<権威と偏見、侮りのない純粋な論議のため>
自分の発する言葉に対する他者からの反応を客観的に見て、どうしても正当な批評でないと感じた時思い出してほしい。
先生、我々の対談は唯一度のみに留めましょう。初めて会談で行う深い会話こそ、最大に純度の高い知識のみの研磨になりますから。
こうして両方の意見を心から聞き入れ受容と思考に富めるのは、初めて出会う私達が両者を尊び、その知見に対して心震わせられるからです。互いを知らないため、空白を埋める尊敬が我々の心の距離を今こうして極限まで惹きつけ、真意からの対話を齎しています。
ですが、この尊びは二度目の会談までにそこそこ冷めてしまいます。魂の距離が離れ、さらに相手の"背景"に対する分析が始まり出すのです。
身に付けるもの、姿勢や歩き方、肌の色、外見だけでも、もはやそれだけで十分と言えるほど偏見の目を育てられてしまう。
先生、私はこう思います。殆ど多くの人は何を言ったか、ではなく誰が言ったかを重視するのだと。発言者の背景にあるもの、権威、実績、好感、役職、生まれ、そういった物質的なものに目を向けます。相手の意見を取り入れる時、無意識のうちにそれらを観察に入れ、偏見のフィルターを通して解してしまう。
先生。二度目の会談では、以前の浮かされた熱が冷め、対話の記録を脳内で整理するでしょう。それで生まれる相手への序列意識が上下に関わらず、そうなればもはや真に純粋な知識の交換では無くなってしまうのです。
知識のみの共有と議論を行うためならば、敬愛する先生、どうかもう二度と会談することのありませんように。
この一文に残すまま受け取ると、他者との関係否定に繋がりかねない。しかし、そうではない。他者との持続的な関係性は自己の成長に必要不可欠である。ここで真に記したかったのは、自己評価への不当さに対する疑念と憤りを抱えた時、ある程度の論理を知ることで自己を諌める方法である。そして、このようにして偏見を持たないことは全ての人間に不可能なことであるため、自分はしていないとの思考は誤りである。




