ヅラ男を好きになりまして
5年前に小説すばる新人賞を落選した分を、加筆訂正しました。
12月 4日(月)
〔バツイチ〕
半年振りに日記をつける事になってしまった。ああ、とうとうここまできたかと思う。つまりはあたしは、半年振りに恋愛をしているという事だ。
恋愛中じゃなければ、日記をつける気にならないというのは、いかにも二十代の女らしいという気がすれば、単にものぐさなだけという気もするけど、どっちにしろあたしは、ブログを公開している訳じゃないんだから、更新を待っている読者がいる訳でもなし、これからも気分で記録していこう。
つーか恋愛中の記録なんて、とてもじゃないけど公開なんて出来やしない。この日記を書き始める前に、半年前の記録を読んでみたけど、我が文章ながら恥ずかしくって卒倒しそうになった。
「好き。好き。好き。好き。会いたい。傍にいたい。傍に置いて。お願いだから。あなたのいい子でいさせて」
とかいってマジかよ? という感じ。一体あんな男のどこに、魅力を感じていたのか、いやどんな男が相手であれ、ちょっとあの文章はヤバい。こりゃこの恋愛も末期だなと思ったら、案の定その四日後に別れてやんの。
半年経つと、我がことながら冷静に客観視出来るものなんだなあと、ちょっと感心。
でも何だかんだいって、半年前の自分にここまで冷たいのは、あたしがまだ今回の恋愛に、真剣になってない証拠だろうか。
まあでも真剣にならずに済むなら、それが無難なんだろう。何てったって早田係長はバツイチだもん。まあそうはいっても、妻がいる訳じゃなし、完全に切れているなら、問題無いって思う人もいるだろうけど、あたしはそういう風には思わない。
別に絶対バツイチが嫌な訳じゃないけど、出来れば本当は、そんな人は選びたくない。だって年齢のこと考えると、バツイチってリアリティーあり過ぎだもん。
何つーか、あたしがもしまだ二十歳とかだったら、むしろ気にならなかったのかも。もしまだ二十歳とかだったら、あたしは大いに選べる立場にあった訳で、その立場で、敢えてバツイチの相手を選ぶことは、むしろ平気だったかも知れない。
でも実際のあたしは27な訳で、何つーか、27の女がバツイチ男に惚れるのって、ちょっと痛々しい気がする。年食って選択肢が減ったから、ちょっと条件、下げたみたいなさ。
だからあたしは本当は、早田係長に惚れたくない。……いや本当にそうだろうか? 惚れたいと思っている気持ちもあるんだ。実は。
だってもうじきイヴだしさ。別にどうしても、係長とイヴを過ごしたい訳じゃないけど、何ていうかクリスマスシーズンになると、片想いでいいから、恋愛したいなあなんて、思い始めてしまったりする。世間やマスコミに、踊らされているだけなのかも知れないけど……。
んー、でも本当にそうなのかな? 本当にあたしって踊らされているだけ? それだけとも言い切れない気もするなあ。だってクリスマスがあろうとなかろうと、冬は人肌恋しいもんなあ。
そりゃああたしだって、クリスマスのために、即席の恋人を作る人のことは馬鹿だなあって思うけど、でもそもそも人は、クリスマスがあるから恋をしたがる訳じゃなくて、冬に恋をしたがるのかも知れないよなあ。クリスマスっていうのは、そのための後付けの舞台装置かも知れないよなあ。
んーでも人は別に、冬にだけ恋したがる訳じゃないもんなあ。つーか正反対の季節である夏こそ恋の季節っていう意見の方が、優勢な気もするしなあ。
何だかよく分からなくなった。そして眠い。初日だし今夜はこんなとこで終わり。
12月 5日(火)
〔腰ぎんちゃくの意見〕
みっちゃんに
「バツイチの人好きになるのって、抵抗ある?」
と聞いたら
「今時そんな事、気にする方がおかしい」
と返された。確かに今は、夫婦の四組に一組が離婚する時代な訳で、ということは巷には離婚経験者が溢れている訳で、そうすると離婚経験者は、最早普通の人なんだから、気にするのはおかしいのかも知れないけど、でも何かイマイチ納得出来ない気分だった。
でもそもそもあたしは、聞く前から、みっちゃんがそういう返事をするって分かっていた気がする。何せみっちゃんは、バツイチの西川先輩の腰ぎんちゃくだし、離婚に否定的だったら、西川先輩にああもへいこら出来ないだろう。
でもあたしは、西川先輩が嫌い。女版安岡力也みたいな顔のくせに、やたら化粧が濃いし、自分をモテると勘違いしてるっぽい発言が多いから、話していると辟易した気分になる。大して仕事も出来ないのに、出来るかのよう様に周りにアピールすることだけは、上手い点も嫌いだ。
だから本当は、そんな西川先輩に、へつらっているみっちゃんも嫌い。ついでにみっちゃんの、倖田來未を意識しているのかそれともツタンカーメンを意識しているのか、よく分かんない化粧も嫌い。
でもだったら、嫌いな相手に、恋愛に関する意見なんて求めなければいいのに、ついうっかり求めてしまう所が、あたしのダメダメな所。
でもしょうがないよね。今日はみっちゃんと、お昼休みが一緒になっちゃったんだもん。いやでもだったら、他の話題を出しても良かったんだけど、あたしって一旦恋愛モードになると、恋愛に関することばかり考え始めちゃう癖があって、そうするとついつい、目の前にいる人に、恋愛にまつわる話題をぶつけちゃうんだよなあ。
でもそれってすごく幼稚なことかも知れない。やっぱ話題は、人を選ばなくちゃね。好きな相手、嫌いな相手、信頼出来る相手、出来ない相手に関わらず、自分が興味持っている話題に、まつわる意見を言われると、少なからず影響を受けちゃうものなんだし、だとしたら大事な話は、やっぱ多少なりとも、影響を受けてもいいと思える相手のみにするべきかも。
でもそう考えると、友達ってホント大事だよなあ。土曜日にフユミンと会うのが楽しみ。その時に、早田係長の事を打ち明けてみよう。つーか別に今日だって電話しても良かったし、メールしても良かったんだけど、何つーかただ気になる人が出来たくらいじゃ、わざわざ連絡するのは、ちょっとねって気がする。
だって実際、自分が係長のこと、どこまで好きなのかよく分かんないし。係長のこと考える時間は増えたけど、でもそれは片想いであれ恋愛しているのが楽しいから、楽しむために、自分で半ば強引に恋愛モードに持っていっている部分も、ある気がするし。
つまり今のあたしは、自分の意思一つで、この恋愛をやめることも出来れば、やめずに突き進むことも出来る状態なんだろう。だからこそ係長が、バツイチだってことが気にかかるんだろう。だってわざわざバツイチの相手に、惚れることないい訳だしさ。気持ちにストップかけられるんなら尚更。
でも淡い想いであれ、いいなと思える異性が現れたのが、半年振りだってことを考えると、その淡い想いに、意地汚く執着してしまう部分がある。あたしってただの恋したい病? 恋に恋してるってか。27という年齢を考えると、ちょいキモい。
でもだったらやめてしまえばいいのに、バツイチの男なんてやめてしまえばいいのに、みっちゃんに言われた
「今時そんな事、気にする方がおかしい」
という言葉に賛同して、だから係長に、惚れたっていいじゃんという結論に、持っていきたがっているあたしがいる。
あたしはずるい。あたしは本当は最初からそれを見越して、みっちゃんにその話題を投げたんだから。
12月 6日(水)
〔うっかりミスで殺されたら、シャレにならん〕
今日は打って変わって、根津先輩にバツイチ問題を振ってみた。根津先輩は西川先輩と仲悪いから、バツイチに否定的なんじゃないかなあ? と思ったから。何つーか、昨日のずるい自分の帳尻合わせな心境。それに根津先輩の事は嫌いじゃないし。仕事と家庭を両立させている、見習うべき所の多い先輩だ。
でも予想以上に根津先輩が、バツイチを嫌悪していて驚いた。とにかくバツイチの人っていうのは、周囲に気遣いが無い、何かされても当然と思っていて、お礼をしないって言っていた。
確かに西川先輩には、そういう所あるよなあって思いながら聞いていたら、そうじゃなくて根津先輩のお義姉さんの事だった。
ダンナさんのお姉さんが、子連れ離婚しているって話は、前にチラッと聞いた事があったけど、その人がそういう人だって話は、今日初めて聞いた。
ダンナさんが蕎麦粉アレルギーなのに、お中元に蕎麦を送ってきたりするのは、確かに気遣い無いよなあと思う。つーか殺す気か?
何つーかそういうのって、義妹の食べられない物を送ってくるならありがちっていうか、義妹イビリ? と思うけど、実の弟が食べたら死ぬような物を送ってくるのは、多分わざとじゃないっていうか、うっかりミスなんだろうなあって思うけど、でもうっかりミスで殺されたらシャレにならんから、
「そういう人は、気遣いが無いから離縁されたんだ」
という根津先輩の説も、うなずけるものがある。
基本的に悪気の無い相手は責めたくないけど、でもうっかりが許される時と、許されない時があるっていうか。そしてその手のタイプの人が、お礼も言えないタイプだったら最悪かも。
でも先輩のお義姉さん一人がそういう人だからって、離婚経験者全部が、そういうタイプとは限らないしなあ。つーか先輩は29という年の功によるものか、他のパターンも、知っているみたいだったけど、昼休みが終わってその話は打ち切りになってしまった。
前は会社帰りによく、一緒に飲みに行ったりしたけど、先輩が結婚してから、そういう機会が減っちゃって寂しい。
考えてみると、基本的に一緒にいて居心地の良い女の人っていうのは、男もそう思うからかさっさと結婚してしまうので、あたしとあんまり遊んでくれなくなってしまって寂しい。
そしてみっちゃんとか西川先輩とか、そういうあんまり居心地の良くない人たちが時間を持て余しているので、こちらも致し方なく、そういう人たちと付き合う羽目になって、何だか馬鹿馬鹿しい。
でも今の時点でフリーだということは、あたし自身人から見れば、そういう居心地の悪いつまんない女だという事だ。……と断言したけどやっぱ断言したくないね。そんなこと。だから抜け出したいんだろうなあ。この状況から。だからそのためにカレシが欲しくてそのために恋愛したいって部分があるんだろう。
恋愛したがる気持ちって実はすごく不純だ。十代の頃は、恋愛ってもっと純粋なものかと思っていたけど、全然違う。別にあたしはカレシが出来たら真剣に付き合うつもりだけど、何つーか、本気なら純粋で遊びなら不純とか、そういう単純なことじゃない気がする。
何かから抜け出したいって思っている場合は、抜け出させてくれる対象に対して真剣になるのは、ある意味当然で、別に純粋とか不純とか、そういう問題じゃない気がする。
つーか別に、抜け出したいとかカレシが欲しいとか、思ってない時に誰かを好きになれば、それは純粋なのかな。でもあたし早田係長を好きになる前、ここ半年、正直そんなに恋愛願望があった訳でもないんだけど、でも係長を気にし始めてから、自分の中の恋愛願望に気付いた気がする。
恋愛感情っていつもそうだ。自分の中の、汚いものが吐露されてく。いいもんじゃないね。全然。それなのに何であたしは恋したがるのか。人は何で恋したがるのか。
12月 7日(木)
〔社内恋愛のトラウマ〕
みっちゃんと給湯室で一緒になった時
「一昨日言っていたバツイチの人って、この会社の人?」
と聞かれた。一瞬ドキッとしたけど、合コンで知り合った人だと否定しておいた。否定しながら根津先輩も昨日そう思ったのかな? と思った。
根津先輩になら、あたしの片想い相手が早田係長だってこと、言ってもいい気もするけど、でもまだ、親友のフユミンにも言ってないことを、最近何だかんだで疎遠になった先輩に言うのは、違う気がするから、やっぱり言いたくない。
先輩は昨日あたしが話したバツイチ男を、どこの誰だと思っているだろう? どこの誰か聞かれなかったから、あたしも言わなかったけど……、つーか聞かれても誤魔化すつもりではあったけど、先輩はひょっとして、社内の男じゃないかと目星をつけただろうか?
