人間が行う悪いことなんて、この世に数限りない
本命がいるのに他の複数の男とデートする八重子の行動にどうして? と思っている読者もいるでしょう。今回はその理由も出てきます。
12月20日(水)
〔恋のきっかけ ⑶ファンタスティックなエッチ〕
今日は割と、早く帰って来れたけど、ここ二日の寝不足で疲れているから、どれだけ書けるか分かんない。でも今日も書けるだけ書こう。
つーかそんなに疲れているんなら、日記なんて義務じゃないんだし書かなきゃいいんだけど、でも日記を書くことは、今のあたしにとって今や一番の楽しみだから、無理してでも書きたい。つーか本当は二十四時間書いていたいくらい。でも仕事もあるし、そんな訳にいかないしね。それに仕事に行かなきゃ早田係長に会えないし。
さて昨日の続き。上杉君に係長がヅラだと聞かされたあたしは、実はその時全然信じてなかった。この人、あたしが退屈しているのを察したもんだから、嘘ついてこの話題、引っ張ろうとしてんだわと思った。
それに係長がヅラだなんて話、誰にも聞いたこと無かったし、もし本当にヅラなら、西川先輩かみっちゃんが、噂しないはずが無いと思った。あの人たちはゴシップが大好きだから。
実際あたしは、あの二人に教えられて、社内の人たちのヅラ疑惑やら、シークレットシューズ疑惑やらを知ったし、今回寿退社する怜ちゃんのアイプチ疑惑も、やっぱりあの二人から教わった。
二人からの情報によると、怜ちゃんはアイプチによる癖付けが定着し、今や本物の二重瞼になったらしい。だからダンナになる人にスッピンを見せても、問題が無くなって、見事ゴールインが決まったんだろう。
つーかあたしの方が、怜ちゃんとは仲いいのに、何で仲いいはずの怜ちゃんのゴシップを、あの二人から聞く羽目になるのか、よく分かんない。それにその情報に、どこまで信憑性があるのかも分かんないけど……。今まで聞いたゴシップの中には、明らかに憶測が混じっているものもあったしね。
ただだからこそ、少しでも怪しいものを見たら、悪意を持って邪推するあの二人が、係長のヅラ疑惑について何も言わないのは、やっぱ係長は、ヅラなんかじゃないってことじゃないかと思った。実際係長の髪型って、自然な感じだし。
でもあたしは上杉君に、「嘘だあ」とは言わなかった。そうやって反発することすらも面倒だったから、あたしは短く、「そう」とだけ返事をた。そして頭の中では、帰りたいけど帰るなんて言い出したら、怜ちゃんが寂しがるかなあとか、やっぱ家庭持ちの根津先輩が言い出すまで、待つべきかなあとか考えていた。
するとあたしの鈍い反応に気付いた上杉君が
「ホントっスよ。社員旅行ん時見たんスから」
と言ってきた。あたしはやっぱり「ふうん」と短く答えた。今考えてみると、この時上杉君に、詳しく追及してみるべきだったんだけど、あたしは早くその話を切り上げたくて、大した反応を示さなかった。 そしたら上杉君は、ようやく話題を切り上げてくれたんだけど、次に振ってきた話題が
「飯久保さんて、カレシいないんスよね? エッチしたくなったらどうするんスか?」
だったから仰天した。そんなの上杉君に関係無いじゃん。つーか三つも下の男の子にそういうこと聞かれるのって、馬鹿にされているみたいでムカついた。それなのに上杉君は
「今度エッチしたくなったら、連絡下さいよ。チャリンコで飯久保さんのアパートまで行きますから」
と畳み掛けてきたから、あたしはますます頭にきた。だってそれってセクハラじゃん。
しかも係長のヅラ疑惑に関しては、声ひそめていたくせに、下ネタになったら、声量がアップした点も気に入らなかった。会場内には社内の人たちが大勢いるのに、つまりはこいつは衆人環視の只中で、あたしを下ネタでからかおうってこと? と思った。
だからあたしは
「いや、間に合ってるから」
と答えた。
別に
「それって、セクハラなんじゃないの」
と返しても良かったんだけど、何つーか「間に合ってる」って返した方が、拒否の意思が入る気がしたから。ただそれも今考えてみると適切じゃなかったかも知れない。だってカレシいないくせに、ヤる相手はいますって、言っているようなもんだしね。
まあ実際、ヤろうと思えば相手はいるけど、でもそれをあの場で言う必要は無かったかなと思う。この際もう、上杉君にはどう思われてもいいけど、会場内の誰かに、聞き耳立てられてた可能性考えると、あんまりよろしくなかったよなと思う。
つーかそういう後悔もあるからこそ、あたしはあの送別会の件で、ますます上杉君が嫌になった部分がある。だって上杉君が、セクハラしてこなければ、あたしは自分の発言を、反省する必要も無かった訳だし。
しかもあたしが、気分を害しているってのに、上杉君はやたらしつこくて、しまいには
「飯久保さん、僕とファンタスティックなエッチしましょう」
とか言い出すしもうびっくり。何だよ、ファンタスティックなエッチって? もう訳分からん。あたしはその時何だかぶち切れちゃって、スクッと立ち上がると、根津先輩と怜ちゃんに「帰る」と告げて、会場を出て来てしまった。
まだ一次会の最中だったのに、そんな風に帰ったりして、皆は結構驚いたと思う。そんなことするくらいなら、さっさと上杉君から離れて、別の席に移動すれば良かったのに、あたしは自然な流れでタイミング良く上杉君から離れなきゃと思って、我慢し過ぎて、一番不自然で、目立つ事をしてしまった。
あたしって結構、こういう傾向がある。嫌だなと思うことがあっても、まだ我慢出来るかもと思ってつい我慢していると、突然我慢の限界が来て、何もかも投げ出しちゃう。そしてこんなことをするくらいなら、もっと早く、その場からちょっと離れてれば良かったんだよなと、反省する羽目になる。
現代人は我慢が足りないとか言われるけど、あたしは真逆のタイプで、真逆過ぎて問題なんだよなと思う。ちょっぴり嫌だと思った時に対処してれば、問題は大きくならないのに、つい我慢を重ねて突然耐えられなくなって全てを排除して、極端なこと言えば、もう一生、その問題に関わろうとしなくなったりするというか。
あたしが実家に寄り付こうとしないのも、そこら辺に、原因の一つがある気がする。あたしは親にあんまり逆らわずに、我慢を重ねてきたから、実家と関わるのが嫌になっちゃって、もうずっと帰省してない。
そしてあたしのその傾向が、係長のヅラに興味を持ちながらも、最早上杉君に聞く事も出来ないという現状を生んでいる訳だけど、そこまで話を持ってく前に、今日は終了しようと思う。この続きはまた明日。
12月21日(木)
〔恋のきっかけ ⑷輪姦〕
早田係長のヅラに気付いた経緯を書くのに、思いの他、日数がかかってしまっている。これじゃああたしが、その日その日に係長に対して考えていることを、いつまで経っても書けないから、本当は早く書き終えたいんだけど、多分今日も最後までは書けないだろう。でも少しでも、書き進めておきたい。
会社でもそして帰宅後も、やんなきゃならない事が山積みだ。でも会社が忙しくて、ストレスが溜まっているからこそ、この記録作業が、ストレス解消になっていて楽しい。
さて昨日の続き。送別会の二日後のこと、エレベーターの前であたしとバッタリ出くわした上杉君は、あたしに向かって
「飯久保さん、オレ一昨日、すげえ失礼なこと言ったみたいですいませんでした」
と頭を下げてきた。
つまり上杉君は、送別会の日に悪酔いしたせいであたしに絡んでしまったので、それを見ていた他の社員が、おそらく後で、上杉君に注意したんだろう。あたしは怒って途中退席しちゃったから、尚更「謝っといた方がいいんじゃないの」って話になったんだろう。でもあたしは
「嫌だよ。あたし絶対許さないよ」
と答えて、さっさとエレベーターに乗り込んだ。
酒の上でのことはしょうがないのかも知れないけど、でも上杉君は、送別会以前からあたしに感じ悪かったから許したくなかった。でもその後で、そのやり取りを見ていた江口さんに
「あれはちょっと、大人気ないよ」
と注意された。
江口さんは係長と同じ営業の社員だから、二日前の送別会には参加してない。だから送別会で何があったかは知らないはずだけど、単純に、謝ってきた人間に対して、ああいう態度はないんじゃないのと思ったらしい。
そりゃああたしだって、基本的には謝罪してきた人間は許すべきだとは思うけど、今回は基本から外れると思う。だからファンタスティックなエッチの話をしたら、思いの他、江口さんはウケまくった。
そして
「そういやあ生平が言ってたけど、上杉が前に、生平たちと女マワした時、上杉が『ああああ、イク、イク、イッちゃう』って叫んでたとか言って」
と言ってククッと笑った。上杉君たちって、女マワしたりしている訳? サイテー。つーか合意の上なら別に当人達の自由だけど、でも会社の同僚たちとそんなことするなんて、節度無くない?
それくらいなら社内不倫している人たちの方が、よっぽど共感出来るよ。慰謝料とかの危険があるのは後者だけど、でもいくら合意でも会社の人たちと輪姦するなんてねえ。
しかもイク時に、男のくせにそんな声出す人間が、よく輪姦なんて出来るよな。つーかそれってこらえられないもの? あまりにもこらえ性が無くない?
まあ日頃はクールな男を感じさせて、思わず声漏らさせた時なんかは、あたしもしてやったりとか思うけど、でも「イク、イク、イッちゃう」まで言わなくていいっていうか、むしろ言わないで欲しい。そこまで夢中になられてもねえ。そんなこと、女のあたしでも言わないよ。
まあ上杉君が、特定の誰かとのエッチの際に、「イクイク」騒いでいるんなら、それは本人の自由だけど、でも輪姦の際にそこまで入り込んじゃうのは、どうかと思うよ。しかも自分のそんな恥ずかしい性癖を、軽々しく漏らす様な生平君と、よく輪姦する気になったよなあ。
つーか「生平たち」ってことは、他にも何人かいた訳で。まあメンバーは、上杉君と生平君の交友関係から大体察しはつくけど、つまりは上杉君は、社内の複数の人たちに、自分のエッチしている姿とその時の声を公開した訳で。それってあまりに節操無くない? そこまでしてエッチしたいもの?
