどのものだったろう。
それは美弥として生きた彼女にしかわからない。
初めは作り物だったかもしれない、でもあの二年前からの記憶、そして感情は作られたものじゃない、私だけのもの、誰にも奪わせない。
データとしての美弥はそう決心した。
4-2
「山崎君!」
美耶は叩きつけれた浩司に向かい叫ぶ。
「どういうことだよ、これ...」
浩司は、美耶と同じ顔をしたジュリアを見つめていた。ジュリアはにこりと笑い、美耶に向かい言う。
「さあ、行きましょうか、お姉さま」
ジュリアのその言葉に美耶は激しく抵抗する。自分をつかむ腕は一層力が強くなるのを感じた。
「私はあなたの姉なんかじゃない、私は、私は!」
美弥の表情は崩れ、大粒の涙が流れ落ちた。
浩司はまだ動けず、泣きじゃくる美耶を見つめる事しか出来なかった。ジュリアは美耶の顔に自分の頬を添える。
「何を言っている、私もあなたもオリジナルの彼女を元に作られたものに過ぎない、その記憶はあるのだろ?」
その言葉を聴いた美耶はさらに激しく抵抗するが、それを不快に感じたジュリアはもう片手を美耶の首に添え、強く締めだした。
「私はお前の頭の中のデータだけ持ち帰ればいいのだよ」
ジュリアの片手で、美弥の両足は軽く宙に浮いた。
「ぐっ、あっ、、あっ」
美耶は言葉にならない声を出す。
「そこの男よく見ていろ、これがお前が信じていた女の姿だ」
美耶と同じ顔をしたジュリアは卑屈な表情となり、美耶をそのままコンクリートの床に押し付け、首を絞めたままもう片手で美耶の足首を掴む。美耶の足首が普通とは逆の方向にねじれ、更に強く力が加えられた。
「ぎぁゃぁぁぁぁっ」
美耶の叫びと共に鈍い金属音が地下に響く。そして浩司の目の前にその物体が投げつけられた。
浩司の目の前に投げつけられた美耶の足先だ。金属の光沢と有機的な配線。
それは血の通わない人工物だった。
「山崎君、お願い見ないで、、」
美耶はジュリアに首をつかまれ、再び持ち上げられた姿勢となっていた。美耶の片足は無くなっている、それは浩司に投げつけられた物体が彼女の足だったことを示していた。
「...お前は許さない」
絶望と怒りと、言葉に出来ない感情を織り交ぜながら、浩司はゆっくりと立ち上がる。
「彼女を放せよ」
呼吸は戻っていた。
浩司はジュリアを睨みつけ、コブシを振り上げ叩き付けた。
が、瞬間浩司の右手から鈍い音がし、その顔が引きつった。
「馬鹿な男だ、殴って自分の手を折ったんじゃ本当にただの馬鹿だな」
ジュリアは浩司の頭を開いた片手で掴み、そのまま歩き出した。もう片手には美耶の首が掴まれている。
二人は引きづられ線路を進む。
浩司の額は、ジュリアの指先が刺さっているらしく血まみれになっていた。
浩司は意識を失いそうになりながら、どうにか美耶を救えないものかと考える。
しかし同じく引きづられる美耶は、感情が消えてしまったかのように"もの"のようになっていた。
暗闇が徐々に明けてくる。どうやら次のホームの側まで来たらしかった。
彼女が普通の人間でないことは、突然に浩司は知った。
ただ、気持ちの混乱はあるが、だからといってすぐに気持ちが変わるなんて事は無い。
浩司はそれがどんなに厳しい現実としても、事実として自分の中に受け入れたい、と消え行く意識の中で思った。
「ごめんね..」
ひどくかすれるような美耶の声で浩司の意識が戻された。そして美耶はもう喉をつぶされ、声かがまともに出ないことを浩司は気づいた。
悲しかった、あの声をもう聞くことが出来ないのだと。事実として受け止めると思ったのに、それがこんなにつらいなんて。今、現実としてそれだけが受け入れることが出来た。
美耶は優しく浩司を見つめ、そして驚くべきスピードで動いた。
「なにっ?」
ジュリアが声を上げる。
美耶の肘が深くジュリアの背中に突き刺さっていた。
ジュリアの腹部から金属片が突き出し、火花が激しく飛ぶ。
瞬間、ジュリアは手から力が抜けて、浩司を地面に転がした。
「きさまぁぁ」
ジュリアは怒声を上げた。
「ごめんなさいね、あなたの脊髄つぶさせてもらったわ。もう動けないはずよ」
かすれた声で美耶は言う。
そして空いた手で浩司の手をとって、浩司をホームの上に押し上げた。
「沢渡さん...」
浩司の目が涙でにじむ。
「ごめんなさい、、、山崎さんにひどい目をあわせてしまって。あとね、もし本当の私に会っても嫌いにならないで、彼女の責任じゃないから..」
美耶はジュリアをきつく抱きしめ、線路の真ん中へと這って進む。そして暗闇から光が漏れてきたのを感じた。
線路から金属の振動が響く。
大きな鉄の塊、同じ無機物の存在が迫っていることを示していた。
ジュリアの目が大きく開かれる。
「やめろぉぉぉ!」
光はより一層大きくなる。美耶の姿はその光に覆われ、白く包まれた。
伝わる振動、動けない浩司、そして、