先輩は結構気の回るタイプだから、もし今勘付いてなくても、その内気付くかも知れないからヤバい。
だってあたしと早田係長は、今の段階でろくに接点無いし、係長とは部署も違うし、別に全然あたしと仲がいい訳でもなくて、あたしが勝手に、片想いしているだけの相手で、それなのにそんな状態で、あたしの想いだけが勘付かれるのはすごく嫌だ。
あたしは社内恋愛には、向かないタイプかも知れない。社内恋愛なんて結婚まで至ればいいけど、そうじゃなければ社員に知られた場合ただの晒し者だもん。実際あたしは21の時、社内恋愛失敗して転職しているしさ。
不思議なんだけど社内恋愛って、破局した場合、大概女がいたたまれなくなって、職場移るものなんだよなあ。男ってあんまりそういうの、こたえないみたい。最近は女が強くなったとか言われるけど、でも社内恋愛に関しては、あたしの見る限り女の方が立場が弱いっつーか。
だから、社内の男を好きになったからって、軽々しく公表するべきじゃないんだけど、あたしって誰かを好きになると、ついそれを気軽に口に出しちゃう所あるから、駄目だよなあ。
どこの誰かを、言わなければいいかと思っていたけど、早速みっちゃんには勘繰られちゃったし、気をつけないと。六年前の二の舞なんてまっぴら。あの時は若かったから、こうしてメーカーの事務職に就けたけど、もう若くないんだし転職は厳しいからなあ。
でもこうやって口元を引き締めて、しがないOLにしがみつきながら生き続けるのも何か虚しい。いっそ仕事なんか辞めて、結婚したいなあ。
でもこういうパラサイトな考え方って、仕事と家事を両立させている根津先輩が聞いたら怒りそう。ああゆう両立型の人って、憧れな反面、出来過ぎな感じでうっとうしい部分もある。
実際先輩って、頑張っているわたしを認めてよオーラが、出てる時あるしな。昨日の「気遣いが無い人がバツイチになる」発言も、裏を返せば、「わたしは気遣いの塊だから、幸福な結婚生活を送っているのよ」ってことだしな。あたしがダンナだったらたまらんな。あんなカミサンは。
何だか今日はあたしの中で、根津先輩の評価が、かなり下がっているみたいだ。どうしてだろう? 係長を好きなことを根津先輩に悟られるかも知れないから?
そんなのうかつに、先輩の前で口にした自分が悪いのに、それで先輩を恨むなんて逆恨みもいいとこだ。あたしって嫌な奴。六年前の転職が、トラウマになっているのかな。
12月 8日(金)
〔バツニのツワモノ〕
そういえば保坂先生にも離婚歴あったじゃんと、今日になって思った。整体に行く日になってようやく思い出すなんてうかつだ。保坂先生なんて、バツイチどころかバツニだっつーのに、そんなツワモノを、今日の今日まで忘れていたなんてうかつ。
正直離婚歴のある人に、基本的に良いイメージは抱いていないあたしだけど、保坂先生には悪いイメージが無い。先生も女だてらに整体院を経営して、ついでに整体の学校まで運営しながら、小学生の坊やも育て、尚且つカレシもいるようなパワフルな人だけど、何つーか根津先輩みたいな、張り詰めた感じが無い。
まあ根津先輩の張り詰めた感じは、万事に行き届いていますっていうオーラだから、決して悪いことじゃ無いんだけど、保坂先生はパワフルな反面、変に抜けた所があって微笑ましい。
ま あちょっと抜けているくらいじゃなきゃ、自営と子育てと、恋愛を実行なんて出来ないのかも知れない。ただ多分先生は、この抜けた所のせいで、バツニになっちゃったんだろうという気がする。
34歳の若さで、自営を成功させているくらいだから、経営手腕はあるはずなのに、時々驚くくらい世間のことを知らなくて、この間なんて、危うく架空請求に引っかかりそうになっていて冷や冷やした。
こうゆうアンバランスさって、ある男の人にとっては、掴み所のない不安な女ってことになって、引く理由になりそうだし、ある男の人にとっては、守ってやりたいミステリアスな女ってことに、なりそうっていうか。
多分、多分だけど先生の歴代のダンナさんたちは、前者だったんじゃないかという気がする。おそらく先生のことを理解しないまま、結婚したんだろう。
やり手の女と思って結婚したのに、案外抜けていることに気付いて嫌になったのか、あるいは抜けていて可愛いと思っていたのに、やり手な面があるから、可愛げを感じなくなったのかは分からないけど、アンバランスで矛盾した人って
「思っていたのと違う」
とか言われて振られがちっていうか。
あたし自身、そう言われて振られた経験が何度かあるから、先生の気持ちが分かる気がする。自分では別に
「あたしは、こういう人間です」
なんて言ってないのに、勝手にイメージ持たれて、先入観で好きになられて、そして勝手に失望されて去られるのは辛い。
まあ本当に、先生がそういう理由で振られたのかは分かんないけど……、つーか別れの理由って普通は一つじゃないしね。
先生は前の離婚は、自分の連れ子に対する、ダンナさんの態度の悪さが原因って言っていたし、実際それも、理由の一つなんだろうけど、でも離婚の数ヶ月前くらいから、
「訳の分からない喧嘩が増えた」
と言っていたし、喧嘩には原因がある訳で、その原因の一つがあたしは先生のアンバランスさにある気がするんだ。
で もあたしだったら、アンバランスな人間には、むしろ愛情を感じてしまう気がするし、世の中には、他にもそういう人はいるはずだけど、多分先生の歴代のダンナさんたちは、アンバランスを嫌がる人たちだったんじゃないだろうか。
もちろんアンバランスさが嫌なら、先生とは結婚しなければ良かったんだけど、あたし自身先生のアンバランスさに気付いたのは、一年前くらいからだから……、二週に一度のペースで、もう四年も先生の元に通っておきながら、しかも一時間半の施術の間中、お喋りしていながら、気付いたのはようやく一年前なんだから、歴代のダンナさんたちは、気付かないまま結婚してしまい、結婚後に気付いた可能性がある。
こういうのって、先生にも責任があるんだろうか? よく離婚は両方に責任があるとか聞くけど、アンバランスさっていけない事なのかな? アンバランスさを好む人間もいるのに? 相手がアンバランスさを好む人間かどうか、自分をちゃんと理解しているかどうか、確認しないまま結婚しちゃったのがいけないってこと?
でも男の人って
「あたしの、どこが好き?」
って聞くと、大概「全部」とか言うのにな。
あたしはそんなこと言って欲しい訳じゃなくて、本気でどこが好きなのか聞いているのに、「全部」とか言って、あたしも馬鹿だから真に受けちゃって、そしてしばらくすると、あたしの「全部」を好きだったはずの男が
「思っているのと違った」
とか言って去って行って、何が何だかさっぱり分からん。
だったら最初から、あたしのこと事を、どう思っているのか言ってくれ。それが誤解だったら最初から付き合わなきゃいいんだし、その方が、時間の節約になるんだから。
それでもこんな場合でも、こちらにも責任があるとしたら、それは多分、いい加減な男の言葉を信じた罪だ。「人を信じる事の大切さ」なんて、綺麗事のゴタクに騙くらかされた罪だ。
人を信じることが本当に大切なことだとしたら、あたしたちは日々、振り込め詐欺を信じて、金を振り込まなくちゃならない。本当に大切なのは、信じるに値する人間を見極める目を養い、そして信じるに値する人間に、信頼される自分になることだ。
それでも、信じるに値しない人間を、信じてしまった人間の責任が、問われる事は悲しい。だってもし世界中の人間が正直者だったら、人を見る目なんて必要無いもの。世の中が玉石混合であることを前提とした、「人を見る目」は悲しい。
けれどそれが現実だ。そしてその現実の世の中で、保坂先生がバツニになったこと、そしてそんな保坂先生を、あたしは嫌いじゃないこと、それも現実だ。
早田係長の離婚理由を、あたしは知らない。社内の誰かに聞けば分かるかも知れないけど、そんなことをしたら、あたしの係長への想いがバレちゃうかも知れないから出来ない。それに離婚理由って、結局その理由を、あたしがどう解するかだと思う。
だって保坂先生の件にしたって、先生のアンバランスさや、抜けた所って、人によっては、蕎麦粉アレルギーの弟に蕎麦送りつける行為と、どう違うの? と思いそうだし。
考えようによっては、人に禁忌食を送る行為と、詐欺に引っかかりそうになる行為は、同じく「抜けている」けど、でも前者は思いやりに欠けているけど、後者には思いやりは関係ないっていう違いがある。
あたしは思いやりに欠けた「抜けた」行為は嫌いだけど、でも自分だけが損する「抜けた」行為は、あんまり責める気になれない。もっとも夫婦は、生計を共にする間柄だから、気を付けて欲しいとは思うけど、でも人として許せない行為ではないっつーか。実際先生は、人には気遣いするタイプだし。
でもそれでも人によっては、蕎麦粉も架空請求もひっくるめて、「抜けた行為」と解釈する場合があるだろうし、実際そうカテゴライズすれば、離婚経験者の特徴を語るのは簡単だ。多分多くの離婚経験者は、色んな意味で抜けているんだろう。抜けてなきゃ一生を誓った相手と別れたりしないしね。予定離婚でない限りはね。
そしてあたしはある種の抜けた人間が好きだ。だからあたしは、あたしの好きなタイプの「抜け」を持った人の離婚歴は、多分許容出来る。
それを踏まえた疑問を一つ。あたしは早田係長の離婚理由を知った時、それをどう解するのか? あたし好みの「抜け」だと解する事が出来るのか?
ただ実際今のあたしは、係長とほとんど接触が無いから、理由を聞いても解釈の仕様が無い。その内理由を知って、そして係長のことをもっと知って、あたしなりに解釈して、そしてそれでも係長を好きだと思うこと。それがあたしに出来るだろうか?