せめてマンツーマンでエッチするか、あるいはもうちょっと冷静にマワせないもん? まあ冷静にマワす男もどうかとは思うけどさ。
あたしは江口さんの話を聞いて、ますます上杉君のことが嫌になった。あんな奴許さなくて良かったと思った。そしてそう思いつつ、その話を打ち明けてきた江口さんのことも、嫌な奴だと思った。
よく女は噂好きとか言うけど、あたしの知る限り、噂や悪口を言う頻度って、男も女も変わらない。まあ単純におしゃべり好きなのは女の方だと思うけど、少なくともあたしの女友達の中には、下ネタ系の悪口を言う子っていない。
やっぱ悪口には、一定のルールがあるっていうか、少なくともどんなに憎い相手のことでも、あまりにプライバシーを侵害する類の、品の無い悪口を言う人って、スマートじゃないと思う。
……つーか今思ったけど、これって本当に、江口さんが生平君から聞いた話? ひょっとして江口さんもその場にいたんじゃないの? だとしたら江口さんもサイテー。でも江口さんは、割と気難し屋だから、後輩の男の子たちと仲良く輪姦とかは、出来ないタイプかな。
そもそも三つ上の江口さんが一緒だったら、上杉君たちも気ィ遣っちゃって楽しくないか。順番とか譲らなきゃいけないしね。男は大抵マワす際に一番にしたがるものらしいし。とはいえ女の場合は、どうなのかは知らないけど。
まあ江口さんのことはさておき、あたしはその時、社内の人間に自分の性の姿を知られる怖さを、改めて知った気がした。でもその時はまだ、その怖さは大した意味を持たなかった。
その時あたしは、まだ係長のことを何とも思ってなかったから。つまりは係長がヅラだなんて、上杉君の嘘だろうと思っていたから。上杉君みたいに節操の無い人は、バンバンほらも、吹くだろうと思ったから。
でもそれが思い違いだってこと、あたしはその翌日に、知った訳だけど、それはまた明日。
何だか連ドラみたいになってきたなあ。未来の自分相手に、連ドラ書くのって妙な気分。数年後のあたしは、この件をどれだけ記憶しているものなんだろう? ある程度の記憶を持ちながら、連続ものの文章読むのって、一体どんな気持ちだろう?
今現在あたしは日記をつけることが楽しいけど、未来のあたしも、この日記読むのが楽しいかな。あたしはもしかして今、現在の自分と未来の自分に、娯楽を与えているのかな。だとしたら何だか嬉しい。
そもそも恋愛や記録って、お金のかからない娯楽だもんね。安上がりな娯楽が、時空を超えて自分を楽しませているんだとしたら、何だかとっても一石二鳥な感じで、かなり嬉しい。寝不足を押してまで、頑張っている甲斐があるというもの。
12月22日(金)
〔恋のきっかけ ⑸わたしの頭の上の消しゴム〕
はあ、やっと週末。明日は会社も休みだし今日こそは最後まで書ききってやるわ。全くこの件を書ききらなくちゃ、落ち着いて遊びにも行けやしない。
……ということでもないんだけど。やっぱ疲れているから、金曜日とはいえ遊びに行く気力は無いし、でも疲れているからこそ、頭は冴えているからすんなり眠るのは無理っぽいし、そうするとやっぱ、こうやって日記つけるのが、最適な感じ。
さて昨日の続き。江口さんから上杉君の性生活の一端を聞いた翌日、運命の日。あたしが休憩室の雑誌を交換に行くと、早田係長が雑誌を眺めている姿があった。あたしはその雑誌を、回収したいと伝えながら、係長が眺めているページにひょいと目をやった。『わたしの頭の中の消しゴム』についての記事だった。
あの映画が公開されたのは、もっと前のことだったから、どうしてそんな時分に、その映画の記事が載っていたのか分かんないけど……。可能性としては、若年性アルツハイマーの特集か何かに使われていたのかな? まあ理由はともかく、そのページはその韓流映画の記事が載っていて、係長はそれをぼんやりと眺めていた。
今考えてみると、三十代男性である係長が、韓流映画の記事を読んでいたこと自体が、変わっている気がする。でもそれよりもあたしは、係長が休憩室にいるなんて珍しいなあと思った。
時刻は確か14時前くらいで、遅く昼食に入った人なんかが、休憩室にいる場合はあるにはあるけど、営業の人は、大抵外でお昼を取ることが多いから。
でも営業の人でも、内務処理が溜まっていれば、会社に缶詰になることもあるから、そんなに気に留めた訳じゃない。大体日頃、外回りの仕事している人って、机に座っていると、すぐ退屈しちゃうみたいで、やたらと休憩室とか喫煙所とかに、気分転換しに出る傾向があるから、係長もそのクチだろうと思った。
そしてその一、二時間後、今度は営業部に、社内便を届けに行ったら、今度は係長が自分のデスクに座っていた。そしてその時係長は何だか変だった。虚ろな目で、メモ紙代わりのし損じたコピー用紙の裏に何かを書きつけると、ぼんやりとした顔で、それを眺めていた。
今にして思えば、あの日係長は、体調もしくは気分的な調子が悪かったんだろうと思う。ただあたしはやっぱりその時点では、係長に関心が無かったから
「係長、社内便です」
と言いながら、係長宛の封筒を取り出した。
係長はあたしの呼びかけに、ハッと顔を上げると
「ああ、ここに……」
と言いながら自分のデスクの上を指したけれど、その次の瞬間、事務の女の子が、係長に電話が入った旨を伝えた。
係長はそれを聞くと、その女の子の机に近付きながら
「さっきの××(社名失念)のファイル出して」
と言うと、ファイルを受け取り、その事務員の机で電話を取って相手と話し始めた。
あたしは言われた通り、係長のデスクに社内便を置いて、立ち去ろうとしたんだけど、その封筒は結構カサがあったから、どこに置こうかと、係長のデスクをぐるりと見渡した。なぜなら係長のデスクは、書類やら資料やら書きかけの伝票やらで溢れていたから。
その時あたしは、係長が先ほど書いたメモ書きに目を留めた。「わたしの頭の上の消しゴム」とあった。
え、何で頭の上? 頭の中でしょ? つーか何で映画のタイトルなんて? けげんに思ったあたしの脳裏に、不意に上杉君の言葉がよみがえった。
「実は早田係長ってヅラなんスよ」
本当だったんだ。上杉君の言っていたことは本当だったんだ。イク、イク、イッちゃうような男でも、嘘つきとは限らないんだ。いやむしろ上杉君は正直者だからこそ、発射の際に、イキますと正直に口にしているだけなんだ……。
あたしは、事務員の脇で、立ったまま通話している係長の姿を眺めた。係長はそのシャープな顔立ちに、ヅラの重さを反映したかのような、重苦しい色を浮かべながら、何度もペコペコと、電話の相手に頭を下げていた。
そんなに頭を下げないで。もしヅラがずれたらどうするの? それともそれは、ずれ辛いタイプだから大丈夫だって言うの? 強がりは止めて。だとしたらあなたはどうしてそんなに不安げなの? ヅラがずれる事が怖いんでしょ? 会社の皆に、ヅラがバレる事が耐えられないんでしょ?
見るからに地毛っぽいヅラを被り、上杉君以外の会社の評判は、ごくごく普通の、人畜無害な係長の秘密を知ったこの時、あたしは胸の内に湧き上がる、切なくも甘い感情に耐え切れず、封筒を係長のデスクに投げるように置くと、慌てて部屋を飛び出した。きっとどんなにか、乱暴な女だと思われたことだろう。
何度恋愛を重ねても、恋に落ちた瞬間は、いつも自分に対する客観性を失って、おかしな行動をとってしまう。だって自分が係長を好きになるなんて、その時その瞬間まで予想してなかったもの。でも今にして思えば、その布石はあった気がする。
上杉君の存在もその一つだろう。大嫌いな上杉君が嫌っている相手だからこそ、あたしは係長に好意を持った部分があったと思う。しかも係長が、ヅラだなんて告げた上杉君は、明らかにルール違反だ。
いくら嫌いな相手だからって、相手の身体的な特徴、しかも本人が隠していて、世間的に嫌がられる特徴を、バラしたりするもんじゃないと思う。しかも自分の恥ずかしい秘密を、あんな若造に酒の肴にされるなんて、いくらなんでも係長が可哀想だ。
思い返せば、あたしはこのパターンで人を好きになった経験が、過去にもある。四年前河合君を好きになった時も、確かこのパターンだった。
23の秋、フユミンと遊びに行った深夜のゲーセンで、河合君とその友達のコウ君にナンパされた後、あたしは二人からの、アプローチを受けた。
どっちのことも気に入っていたけど、コウ君の方が、見た目イケてたし、女慣れしていて楽な感じがした。それに何より河合君と付き合ったところで、半年後には遠距離恋愛になっちゃうことは分かっていたから、最初は河合君の事は眼中に無かった。
あの頃、あたしの目下の悩みは、コウ君と付き合うか否かであって、河合君のことは選択肢にも入ってなかった。
それなのにある夜、いつものように、コウ君のラブコールを受けていたら、コウ君が突然、河合君は童貞だとバラしてきた。
22にして童貞とは何て物持ちのいい男だとびっくりしつつ、あの頃はあたしも若かったから、いい歳して童貞の男なんて、キショイと思ったけど、でもあたしはそれ以上に、それをバラしてきたコウ君をサイテーと思った。
そうだ、あの時も、あたしはバラされた河合君を可哀想だと思ったんだ。自分より年下のコウ君に、そんなことを面白おかしくバラされた河合君を、気の毒に思ったんだ。
そしてそれから半月も経たない内に、あたしは河合君と付き合い始めた。あたしはどうも、年下の同性に裏切られた男に対する同情が、恋に変わる傾向があるみたいだ。(年下で国立大の学生で、末っ子で中部地方出身で、水瓶座で童貞の男と付き合ったことが無かったから、新鮮さに惹かれた部分もあるけど)
ただあの時と違うのは、あたしは元々、童貞は好きじゃなかったし、別に今も決して好きな訳じゃないってこと。つーか別にどっちでもいい。
まあキショイと思っていたものを、どっちでもいいと思えるようになったのは、河合君と付き合ったおかげだろう。まあそれはともかく、あたしは別に童貞が好みという訳ではないけど、でもヅラ男は好みということ。
つまりは、別に好みでもない、童貞という事実をバラされた経緯を踏んで、河合君を好きになり、遠恋覚悟で付き合い始めたあたしが、(結局別れちゃったけど)ヅラという好ましい秘密をバラされた係長のことを、どれだけ好きになり得るかといったら、筆舌に尽くしがたいということだ。
ただ秘密をバラされたという事実だけを考えたら、上杉君だって生平君と江口さんに恥ずかしい秘密をバラされたのだ。だからそれを理由に好意持ってあげてもいいはずだけど、やっぱ無理だな。だって上杉君はあまりに感じ悪いし、それに秘密の内容も、あまりに品が無い。
ヅラと童貞は、しょうがないことというか、別に悪いことじゃないというか、羞恥心ゆえに発生する秘密だ。だからむしろ相手の隠されたコンプレックスに触れた感じでそそられる。でも輪姦の事実と、輪姦の際のあの発言は、羞恥心が無いゆえに生まれたものだから、全然そそられない。つーか醜悪だよ。
あたしは羞恥心を持っている人が好きだ。ハゲを隠すためにヅラを被り、そしてヅラを被っている事実まで隠し、けれど完全に隠し通す事が出来ずに、人に秘密を握られてしまうような危うさを持った人って、何だかドキドキしちゃう。
「わたしの頭の上の消しゴム」だなんて、自分のコンプレックスを揶揄するセンスも気に入った。ピエロになりたいのね。不幸を笑ってみせたいのね。ヒロシになりたいのね。分かるわ。
でも笑いごとになり得るからこそ、その不幸は、かえって悲しい訳でしょう? 癌よりも心臓病よりも、糖尿病や水虫や痔や脱腸の方が喜劇的な分、よりいっそう悲劇的だわ。だって本来なら不幸には笑いのエッセンスが一切入っちゃいけないはず。不幸というものは同情されるべきものであって、決して嘲笑されてはならないはず。
でも世の中には、苦しんでいる人間を笑いものにするような、心無い人もいる訳で、不幸な人間の不幸度を高めている訳だけど、そんな中でハゲは、世間的に馬鹿にして嘲笑して、嫌っていいことになっている。喜劇の対象にしていいことになっている。
それを受けて、ああ俺は笑いものだ、何て惨めなんだろうと思ってしまったらますます不幸になってしまう。だったらいっそのこと、自分で自分をピエロにしてしまった係長の、開き直りと悲しみの狭間で揺れる心が、あたしの心をも揺らしている。
正直言ってハゲなんて、大した不幸じゃない。薬の副作用とかでハゲたんなら気の毒だけど、老化でハゲるのは仕方無い事だし、自然なことだと思う。
まあ係長はまだ三十代だし、ヅラが必要なほどハゲるには、ちょっと早い気がする。その点は気の毒だけど、でもどうせこれから十年二十年も経てば、周囲もハゲて見分けがつかなくなるから、ちょっと先取りしているだけじゃんとも思う。
だからもし係長が、自分がハゲていることに関して、身も世も無く泣き崩れていたりしていたらウザいと思う。でもあんな風に、自分を茶化したようなメモ書き見ちゃったら、何だか切なくなってくる。小さな不幸なんだからと、苦しむことを自分に禁じ、むしろ笑おうとしている姿を見ちゃうと、その切実さが何だか身に詰まされる。
小さな小さな不幸でも、悲しくてどう仕様もないことって、あるんだよなと思う。これくらいのことで、悲しんでいちゃいけないと思っても、その不幸にやられちゃうこともあるっていうか。あたしも爪が折れただけで落ち込んだり、4時44分を見ただけで、ブルーになったりするもんな。
そういうのってすごく馬鹿馬鹿しいし、「幸せの4」だなんて自分に言い聞かせて、空元気出したりはする。でもそういうつまんないことで落ち込むのが、人間なんだよなと思う。
だからハゲなんていう、つまんない不幸を気にしてヅラを被ったり、そしてせっかくヅラを被っているのに、うっかり変なメモを書いて、ヅラであることをあたしに見破られているような係長が、何だかとっても、人間臭くて愛しいよ。
ただその係長の秘密を、つまんない不幸を、上杉君も知っているってのがムカつく。あいつあたしにバラしたように、他の誰かにもバラしてやしないだろうな。だとしたらああもうどうしてくれよう?