美耶は笑顔だった。
浩司が何よりも、もう一度見たかった、美耶の笑顔だった。
その口がゆっくりと開き言葉を伝えようとしたが、喉がつぶれ、わずかな声しか出せない美耶の言葉は迫りくる振動にかき消された。
しかし、かき消されたはずの美耶の声は、浩司に心に言葉として届く。
美耶の笑顔と共に伝わるメッセージが。
「あ、り、が、と、う」
浩司の目は光の中、真白になる。
そして、二度と聞きたくない、鉄の音が響く。
顔を血と涙にまみれた浩司の叫びが響く。
これが、山崎浩司の目の前で起きた現実だった。
4-3
一時間、もしかして数分後のことだったかもしれない。
警察、軍隊、色々な職種の人間が、駅の構内で動いていた。
浩司は救急隊員に運ばれ、外へと連れ出される。右手に添え木をされ、額に包帯を巻かれた。
体中がずきずきと痛み、そして涙も止まらない。
色々なことを聞かれた気がしたが、相手が何を言っているのか浩司には理解できなかった。
どこの軍隊だろうか?大きな担架のようなものに、いくつかの金属片を積み運び出す姿が目に入る。
浩司は、呆然とそれを見つめ続けた。
4-4
「なんとまあ、予想外でしたね」
柳は受話器を置いて、深く腰を椅子におとしたまま軽く頭をかいた。
ちょっとの失敗は柳も予想していたが、二体とも完全なスクラップになるとは予想外だ。
柳は米軍からの電話、そして沢渡 美耶の父親からの怒りの電話もあり、耳を傷めていた。
沢渡 美耶の件に関しては、彼女の意識さえ戻ればどうにかなると踏んでいた柳だったが、彼女の意識がもどる可能性がなくなったことで下手をしたら裁判沙汰になる。
「どうしますかね、このままアメリカにでも逃げ渡りますかねぇ」
めんどくさそうに、柳は頭を掻いた。
再び電話が鳴った。
次は誰だと言う感じで柳は電話を取る。
「柳ですが、、なに、本当か? 今すぐに行く」
受話器を叩きつけ、柳は部屋を飛び出した。
目的地は病院の地下の実験室。
エレベーターを待つのも惜しく、柳は階段を駆け下りた。
今日は予想外ばかりが続く日だと駆け下りる柳は思う。
"バンッ"ドアが開け広がられた。
息を荒くした柳に研究員が声をかける。
「教授、彼女が目覚めました」
研究員の声は無視し、柳はガラスで仕切られた部屋の外側から中を覗き込む。
部屋の中では、ベッドに腰かけてこちらを見つめる彼女がいた。
まだ植物状態ではと思った柳の予想を反し、彼女は柳に気づき、きつく睨む。
「彼女には嫌われているようですね、とりあえず中に入ります。皆さんしっかりモニターしていてくださいね」
頭を掻きながら、冷静さを取り戻した柳はめんどくさそうに別室に入り、彼女に語りかける。
彼女のきつい視線は変わらない。
彼女は柳に対して説教をしているようにも見えるが、それを聞いている柳は顔を徐々に青くしていく。
そして、15分後、柳は別室からふらふらと出てきた。
柳は落胆したように、つぶやく。
「ははは、私たちはなんて勘違いをしていたんだ。まったくそんなことを気づくのに2年もかかってしまったよ」
こんなことじゃ、まだまだだなぁと柳は再び頭をかく。
別室から、彼女はその柳の姿を見てにんまりとしていた。
【5.エピローグ】
あれから二ヶ月が経っていた。
浩司は自分のアパートの中で、壁に背中をあずけ煙草に火をつける。
顔は寝不足なのか少し目の下に隈が出来、無精髭が伸びていた。
右手はもうキブスは取れたが、まだすこし動かすのにも不便さを感じる。
あの日から浩司は大学には行っていない。
レポート関係は既にまとめて出していたこともあったせいか、または先生が気を使って単位をくれたのか今年は留年はしないですむそうだ。
しかし次は無理だと浩司は思う。
あの事件の日の夜、美耶の父親が病院のベッドに横たわる浩司のもとに訪れた。
頭を下げ、危険な目にあわせたことを陳謝した。
そこで初めて浩司は初めて今までの事実を知り、気の抜けてしまったせいか、駆けつけた両親の言葉にも耳を貸さず、被害届けなども出すことはしなかった。
本当の彼女、"美耶"は生きているらしい。
しかし、それは浩司が知っている美耶ではない。
美耶の記憶を移すことが出来なかった彼女は浩司のことを知らない。
でも、記憶の同一性が問題ではなかった。
浩司が出会い、あの中で共に過ごした美耶はどこにもいない。
それは浩司の中での美耶の"死"としての認識。
彼女は死んだのだ。
しかし、実際は彼女は生きているという。
そんな矛盾した世界、彼女がいるかもしれない大学に、浩司は今までいけなかった。
浩司はテーブルの上に置いた新聞に目をやった。
今朝バイト先から持ち帰ったものだ。
新聞を開いていくと、桜の開花の記事に目が止まった。
浩司は美耶と二人してこの部屋で聞いた美耶の言葉を思い出す。
"はやく次の桜が見たいよね..."