分からない。いずれにしろ片想いの道は長い。ただ、今、あたしは係長を好きだから、この想いを口からほとばしらせたい。
そう思ったのに、今日あたしは、保坂先生に係長のことを相談出来なかった。離婚歴のある人に、好きな人の離婚歴についての相談なんて出来ない。
施術されている一時間半の間、あたしは
「寒くなって血行が悪くなったせいか、最近また、偏頭痛が起こり始めて」
とか
「年末進行で、そろそろ会社が忙しくなるんですよね」
とか何とか、当たり障りの無い話に終始した。
会社の人たちにはバレたら困るから、係長の話が出来ない。会社と関係ない保坂先生は離婚歴があるから、やっぱり係長の話が出来ない。
毎日友達と、飽きることなく好きな人の話をしていた学生時代が懐かしい。それが出来ないからあたしは今宵も日記をつける。大人になる毎に、恋は話せなくなるから。禁じられた恋をしている訳でも何でもないのに、あたしは口元を引き締めて、日記相手に想いを語る。
12月 9日(土)
〔不実な女〕
フユミンに「バツイチなんて」と反対された。ガッカリだ。反対されたことにというより、ハッキリ理由を言ってくれなかった点に、ガッカリした。「何で?」と聞いても
「えー、だって八重ちんだって未婚なんだし、相手も未婚の方がいいでしょ」
とか訳の分からないことを言われた。何であたしが未婚だと、相手も未婚じゃなきゃいけないんだろう? その理屈でいくと、あたしは女だから相手も女の方がいいということになって、レズらなきゃならなくなる。勘弁してくれ。
こんなんなら理由をハッキリ言って反対した根津先輩の方が、よっぽどマシだ。離婚歴のある人が、皆が皆気遣いが無いのかどうかはあたしは知らない。ただ少なくとも、根津先輩はお義姉さんを例に出したし、あとハッキリは言わなかったけど、西川先輩の事もそう思っているのは察しがつく。
だから根津先輩は、主張の是非はさておき、具体的に例を挙げて自分の意見をハッキリあたしに告げてくれたということだ。
それなのにフユミンは
「えー、だってやじゃん。バツイチなんて」
とそればかりを繰り返したから、あたしはムカついて
「だってフユミン去年、向田さんと結婚したがってたじゃん」
と言ってやった。
不倫相手の向田さんと、結局破局してしまったことは、未だにフユミンの傷になっているから、本当は突くべきじゃなかったのかも知れない。でも妻帯者との結婚を望んでいたということは、つまりは向田さんが離婚することを望んでいた訳で、離婚をすれば、向田さんはバツイチになった訳なのだ。
自分は相手の男をバツイチにしてまで、結婚しようとしていたくせに、どうしてあたしが、あたしの与り知らぬ所でバツイチになった男に、惚れることが許されないんだろう?
それに当時フユミンは、向田さんと有真君を二股にかけていた。有真君は未婚だけど、フユミンの本命は向田さんだった。理由を聞くとフユミンは
「有真君は高卒だけど、向田さんは大卒だから、結婚相手としては、親も向田さんの方を気に入ると思うんだ」
と言っていた。
その時あたしは
「だって向田さんは家庭があるから、フユミンと結婚するには、バツイチになんなきゃいけないじゃん。いくら大卒でも、バツイチの向田さんと未婚の有真君だったら、普通の親だったら、高卒でも未婚の方がいいって思うんじゃないの?」
と意見したし、大概の人はそう思うと思う。
でもその当時のフユミンは、何だかピンとこない顔をしていた。それなのにそんなフユミンに、理由も無くバツイチを否定されて、あたしは物すごく腹が立った。だって早田係長は大卒だから、フユミンの去年までの理屈でいけば、OKなはずなのだ。
それなのに係長の他の特徴を聞きもせず、バツイチだというただそれだけの理由で反対するなんて、絶対におかしい。バツイチだということは、係長の一つの特徴であって、全人格を総称するものじゃないのに。
でもあたしが向田さんの話を出したら、フユミンは困ったような顔をしたから、何だか可哀想になって、その話はそこで打ち切ってしまった。
最近気付いたんだけど、フユミンはすぐ、過去の出来事を忘れてしまうタイプらしい。そして物事を論理的に考えずに、イメージで捉えているタイプらしい。だから一年前の自分の心境も忘れ、現在のイメージで、バツイチを否定したんだろう。
イメージで物事を捉える感覚は、あたしにもある。でもあたしは自分の抱いたイメージの正体を掴もうと、人に質問を投げかけたり突き詰めて理詰めに考えたりする癖があるけど、フユミンにはそれが無いみたいだ。
短大時代に知り合って九年、お互い親友だと思っていた女の子のそういう根本的な違いに気付くことは寂しいけど、でも多分、フユミンの方が生き方上手なんだろう。あたしはいつも男に、理屈っぽいと嫌われるから。
そして27歳の今あたしはもう半年もフリー。フユミンは来年、有真君と結婚する。二股をかけていたことに決して罪悪感を持たず、それどころか
「向田さんに騙されたの。向田さんには他にも女がいたの」
と泣いて、そしてその涙をあっという間に乾かして、有真君と婚約したフユミンは今幸せの絶頂だ。
だからその幸せのおすそ分けとして、その後あたしを合コンに連れて行ってくれた。有真君には内緒らしい。
合コンなんて二股よりマシだ。フユミンは向田さんに泣かされたから、これに懲りてもう浮気はしないだろう。そんな風に思うあたしは親友に甘いだろうか。いや合コンを企画してもらったことにより懐柔されたのか。だとしたらあたしはくだらない女だ。
けれど今夜の合コンは、収穫無し(収穫もされなかったが)だったので、少し罪悪感が和らいだ。つまらない合コンだったけど、一つ印象的な事があったので、記録しておく。
今回は参加者の男の一人がバツイチだったんだけど、そのバツイチ男が
「バツイチっていうのは、モテるんだよ」
などとのたまい出したことに、端を発する。
つーか全然モテそうじゃなかった。バツイチうんぬん以前に、ダサいし陰気だし絶対モテるタイプじゃない。むしろ、少なくとも一度は結婚出来たという点が驚異だった。
あたしがそいつの勘違い発言にムカついて
「へえ、じゃあ何でこんなとこ来てんの?」
と言ってやろうかなあ? と思っていたら、隣の男に
「バツイチをちやほやしてくれんのは、キャバ嬢だけだろうが」
と叱られていた。
キャバ嬢にちやほやされて真に受けるなんて、愚の骨頂だ。キャバ嬢なんて、何でも褒める材料にするに決まっているのに。あたしでもきっとそうする。つーか昔パブでバイトしていた時はそうしていた。
大方
「一度失敗した人間は、もう失敗しないから信頼できる」
とか
「傷付いた事のある人間だけが、人の痛みが分かるのよね」
とでも言われたんだろう。
馬鹿め。商売の原理が分からんお前なんか、失敗を繰り返すに決まっている。
何だかこの一件で、離婚歴のある人に対する、シビアな目が生まれてしまった。別に皆が皆、今夜のバツイチ男みたいにめでたくはないだろうけど、でも離婚理由にはしばしば女遊びが含まれる。あたしは男の人が、たまに付き合いで、パブやらスナックやらに行くのは構わないけど、でもお水にハマッちゃう人は嫌だなあと思う。
早田係長はどうなんだろう? 元々はハマッてなくても、離婚した寂しさで、つい飲み屋に足が向いて、ハマッてしまっている可能性はある。ああ嫌だなあ。
バツイチの人が敬遠される理由って、もしかしたらこういう所にもあるのかも。離婚理由うんぬん以降の、離婚後の生活が荒んでいる可能性が敬遠されるのかも知れない。その荒んだ生活に、潤いを与えてあげたいと思うのが愛情なんだろうけど、正直言って、今のあたしにはまだ、そういう気持ちはうっすらとしか無い。
多分基本的にあたしが、受身な性質だからだろう。自分からアプローチした事も一度しか無いし、こういう全くといっていい程、接触の無い片想いも、高校生の時以来だから、何ていうか勝手が分からない。
というか実は、この恋を進展させるつもりなんて、全く無いのかも知れない。あたしはただ、つまらない会社勤めに楽しみを見出したくて、誰かに片想いすることに決めたのかも知れない。
でもだとしたら、進展させる気が無いのなら、係長がバツイチだろうとなかろうと、そんなことはどうでもいいはずなのに、気になるのはどうしてだろう? 何だかんだであたしはやっぱり、進展を望んでいるんだろうか?
ああ自分の気持ちが分からない。片想いは何て面倒臭い。男に誘われ、それに応えている方がよっぽど楽ちんなのに。
だからこんなあたしは、もし今後、良さそうな男が目の前に現れてあたしを誘ったら、さっさとそっちに鞍替えするだろう。あたしはとても不実な女だ。でもだから、あたしは自分からは動いたりしない。不実だから自分からは動かない。それがあたしのせめてもの誠意なのだから。
12月10日(日)
〔少しだけ、お水に向いている理由〕
今日はヨリと、お茶がてら長話。昨日の勘違いバツイチ男の話をしたら、ヨリは茶目っ気たっぷりに
「お馬鹿さんたちのおかげで、オマンマ食べてまあす」
と言いながら、マスカラを丹念に重ねた睫毛を下ろして、片目をつぶった。一緒にパブ勤めをしていた四年前から、感じていたことだけど、ヨリは飲み屋の客というものが本当に嫌いみたいだ。
つーかあたしだって、当時パブに来る客のことは嫌いだったし、今でもそういう夜の店に足繁く通う男のことは軽蔑しているけど、でもあたしは、ヨリ程は割り切れなかったなと思う。
何ていうか、客全員を心から嫌うことは出来なかったし、まあそうは言っても、客の大半は嫌いだったんだけど、でもお客さんを嫌いにならざるを得ない商売をするのって、虚しいなと思って辞めた訳だから……。つーかOLと水商売の二重生活に疲れて辞めた部分もあるけど、でもヨリは当時から水商売一本だったから、ますますヨリみたいに、客を嫌いながらも、もう四年も水商売を続けている子のことは、不思議っていうか、まあ割り切っているんだろうなと思う。
そういうヨリの割り切りが、理解出来るかっていうと、実はそんなには理解出来ない。でもじゃあ、今の職場仲間のことが理解出来るのかっていうと、やっぱそっちも、完全には理解出来ない。多分あたしは、職場仲間で満たされないものをヨリに求めていて、それがあたしのヨリへの友情みたいなものなんだろうと思う。
年下のヨリに対して、友情っていうのもちょっと変だけど、あたしの学生時代の友達は、フユミンを始めとして、普通のOLが多いから、その分あたしの中では、ヨリに対する需要が高まるっていうか、そんな感じだ。
多分あたしは、OLも水商売も向いてないんだろう。まあ全く向いてない訳でもないだろうけど、多分ヨリよりはOLに向いていて、フユミンや他のOLたちよりはホステス向きみたいな、そういう半端な存在なんだろうと思う。
OLとホステスの、中間にある仕事って何だろう? まあ中間かどうかは分かんないけど、例えばウエイトレスとか昼間の店員とか、そっち系をやるべきだったのかもなと思う。でも今更、転職する気は無いけどさ。転職なんかしたら早田係長に会えなくなっちゃう。
係長のことは、つまんない会社勤めに張りを持たせるために、故意に好きになった部分があるくせに、辞めたら会えなくなっちゃうなあと淋しさを感じる自分もいて不思議だ。多分これはあたしの中で、恋愛感情が高まっている証拠でもあるんだろう。
これが良いことか悪いことかは分かんないけど、でも係長のことを考えて感じるドキドキが、気持ちいいのは事実だ。
ただ今日は一つ思う事があった。ヨリが以前、バツイチの人と付き合ったことがあったのを思い出したあたしは
「付き合う時、抵抗無かった?」
と聞いたんだけど、ヨリは
「抵抗もありましたけど、それ以上に、興味の方が大きかったんです」
と答えた。
そういえば自分は、バツイチの人と付き合ったこと無かったじゃんと思ったらしい。
「それにヨリ、それまでに客と付き合ったこと無かったんですよ。客と付き合うなんて、ありえないと思ってたから。でももしここでこの人と付き合えば、ヨリは二重の意味で、初めての経験が出来るって思ったんです」
ヨリのその発言を聞いた時、ハッとしてしまった。だってあたしにもそういう傾向があるから。あたしもいつも、付き合ったことの無いタイプと付き合いたいと願っている部分がある。
弟しかいない長男と付き合った後は、妹しかいない長男と付き合って、その後は一人っ子、そして中間子、そして末っ子というように。乙女座と付き合った後は蠍座、射手座、天秤座、双子座というように。
付き合う男だけじゃなく、セックスフレンドに対してまで、あたしは過去の男と重なる特徴を持つ相手を、避ける傾向がある。あたしはいつも、付き合ったこと事の無い人と付き合いたいと思っている。
あたしは今日、気が付いちゃったかも知れない。係長がバツイチであることは、係長の一つの特徴に過ぎないと分かっていながらも、こんなにもその事実に執着していたのは、あたしは一度、バツイチの人と、付き合ってみたかったからだって事に。
でもこういう嗜好は、正しいものなんだろうか? 例えば
「愛した人に、たまたま家庭があっただけ」
という言葉がある。あたしは今までその言葉は、無責任に思えて嫌いだったけど、でも
「一度、不倫というものをしてみたかった」
というよりは人としてマシな気がする。あたしは本当は
「愛した人が、たまたまバツイチだっただけ」
という心境であるべきなんじゃないだろうか。だって付き合ったことの無いタイプと付き合ってみたいなんていう女は、その内、前科者とも付き合ってしまう気がする。いやオツトメを済ませた後の人ならまだしも、いずれ現役の犯罪者とも、付き合ってしまう気がする。
あたしはちょっと考え過ぎだろうか。今のところあたしは、犯罪者と付き合うつもりは無いし、今の時点では、一生そんな人とは関わりたくないと思っているんだから、そこまで心配する必要は無いだろうか。
今のあたしは……、係長と付き合ってみたい。一度バツイチの人と付き合ってみたい。でもバツイチなら誰でもいい訳じゃない。昨夜の勘違いバツイチ男なんてごめんだし。でもじゃあ、係長でなくちゃいけない理由って何なんだろう?