12月23日(土)
〔ブルーな彼女に、赤い経血〕
さてさて久し振りに、日記本来の姿に戻って、今日の出来事を書きましょう。
今日は瑠知と一緒に、フユミンの誕プレを買いに行って、そのまま一緒に、フユミンの家まで届けに行った。家には有真君も来ていたから、あたしたちは有真君の前で、プレゼントを広げながら説明をした。
良かれと思ってやったんだよね。だってフユミンのリクエストは新居で使う台所用品だったからさ。
第一希望から第五希望まで聞いていたんだけど、瑠知と二人でお金出し合ったし、たまたまバーゲンやっていたから、第一と第二と第四希望が買えて、(第三希望は見当たらなかった)フユミンもまさか、あたしたちがこんなに沢山、買って来るとは思ってなかったらしく嬉しそうにしていて、それなのに有真君の機嫌が、悪くなっちゃってびっくり。
「え、これが欲しいって言ったの? 何で?」
とか言って、一体何が気に入らなかったんだろ? だって有真君は料理しないらしいから、キッチン雑貨にこだわり無いだろうし、フユミンが揃えたって、いい訳じゃん?
つーかこれは、フユミンの誕プレだし、本当なら化粧品とか小物とか、そういうフユミン個人が使う物リクエストしたって良かった訳だよ。それなのに敢えて新居で使う物リクエストしたのは、有真君の負担を減らすためのフユミンの気遣いじゃん? それなのに何が気に入らないんだろ?
つーか何か理由があったとしても、あたしたちのいる前で、不機嫌になる? そんなの二人だけの時にしてくれよって感じ。こっちはわざわざ買って届けに行ったのに、馬鹿みたいじゃん。
しかも有真君に、そう聞かれたフユミンが、困ったような顔をしていて更に驚いた。どうして
「え、何がいけないの?」
って聞けないんだろ? 自分個人の誕プレ使って、新居の支度をしたのに、文句言われたらムカつかないの? つーかあたしたちに対して悪いと思わないの? 普通いさめるだろ。
……とムカついていたのに言葉は裏腹、あたしは
「違うの。あたしがフユミンに無理に何が欲しいのか聞いたの」
などと言ってとりなしてしまった。理由は分かんないけど、とにかく有真君は、フユミンがその誕プレをリクエストしたことを怒っていたみたいだったから、とにかくそのリクエスト自体が、無理強いされたものだったってことにそとけば、収まるかなと思ったから。
だって有真君は怒っているし、フユミンは黙り込んでいるしじゃ困るしね。つーかあたし以上に、瑠知がオロオロしていて可哀想だったし、だったらとりあえず、あたしが悪者になればいいやと思った。だってあたしが有真君と結婚する訳じゃないから。
でもその後、すぐにフユミンが
「そう、そうなの。無理に聞かれたの」
とあたしの言葉に乗ってきたのでムカついた。無理になんて聞いてないじゃん、そっちが聞いてもいないのに、第五希望まで決めてメールしてきたんじゃん。確かにあたしは、自分が悪者になってこの場を収めようとはしたけど、それに乗るフユミンもフユミンだよ。
だって誕プレのリクエストって、嘘ついてまで、シラ切らなきゃなんないことな訳? だったら最初から、リクエストなんかしてくるな。こっちはわざわざ指定された店まで行ったんだよ。
しかもフユミンのその言葉を聞いたら、そのまま黙って、収まってしまった有真君にも納得いかなかった。あたしの尻馬に乗って、あたしに責任転嫁したフユミンのことは、何で怒んないんだよ? 有真君は絶対、怒るポイントがずれている。第三者を悪者にしなきゃ仲直り出来ない奴らが、これから結婚するなんて大丈夫かよ?
こういうことがあると、結婚って何なんだろ? という気になってくる。この間、根津先輩のとこもダンナの浮気が発覚したらしいし……。腹膨らませた愛人が、乗り込んで来たって言うから、まあただじゃ済まないだろうし、一体結婚って何なのかしら。
別に世の中には仲いい夫婦もいるだろうけど、ただ少なくとも、あたしの周りには、羨ましい夫婦っていないんだよな。会社の既婚者の人でも
「結婚って、いいよ」
って言う人、一人もいないし。
最近結婚しない人が増えているのって、ひょっとしたら模範になるような夫婦が、減ったからじゃないのかなと思う。もちろん人真似じゃなく、自分たちが理想の夫婦になればいいのかも知れないけど、でも何だかんだ言って、人間って模倣の生き物だしさ。
真似したいと思う夫婦が身近にいないと、やっぱ結婚自体に対する憧れって生まれ辛いよ。だって未婚者にとっては、結婚って未知の世界だもん。その未知の世界で、トラブったりつまんなそうにしている人たち見せられると、結婚って、あんまりいいものじゃなさそうって気になる。
まあでも、こんな時代にあっても、結婚に憧れ抱いている人はいるけどさ、フユミンみたいに。
つーか別に、憧れ抱くのが悪いとは言わないけど、でも今日みたいに、婚約者に訳分かんない事で不機嫌になられても、言い返すことも出来ないような関係であっても、そして第三者を悪者に仕立てなきゃ、仲直り出来ないような関係であっても、結婚することに何の疑いも持ってないフユミンを見ていると、すごく不可解。
ひょっとして結婚って、ああゆう社会性の無い身勝手な自分たちのことに、気付きもしないほど鈍くなくちゃ、出来ないものなのかもって気になってくる。でもこんな考え方は、他の既婚者たちにとっては失礼なものな訳で……。
つーか別に、世の中の既婚者の全てが、ニブチンだとは思わないけど、ただあたしの周囲には、羨ましいと思える既婚者がいないってこと。それでも結局幸せになったモン勝ちなのかな。
あたしだったら有真君みたいな人と結婚するくらいなら、一生一人でいたいけど、でもその有真君と結婚するっていうんで、フユミンは浮かれに浮かれているし、一時は向田さんの方に、熱上げていたとはいえ、結局有真君と結婚することに、フユミン自身は納得しているようだから、まあ別に二人が幸せなら、勝手にやってくれればいいや。
でもあたしだったら二人みたいな関係は嫌だな。言いたいこと、言うべきことはきちんと言いたい。でもあたしみたいなタイプって、男にはウザがられるんだよなあ。
早田係長はどうだろうか。やっぱりあたしみたいなタイプは、ウザいだろうか……と思うから、やっぱ自分からは近付けない。
あたしが近付くことが、相手にとっての、喜びとは限らないと思うから、あたしはいつも自分から男に近付けない。そして向こうから近付いて来た男に、自己主張して嫌われる……って、今日のあたしは随分悲観的だな。生理のせい?