浩司は立ち上がり、コートを手に取りドアノブに手をかけたところで、手に取ったコートを見た。
「もう、そんな季節じゃないよな」
コートをハンガーに戻し、代わりに玄関先においたヘルメットに手を伸ばす。
ドアを開け浩司は外に出た。足元のアスファルトはもう雪には覆われていない。
浩司はヘルメットをかぶり、家の前に停めていたバイクのカバーを取り払う。
キーを差込みセルを押すと、エンジンは一発でかかる。マフラーからは静かに排気音が響いた。
そして、浩司は走り出した。
風はまだ少し肌寒いが、あの冬の風とは違う。季節は変わったのだ。
どれくらい走っただろう、浩司はバイクを止め、キーを抜いた。その浩司に頭上から桜の花びらが落ちる。
見上げた桜の並木道、約束というほどのものでないにしろ、浩司の記憶に残った美耶の言葉だった。
風が吹いた。
桜の並木道は、ざわめき、花びらを散らす。
浩司は一人、それを見上げることしか出来ない。
その時、不意に浩司の背中が押された。
「さっさと前に進みなさいよ。桜はね、構内から見たほうがとっても綺麗なんだから」
彼女がいた。浩司が良く知った顔の彼女がそこにいた。
「いや、俺はここで見ているほうが・・・」
逃げ出したい気持ちを抑えながら浩司は彼女に向かい言うが、その手を彼女が強引に引っ張り浩司を大学の構内へと連れて行く。浩司はそれに逆らうことが出来なかった。
満開の桜がそこにあった。
桜色の服に身を包んだ彼女はくるりと回るようなしぐさをし、大きく息を吸う。
「やっぱり、ここから見る桜はやっぱりいいよねー」
同じ顔、同じ声、同じ姿の彼女は、しばらく桜を見つめてから浩司に振りかえり、苦笑混じりに言う。
「山崎君、そんな顔するのは3回目だよ」
そして、彼女は笑顔で浩司をみつめた。
浩司はその笑顔を何よりも覚えていた、しかし彼の現実ではそれはもういくら手に入れたくても、出来ないものとなったはずだった。
何より彼女は浩司のことを何も知らないはずだ。
なら、何かしらの手段で美耶の記憶のデータを抜き出し、彼女に移させたのだろうか。
しかし、、、
「それは君の記憶じゃない」
浩司は、彼女に向かって言う。その言葉を彼女は同じ笑顔のまま聞いた。
「いいえ、私の記憶よ。とっても大事な誰にも渡したくない、私だけの記憶」
彼女は浩司の右手を取り優しくなでる。
「もう右手はよくなったんだね」
それは、あの現場にいた美耶しか知らないはずだ。なら、やっぱりコピーされた記憶なのかと、浩司は考えていた。
彼女は浩司の顔色を見て、それを察したらしい。
「記憶も、感情もはじめからコピーなんて出来なかったの」
浩司を見て彼女は言う。
「どういう、、ことだ?」
「私ね、思い出したんだ。三年前、自分が長い睡眠につかなきゃならなかったということ。そして、私の代わりに用意された他の体、それを知った私は自分じゃない他の誰かに私を演じて欲しくないと強く願った。そうしたらね、私はあの体の中にいたの」
彼女の笑顔は崩れない、代わりに浩司の顔はくしゃくしゃになっていた。
「それってつまり。。。」
彼女は笑顔は、満面の笑顔になる。
「今の科学力じゃあ、感情や記憶を完全にデータ化なんて出来ないのよ。私はそうやってコピーされたものではなく、ただ心が体を移動しただけだった。その後は私はちょっと記憶が混乱したままだったけどね。そしてあの時、地下鉄の構内で私の体は砕けたせいで、心がもとの私の体に戻った。
この行為自体も化学なんかじゃ証明できないって、病院の教授は頭抱えていたけどね」
彼女はくすくすと笑った。
「そして目覚めて今までのこと全部思い出したから、もうすごく大変だったよ。あと、この体はやっぱりそれまでのものより強くないし、ずっと眠っていた事もあって、昨日まできついリハビリで外にも出られなかったから」
"美耶"は少し困った顔で言う。
浩司は、今の現実を信じようとした。辛い現実もいろいろ経験したが、この現実はとても幸せなものだ。
美耶はここにいた。
「はは、なんかそれでも信じられないや」
浩司は、上を見上げたまま言う。今の浩司は下なんか向けられない。
また風が吹く。
浩司と美耶の二人の足元はいつの間にか桜の花びらに包まれていた。
二人はいつまでも桜を見つめていた。
それは遅い雪解けともいえるかもしれない。
新しい時間が今進みだしたことを、二人に教えてくれた気がした。
了