いずれにしろあたしが、少しだけお水に向いている理由と、ヨリがお水を辞めない理由が、分かった気がする。付き合ったことの無い相手を、常に求める流動的な人間にとっては、不特定多数の人間と常に出会える職場が、居心地が良いということじゃないだろうか。
水商売は客に限らず、仕事仲間も入れ替わりが激しい。いやむしろあたしたちにとっては、普通の職場の閉塞感が、苦痛でたまらないのだ。でもそれでいてあたしとヨリは、飲み屋に来る客のことが嫌いだ。そう嫌いだからこそ、一人の客にじっくりと付き合わずに済む雑多な職場に、安堵出来ていた部分があるんだろう。
でも矛盾しているようだけど、あたしは色んな人と付き合いたいと思ったことは一度も無い。誰かと付き合えば、いつもこれを最後の恋にしたいと夢見る。その夢がいつも夢で終わってしまうから、あたしは仕方なく次の恋を始めるだけであって、どうせ新たな恋をするのなら、全く新しいタイプの人と付き合いたいのだ。
だけど係長は厳密には「全く新しいタイプの人」とは言えない。だってあたしには、六年前に職場恋愛の経験があるから。でも六年前の経験は半端と言えば半端だ。だってあたしは結局、最上さんと付き合うまでには至らず、気まずくなっちゃったんだから。
ひょっとしたら六年前の経験が半端だったからこそ、あたしは気分的にスッキリしてなくて、それで今回、係長を好きになっちゃったのかも知れない。職場恋愛の危険におびえて腰が引けつつも、反面半端な経験しかしなかった自分が、片頬しか腫れなかったおたふく風邪みたいで、不満なのかも知れない。
危険なことなんて、なるべく避けるべきだし、過去に遭遇した危険が半端だったんなら、不幸中の幸いというものなのに、あたしは変なところで完璧主義だ。何つーか破滅的。だからそんな自分が怖くて、あたしはなかなか自分から男の人に、モーションをかけられないのかも知れない。
12月11日(月)
〔伴侶が妊娠中の男と、交わる行為〕
林野さんから電話が来て、夕飯をおごってもらって、ラブホに行った。
結婚してからすっかり疎遠になってしまって、こっちが連絡しても、なかなか時間を作ってくれなくなっていたくせに、向こうから連絡してくるなんて、珍しいと思っていたら、君江さんに赤ちゃんが出来たと言われた。これを機に良き家庭人になるつもりらしい。まあつまりは、お別れを言われたってこと。
不思議なほど、ショックを受けなかった。昔は林野さんの子供を生んで、一人で育てたいとまで思ったこともあるのに。つーかそんなことしなくて良かった。まあ林野さんは毎回必ずゴムを付けるから、妊娠は無理なんだけど。
あたしと林野さんは、ちゃんと付き合ったことは一度も無くて、ただのセクフレの関係だった訳だけど、そんな疎遠なセクフレのあたしに、律儀にお別れを言いに来た林野さんに感心してしまった。一度も思わせぶりなことを言わなかった林野さんは、本当にいい人だと思う。
本当にいい人が、不倫なんかするのかって思う人もいるだろうけど、林野さんの場合はあたしが迫って関係を作ってしまったから、林野さん的には据え膳だったんだと思う。とは言っても「抱いて」とか言った訳じゃないけどさ。夜中に突然
「どうしても会いたくて」
と訪ねてったらそういうことになった。
あたしの半生の、唯一の自分からのアプローチがそれって大胆かなあ? しかも当時、林野さんは君江さんと付き合い始めていたし。
あたしはそれまで、カノジョのいる人や、奥さんのいる人を好きになるとか、ましてやちょっかい出すなんて、ありえないと思っていたけど、林野さんに対してはそういうことになってしまった。多分六年前のあの年は、色んなこと事があり過ぎて、精神的に変になっていたからだと思う。
最初林野さんの友達の和島さんと付き合って、こっぴどく振られて、その傷を癒すべく最上さんと社内恋愛したのにトラブッて、いよいよ会社辞めようかなんて思って……。そんな時、相談にのってくれた林野さんに、ついついすがってしまった。
本当は和島さんと付き合う前から、あたしは林野さんのことが好きだったんだよね。でも当時はカノジョいる人好きになるなんてありえないと思っていたし、和島さんのアタック受けている内に、和島さんのこと好きになったから、このまま和島さんと付き合えば、それで収まるもんだと思っていたのに収まらなかった。
後になってから、和島さんがあたしと林野さんの仲の良さに、ヤキモチやいていたらしいって知ったけど、でももし、和島さんがそんなこと気にしないであたしと付き合い続けていたら、あたしと林野さんは、どうもならなかっただろうと思う。実際和島さんと付き合っている間は、あたしと林野さんは連絡とってなかったし。うん、和島さんと一緒の時にたまに会うくらいだった。
それなのに、たまに一緒に会う時の様子で、ヤキモチやかれたんじゃもうどう仕様もない。つーかやくくらいなら、あたしと林野さんを会わせなきゃいいのに、わざわざ会わせて、そして嫉妬していた和島さんは、屈折していたよなあと思う。でも和島さんの気持ちも、全く分からない訳じゃないけど。
ひょっとしたら和島さんは、あたしと林野さんを、自分を介して会わせる事によって、各々の立場を明確化させたかったのかもと、今にしてみれば思う。でも和島さんの意図に気付かなかったあたしと林野さんは、会う度に意気投合して、和島さんを怒らせてしまった。
でもそうはいっても、林野さんは、実はあたしに恋愛感情を抱いていた訳じゃなかったっていうのが、微妙なところ。林野さんはあたしに優しくはしてくれたけど、でもあたしに対する好意は、友情に近かったんじゃないのかな。まあ男女の友情って難しいから、それであたし達は、セクフレになってしまった訳だけど。
まあでも恋愛感情であろうとなかろうと、何度かエッチしてしまったということは、あたしと林野さんは、お互いに性欲を感じていた訳で。いや和島さんと付き合っていた頃には、少なくともあたしは林野さんとどうこうなるつもりはなかったけど、でもそういう芽はきっとあった訳で。そうすると和島さんが、嫉妬に駆られてあたしを振ったのも、まあ仕方なかったのかなという気がする。
つーかこう言ったら悪いけど、和島さんのことは、あんまり心に残ってないのでどうでもいい。付き合ったのも二ヶ月くらいだし。
ただ和島さんとは、「付き合おうね」って約束して付き合って、「好き」とか何度も言われて、一泊だけど旅行にも行って、でも二ヶ月くらいで別れてそれっきりで、でも林野さんには、何の約束ももらわなくて、一度も「好き」なんて言われなくて、会うのもほとんど、お互いの部屋かラブホという怠惰な関係で、それなのに六年も続いた事が不思議っていうか、一体人間関係って何なんだろう? という気がした。
まあその六年の間、あたしも何度かカレシが出来たりして、そういう時は、疎遠になったりしたから、飛び飛びの付き合いだった訳だけど、でも飛び飛びとはいえ六年も続いたことが不思議。約束も何も無い関係の方が、長持ちしたことが不思議。
あと余談だけど、人との関係を、期間で表す不思議さというか難しさを感じた。だって密度を表す尺度は無いから。
それはそうと、あたしは林野さんのことを、どうして好きだったんだろうか。
初めて会った時はカッコよさにびっくりした。こんなイケメン、芸能人以外で初めて見たって思った。そこまでイケてるのに、しゃべったら気さくで話も面白くて、いいなと思った。後で仕事もメチャクチャ出来るらしいって聞いて尊敬した。
でもすぐカノジョいるって知って、しょうがないなって思った。その後、林野さんに和島さんを紹介されて、最初は何とも思わなかったのに、優しくされる内に好きになって付き合った。(海外に支社を持つ規模の会社社長の息子なのに、板前のバイト中で、前職が美容師で天秤座でAB型という男と、付き合ったことが無かったからという、裏の理由もあるけど)
付き合っている間、和島さんと一緒に、林野さんとたまに会うことがあっても、和島さんを好きだった。でもやっぱり林野さんのことも好きだった。でもどうこうするつもりはなかった。
和島さんに振られて、その後、最上さんともトラブッてボロボロになった時、あたしはヤケクソになって、林野さんと寝てやろうと思った。アパートさえ訪ねれば、そういう流れになるだろうっていう確信があった。
どうしてあの時、林野さんだったんだろう? 他にも言い寄ればなびきそうな男は何人かいたのに。中にはフリーの男もいたのに。
あの時は、自分はカッコ良くて優しくて気さくで、頭が良くて仕事の出来る林野さんを好きなんだと思っていた。でも今は分かる。あたしはやってみたかったんだ。「元カレの友達と、エッチをする」という行為を。
あと魚座で建設関係で、片親に育てられた男と、寝てみたいっていうのもあった。それまでそういう人と寝たことが無かったから。
特に「魚座」と「片親」には、我ながら反応していたと思う。一度自分と同じ星座の男と寝てみたかったから。基本的に同じ星座同士は相性いいっていうし、性格も似ているっていうから、試してみたかった。
まあ真面目なのかいい加減なのか、よく分からない点と、同情心に厚いくせに、変に冷めた視点を持っている辺りと、案外無邪気で率直な所は、確かに似ていたと思う。
「片親」に惹かれたのは羨ましかったからかな。あたしの両親がお互い憎み合いながら離婚しないでいるような人たちだから、すっきりした環境に恵まれた林野さんに、憧れたんだと思う。
不思議だけど「カノジョのいる男と、エッチをする」っていう行為には興味が無かった。むしろ君江さんの存在は、最後まであたしの中でネックだった。でも「元カレの友達とエッチ」という行為をしたいばっかりに、あたしは君江さんの存在に目をつぶった。
それなのに林野さんが婚約をすると、あたしは「婚約者のいる男とエッチ」をしたがり、そして「奥さんのいる男とエッチ」をしたがった。一度「カノジョのいる男とエッチ」をしたら、その発展形まで堪能したくなった。
特に「奥さんのいる男とのエッチ」は楽しかった。君江さんを騙していることが楽しいのではなく「不倫」という言葉が面白かった。どちらかが家庭さえ持っていれば、熱い恋の熱に浮かされた関係も惰性のセクフレとの関係も全て「不倫」である事が面白かった。
あたしは自分が、チンケな「不倫」をする事により、「不倫」という言葉を貶めている気分で楽しかった。だってあたしは元々、カノジョや奥さんのいる男に、粉をかけるような行為は嫌いなのだから。
林野さんが、君江さんの妊娠をきっかけに、あたしとのさよならを決めたことは、寂しくはあるけど嬉しくも思う。いくらあたしでも「お子さんのいる男とエッチ」は嫌だから。
まあそうは言っても、「奥さんが妊娠中の男とエッチ」は、してしまった訳だけど、でも妻の妊娠中に、浮気する男は多いらしいから、仕方ない気がする。「不倫」を経験してしまった以上、王道の「奥さんが妊娠中の男とエッチ」は、押さえておかなきゃいけない気がするから。
じゃないと半端な「不倫」しか経験しなかったあたしは、物足りなさから、再度誰かと「不倫」をしてしまいそうだから。
伴侶が妊娠中の男と交わる行為は薄汚い。もう二度と嫌だと思う。
でも君江さんに対して、罪悪感はほとんど無い。林野さんはこれであたしと切れたんだし、むしろ君江さんにとっては、喜ばしいことのはずだ。ただこの六年の間、林野さんにはあたしの知る限り他に女が三人いた。その女たちのことは、ちゃんと整理したのかどうかという問題もあるけど、まあそれはあたしの知ったことじゃない。
ただ結局、あたしが林野さんに近付いたのは、林野さんがちょっぴり浮気性だと知っていたからだと思う。恋人に一途な男を、陥落させるのは罪悪感があるけど、浮気な男の浮気相手の一人になるのは、あまり罪の意識が芽生えない。「赤信号皆で渡れば怖くない」の感覚かな。あたしってつくづく日本人だ。
そして和島さんに対しては、それこそ全く罪悪感が無い。あたしはあの時和島さんの友達と寝たいと思ったのだもん。それは結局、和島さんへの屈折した恋愛感情なのだから、惚れたあたしの負けなのだ。負けた人間がどうして勝者に罪悪感を持つだろう?