生理前とか生理中って、やけに情緒不安定になって困る。今日の件にやたらムカついたのも、そのせいなのかな。
12月24日(日)
〔妄想クリスマスイヴ〕
昨夜河合君が泊まりに来て、今日は二人でドライブに行った。別れても結局こうして泊まりに来させるんなら、しかもこうして、イヴを過ごすんなら別れた意味無い感じ。でもエッチは無し。まあ生理だしね。
つーか生理中でもエッチする人はいるし、みっちゃんなんかは
「生理中は、皮膚とか粘膜が敏感になっているから、いつもよりいい」
とか言うけど、あたしはする気にならん。生理中にヤッたりしたら子宮内膜症になるよ。
でもそう言って断ったら
「お前って、冷静だよな」
ってすごく嫌そうに言われた事あるけど、でもそんなの当たり前じゃん。子宮内膜症って下手したら手術する羽目になるんだよ。何で一時の快楽のために手術しなきゃなんないのさ。馬鹿馬鹿しい。
確かにエッチはいいもんだけど、そこまでのリスク背負って、ヤるもんだとは思わない。大体男の側にはリスク無いんだからムカつく。
まあ生理中に生でヤると、男は尿道炎になる場合があるらしいけど、生理中だって妊娠の可能性はゼロじゃないから、ゴムは必須。そうするとやっぱ、生理中のエッチで病気のリスク背負い込むのはこっちだからね。そんな不公平なこと要求してくる奴に、愛なんかねえよ。
まあ河合君は、「生理だから」って言えば、無理強いはしてこないからいいんだけど、でもやけにガッカリしていてウザかった。つーか生理だろうとなかろうと、もう河合君とはする気無いし、それは再三に渡って、説明してあるのに、会う度に求められるのはウザい。
でもだったら、泊まりになんか来させなきゃいいんだけど、河合君ちはうちから三時間の道のりだしさ。そんな人に、日帰りで来させるのは可哀想だしね。
付き合っていた頃、あたしも日帰りで会いに行ったことあるけど、あれ辛いんだよね。会っている時間は五時間なのに、電車が往復六時間だから、移動時間の方が長いんだもん。あたし一体何やっているんだろう? って、かなり虚しいんだよね。
ただ虚しさとか無力感っていうのは、どういう訳か、会いに行った場合より、来てもらった後の方が大きいんだよな。
せっかく久し振りに会えたっていうのに、まだ夜になったかならないかの時刻に、去って行かれる淋しさとか、移動する人間を静の状態で見送るキツさとか……。あの頃は、河合君が帰った後はいつも何にもする気が起きなくて、河合君宛に長文メールを、ズラズラ打っていたよな。
でも文章を書こうと思えば、いくらでも書けてしまうあたしと、一般的な人との間には、どうしてもメールの長さに、温度差が出てしまう。だから結局打っては消して打っては消しての繰り返しで、それでその行為自体にも、虚しさを感じてしまって……。
だからあの頃も、こうして日記みたいにして、色んな想いを書いていた記憶がある。あの頃の日記はどこにあるんだろう? 押入れの奥かな? 大掃除ついでに探索してみようか。でも今は探す気になれない。過去の記憶を確認する前に、今は今日思ったことを書きたいから。
河合君のことは今でも嫌いじゃない。だって元々、嫌いになって別れた訳じゃないから。もし遠恋じゃなかったら、別れなかっただろうと思うし、こう言ったら何だけど、未だに河合君となら結婚してもいいと思っている。
若い頃は、あたしも普通に結婚願望あったから、結婚の約束をした人は過去に河合君を含めて四人いた。でも別れても尚、あの人とだったら、良い家庭が築けるだろうと思える相手は、河合君しかいない。だからもし河合君が近所に越して来て、「やり直そう」と言ったら、やり直せるだろうとも思う。
でもじゃあ、あの頃と変わらずに河合君が好きかといったら、それは違う。一番決定的なのは、河合君に対して性欲が無くなった。
あたしはだらしがない女だから、別れた相手でも、相手が自分に対してそこそこ感じが良ければ、全然ヤレる。でも河合君に対してだけは、別れた途端に性欲が消滅してしまった。それなのに河合君は、あたしと別れてから誰ともヤッてないと言う。
河合君は童貞だったから、現在26歳にして、あたししか女を知らないということになる。そうは言っても、その間二度ほど他の女の子とホテルには行ったらしいけど、どういう訳だか、出来なかったらしい。
「僕もしかして、八重子ちゃんとしか出来ないのかも知れない」
そんなことを小鹿のバンビみたいな顔で打ち明けられて、昨夜は本当に困ってしまった。そんな男をダンナにしたら、これ以上無いほど安心な気はする。でもあたしはそれに応えられない。
もし河合君が、またこっちに越して来るなら、やり直す事は出来る気がする。安定した付き合いが出来る事が分かれば、その内ひょっとしたら結婚も出来るかも。でも劣情を感じない。
つーかやり直すことに決めたら、また劣情に駆られることが出来るのかは分かんない。つーか河合君が越して来ることは無いんだから、そんなこと考えても仕方無い。ただ結婚に抵抗あるはずのあたしが、河合君とならしてもいいかもと思っているのは事実。それでもそれにも関わらず、情欲は全く湧かない。
それなのに河合君は、あたしとしか出来ないとか言い出して、何だか申し訳無かった。でも考えてみれば別れているんだから、全然申し訳無いと思う必要は無い。それでもやっぱり申し訳無くて、でもあたしが今好きなのは早田係長だ。考えてみれば河合君に対して、結婚してもいいとか、性欲が湧かなくて、申し訳ないとか思っていること自体が、係長に対して失礼かも。
ただ係長に対する想いは一方的なものだから、そう考えると失礼でも何でもないんだけど……、とか考えていると、何が何だかさっぱり分からん。
大人の片想いって何て不純なんだろう? 中学生の頃までは、片想いだろうと何だろうと、好きになった相手って、もっと絶対的な存在だったのにな。
他にどれだけ素敵な人が現れてアタックしてきたって、全然関係無いっていうか、例え振り向いてもらえなくても、あたしはずっと好きでい続けるわみたいな、もし振り向いてもらえるんなら、その人とは、例え地獄の果てまでも、一緒に行くわみたいな気概があった。
まあそれはそれで危険思想な感じだし、若気の至りだなとは思う。でもだからといって、片想いの相手がいるっていうのに、しかも別に振られてもいないのに、林野さんとはエッチするわ、河合君とは一晩過ごしてイヴに突入し、挙句の果てには結婚を夢見るわじゃ、節操無いよなあ。
男女交際というものをしたことがなかった頃は、ただ恋を夢見る夢子さんだったあたし。だけど実際男と付き合うことを覚えたら、片想いというものが、いかに独り相撲で、恋とも呼べない代物だったかってことに、気付いちゃったんだよなあ。
だから結局あたしは、今片想い中であるにも関わらず、片想いという方法を、卑下しているんだろう。それでいて片想いというものを馬鹿にする自分のことを、情の無い奴だとも思っている。
だからこれ以上、経験を増やして、更に情を失うことを恐れるあまりに、あたしは自分から行動を起こせないのかも知れない。だからあたしはいつまでも、侮蔑の対象である片想いから抜けられないんだろう。
こんなことでいいんだろうか? 良くはないよなあ。でも結局、社内恋愛が怖いから仕方が無い。大人になると怖いものが増えるなあ。そして片想いは馬鹿にするし、あー嫌だ嫌だ、大人なんて。つーか一般論にするなって感じ? あたしが個人的に嫌な奴なだけか。
でも嫌な奴だろうと何だろうと、係長のことは好きだし、だけど近付くことは怖い。だからイヴだというのに、夜の八時前に河合君に去られたあたしは、まるで遠恋中の頃のように、こうして何にもやる気がせずに、ダラダラと文章を書き連ねる。ただ頭の中を占めている対象が、河合君から係長に代わったのが大きな特徴だけど。
係長は今頃何しているのかなあ? と思う。一体誰と、一緒にいるんだろう? 普通三十代の独身男性って、イヴの日曜日をどうやって過ごすもん? 加えてバツイチだった場合はどう過ごすもん? 未婚男性とあんま変わりない?
子供がいれば、ひょっとしてクリプレでも届けに行ったりするのかも知れないけど、係長は子供いないらしいから、その線は無い訳で、そうするとどうやって過ごしているんだろ? 誰か女の人と一緒だったら嫌だなあ。でもその可能性は大いにあるよなあ。係長ヅラのおかげで、歳より若く見えるし。
誰か知らない女の人の前で、係長がそっとヅラを外して見せて、その輝く頭部に、クリスマスイルミネーションが映っていたりしたらガッカリだよ。大体あたし照りのあるハゲって好きじゃないし。ハゲはやっぱ、くすんだ感じの光の無いハゲがいいね。枯れ木の味わいってやつ?
そもそもあたしは、血色のいい老人も好みじゃないしね。人はやっぱ、歳と共にほど好く枯れてくのがいいね。この間11月になってもまだ、コスモスが咲いているのを見たけど、ああゆうのは不気味だよ。じっくりと落ち着いて枯れてくのがいいよ。人も植物も。
つーかハゲがテカッていようとくすんでいようと、それ以前に、係長が今日女の人と一緒だったらと想像すると、かなり切ない。
だからあたしは、その切なさを少しでも緩和するために、今回河合君とイヴを過ごした。でもそれが効を奏したのかは、よく分かんない。
だって考えようによっては、そこまでしなきゃならないほど、あたしは係長にまつわる妄想に、苦しめられているってことだしさ。
もし河合君とエッチをしていたら、あたしは今もっと、気持ちが楽だっただろうか? 係長にまつわる苦しい妄想を、頭から振り払う事が出来ただろうか?
いやそれはないな。あたしは男関係は、そうストイックな方ではないけど、でもどれだけ心が乱れても、寝たくない相手とは寝たくないもん。だからもしうっかり河合君と寝たりしたら、きっとすごく不快だっただろう。実際別れた後、懇願されて一度だけ寝たけど、その時、全然楽しくなかったし。
好きな人がいるのに、相手が近付いてもくれない時って、妄想に苦しめられるものだし、その妄想は、他の男と関わることによって幾分は緩和されるものではある。でも寝たくない男とは寝られないし、無理して寝ても不快なだけだから成す術が無い。
でも別に寝てもいいと思える知り合いもいるから、あたしは本当は今日、寝てもいいと思える相手と、今日を過ごすべきだったのかも……って、生理だから無理じゃん。
そっか。どっちにしろ出来ないんだから、やっぱ相手は河合君で良かったんだ。ならまあいいや。別に久し振りに会って楽しかったし。河合君は真面目で純粋だから一緒にいると心地いい。
それに今日はイヴだから、軽々しく誰かと寝たりするのは、後々面倒臭いしね。イヴって一人でいると寂しい日なのに、一緒に過ごす相手は厳選しなきゃいけないから、厄介な日だよ。そう考えると今日は河合君と過ごすのが、一番良かったのかも。
でも本当なら、女友達と過ごすべきだったんだろうな。それなのに妄想に苦しめられるのが怖くて、生理中にも関わらず、男と過ごしたりして、あたしって半端でずるい奴だ。もし女友達と過ごしてれば、少なくともこんな風に、自己嫌悪に陥ることは無かったのにね。
結局あたしは、自己嫌悪に苛まれることよりも、係長にまつわる妄想に苦しめられることの方が、怖かったってことだ。でも河合君と過ごしたからといって、妄想を完全に捨て去ることも出来なくて、何て中途半端で、馬鹿なあたし。
係長が社内の人じゃなかったら良かったのになあ。そしたらほんの少し、勇気を出してみるっていう選択肢もあるのにね。でも社内の人だから知り合えた訳だし、もし飲み会とかで知り合っていたら、その場で、ヅラであることを知ることが出来る機会は、まず無いだろうから、好きにはならなかっただろうけど。
どうにもならない恋心って、ホント苦しいなあ。こんなことなら好きにならなきゃ良かったんだろうけど、でもあたしはなぜか、好きにならなきゃ良かったとは思えない。報われないのに関われないのに苦しいのに、それでも今、自分が抱いている恋情が愛しくて、手放すことが忍びないから。
人ってこういう風にして、恋の深みに落ちてくのかなあ。何かを好きだと思う気持ちって、報われる報われないに関わらず、貴重に思えるのはどうしてだろう? まあでもそう思わない人間は、そもそも片想いなんてしないよな。
好きになった途端、行動を起こす人は、ひょっとしたら好意というものは、報われなきゃ意味が無いと思っているのかも。だから自分から動かないタイプの人間を、「イジイジしている」とかって、非難するんだろうなあ。
まあ中には、そういう価値観を持っているのに、行動が伴わない人もいるだろうけど。でも思うんだけど、なかなか動かない人っていうのは、ひょっとしたら報われなくても、自分の抱いた好意に価値を感じられるタイプなんじゃないのかね?