ただその後あたしは、さっさと和島さんを忘れ、林野さんへは長らく恋愛感情を抱くことになったけど、まあそれは、結果論というものだし。
そして最後に、今日林野さんとエッチしたことによる早田係長への罪悪感、全く無し。だって今日で林野さんとは切れたんだし、むしろ係長にモーションかける前に、身辺整理をした自分は、誠実だと思う。大人の片想いは結構ずるい。
でも月並みだけど、林野さんとベッドにいる時、係長の顔がチラッと頭をよぎった。
12月12日(火)
〔例えば、君江さんの自殺未遂〕
当初は気分で記録していこうなんて思っていた日記だったのに、案外毎日欠かさず書いている。でもこれは、考えようによっては当たり前だ。だって書きたいことは毎日山のよう様にあるんだから。
でも「山のようにある」からこそ、あたしはここ半年、日記をつけていなかった。だって「山のようにある」中から、何をどう抜粋すればいいのか分からないから。だから片想いであれ、恋愛を始めたのは良いきっかけになった。内容を恋愛に関することに、絞ればいいんだから。
ただ文章を書いていると、どんどんそれに関連した色んな思いが溢れてきて、どこで区切ったらいいのか分からなくなる。まあキリが無いから、なるべく早目に区切っている訳だけど、でもあんまり早く切りすぎると、その文章自体が伝えようとしていることを、誤解される恐れがあるんだけど、誤解されるって誰に? って思う。
この日記は非公開が前提だから、読むのはあたし一人だ。だから誤解なんてあるはずが無いんだけど、でもやっぱある気がする。例えば十年後二十年後のあたしは、今のあたしの、考え方や感じ方がまるで理解出来ない可能性があるから、未来のあたしにも分かり易く書くべきじゃないかなあ? なんて思う。どうせ書くからには。
でも自分相手だと思うと、甘えが出るのも確かだ。何をどこまで説明するべきかが、よく分からない。例えば昨日の林野さんのこととか、自分に自分のセクフレの説明をするのって変な気分だった。
ただ例えば、初恋の男の子に対して、日々どんなことを思っていたのかとかは、今となっては詳しい記憶が無い。つまり今の自分にとっての当たり前は、未来の自分の当たり前とは限らないんだから、やっぱり丁寧に書かなくちゃと思う。
ただ今回、こうして日記をつけ始めてみて、どうして最近ブログを公開する人が多いのか、分かった気がした。それまでは現代人は自己顕示欲が強いなあなんて、まるでコスプレマニアでも見ているような気分だったけど、でも何だか分かった気がする。文章って読み手を想定しないと、書き辛いんだってことが。
それまであたしは、日記って独り言みたいなもんだと思っていたけど、でもそもそも、自分の独り言を録音する人なんていないしね。形に残す以上は、そこにどうしたって読み手の存在が意識されるんだよね。その読み手は未来の自分でも構わない訳だけど、でも未来の自分の変貌振りなんて、予想もつかないし。
だったらいっそ、時の隔たりのほとんど無い、全くの第三者を読み手に想定した方が、イメージし易いってことじゃないだろうか。
ただそうはいっても、あたしはやっぱり、ブログとして公開するつもりは無い。そんなことをしたら、自分の気持ちを正直に吐露出来なくなるから。
もしあたしが、うっかりブログを始めるとしたら、きっと公開してもいいような、当たり障りの無いことだけを記事にして、そして当たり障りのあることは、裏ブログに載せることになるだろう……って、裏ブログって何よ? 要は非公開の日記? てことは今やっていることじゃん。
ひょっとしたら世の中には、表ブログと裏ブログを、書き分けている人もいたりしてね。ふふふ。でもあたしにはとてもそんな時間は無い。もう裏ブログだけで手一杯。
結局表であれ裏であれ、日々感じること書きたいことは、山のようにあるけど、それを逐一書いている時間が無い。だからいくら裏ブログで正直に心境を吐露しても、そこには今のあたしの、何十万分の一の真実しか記されていない。真実を書くことの何て難しいことか。
例えばあたしは、君江さんに対しては、本当はもっともっと色んなことを考えた。だって一度会ったこともあるし、君江さんが五年前に自殺未遂したことも知っているから。
でもそれは、あたしの存在が原因じゃないし、君江さんはあたしと林野さんの関係を知らないし、(会った時は和島さんも一緒で、あたしはまだ、和島さんと付き合っていた頃だったし)それに日記っていうのは、やっぱその日のあたしの出来事や、その日あたしが思ったことを書くべきだと思ったから、この六年の間に、君江さんに対して考えたことは割愛したけど、でもそんなことを言い出したら、過去に関することは、一切書くべきじゃない気がする。
でも現在っていうのは、過去があってこその現在だから、過去を一切無視して書き進めることは、出来ないから難しい。
本当に本当に真実を書こうとしたら、今日という日の出来事を、少しでも真実に近づけて記録しようとしたら、本当は今日のあたしを形作った過去の出来事を、余すところ無く書かなきゃいけないのかも。
つーかひょっとしたら、前世のカルマが原因かも知れないから、前世についても書くべきかもね。あたしの前世は、ナンジャタウンの占いによると、ドイツの時計職人の長女で、作家だったらしいから、その辺も絡んでくるのかもね。例えば書きたいことがあり過ぎてキリが無いのは、前世で作家だったからなのかも。
過去や前世の出来事って、今日起きた事ではないけど、でも今日の出来事から、今日何かしらの過去を思い起こしたのなら、それは今日の日記に記載したい。本当は。
まあ前世の占いは、真実かどうか分かんないけど、でもそんなこと言ったら、過去の記憶だって思い違いがあるだろうし、つーか今日の出来事だって、思い違いはあるだろうしやっぱ真実って難しい。結局自分が、どう認識したかにかかっている訳で、曖昧な自分が認識した中から、曖昧な判断で抜粋して、曖昧な表現で記録するしかないってこと。
そういうのを嫌だと思ったら、日記なんか書けない。でもあたしは変に完璧主義な所があるから、何だか色々考えて、ブルーになってしまった。
でも真実を記録したいと願って努力して、なかなか達成出来ないこの状態は、紛れもないあたしの真実なんだから、まあこれでいいのかもとも思う。
12月13日(水)
〔むき出しにされた頭皮の官能〕
本当は早田係長に対する想いのたけをぶつけたくて、始めた日記なのに、どういう訳か、係長のことをあんまり書いておらず欲求不満だ。半年前にはあんな自己陶酔型の日記を書いていたあたしが、随分冷静になったもんだと思う。つーか冷静過ぎる。
半年前の日記を見て自己嫌悪に陥り、セーブしているのか?
進展の無い片想いのため、受身女としては燃え辛いのか?
どっちもあるけど、実はこれも真実を書く難しさにあると思う。あたしは実はこれまで、係長のある特徴を書く事を躊躇していた。躊躇のあまり、バツイチなどという普通っぽい事を書いて、それに心を奪われている振りをしてきた。
……いや係長がバツイチだってことは、実際に気にはなっているけどね。本当にバツイチの人は気遣いが無いのか? とか、とにかくバツイチの人が抱えているメリットデメリットを、間近で確認してみたい、そういうものを抱えている人と、のっぴきならない所まで行ってみたいっていうのはある。
ただバツイチは早田係長だけじゃないし、あたしは別に、係長がバツイチだというただそれだけの理由で、係長を好きになった訳じゃない。
あたしにとっては、係長のもう一つの特徴の方が、よっぽど意味があった。どうやら係長はヅラらしいのだ。
あたしはヅラを被っている男の人が好きだから、本当はそれに関することを、延々と書き連ねるつもりだったのに、つい躊躇しちゃって、世間的に認識されていそうな、「好きになった人がバツイチだったらどうよ?」的な関心事ばかりを書いて、書くことによって、いつの間にか本当に、ヅラよりもバツイチに関心を持ってしまった時期もあったけど、でもここで一つ初心に戻ろうと思う。
つーか書くという行為の怖さを、今回知った気がする。人は興味のあることを書くだけじゃなく、書いたことに、興味を奪われる場合もあるんだね。まあでもバツイチ問題は、興味を持って悪いことじゃないからいいんだけど、でもそろそろ、そもそものあたしが興味を持っていた問題に、立ち返ろうと思う。
自分がヅラ好きだと知ったのは、一年くらい前だったと思う。みっちゃんが、ヅラ疑惑のある芸能人たちの合成ハゲ写真を、会社に持って来ていて、それを見た時思わず胸がキュンとした。
それまでその人たちのこと何とも思ってなかったのに、見た途端、何だか心の中の柔らかい部分を、キュッと掴まれた感じがした。
あの想いは、一体どう表現したらいいんだろう? 単純に涼しげで爽やかっていうのもあるんだけど、でも薄い頭部が何だか知的で、インテリジェンスを感じた記憶の方が強い。
ただ……、じゃあそれは、視覚的な美や知性への憧れなのかっていうとそれだけじゃない。あたしはその時、むき出しにされた頭皮の官能も感じたのだから。
しかもその官能は、例えばマッチョマンに漂う色気とは違って、もう少し繊細なものだ。かといって、紅顔の美少年の醸し出す繊細さよりもう少し崩れている。ただその崩れ具合は、例えばホストの持つ退廃的な雰囲気とも違う。ハゲ頭の持つ崩れは、もっと自然で素朴で残酷で、もののあはれを感じさせるものだ。
そうあたしは多分、自然の摂理が奏でる、もののあはれに感じ入ってしまったんだろう。ああ何てあたしは日本人なんだろう?
でも欠けているものを好ましいと思うのは、日本人だけの感覚ではないはず。ミロのヴィーナスが、これほどの長きに渡って人々に評価されているのは、両腕が欠けているからだって話もあるし。欠けているもの、足りないものに心奪われるのは人類共通の心理かも。
それなのに世の女たちは、どうしてヅラやハゲを嫌うのか不思議。皆は被り物なんだか髪の毛なんだか、よく分からない曖昧な頭部を見ても、心が騒がないんだろうか。ひょっとしてずり落ちるんじゃないかとか、ずり落ちて欲しい、でもずり落ちて欲しくないみたいな葛藤に、切なくなったりしないんだろうか。
でも早田係長は全然ヅラっぽくなくてそこがまたいいんだけど。だってあたしだって、いくらヅラが好きだからって、ヅラを被っていれば誰でもいい訳じゃない。誰が見ても明らかにヅラな人って、ハミパン、ハミケツの女みたいで興ざめだもん。
多分あたしのハゲ頭への興味は、男が女の裸に興味持つのに近い気がする。好きな女の裸体を見たがる男さながらに、あたしはヅラを取った係長を見たい。基本的にどんな男であれ、ヅラを取った姿は見てみたいけど、でも係長の頭皮に一番興味がある。
男が惚れた女の裸体をあれこれ妄想するのと同様に、あたしも係長のハゲ具合を、あれこれと妄想してしまう。
やっぱり額からきているタイプなのかなあという気がするけど、でも案外、ザビエルハゲかも知れないしなあとか、ハゲ面積はどれくらいだろうとか、その周辺の毛は、やっぱり頼りないネコっ毛なんだろうかとか考えていると、胸が苦しくて眠れなくなってくる。
男だったらこんな時どうするか。ターゲットの女を口説いて、ベッドに連れ込んで欲望を叶えるだろう。
でも
「電気、消して」
とか言うカマトト女もいるから、(つーかあたしだけど)真の願望達成のためには、何度かベッドを共にする必要がある訳だけど、まあそれはいいよね。女のこと本当に好きなら、何度かは暗闇でエッチしたって、バチ当たんないさ。
でもあたしはどうしたらいい訳? どうやって係長のヅラを脱がしたらいいの? 巷には女の服を剥ぎ取る方法を紹介するマニュアルは溢れているけど、男のヅラを剥ぎ取る方法なんて、どうやったら仕入れられるのさ?
全く、情報化時代なんて言うけどさ、結局、一般的な欲望を叶えるための情報が溢れただけじゃん。ネットの普及で、大衆の好みはかえって規格化されたきらいがあるし、つまんない時代になったもんだよ。
……なんてぼやいていても仕方ないけどさ。まああれだ。女と寝たきゃ、まずはデートを重ねることだよね。
つーか、会ったその日にエッチっていう手もあるけど、あたしはそういうの好きじゃない。あたしは好物は、我慢して我慢して美味しく頂くのが好きさ。だから係長を脱がせたかったら、まずはプラトニックに、ある程度仲良くなってからだよね。
でもあたしはまだ、プラトニックな関係にもなりたくないんだ。もうちょっと、あとちょっと、離れた場所であれこれと妄想してそれから近付きたい。そして妄想と現実の違いを楽しみたい。そうすれば一口で、二度美味しいから。
12月14日(木)
〔血と恋情〕
八寿子から
「年末、帰って来ないの?」
と電話があった。
「あんな実家に、誰が帰るか」
と答えるのは、色々面倒臭いので
「忙しいから、無理」
と言っておいた。
八寿子だって父親と母親を嫌っているはずだけど、何だかんだ言って実家に留まっているのは、結局口で言うほどは両親を嫌ってないってことだ。だとしたら帰省シーズンになったところで、親のことを思い出したくもないあたしの気持ちなんて、分かるはずがないんだから、正直に答えるのは面倒臭い。
八寿子は父親似でやたらしつこい性格だから、あたしが
「お父さんとお母さんに会いたくないから、帰らない」
なんて言ったら、自分が納得するまで、追及してくるに決まっている。あたしは自分が、なぜそこまで両親を嫌っているか説明することは出来るけど、その説明を八寿子にしたいとは思わない。八寿は両親に似て物分かりが悪いから、絶対疲労困憊する事になる。
あたしはこれまで、両親によって、散々疲労困憊させられてきたから、もうこれ以上身内に疲れさせられるのは勘弁だ。
でもそんなにまであたしと違う八寿子に対しても、やっぱり姉妹なんだなあと、思う節はある。
あれは八寿子が三、四歳の頃だっただろうか。母親からの又聞きだけど、母が八寿子を連れて病院に行った時、待合室で一緒になったハゲ頭のおじさんを、八寿子がじっと見詰め、そして母にささやきかけたということだ。
それに気付いたおじさんが母に
「何て、言ったんですか?」
と尋ね、母が
「この子がね、『あのおじさん可愛い』って言うんです」
と答えると、そのおじさんは、嬉しいような恥ずかしいような顔をしていたらしい。
「八寿子っておかしいんだから。ハゲてる人を見つけてきちゃあ『可愛い、可愛い』って喜んでるの」
さもおかしげにつぶやいた母の声色を、なぜかあたしは、昨日のことのように覚えているのに、どういう訳か、それを聞いて自分がどんな感想を持ったのかはさっぱり覚えていない。その代わりあたしは、現在の感想を書くことが出来る。ひょっとして自分のハゲ好きは、血によるんじゃないか?ということだ。
幼い頃あるいは若い頃、あたしはハゲやヅラを、好きだと思った記憶が無い。ただそれらを嫌悪した記憶も無い。一般的な女が嫌悪するそれらの特徴を、全く嫌悪しない半生を歩んできたということは、ハゲやヅラを、まあ受け入れてもいいかな? 程度の土壌は持っていたという事だ。
八寿子はそのしつこさからも分かるように、幼い頃から、不必要なまでに積極的で行動的だった。病院に運び込まれるほどの怪我をした回数は片手じゃ足りない。思うんだけど、積極的な人間というものは、人よりも欲望が強いか、あるいは自分を動かすに当たる欲望や嗜好に敏感なんじゃないだろうか。
あたしは八寿子に比べるまでもなく、一般と比べても、消極的で受身な質だから、自分の嗜好に気付くのが、遅かったんじゃないだろうか。
いずれにしろ、顔も性格も全然違うあたしと八寿子が、ハゲを好きな点だけは一致するなんて、血って不思議だ。……とはいっても果たして八寿子が、今でもハゲ好きなのかは知らないけど、でもそれを、八寿子に確認するのは面倒臭い。
でももし本当に男の好みが遺伝するとなると、姉妹で男を取り合うような事も起きそうで面倒臭いけど、でもあたしと八寿子の間では起きなさそう。だってあたしたちは、顔と性格だけじゃなく体つきも声も趣味も考え方も、見事なまでに違うから。
見た目だけを考えても、あたしみたいに長身で色白で猫顔で痩せている女を好きになった男が、八寿子みたいに中背で色黒で狸顔でグラマラスな女を好きになる可能性は、低い気がする。
だからあたしを好きになるような男は、まず少なくとも、八寿子を好きになることはないだろうから、そう考えると、似てないことによって心を通わせられない姉妹であっても、それはそれで、自然の恩恵かなあ? という気がする。
でも八寿子を好きになる男が、あたしのことを、決して好きにならないとは言い切れないと思うのは、あたしの自惚れだろうか。ただ八寿子のことを、ほんの一時でも好きになった男なんて、あたしの食指が動かないけど。
12月15日(金)
〔プライドと情欲〕
アイジャワと夕飯を食べに行ったら、帰りの車の中で口説かれた。アイジャワは、二つ年上なのに、あだ名で呼べる気の置けない男友達として信頼していたのに、ガッカリだ。
まあアイジャワと会うのは一年振りだし、つまりは友達とはいっても疎遠な関係な訳だから、仕方ないといえば仕方ないんだけど、でも一年振りに再会して即日口説くのってどうよ?
この一年連絡無かった訳だから、つまりはアイジャワにとって、あたしは大した存在じゃないってことじゃん。つーかあたしだって、この一年アイジャワのことは忘れていたから、それはいいんだけど、でもその「大した存在じゃない」あたしは、口説かれたことによってますます貶められた気分になった。
つまりはアイジャワはあたしのことを、大した扱いしなくても、口説けば落ちる可能性アリって、踏んだ訳でしょ。かなり失礼な話だよ。しかも
「もし飯久保のこと抱けば、オレかなり、飯久保にハマッちゃうと思う」
って何よ、それ。あたしがアイジャワにハマられる事を望んでいるってか?
冗談じゃない。誰がアイジャワみたいなダサい男。百歩譲って、抱かれる前に溢れんばかりの愛を注がれたって、アイジャワみたいな馬鹿男に抱かれるのはごめんだ。それくらいなら、面白半分であたしに近付いて来た、も少しマシな男と寝てやる。
あたしがアイジャワを、気の置けない男友達だと思っていたのは、全く肉欲を感じていないからだったのに、アイジャワは分かっていなかったんだろうか。だから時折、やらしいこと言ってきたのかな。
「さっき飯久保、女の匂いがした」
とかそういうの正直キモかったけど、でもアイジャワは、正面きって口説いてくることは、しないと思っていたのにな。
だってあたしは、アイジャワの好みど真ん中ではないはずだし。アイジャワっておとなしくて巨乳な女が好きだしね。あたしみたいな受身ではあっても口数の多い貧乳女なんて、タイプじゃないはずなのにどうしちゃったんだか。
ひょっとして最上さんに、あたしと最上さんが、以前セクフレだったことを聞いたんじゃないだろうか。
前の会社にいた頃、あたしは表面的には、最上さんよりアイジャワと仲良かったし、会社辞めてからも最上さんとは切れたけど、アイジャワとはこうして、たまにご飯食べたりしていたから、そんなあたしが、実は昔最上さんと寝ていたことを知って嫉妬したとか?
その可能性はある気がする。あたしに対して恋愛感情無くても、こういう場合は、男としてやっぱ面白くない気持ちになりそう。加えて最上さんも、あたしと寝たことをアイジャワに漏らしても、おかしくなさそうな気がするし。
当時あたしと最上さんは、細心の注意を払って、社内の人たちに勘付かれないようにしていたけど、でもあたしが会社辞めてから、もう六年も経っているし、そうすると最上さん的には、女コマした話は自慢話になるだろうしね。
つーかその前提として、何も知らなかったアイジャワは、こうして時々、あたしと会っていることを、最上さんに軽く自慢げに語っていたかも知れない。そうするとそれを聞かされていた最上さんが、あたしたちの過去を語って自慢したくなってうずうずしていて、そして最近、語ってしまった可能性がある。
つまりは自分の方が、一歩先んじていると思っていたアイジャワが最近その幻想を砕かれて、それでリベンジの意味を込めて、あたしを口説いてきたんじゃないだろうか。
でもそういうのって悲しいな。だってアイジャワは、単なるプライドと情欲で、あたしを口説いてきたってことだもん。つまりは最上さんに対するライバル心でしょ。
同い年だし高校の頃からの知り合いだって話だし、いつも最上さんの方がモテていたから、引け目を感じちゃうのは分かるけど、でもそういう負の感情に、利用されるのは侘しいよ。あたしはアイジャワを恋愛対象として見たこと無いし、劣情も全く感じないけど、でも友達としては好きだったのにな。
人間としては最上さんよりずっと出来がいいと思っていたし、だからこそ以前、おとなしくて巨乳なフユミンを、紹介したこともあったのに、こんなことをされてガッカリ。つーかそのフユミンを紹介した後、しばらくフユミンにご執心だったくせに、何だってその友達であるあたしを、口説く訳?