ただあたし自身が、完全にそういうタイプかっていうと微妙だな。好意を持つこと自体にも、価値を感じるけど、でも妄想に苦しめられるのが辛いから、係長の気持ちを手に入れたいとも思うから。でも社内恋愛は怖いから、やっぱ動きたくない。
何だかがんじがらめだな。気持ちをどこに収めたらいいかが分かんない。突破口が欲しいなあ。
12月25日(月)
〔あたしは、禁を破ろうとしている〕
今日までに年賀状を出せば、元旦に届くとのことなので、会社の郵便物を出しに行くついでに、自分の分も出して来た。
何と早田係長にも出しちゃった。去年まで出してなかったし、今年も特に、社内で関わりがあった訳じゃないのに、いきなり出したりして、変に思われるかも知れない。でもどうしても出したくて出しちゃった。
これが何らかの突破口になるのかはよく分かんない。つーか突破口を求めているからこそ、昨夜突然思い立って年賀状を作成して、ギリギリ今日の投函に、間に合わせちゃった訳だけど、でも正直言って、この年賀状をきっかけに事態が展開しちゃったら、困るという思いがある。だってあたし何の心の準備も出来てないし。
でも冷静に考えればたかが年賀状だ。文章も
「昨年はお世話になりました。今年もよろしくお願いします」
という超シンプルな内容だから、まあ年賀状が余ったから、たまたまオレに書いたんだろうくらいに思われるんじゃないかと。つーか是非そう思って欲しい。だって気があるんじゃないかとか悟られたら、あたし恥ずかしくて気絶しちゃいそうだから。
つーか正直、何賀状が余ったからたまたま書いたのよって、自分に言い訳しながら書いた。そういう心理って何なのかしら? 好きだから近付きたいだけなのに、それを認めるのが嫌で、自分にすら言い訳している。
多分あたしが自分に、社内恋愛を禁じているからだろう。それなのにあたしは禁を破ろうとしている。たかが年賀状よ、内容も大したことないじゃないって言い訳しながら。
ちょっとマズい状況になってきたなと思う。実際年賀状出したくらい大した事じゃないんだけど、ただこれから、これくらいなら大丈夫って思いながら、ちょっとずつ禁を犯していくだろう自分が、予想出来て怖い。
もし万一係長が、年賀状をきっかけにあたしに目を留めて、そして少しずつ仲良くなっていきそうな感じになったとしたら、あたしは自分にストップをかける自信が無い。あたしのことだから、パーッと盛り上がって、それですぐトラブッて、それでまた会社にい辛くなっちゃうんじゃないだろうか。
願わくば係長が、年賀状を無視してくれればいいと思う。でもそんなことをされたら、あたしはすごく傷付くから、ちゃんと返事をくれればいいと思う。
何だか矛盾しているな。あたし今日混乱しているかも。年賀状を出したりしちゃったから、それで高揚しているっていうのもあるけど、もう一つの原因は、会社帰りにフユミンとご飯を食べに行ったからかも。
「実はこの前話した会社の気になっている人は、ヅラを被っているんだ」
と報告したあたしに対し、フユミンは
「わたしは、ハゲって無理」
と答えたけど、その後で
「でもそうやって、外見で嫌うのって良くないよね。ハゲは本人の責任じゃないのにね」
と申し訳なさそうに付け加えた。
ムカつく所もあるけど、でもこういう所があるからフユミンを嫌いになれないんだよなあと思う。
だってあたしだって、ブ男は嫌いだもん。人に対して外見で好悪の情を持つのは、いけないことだし、馬鹿なことだっていうのは分かっているけど、でも嫌いなものは嫌い。だからそんな自分に罪悪感持ってしまって苦しかったりする。
だからあたしは、罪の意識に駆られるフユミンを、何とか救ってあげたくなって、フユミンがハゲを嫌う大義名分を探し当てた。その大義名分とは
「フユミンはエッチが好きじゃないから、ハゲが嫌いなんじゃないの?」
という仮説だ。
巨乳なのに実にもったい無い話だけど、フユミンはかなり淡白な方だ。何せ
「前戯一分、インサート一分でいい」
なんて言うくらいだし、ある時なんか、熱心に前戯に励む有真君に
「パッパと入れて、パッパと終わろう」
と提案し怒らせたこともある。
その前に付き合っていた人にも、エッチの淡白さについて、説教されたという話だし、そんな淡白女にとって、絶倫の呼び声高いハゲ男が、愛し辛い存在であるのは致し方ないことだし、両者の幸福を考えるなら、淡白女はハゲ男を避けるに越したことがないんじゃないかということ。
ただここで問題なのは、ハゲ男が絶倫だという説に、信憑性はあるのかという点。まああたしは多分あると思う。
そもそもハゲの原因を作るのは頭皮の脂だけど、頭皮に限らず、肌を脂っぽくさせるのは、男性ホルモンの活動によるものだ。男性ホルモンは性欲も司っているから、頭がハゲている人は、男性ホルモンが活発=絶倫と見ていいと思う。
だからあたしは、ハゲ男を嫌うフユミンを、仕方ないことだよと慰めてから別れたけど、別れた後で、何だかモヤモヤした気分になった。
理由の一つは、ハゲ男=絶倫ということは自分の父親も、絶倫ということだよなあと思ったから。身内が絶倫だったり、性欲が強かったりするのって、何となくキモい。しかも男の子を欲しがりながら、結局あたしと八寿子という姉妹しか作れなかった父親が、絶倫かも知れないなんて、すごく無駄な性欲って感じでイライラする。
エッチの時に女が達しないと、女の子の精子が、受精し易いっていう説もあるしさ。
オーガズムに達すると、女の体は酸性に変化するから、酸に弱い男の子の精子が、卵子に辿り着けないっていう説は、もちろん絶対じゃないだろう。でもそんな説を聞いちゃうと父親に対して、男の子が欲しかったんなら、母親をイカせりゃあ良かったじゃないの。どうせ自己満足なセックスしたんだろって気分になる。
自分の父親が、絶倫のくせにエッチは下手だなんて、何だかとってもやるせない。つーか自分の恋愛話から、両親の寝屋を妄想してしまう自分が、一番やるせない。
だからあたしは、その話はひとまず置いといて、早田係長のことを考えることにした。ハゲ男である係長は、ひょっとしたら絶倫かも知れない。そう考えると何だか胸の奥に甘酸っぱいものが広がる。
でも係長が絶倫であって欲しいのか? と考えると、正直微妙。あたしは実際、性欲が旺盛過ぎる人は苦手だし。だから結局、係長が絶倫かも知れないと考えてドキドキするのは、絶倫を望んでいるというよりは、単純に好きな人の性的傾向を考えることに、ドキドキしているってことなんだろう。
何つーか、極端な絶倫や極端な淡白男じゃない限りは、どうでもいい。ただ性欲が多少強かろうと弱かろうと何でもいいから、係長は実際、どうなのかを知りたいっていうか、こういうある程度はあるがままを受容したいっていう思いが、恋愛感情というものなのかなあ。
ただ必ずしも絶倫を望まないんなら、どうしてあたしは、男性ホルモンが活発だと思われるハゲ男が好きなんだろう? という疑問も湧く。でもそれは、あたしがくすんだハゲ男を好む辺りに答えがある気がする。
基本的にハゲは、頭皮の過剰な脂が原因な訳だけど、(だから烏龍茶で頭皮を洗うなんていう眉唾予防法を、うちの父親が実行している訳で)でも原因は、その他にもストレスやら何やら、色々ある訳で。つまりテカったハゲ男はあまりタイプじゃないあたしは、男性ホルモンの活発な男を、望んでいる訳じゃないということだろう。
ということは、係長もくすんだハゲであることが望ましい訳だけど、実際係長の脂具合っていかほどなんだろう? 顔の肌ツヤとかは、見た感じ、特に良くも悪くもないようだけど……。
ああこうやってあれこれ妄想していても、らちが明かない。早く真実が知りたい。ひょっとして片想いはもう限界かも。
12月26日(火)
〔だとしたらハゲ男を嫌う女は、何と幸せで傲慢なんだろう〕
母親から
「八寿子が言っていたけど、帰って来ないんだって?」
と電話が来た。母親のこういう物言いは、楽だけど腹立たしくもある。母親は決して「帰って来なさいよ」と言わない。いつも「帰って来ないんだって?」とか、「帰って来るの?」という言い方をする。
でも「帰って来なさいよ」と言われてしまうと、やっぱ拒否し辛いのが人情だから、質問形式にされるのは楽ではある。でも今まで一度もあたしに、「帰って来なさいよ」と言ったことの無い母親にはやっぱり腹が立つ。もう五年も帰省してない娘に、一度も「帰って来なさいよ」と言わない母親に腹が立つ。
そしてそう言わない代わりに愚痴をこぼして心配させてみせて、あたしが自分から
「やっぱ帰ろうかな」
と言い出すのを待つ母親に、腹が立つ。
いや考え過ぎか。愚痴は愚痴であって、母親は別にあたしに帰って来て欲しくなどないから、「帰って来なさいよ」と言わないだけか。
だとしたらやっぱり腹が立つ。電話の度に毎回愚痴をこぼし、あたしを無料のカウンセラーに仕立て上げているくせに、そんなあたしに対して、「帰って来なさいよ」と、たった一言言う愛情すらも持たない母親に、あたしはやっぱり腹が立つ。
あたしの悩みなど聞いてもくれず、毎回自分の愚痴だけをしゃべり散らし電話を切ってしまう母親。しかもそんな電話すらも、数ヶ月に一度、かけてくるだけの母親の愚痴を、なぜあたしが聞いているかといえば、それはもちろん母親に好かれたいからだ。
けれど母親はあたしを好いてくれない。母親はただあたしを、便利に使っているだけだ。それを分かっていながら、便利な娘という存在に、甘んじているあたし。
でもだからといって、母親がそして父親が、八寿子の事は愛しているかというとそれはまた違う。彼らは八寿子の事こと、あたしよりは気に入っているだけであって、結局彼らは、八寿子の事も愛してはいない。
ただ、愛ではないとはいえ、あたしよりは八寿子を気に入っていたはずの母親から、最近八寿子に関する愚痴が増えた。八寿子は近頃母親に、暴力を振るっているという。
これは至極当然の話だ。なぜなら両親は、男の子を欲しがっていて、それゆえに女であるあたしたち姉妹を愛さず、ただ性格的に男っぽい八寿子のことを、比較的気に入っていただけの話だったんだから。
暴力というものは、比較的男性がとる行為だ。自分の中の男っぽさを、伸ばす接し方をされて育てられた八寿子が、長じて母親に暴力を振るうようになったとしても、それは当然のことじゃないか。それなのにそれを悩む母親は矛盾している。
今頃になって八寿子の暴力に悩むなら、幼い頃、姉であるあたしに対し手を出しまくっていた八寿子に、注意をするべきだった。男の子に泣かされて、帰って来た娘たちに対し
「やり返して来なければ、家に入れない」
などと言って、締め出したりするべきではなかった。調理実習で習った料理を、家で再現するあたしを無視し、体育の成績のことばかりを、口うるさく言ったりするべきではなかった。