こんなことされちゃったら、もうあたし、アイジャワとは会えないや。だから今夜でアイジャワとはお別れ。バイバイ。アイジャワとの気楽な会話、結構好きだったけど、前の会社の人たちの近況とか聞けなくなっちゃうけど、もうしょうがないね。
前の会社の人間関係で、今日まで続いていたのは、アイジャワ一人だったけど、今夜で本当に縁切れたなあ。でもこれで良かったのかも。
そもそもセクフレ解消の申し出をした途端、会社で露骨にあたしに冷たくして、あたしを追い出した最上さんが、勤めているような会社の人間関係なんて、本当はもっと早く、断っておくべきだったのかも。つーかあたしは何でそんな性格悪い人と、セクフレになっちゃったんだろう?
いや性格悪いからこそ、セクフレになったんだった。あの頃あたし、和島さんにこっぴどく振られてちょっと精神的に不安定で、そんな時に、最上さんに誘われて……。
うん実は最上さんのこと、元々好みではあったんだよね。あたしシャープな顔立ちが好きだからさ。それに背が高い点も良かった。あたし自分が背が高いから、相手にも身長求めちゃうんだよね。じゃないと何か落ち着かないから。それに牡牛座の男と寝るの初めてだったし、あと正直あの人の性格の悪さも魅力だった。
和島さんが最初、すんごくいい人そうだったのに、実は案外冷たい上にマザコンだったことが判明して……、だって初めてホテルに泊まった日に
「お母さんが、待っているから」
って、宿泊の予定を休憩に切り替えて帰ったりする? こっちは押されて、情にほだされてカノジョになったつーのに、初エッチでそんな扱いかよ? という感じ。
だからあたしが、和島さんと付き合い始めてからも、林野さんのことも密かに好きだったのは、仕方なかった面もあると思うんだよね。
……ってその話は置いといて、とにかく最初はいい人かと思って付き合った和島さんが、案外嫌な奴だったことが、後になってから判明して、しかもその嫌な奴に振られちゃったあたしは、かなり傷付いていたんだよね。だからその反動で、全然いい人じゃない最上さんに、惹かれた部分があるんだよね。
最初から性格悪そうな人なら、期待しないで済むから、傷付かずに済みそうっていうか。今にして思えば、かなり後ろ向きな話だけどさ。
ただそうは言っても、やっぱり性格悪そうな人と、付き合う勇気も無くて、ただ最上さん自身も、あたしのことは遊びみたいだったから、だったらお互いに付き合う気が無いんなら、セクフレになればいいじゃんと思ったんだよね。
でもそういうもんじゃないんだよなあ。付き合おうと付き合うまいと、性格悪い人と関わると傷付けられるんだってことを、あたしはあの経験から学んだよ。結局あたしは、最上さんと関わり続けることに、耐えられなくなっちゃった訳だし。
そしてあたしは、今夜六年越しに、再び最上さんに傷付けられたのかも。だってもし最上さんと寝ていなければ、ひょっとしたらアイジャワにも口説かれなかったかも知れないし、仮に口説かれたとしても、ここまで傷付かなかっただろうから。
ただもし最上さんと寝ていなければ、アイジャワの口説きを断るのを、ほんの少し惜しいと思ったかも。だってアイジャワも牡牛座だから。
あたしは最上さんと寝て以来、牡牛座の男と寝てないし、だからもし最上さんと寝ていなければ、アイジャワは未知な男として、あたしの目の前にいた訳で、そうするとやっぱ、ちょっとは興味惹かれたかも。まあそうはいっても、それだけで寝る気にはならないけどさ。
つーか牡牛座のことはもういいや。あたしの今の興味は、その一つ前の牡羊座の男にあるんだから。牡羊座の男は、半年前の日下部を含めて残念ながら二連続だけど、バツイチでヅラの男は、初めてだから嬉しい。
でも明日から土日で、会社はお休み。二日も早田係長の危うい頭部を見られないなんて淋しい。部署も違うから、会社のある日だって元々そんなに接する機会は無いけど、でもそれでも、会社で行き来が、全く無い訳じゃないからさあ。
つーか当初は、つまんない会社勤めに張りを持たせるために、恋愛始めた部分があったのに、とうとう休みの日まで会いたくなってくるなんて、かなり恋愛感情育ってきたな。こんなに育てちゃってどうしよう? 育てたところで明日明後日は確実に会えないのに。
12月16日(土)
〔せめてヅラだけは、被り続けてくれないかしら?〕
冬のせいか肌が乾燥して痒いので、皮膚科に行ったら、待合室の壁の貼紙が目に入った。「AGAの治療ご相談下さい」ってやつ。テレビとかでも、AGAは病院で治療出来るとかCMしているけど、皮膚科の管轄だったのかと思った。
それにしても最近は、どうしてアルファベットで表すのかね? ハゲはAGAだし、インポはEDだし、何だかすごくカッコいい病気みたい。男の二大みっともない症状が、アルファベットにされて生まれ変わった感じ。あとは水虫をカッコよく表現したら、完璧な気がするけど、水虫は女もかかるから駄目かあ。
でもハゲも数は少ないけど女もなるよなあ。ということは、男とか女とか関係なく、みっともない症状を、欧米風にカッコよく表現して、患者に抵抗無く診療に来てもらおうっていう魂胆なのかな?
でもそもそも、インポはともかくハゲって病気な訳? 治療しなきゃいけないものな訳? あたしはハゲが好きだから、出来れば治療して欲しくないけどなあ。早田係長もAGAキャンペーン? に押されて治療始めて、地毛がフサフサになっちゃったらどうしよう?
でもそもそも、毛って体を守るために生えてるよね。確かに頭部は大事な場所だから、当然守られなくちゃならないよね。それにも関わらず、どんどんそこから毛が抜け落ちるのは、やっぱ病気って事? んーでも、ただの老化現象って気がするけどなあ。
ただ老化現象からくる病気でも、普通は治療するよね。例えば脳溢血とかも老化からくる病気だよね。割と年いった人が、かかる病気だもんね。そうすると原因が老化によるものかどうかっていうのは、病気か否かを判定する材料にはならない訳か。
でも最近までは、ハゲを病院で治療する事がメジャーじゃなかったから、やっぱあんまりピンと来ない。これからは段々メジャーになってくるのかな。薄毛専門サロンとかも増えたし、二大勢力みたくなるのかな。
それともどっちかが、勝利を収めるのかしら? ひょっとして今って薄毛界の変革期? 人類は今まさに、歴史が動く瞬間に立ち会っている? うーん感無量だわ。
……なんて浸っている場合じゃないんだよなあ。病院が勝とうと、薄毛サロンが勝とうと、あるいは二つが共存しようと、いずれにしろ結果を出したものが、生き残るってこと。結果なんか出されたらハゲ人口が減っちゃう。ハゲ人口が減ったら、必然的にヅラ人口も減っちゃうじゃん。
好みの男が世の中から減ってくのを、ただ指をくわえて見ているだけなんて虚しい。でもあたしには成す術が無いしなあ。あたし一人が、いくら世の中に対して
「ヅラを被っている人が好みです。男性の皆さん。育毛なんかしないで」
と訴えたところで、所詮少数派だもんなあ。人は多数に支持されたいもんだしさ。
つーか仮に、あたしという少数派の歓心を買う為に、育毛を踏み止まる男が何人かいたとしても、その何人かのハゲ男があたしの元に来ても困るしさ。あたしには係長がいるんだし。
つーかあたしにとっては、今のところ、とりあえず係長さえ育毛をしなければいいんだけど、でもやっぱ、世間からヅラ男が減っちゃうのは、寂しいっていう思いがある。つーか係長だって世間の男な訳で、その内世間に流されて、ヅラを捨て去る日が来るかも知れない訳で、何だか焦っちゃう。
別にあたしを、好きになってくれなくていいから、せめてヅラだけは、被り続けてくれないかしら? 別にあたしの愛情に応えてくれなくていい。ただヅラを被っているあなたが好きだということ、それだけはいつか伝えたい。いやいつかじゃ遅い。うかうかしていたら係長は、育毛を始めてしまうかも。
あたしもしかして、自分から告る人の気持ちが、初めて分かったかも知れない。
そりゃあ林野さんにも、自分から告ったけど、でも林野さんの場合は、向こうが先にあたしを寝床に引っ張りこんだし、何つーかエッチしちゃったから、好きって言い易かったって部分がある。つーかエッチしたからには、好きって伝えるのが、当たり前というかそんな気分だった。
でも係長とは、エッチどころか、世間話もほとんど交わしたことが無いのに、何だか自分の気持ちを伝えたくてたまんない。
困ったな。どうしよう。受身女としては自分から働きかけるのって本当困るのに。だってやり方が分かんないよ。初めてだからとんでもない失敗しそうな気もするし。十代の若い子なら、告白とかアプローチでトチッても可愛いけど、27の女が、おかしなモーションのかけ方するのって、絶対興ざめだよ。
若い頃も、失敗したり恥かくのが怖くて、受身に徹していた部分あったけど、でも考えてみれば、若い頃の失敗は長い目で見れば大した恥じゃないんだよなあ。……なんてことに今更気付いても遅いか。
んーでも本当に遅い? 例えば十年後二十年後のあたしから見れば今のあたしも若い訳で、そうするとやっぱあの時、やっとけば良かったって思うのかな?
ただそうは言っても社内恋愛だから、やっぱ慎重にいかないとなあ。失敗した場合、恥以外のリスクが大き過ぎる。だからやっぱここは一方通行の片想いに留めとくのが無難だよなあ。しょうがないや。
やっぱ勢いで突っ走れるほどは、もう若くないし。ひょっとして大人になってからの方が、人は恋に臆病になるのかしら。
12月17日(日)
〔コペルニクス的転回〕
ヘアサロンへ行った。現在ハゲ及びヅラに興味津々のあたしが、髪の専門家の元へ行くとなると、美容師さんとの会話は、どうしてもそっち方面へ行ってしまう。
最近はサロンに、ヅラを持ち込む女子高生がいるんだと。つまり地毛を茶髪やら何やらにしているから、校則をすり抜けるために、黒髪ストレートのヅラを、学校に被って行くんだけど、そのヅラが自然に見えるように、美容師にカットしてもらいに行くんだと。
なるほどねえというか、そこまでやる? という感じだけど、とりあえず今は、女子高生よりハゲオヤジの方が重要なので、その話はそこそこに
「じゃあハゲ隠しのヅラを、カット用に持ち込むおじさんとかは来ない?」
と聞いてみたら
「さすがにそういう人は来たことないけど、『俺は人の半分しか毛が無いんだから、料金も半額にしてくれ』っていう人は来ましたねえ」
とのこと。
なるほどねえというか、それを言ってまで値切る? という感じだな。まあでもヘアサロンって、ロング料金とか設定している所多いから、そういう発想も生まれるんだろうなあ。
まあそれはともかく、そんな値切り交渉にどう対抗したのかと思ったら
「少ない毛を多く見せるために、通常の倍の手間をかけていますので、半額どころか本来なら倍の金額を頂きたいくらいなんですが」
とかわしたらしい。うふふ。なかなか言うじゃん。ヨリの紹介で来た初めてのサロンだったけど気に入ったわ。次も行こうかしら。
ただ今日の会話で、瑠知のことを思い出した。
瑠知は一つ上のお姉さんと同居しているから、前あたしが
「いいよねえ。お姉さんの服とか借りられるから、ワードロープが二倍だよねえ」
と羨ましがったら
「お姉ちゃんとは身長違うから、借りられないよ」
と答えたのだ。
確かに瑠知は今時珍しいくらいのおチビさんで、身長が147センチしかない。(普段は150センチとサバを読んでいるらしいけど)
対してお姉さんは、センチは失念したけど普通の身長だから、ちょっと服の貸し借りは難しいかも。と思っていたら
「それどころかわたしはこの背だから、既成服買っても、大概お直し必要だし、お直し代がかかっちゃって皆より服買えないよ。ワードロープ二倍どころか二分の一だよ。しかもお金だけの問題じゃなくて、ブーツカットのデニム買っても、裾上げすればストレートになっちゃうし、洋服の幅を広げることも出来ないんだよ」
と続けられた。
何だか可哀想で笑っちゃう。これだから瑠知は憎めない。まっとう過ぎるくらいまっとうなOLで、その清く正し過ぎる生き方について行けなくなることもあるけど、でもあたしは、身長が人より欠けた瑠知の抱える、可愛い不幸が大好きだ。
あ たしが早田係長のハゲを愛する気持ちは、これに近いものがある気がする。人はその立場に立ってみないと、なかなか当人の抱える苦悩に気付かない。
もちろん瑠知に対しては、視界が悪くて、大変なんじゃないかなあとか、ガス漏れした時は、床に呼吸器が近い分危険かも知れないなあくらいのことは思っていたけど、でもまさかワードロープに関して、それほどの悩みを抱えていたとはね。
瑠知の悩みに対しては、もちろん同情もする。でもそれ以前に、悩みを一つ打ち明けてもらったという嬉しさがある。悩みを打ち明けてもらうことは、心を許してもらった一つの証だし、あと自分の誤解が訂正されて、その人を正しく理解し直せたことが嬉しい。あたしは真実が好きだから。
係長のヅラゆえの悩みも、あたしはある程度、想像出来る。でも実情はきっとあたしの想像を凌駕するだろう。だからあたしは係長に興味が湧く。世間を欺きヅラを被り続ける日常は、一体どんな苦しみを生むんだろう?
それはあたしが今している想像と、どれくらい違う? ひょっとしてそれは、毛が少ない分、カットも簡単なはずと思い込んだサロンの客と、美容師の認識くらい違う? だとしたらそれはコペルニクス的転回だわ。
あたしはもしかして、コペルニクス的転回を望んでいるのかも。だってハゲ認識に限らず、おチビさん認識に限らず、認識がガラリと正反対に変わるのって面白いもん。
あたし理系は苦手だけど、でもコペルニクスとガリレオが、魚座だったって説には、うなずけるものがある。とはいえガリレオには水瓶座説もあるけど、とりあえず今回は魚座説を採りたい。
相反する性質を併せ持つと言われる魚座人間は、自分の認識が、あるいは人間の認識が、ガラリと正反対に変わる瞬間の気持ち良さに、人一倍敏感なんじゃないのかなという気がするから。
だからあたしは、いつの日か自分の係長への認識が、ガラリと変わることを夢見て、今日も係長の心と頭部を妄想する。係長の心と頭と肌と髪。あたしの妄想以上に魅力的だったら嬉しい。それでこそ恋をした甲斐があるというもの。
余談だけど、学校にはヅラで通って、プライベートを地毛で過ごしている女子高生も、一つのコペルニクス的転回かも。結構頭いいじゃん。その頭を勉強でも使って、少しは日本の学力上げてくれりゃあいいのに。
12月18日(月)
〔恋のきっかけ ⑴飲み会〕
土曜日に韓流映画『わたしの頭の中の消しゴム』が、テレビ放映されたらしい。その時間は、フユミンにファミレスでアイジャワの件を報告していたから、放映のことは知らなかったけど、今日お昼休みに、西川先輩が言っていた。
あたしは韓流モノ、あんまり興味無いのに、しつこくその話をされて閉口。こういう空気の読めなさ加減が、先輩が離婚された原因じゃないかしらん。
まあ先輩は、自分から振ったような事言っているけど……、つーか相手が、シャブに手ぇ出したから別れたとか、それってあたしに言っていいの? 会社で噂になったらどうする気だろ?
まあ多分先輩は、あたしが誰かに言ったりしないって踏んでいるんだろうし、実際あたしは言う気無いけど。だってあたしがバラしたってバレたら困るしね。みっちゃんを除いて、他の人はその話知らないみたいだし。
ただそうはいってもあたしだって、いつ何時、何の弾みで誰に漏らすかは分からない訳で、それなのにそんなことあたしに打ち明ける先輩はどうかしているよ。
ひょっとしてその口の軽さが離婚原因? だって正直あたしは、先輩のこと嫌いだしさ。自分のこと嫌っている相手に、自分の秘密漏らすのって不適切だと思うんだよね。それに西川先輩自身も、あたしのことそんなに好きじゃなさそうなのに何なんだろ? 一発カマしたれって思ったってこと?
って前置き長過ぎ。ついどうでもいい話で遊んじゃった。話を戻して、『わたしの頭の中の消しゴム』。韓流モノに疎いあたしだけどこの作品だけは別。結構思い入れがある。とはいえ観たことは無いけどでもそんなことはどうでもいい。何せこの作品が、早田係長を好きになったきっかけになったんだもん。
つーか今日この作品の存在を思い出したことだし、ここらで一つ、係長を好きになったきっかけ、つまりは係長が、ヅラである事を知った経緯を記しておこう。
でも今日は残業で帰りが遅かったし、最後まで書けるかどうか、つまりはこの作品のエピソードまで、盛り込めるかは分かんないけど、でも書けなければ続きは明日に回す事にして、とにかく今日は書けるだけ書こう。
最初のきっかけは、先月に行われた販促の怜ちゃんの送別会だった。寿退社ってやつ。あたしは普段は、販促の飲み会には参加しないんだけど、あたしと根津先輩は怜ちゃんと仲が良かったから、珍しく販促の飲み会に混ぜてもらった。
最初は怜ちゃんを囲んで楽しく飲んでいたんだけど、やっぱ怜ちゃんは主役だから、いつまでもあたしたちの側にいられる訳もなく、いつの間にか席を移動していた。つーかそれは、想定内だったからいいんだけど、想定外だったのは上杉君に捕まっちゃった事。
あたしは元々、上杉君って苦手だった。顔はジャニーズばりのイケメンで、背とかもスラッと高くてカッコいいんだけど、あたしに対してやたら感じ悪いっていうか、仕事の件で話しかけても、不必要なまでに素っ気無いし、そのくせ給湯室で、あたしがお弁当箱洗っている所に通りかかると
「小さい弁当箱っスよね。小食気取ってるんスか?」
とか言いながら、意地悪い顔で笑っているし。
つーか普通「ダイエット?」とか聞かない? いや「ダイエット?」って聞かれてもムカつくけどさ。女が皆が皆、ダイエットにいそしんでいると思うんじゃねえって感じだけど、でも正直、そう聞かれれば、一般的な女と思われている訳で、まだマシっていうかさ。
そ れが言うに事欠いて、「小食気取ってる」って何よ? 本当は大食いなはずって言いたい訳? ええ、実際は本当に大食いですよ。でも別に、小食気取っている訳じゃない。
一人暮らしだから節約のために、小さい弁当箱にしているんだよ。文句あっか。上杉君みたいな本社採用の地方配属者と違って、現地採用組は家賃補助が無いんだから仕方ないじゃん。あたしはそこまでしても、一人暮らししたいんだから仕方ないじゃん。多少ひもじい思いをしても、実家で暮らすよりはマシなんだよ。
なんてことは言う必要無いから言わなかったけど、でもやっぱ、頭にきた。家賃補助の件はともかくとして、「小食気取ってる」なんて言い方悪意があるもん。何で上杉君に、悪意持たれなきゃなんないのか分かんないしさ。部署だって違うしそんなに接点無いのに。
……ああここまで書いたら、もう眠気がきた。これじゃあ上杉君の人物紹介だけで終わっちゃうけど、仕方が無い。この続きはまた明日。
12月19日(火)
〔恋のきっかけ ⑵密告〕
いよいよ年末進行で帰りが遅くなってきたから、今日もどこまで書けるかは分かんないけど、書ける所まで昨日の続きにトライ。
あの夜、苦手な上杉君に、送別会で捕まっちゃったあたしは閉口した。最初は何人かで話していたはずなんだけど、上杉君が突然早田係長の悪口を言い始めたから。あたしは当時、係長のこと何とも思ってなかったし、当時から仕事上の接点はほとんど無かったんだけど、だからこそ最初はその悪口に、ちょっとだけ興味を持った。
へえ係長って、そんな人なの? みたいな、販促は営業と仕事カブるから、接点も多くて人物評も出来るのねえみたいな、そんな感じだった。
ただ上杉君は、その時かなり酔っていたみたいで、係長批判も何だかとんちんかんで、あたしはすぐつまんなくなった。
加えて皆も、その話にノッてなかったみたいで、その話題はふくらまなかった。それであたしが一旦トイレに立って、席に戻って来たら、怜ちゃんは別のテーブルに移動していて、根津先輩はテーブルの向こう側で、主任にとっ捕まっていた。そこであたしが、どっちの側に行こうかなあ? と思っていたら、突然上杉君に捕まって、係長の悪口の続きを、聞かされる羽目になった。
あたしは正直うんざりだった。だって自分を嫌っている相手が、他の人の悪口言ったところでノレないよ。こいつよそでは、こういう風に、あたしの悪口言ってやがんだなって感じがするから。それにあたしは、係長のことよく知らないからどうでもいい気がしたし、ここまで延々と悪口語られて、係長って可哀想と思った。
しかも悪口の内容も
「早田係長は、オレに絶対敵対心持ってるんスよ」
とか、そんなあたしが確かめようの無い事ばっか言われてもねえ。具体的に例挙げてくれなくちゃ分かんないよ。この人、会話が下手だなと思った。まあ酔っていて、トークがへんてこりんになっているだけかも知れないけど、でも何で、話がおかしな酔っ払いの相手をしなきゃいけないんだろ? と思った。
水商売していた頃は、週末ごとに訳分かんない酔っ払いの相手していたけど、でもそれは仕事だから仕方が無い。上杉君の相手は無償だから、あたしはすっかり憂鬱だった。
大体あたしを嫌っているはずの上杉君が、何であたしを、捕まえているのかもよく分かんなかったし、理由を知りたくもなかった。あたしはその時、ただただ面倒臭かった。
あたしはもう帰ろうかなあ? と思いながら、怜ちゃんの席と、根津先輩の席に、目を走らせた。するとあたしの視線に気付いた上杉君はあたしが退屈している事を悟ったのか、突然
「これはオレしか知らないんスけど、実は早田係長ってヅラなんスよ」
とあたしに耳打ちした。
……ああ、話はこれからだってのにもう眠くて駄目。この続きはまた明日。
初めての日記形式の小説です。こういう形式は好きか嫌いか、など感想をお寄せ頂けたら幸いです。