女の子を欲しがった母親が、幼い息子に、女の子の格好をさせる話はたまに耳にする。それに最近は夫婦揃って、女の子を欲しがるケースが多いという話なのに、うちの両親は本当に変わっている。
彼らがどうして、いわゆる男らしさというものにしか、価値を見出さない人たちなのかは分からない。その極端さが、現在自分たちの首を絞めているんだから、本当に愚かな人たちだ。ただ八寿子は、父親には暴力を振るっていないらしいから、今のところ馬鹿を見ているのは、母親だけということになる。
だからあたしは、何だかんだいって、母親に同情しながらその愚痴を聞いてしまった。狭義に於ける男らしさにしか、価値を見出さない両親のことは嫌いだし、その価値観にあまり疑問を持たずに、実践している八寿子のことも嫌いだけど、現時点で肉体的な被害を被っているのが母親だけだと思うと、やっぱり同情してしまう。
でもそれは、身から出た錆だから、本当は同情には当たらないはずだけど、錆だろうと何だろうと、困っている人に頼られるとつい同情して、いいように使われてしまうお人好しさがあたしにはある。そしてあたしのそのお人好しさを、母親に見抜かれているからこそ、こうして利用されてしまう。
共感力とか同情心は、比較的女の得意分野なのに、あたしのそういう女らしさを、利用している母親はずるい。男性性至上主義者のくせに、人の女らしさは利用するんだからずるい。
まあでも誰かを差別するような人間なんて、皆そんなもんだけど。森羅万象どんな特徴にだって、長所と短所があるのに、それに気付かず、何かを殊更に排除しようとしたり、あるいは気付いていながら、差別しつつ利用するような人があたしは嫌いだ。
それなのに、そんな嫌いな人に利用されて甘んじている自分は、何て駄目な女なんだろう。なぜあたしは親を見限れないんだろう。あたしの親との関わり方はとても半端だ。単に帰省をしないだけ、自分から連絡を入れないだけで、連絡がくれば応対するし、愚痴られれば親身になって、話を聞いてしまう。
親子の情ってすごく複雑だ。そんな最低の親からでも、愛して欲しいと願ってしまう。でもそんな最低の親に愛されても、手放しには喜べないという思いもある。だって最低の人間に愛されるには、自分も最低にならなきゃいけないから。
結局あたしはそれが嫌だったから、男っぽくなることを、目指さなかった部分がある。それでも小学生の頃までは、親の期待に応えるべく、男の子と取っ組み合いの喧嘩をしたり、自分を「僕」と呼んだり、スカートを拒否したりしていたけど、異性に関心を持つ年頃になってからは、段々と女らしくなった。
まあ多くの女は、年頃になると女らしくなるものだけど、あたしの場合は、両親よりも、恋愛対象である男に好かれる道を選ぼうと思ったからというのが大きい。
だってどんなに頑張ったところで、本物の男にはなれないし、それにあたし自身、オナベ願望がある訳じゃない。あたしは別にめちゃくちゃ女らしい訳じゃないけど、そんなに男っぽいタイプでもない。初対面の人には大抵、「お嬢さんっぽい」とか言われるし。
まあでも親しい女友達には
「時々、男みたいだよね」
とか言われるから、やっぱあたしは、女っぽくもあり男っぽくもあるつまりは普通の女ってことでしょう。つーかあたし自身は、女である自分が好きだ。生まれ変わってもまた女になりたい。カレシに目一杯甘えるのが好きだから。女として男の人に可愛がられるのが好きだから。
母親と話して気分が塞いだから、早田係長に会いたくなった。会って目一杯甘えたくなった。でも全然そんな間柄じゃないから、やっぱ今夜は会いたくない。今夜のあたしは、依存心が強まっているから、そんな状態でそんな間柄の人に会っちゃったら大変。実際、最上さんと間違い起こした時は、そういう精神状態だったし。
つーか別にそんなこと心配しなくても、今夜会うなんてこと、起こりようがないからいいんだけどね。ただ……、この甘えたい気持ちって、もしかして他の感情が混ざっている? という気がした。
だってあたしは、母親に対する以上に、父親に対して強くて複雑な気持ちを持っているもの。母親は何だかんだいって、あたしに連絡寄越すけど、父親はもうこの五年もあたしに連絡寄越さないし、何つーか、利用すらされないのってへこむ。
父親は男だから、母親以上に男性性至上主義で、娘であるあたしの利用価値にすら、気付いてない部分がある。
だって父親が求めている女性性、すなわち身の回りの世話と、房事の相手は母親がしているから、そうすると父親としては、あたしに求めるものが無いんだよね。一緒に住んでないから、家事も出来ないし、それにお互い近親相姦願望は無いし。
まあでも普通の父親だったら、娘がただ娘であるという事実だけで愛しいから、娘と話したい、娘と仲良くやりたいとか思う訳だけど、あたしの父親は、そもそも女という存在にハウスキーピングと下処理しか望んでないんだよね。そうすると父親にとっては、娘という存在、それも妹より比較的女らしいあたしという存在は、全然利用価値が無い訳だ。
実の娘に対し、そんな感情を持つ父親を、恨まずにはいられないし、父親の愛情を諦めたところで喪失感は拭えない。だからあたしは代償行為として係長を好きになった部分があるのかも知れない。父親と同じく年上の男、父親と同じく、ハゲ上がった頭部を持つ男である係長を。
普通はどうなんだろう? 年上でハゲた男に粗略に扱われた場合、同じ特徴を持った男のことは、むしろ嫌うものなんだろうか? でもあたしは本当は、父親に愛される権利があったはず。年上のハゲ男に愛される存在だったはず。子供というものは通常、ただ存在しているだけで、親からの愛を得る権利があるはず。
けれどそれが得られなかったから、あたしは係長に、愛情を求めているのかも知れない。係長の好意を得ることによって、喪失感を埋めようとしているのかも知れない。いや得られないまでも、父親と同じ特徴を持った男に、恨みではなく愛情を感じることによって、年上のハゲ男という存在を、克服しようとしているのかも知れない。
もしかしたら、世の多くの女がハゲ男を嫌うのは、父親に愛されているからかも知れない。大概の女は、父親の存在をうざったがるものだし、ハゲた父親から、うっとうしいほどの愛と干渉を受けている彼女たちからすれば、ハゲ男の存在は、間に合っているから結構ですっていう感覚なのかも知れない。
だとしたらハゲ男を嫌う女は、何と幸せで傲慢なんだろう。あたしだって本当は、そんな幸せで傲慢な女になりたかった。でもあたしは、一番身近なハゲ男に愛される経験を持たなかった。だからあたしがハゲ男である係長に惚れたのは、心理学で言う代償行為のようなものなんだろう。
思えば八寿子が、幼い頃からハゲ男を気に入っていたのも、同じ理由だったのかも知れない。八寿子は多分、あたし以上に父親のことが好きだ。だから何だかんだいって、自分を愛さない父親の住まう実家からも出なかったし、父親の好む男性性を、所有する女になった。
そして22歳の現在、八寿子は年齢とカレシいない歴が、同年の女になってしまっている。先月電話を受けた時、八寿子は
「このまま一生、カレシが出来ないんじゃないか」
と悩んでいた。ひょっとしたらその懸念は、杞憂に終わらないかも知れない。男っぽい上にブスでやたらガタイが良く、横柄で世間知らずで家事もしない女なんて、あたしが男だったらごめんだ。
完全に見限れなくてもそれでも、自分を愛さない親なら、距離を取って周囲に目を向けることは大切だ。そうすればとりあえず、カレシは出来る。まああたしは結局誰とも続かなかった。それでも誰かと付き合うという経験は、好意というものは、他人からも得られるものなんだということに気付かせてくれる。
ただ、あたしの今の好意の相手、係長が、同じ好意を返してくれるかは分からない。そしてもし好意を返されてしまったら、あたしは禁断の社内恋愛に、突入することになる。
でもそれでもいい。禁断だろうと何だろうと、恋愛が始まれば自分が親に愛されていない事実を、少しは忘れることが出来るから。ただどんな恋愛をしたところで、親のことを、完全に忘れることは出来ないけれど。
でもあたしは今、少しだけ期待している。ひょっとしたら父親と同じハゲ男である係長に愛されれば、親のことを、忘れる度合いが深まるかも知れないから。
あたしだって世の女みたいに
「ハゲ男の愛情は、間に合っています」
と言ってみたいのだ。
12月27日(水)
〔ラッキーハプニング発生後、アンラッキーな結論に至った日〕
営業の事務員が、今週に入って二人、ノロウィルスにやられて欠勤しているので、営業部がてんてこ舞いらしい。そこであたしが急遽助っ人として駆り出されることになった。何と早田係長の、ご指名らしい。
とはいえあたしだって、自分の仕事あるし、それに総務には総務の、仕事の分担ってもんがあるんだから、助っ人依頼はしてもいいけど、人選はこっちに、委ねるべきなんじゃないのって気もしたけど、でもやっぱ係長に指名されたことが嬉しくて、あたしは二つ返事で、営業にすっ飛んで行った。
こんなに指名が嬉しいのは、水商売時代、指名ゼロで閉店時刻を迎えそうになって焦って以来だよ。つーか実は、自分の仕事は前倒しに片してあったから、よその手伝いも平気だったんだよね。年末って突発的なこと起こるから、通常業務は早目にやっつけとくに限るね。
とはいっても、営業部の手伝いなんて初めてだったから、不安もあったけど
「とにかく、電話と来客の応対をしてくれればいいから」
との指示を受け、え、それだけ? と思っていたら、何と電話と来客の嵐で、本当にそれだけで一日が終わってしまった。営業部ってやっぱ、人の出入り激しくて活気がある。
人の出入りといえば、上杉君が二度も営業部に来て目障りだった。販促だから営業に用事が多いのは分かるけど、こっちは入社後初めて、早田係長と同じシマで仕事する幸運に恵まれた訳で、その幸福感に浸っているんだから、水を差す様なこと、しないで欲しいっていうか。
でも上杉君が、営業部に出入りする様子を見たことによって、上杉君と係長の確執を、この目でしっかと見ることが出来てしまった。つーか係長、上杉君に対してちょっと酷いかも。稟議書の日付欄に曜日を書いてなかっただけで、あんなに罵倒すること無いっていうか。
そりゃああたしも、上杉君のことは嫌いだし、「許さない」とも言ったけど、でもあたしは少なくとも、仕事上ではあれ以降も普通に接している。だって公私混同するのは、大人としてどうかと思うしね。
それなのにあたしよりもっと大人な係長が、上杉君を明らかに敵視していて、あたしは何だかハラハラした。
何があったかは知らないけど、そんなに辛く当たったら、上杉君にヅラであることバラされちゃうよ。現に上杉君は、酔った勢いであたしにはバラしたんだよ。いやひょっとしたら、もう他の人にもバラしたかも知れない。
でも今ならまだ、社内で噂になってないから、もうその辺で上杉君に対する態度改めてよ。悔しいかも知れないけど、秘密を握られた相手の機嫌は損ねちゃ駄目だよ。と思った。
つーかそこまで思った時、あたしの頭には、一つの仮定が浮かんだ。ひょっとしたら係長は上杉君に秘密を握られたからこそ、上杉君に喧嘩腰なのかも知れないってこと。人って自分の秘密を握った相手を憎むものだもの。
秘密をバラされないために、常に機嫌を取り続けなければならない煩わしさ。そこまでしてもバラされるかも知れないという恐怖。そんな負の感情を、自分に味あわせる相手への怒り、そして愚かにもその感情をストレートに出してしまう、自分への嫌悪。
そんなものがゴチャゴチャになって、係長は、懐柔するべき上杉君に、かえって反発してしまっているのかも知れない。そう思ったら、あたしは何だか切なくてたまらなくなった。
人たらしでなければ出来ない営業職に就いていながら、この人は何て不器用なんだろう。ヅラはそんなに器用に被るくせに、どうしてそのヅラの秘密を守ることには不器用なんだろう。
間違っている、間違っているよ、でも係長だって自分が間違っていることに、気付いているんでしょう? だから苦しんでいるんでしょう? あたしじゃ駄目ですか。あたしじゃ力になれませんか。そんな風に思った。
でもあたしは、もう一つのことに気付いてしまった。もし係長が上杉君を嫌っている理由が、あたしの推測通り、ヅラの秘密を握られている所以だとしたら、係長はあたしのことも憎むだろうということ。
ヅラだからこそ、そしてヅラの事実を、コソコソ隠している係長だからこそ、あたしは係長を好きになったのに、それゆえに憎まれてしまったら悲し過ぎる。しかもあたしが、秘密を握っていることを知られた場合、係長にとっては、上杉君とあたしが同類になってしまうのだ。
そもそもあたしは、上杉君を嫌いだからこそ、係長を好きになった部分があるというのに、上杉君と同類と思われ、憎まれてしまったら、泣くに泣けない。
だからあたしは決意した。例えチャンスが到来しても、自分から決して想いを打ち明けたりはしないって。あたしがヅラである係長を愛していることは、言ってはいけないことなのだ。
係長の側の席に座って、今日一日仕事をして、体の距離は近付いたのに心の距離は離れたみたい。これはやっぱり、叶わない恋なのかも知れない。
12月28日(木)
〔ラッキーハプニング発生後、ラッキーな心境で終われた日〕
仕事納めだというのに、仕事が押して総務の納会に出席出来ず、代わりに営業の納会に出席した。総務の飲み会には飽き飽きしていたし、早田係長参加の営業の納会に出られて嬉しかった。だってどうせ、年明けには営業の事務員も出社するだろうから、係長の側にいられるのも、これが最後だなと思ったから。
とはいえ、たった二日仕事を手伝っただけの営業の納会に、長っ尻決め込むのも気が引けたから一時間そこそこで帰ろうとしたら、何と係長が車で送ってくれた。しかも初詣に、一緒に行く約束までしちゃった。
どうして係長は、初詣に誘ってくれたんだろう? 考えられるのは帰りの車の中で、あたしが
「将来頭が薄くなりそうな人が、好みなんです」
と言ったからかも知れない。つーか係長は今現在薄い訳だけど、実はあたしは本当は、今薄い人より、将来薄くなりそうな人の方が好みなんだよね。
楽しみは後にとっておきたいっていうか、例えば結婚後、何十年かして、ふと隣に座ったダンナの寂しげな頭部を見た時に、この人の頭がこんなに薄くなるほど、長い長い年月を、共に過ごしてきたんだなあって、しみじみするのが夢というか。
でも最近、結婚に対して、イマイチ夢を持ちきれない自分もいる訳で、そうすると将来薄くなりそうな人なんて、悠長なこと言ってられないんだよね。だって結婚を信じない気持ちっていうのは、男女の長い関係を、危ぶむ気持ちにもつながっているからさ。
つまりいつか別れるかも知れない相手なら、将来ハゲたところで、その頃には別れているかも知れないから、意味無いってこと。それよりは前もってハゲといてくれた方が、安心出来る。やっぱ業務もハゲも前倒しよね。ついでにホモと車庫入れはバックからよね。
つーかまあそんな訳で、本来の望みは、将来ハゲそうな人と長らく幸せに過ごすこととはいえ、不安感から早目のハゲを望むあたしとしては、現実的に現在ハゲてる係長が好きな訳だけど、でもさすがに
「今まさに、ハゲあがっている人が好みです」
とは言えないやね。だってそんなこと言ったら、あたしが係長がハゲていることを、知っているってバレちゃうよ。
係長はハゲを隠しているんだから、あたしが知っていることを、匂わせる訳にはいかないもん。でもやっぱり、ハゲである係長を好きだってことを伝えたかったから、
「頭が薄くなりそうな人が、好み」
という言い方しちゃった。そしたら係長に、初詣に誘われた訳だから、これはやっぱり上杉君のチクリ通り、係長はハゲなんでしょう。
ただ…、ハゲが好きと伝えた途端デートに誘われたという事は二通りの可能性がある。
⑴ 係長は元々あたしのことを気に入っていて、お気に入りのあたしが、係長の特徴であるハゲを好みだと言ったので、気を良くして誘ってきた。
⑵ 係長は大してあたしを気に入ってはいないが、あたしが係長の特徴であるハゲを好みだと言ったので、気を良くして誘ってきた。
正直どっちの可能性もあると思うんだよね。もちろんあたしの事、大嫌いなら誘わないだろうけど、でも男って、嫌いじゃない相手が自分のこと好みっぽいなと思ったら、粉かけてくるもんだしさ。それにハゲって、普通女に嫌われるのに、その特徴を好いてくれる女がいたら、ほっとくはず無いと思う。
一体係長はあたしのこと、どう思っているんだろう? 営業のお手伝いは係長のご指名だったし、今日は向こうから言い出して送ってくれたし、車の中では
「飯久保さんは、お客に評判いいねえ」
と褒めてくれたし、ハゲ肯定発言以前から、気に入ってくれていたって信じたいけど、でも気に入っていたとしても、一体どれくらい気に入ってくれているかは分かんないもんなあ。
でもお互い独身で帰省の予定も無くて、年末年始は暇なのに、敢えて元日を、デート日に指定してきたということは、気に入り度は結構高いと見ていいのかな? でも元日まで四日もある。何で係長はそんなに日を空けたんだろ? 何か予定があんのかな? 年賀状作成? 大掃除? それとも年末は他の女とデート?
はあ。せっかくデートに誘われたんだから、浮かれてりゃあいいのに、あたしって苦労性だな。でもそれでも何だかんだいって不安より嬉しさの方が大きい。だってこんなことになるなんて、予想してなかったもん。それどころか昨日なんか、叶わない恋かも、なんて落ち込んでいたし。
つーかこんな事になることを、あたしは本当は、自分に許してなかった。だって社内恋愛はもうするつもりなかったから。ただ心の中でだけ、想っているつもりだったから。
でも結局、向こうが誘ってきたんだから、しょうがないじゃんという気がする。あたしが仕掛けた訳じゃないんだから、仕方ないじゃんという気がする。
でもあたしは本当に、自分から仕掛けなかったって言えるかな。ハゲを好みだと言ったこと、納会の席で、皆に平等に気を配っているように見せかけながら、係長の飲み物や食べ物に一番気を配ったこと、仕事中係長と目が合うと、いたずらっぽく笑って見せたこと、ああいうのも厳密に言えば、仕掛けたことにならないかな。
社内恋愛なんかしない、しない、しない、しない。あんなに決めていたのに、あたしは自分から進んで今の事態を引き起こした。受身が聞いて呆れる。……いや実際、受身な部分はあるし、全くこっちからは仕掛けなかったのに、事が進んだ経験もあるけど、でも今回に関して、あたしは厳密には受身じゃなかった。
でもそんなことどうでもいい。あたしは今日ただとにかく嬉しい。初めて係長に送ってもらったことが。そして新年早々、係長に会えることが。来年は良い年になりそうな、恋愛元年を迎えられそうな気配があることが。
12月29日(金)
〔堕天使と免罪符〕
根津先輩から愚痴電を受ける。とうとう離婚を決意したらしい。この年の瀬に大変だ。つーかほんの三週間ほど前には、離婚歴のある人なんか、ろくなもんじゃないと言っていた先輩が、離婚することになるなんて、人生って分かんない。
でもざまあみろとは思わなかった。だって先輩のお義姉さんはやっぱ酷いと思うから、悪く言った気持ちは分かるし、それに離婚を決めた、先輩の気持ちも分かるから。
だって結婚してまだ一年目だっていうのに、ダンナが愛人、孕ませちゃうなんてねえ。別に長年連れ添っていれば、孕ませてもいい訳じゃないけど、何つーかまだ結婚してそんなに経ってないのに、そこまでの波乱が起きちゃうと、この先が思いやられる。
先輩は元々保育士志望で、資格取ったくらいの子供好きなのに、少子化の影響で、保育士を諦めたような人だから、そんな人が自分がまだ妊娠してないのに、愛人が妊娠しちゃったとなったら、かなりキツイもんがあると思う。しかも妊娠だけじゃなく、愛人に乗り込まれちゃうなんてねえ。
法的には先輩の方に権利があるから、本当だったら先輩が乗り込んでもいい立場だったはずなのに、向こうに乗り込まれちゃうと、その理不尽さに、かなりへこむだろうなと思う。そんな理不尽な女と浮気していたダンナにも愛想が尽きそう。ああこの人は、そんな身勝手な女と、関係出来るような人だったんだみたいな。
しかもそんな身勝手な女に、種まいて、芽を出しちゃうんだから酷い。そんな発芽の仕方をした子供も可哀想。あたしがその子の立場だったら、出生の秘密を知ったその日に、自殺を考えちゃうかも知れない。
姦淫の罪の中で、自分の命が芽生えたなんて最悪。自分の発芽が多くの人の人生を左右したなんて、責任の重さに耐えられない。
父親は本当は、前の奥さんと別れたくなかったのに、自分が出来ちゃったから、やむを得ず別れて、母親と結婚したんじゃないかとか、ひょっとして後悔しているんじゃないかとか、母親自身も最終的には後悔しているんじゃないかとか、前の奥さんは、さぞかし自分を恨んでいるだろうとか、そういうことを、考えながら生きてくのは、かなり辛いもんがある。いっそ堕ろしてくれれば良かったのにと思うかも。
でも……、第三者としては、その子を堕ろすべきだとは言えないけどね。だって中絶って合法とはいえ殺人だもん。だから先輩が離婚を決めた気持ちが分かる。だってもし別れないとしたら、おなかの子はどうするの? って話になる。
もし先輩が別れなければ、愛人は先輩のダンナと、一緒になれない訳で、そうすると愛人が、だったら堕ろそうって決めちゃう可能性がある。自分が妻の座にしがみついているせいで、一つの命が闇に葬り去られるのはキツイ。
かといって
「わたしは別れる気無いけど、子供堕ろしたら承知しないわよ」
と言う権利は無い訳だし。結局妻に与えられている権利って、精神的慰謝料を請求する権利だけだからさ。
夫を寝盗られた事実は、ひょっとしたら慰謝料を得る事で、ちょっとは和らぐかも知れないけど、いたいけな子供の殺人に、加担した心の重さは、いくら金もらってもどうにもならんからね。
人って被害者になった場合は、傷を忘れる権利があるけど、加害者になった場合は、忘れる権利が無いからね。もちろん先輩は被害者なんだけど、でももし愛人が中絶をしたら、どうしたって加害者の気分も、味わう羽目になるしね。
愛人が子供を生むことが、正しい事かどうかは分かんない。でも分かんないなら尚更、妻の側としては、別れることによって関係をすっきりさせて、問題を少しでも、シンプルにするべきなんだろうと思う。
まあでも先輩が別れなければ、愛人が中絶するのかどうかは分かんないけど、でも仮に生んだところで、今度はまた別の問題が発生するしね。だって婚外子の扱いって、よく知らないけど色々パターンがあるみたいだし。
そういうケースを、調べて考えるのも面倒臭いっつーか。何でそこまでして、この問題に、関わらなきゃいけないんだろう? という気分になりそう。
あと養育費の件とかもウザい。正直愛人になんか、一円もくれてやりたくないけど、でも全くあげないのも子供が可哀想だし、でもあげることによって、夫の支出が増えれば、生計を共にする者として多少なりとも金銭的な苦労をする訳だし、何でそんな苦労をしなきゃいけないのか、訳分からん。
それに将来、自分が身ごもった時に複雑だし、一生身ごもらなければそれもまた複雑な訳で、結局結婚生活続けたところで、デメリットだらけなんだから、やっぱ別れるしかないでしょう。
それでも先輩のダンナは、まさか離婚にまでなるとは思っていなかったらしく、離婚の申し出にびっくりしているらしい。何だかこっちがよっぽどびっくりした。世の中には、随分楽観的な人間がいるもんだと思う。まあ楽観的じゃなきゃ、愛人と生でヤッたりはしないよな。
あたしは以前、先輩のことを、自分が男だったらあんなカミサンはたまらんと思ったけど、でもまさか、本当に別れるとは思ってなかった。だって先輩は気が利く人であるのは確かだし、そういう人は重宝されるもんだし。それにダンナだって、そんな先輩を重宝したからこそ、妻に選んだんだろうから。
ただ先輩は前に、好みの男は
「昼は馬車馬のように働き、夜も馬車馬のように働く男」
と言っていたから、気働きが出来る分、相手にも求めるものが大き過ぎたのかも。それでダンナが、よそに安らぎを求めちゃったのかも。昼も夜も、馬車馬のように働くことを求められたら、ダンナとしては気が休まる暇が無いやね。
つーか先輩には、敢えて突っ込まなかったけど、「夜も馬車馬のように働く」って、夜の営みのことよね? 営みの場で頑張ってもらうことを「馬車馬のように」って表現するのって、何かすごいな。
よく大きいペニスのことを「馬並み」とか言うし、やれ種馬だ、当て馬だって言葉は、人間の男にも使うけど、使うからこそ「夜も馬車馬のように」という表現が、先輩は本当に、激しいセックスを望んでいるんだなあみたいな、そこまで求められたら、ダンナも大変だなあという感じがする。
だって「馬車馬のように」って、普通
「南北戦争前の黒人奴隷は、綿農園で、馬車馬のように働かされていました」
みたいな使い方しない? それなのにそれを、好みの男に使うなんて、この人本当に、昼も夜も男をこき使うつもりなんだわみたいな感じがする。
それくらいなら
「大好きな人とは、いつもいつもつながっていたいの」
みたいな言い方した方が、良かったんじゃないだろうか。
まあその言い方は、変にエロいしあたしは苦手だけど、でもそういうのを喜ぶ男はいそう。でも「昼も夜も馬車馬」を喜ぶのは、マゾだけじゃないのかな。ということは、先輩のダンナはマゾじゃなかったから先輩と別れることになったということかしら。
でもマゾって、激しいセックスするもの? 先輩は必ずしも激しさを求めていた訳じゃなくて、とにかく夜も徹底的に励む人を、求めていたということかしら。そしてダンナは、夜励むことに一生懸命になり過ぎて、よそでもついでに励んでしまったという事かしら。
まあその辺のことは、よく分かんないけど、でもいずれにしろ先輩は、ダンナと一生添い遂げるつもりで結婚した訳で、それなのにたった一年で離婚することになっちゃったんだから、落ち込んで当たり前だと思う。そりゃあ「昼も夜も馬車馬」を求めるのは、どうかとは思うけど、でもそれって先輩だけの責任じゃないし。
少なくともそんな先輩と結婚した時点で、ダンナは先輩の希望を、許容していたことになるしね。そんな希望が嫌なら、初めから先輩とは結婚しなきゃいいんだし、プロポーズされた時点で、自分の希望が許容されたと先輩が考えたとしても、不思議は無いでしょう。
結婚を決めた時点で、二人の間で誤解があったのか、それとも結婚生活を続ける中でダンナが先輩の希望に応えられなくなったのか、それともその件とは無関係に、旦那の浮気の虫が騒いだのかは分かんない。でもいずれにしろ先輩は、子供好きだというのにダンナがよその女を孕まし、しかもその女に乗り込まれることにより、一生添い遂げる予定だった男と、離別することになったんだから、そりゃあショックでしょう。
「昼も夜も馬車馬」の件にしたって、先輩自身は会社で働きつつ家事もしていたし、あと性生活だって
「わたしはおちょぼ口だから、人よりフェラが大変なの。でも頑張る」
と前言っていたから頑張っていたんだろうし。つまり先輩は、自分だって馬車馬なんだから、相手にも馬車馬を求めてもいいはずと思っていた様な気がする。
まああたしがダンナだったら、家庭生活にそこまで激しく、フィフティーフィフティー求められるのはげんなりするけど、でもそれは先輩の真面目さとか一生懸命さの表れなのは分かるから、少なくとも愛人孕ます様なやり方はとらないよ。
あたしだったら正面から
「家庭には、安らぎが必要」
と話し合いに持ち込むな。それで決裂したら別れる。つーかそもそも、その辺の価値観が一致しない人とは初めから結婚しない。それなのにその価値観の問題をうっちゃって、よそで子作りをしたダンナは酷い。問題がややこしくなるし心の傷が深くなる。
こんなことになっちゃって、先輩はちょっと、可哀想過ぎると思った。早田係長にデートに誘われて幸せいっぱいな自分に、何だか罪悪感覚えちゃう。
いや罪悪感はそれだけじゃない。あたしは実は、先輩の愚痴を聞きながら、林野さんのことを考えていた。あたしも林野さんの子供を欲しいと思ったことがあったから。
あの頃林野さんはまだ結婚してなかったし、それにあたしは、林野さんにこんこんと説得されて、子供を欲しいという気持ちを仕舞い込んだけど、でももし林野さんがあたしを説得しなかったら、もし本命以外の相手とも避妊しない男だったら、あたしはもしかして妊娠していたかも知れない。
そう考えたら不意にゾッとした。とはいえあたしは、二号の分際で一号の元に乗り込むようなタイプじゃないけど、でもそんなこと、なってみなきゃ分かんないよね。実際あたしは、もし林野さんの子供が出来れば、林野さんがもっと、自分を気にかけてくれるんじゃないかという思いで、子供を欲しがった部分もあるし。
林野さんは優しいから、もし本当に子供が出来たら、あたしを気にかけてくれただろう。でもそうしたら、やっぱり君江さんにはバレただろう。そうなったら君江さんの自殺未遂は、未遂で済まなかったかも知れない。
根津先輩は、幸いそこまで弱い人じゃないから、離婚だけで済んだけど、でも浮気相手の妊娠って、人の命を絶たせても不思議じゃないほどのことだよね。
つーか君江さんが自殺しなくたって、あたしの生んだ不義の子が自殺する可能性はあった訳だよ。だってあたしは、自分がその立場だったら、自殺を考えるだろうと思うんだから。
あたしがそう思うってことは、あたしの遺伝子を受け継いだ子が、同じこと思っても何ら不思議は無い訳だ。それなのに安易に、林野さんの子供を欲しがった昔の自分に、あたしは背筋が凍った。
先輩をここまで悩ませて離婚を決意させた先輩のダンナの愛人を、あたしは酷い女だと思う。でもあたしには彼女を罵る資格が無い。一歩間違えばあたしは、もっと酷い事態を、引き起こしたかも知れないんだもの。
先輩に心から同情しつつも、あたしは複雑な思いで、先輩の愚痴を聞いた。何ていうかそうすることが自分の汚さを見詰める行為、あたしがしなきゃいけない行為のような気がした。
それなのに先輩は電話を切る間際にあたしに礼を言い、そして
「飯久保さんは、悩んでいる人間にとっては本当に天使だね」
としみじみとした口調でつぶやいた。そんなんじゃない、これはただの贖罪です。そう思ったけど口には出来なかった。多分あたしを天使だと思った方が、今の先輩には、救いになるだろうと思ったから。でもそれでもやっぱ自己嫌悪だった。
罪悪感なんか無いと思っていたけど、あたしは本当は、君江さんに罪悪感を持っていたのかも知れない。ただそれを認めちゃうと、林野さんと会えなくなるから、あたしは殊更に、その感情を追いやっていたのかもしれない。だから林野さんと切れてから、ようやく気付き始めたのかも知れない。
こんなに汚く、また自分の汚さに鈍感な自分が、恋愛なんかしていいんだろうかという気分になった。こんなに嫌なあたしと関わるなんて、係長は気の毒過ぎやしないだろうか。それでも向こうから誘ってきたんだ、仕方ないとも思う。受身はいつもあたしの免罪符だ。
積極的な人間は、どうして自分から誘う事が出来るんだろう? と思う。こんな汚い自分と関わったら、相手に悪いとか思わないんだろうか? 不倫さえしなければ堂々と出来るもの? 違うよね。人間が行う悪いことなんて、この世に数限り無い。
書いたのが5年前だったので内容を忘れていて、今回読み返しながら、どうして八重子が、本命がいながら他の男とばかり関わっているのか不思議でした。共感できないなあ、なんて他人事のように思ったりして。
でも読み進める内に、親に愛されなかった苦しみが、八重子にそういう行動を取らせているのが分かって、何とも……。
こういう女性って誤解され易いから、苦労するだろうなあという感じです。
この後どうなるんだろ、と一読者のように思ってしまいました。何せ内容を覚えていないもので。