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言われた方角を進むと、やがて獣道に行き当たった。今にも見失ってしまいそうな道を辿っている内に、蝉の声が聞こえなくなっていることにシイは気が付いた。
代わりに、ざわざわと木々がとどろく。ぱらぱらと葉が零れ落ちてくる。ただならぬ気配に、マルとイトが抱き合った。
「なんだこりゃあ」
身体中の毛がぞわりと逆立つような感覚を覚えると共に、一陣の風がさっと三匹に吹き付けた。
「お主、何者だ」
いつの間にか、三匹の眼前に大きな白い犬が立ち塞がっていた。首には木の箱を下げている。色合いと大きさは椿姫に近いが、この犬には随分な迫力があった。いや、犬よりも狼に似た圧倒感がある。頭からぺろりとやられればひとたまりもない。
そして大犬の視線は、半べそをかくイトに注がれていた。
「式神だな」
「おい待てよ!」
シイは声を張り上げ、腰に両手を当てた仁王立ちで大犬を見上げた。
「そいつに手を出せば、オレさまが許さないぜ」
「式神を放ちおって。我の主人に仇なす気だな」
「そのチビ狐が、主人に仇なせると思うのか?」
シイの言葉に、大犬は眉間に皺を寄せた。硬直する管狐に鼻を近づけ、ふんふんとにおいを嗅ぐ。イトはマルと抱き合ったまま、石のように固まっている。
「ふむ……」
頭を離して考え込む大犬に、シイはかくかくしかじかと事情を説明した。怪訝な顔をして聞いていた大犬も、情けない管狐の姿には敵意を削がれたらしい。
「我は、主の式神である。犬神だ」
「おっ、おまえも式神なのか」これは好都合だ。「その主ってやつは陰陽師だろ。話させてくれよ」
しかし犬神は、難しい顔をしてかぶりを振った。
「こやつも式神には違いない。刺客である可能性が否めない以上、主に会わせるわけにはいかぬ」
「こんなに情けない管狐が刺客なわけないだろ」
うむむ、と犬神が唸った。
「おいら、しかくじゃないのです。イトといいますです」わけのわかっていないイトがそんなことを言う。
「それに、式神仲間には違いないだろ。話だけでもさせてくれよ。なあ」
シイの脇でイトとマルが寄り添い、潤んだ瞳で犬神を見つめる。その視線から逃れるように犬神は首を振ったが、「イトをおうちに返してほしいです」とマルが懇願する。
やがて犬神は大きなため息をついた。
「我が良くても、主がな。是と言うかは別の話」
「非でもかまわねえ。まず会わせてくれねえと話も始まらないだろ」
終いに犬神はしぶしぶと踵を返し、ついてこいと言った。三匹は喜び勇んで、その背を追って飛んだ。
開けた川原には、テントが一張り張られていた。その傍に佇む人間を、犬神は「主」と呼んだ。
「それはモクリコクリと、管狐か?」
流石に、陰陽師には妖怪たちの姿が見えていた。犬神が説明すると、膝を折ってしげしげとシイたちを観察する。「本物のモクリコクリを見たのは初めてだな」
シイはてっきり厳格な年寄りを想像していたが、犬神の主とは女性だった。しかもまだ若い人間だ。Tシャツにジーンズ、腰にはジャケットを巻きつけ、髪をポニーテールに結っている。実に溌溂とした格好だ。
「主の時雨殿だ」犬神はそう言った。
時雨という女性は、シイの傍らにいるイトの鼻先をちょいちょいと指先でつついた。彼女の式神に管狐はいないらしく、じっくりとその姿を観察している。
「こいつ、迷子なんだ。たちばなって陰陽師知らないか?」
シイが言うと、時雨は顎に手を当てて思案する。だが、すぐに首を横に振った。
「自分はフリーでやっててな。界隈の人間は詳しくないんだ」
「仲間が少ないってことか」
「そういうことだな」
彼女は苦笑して立ち上がる。がっくりとしょげるイトを、懸命にマルが励ます。
「それより、長旅で疲れてないか。飯でも食っていけ」
その言葉に、マルの耳と尻尾がピンと直立した。「飯」という言葉に反応したらしい。
時雨は川辺で手際よく焚火を起こした。小さなクーラーボックスから取り出した魚を軽くしごいて竹串を挿す。両面に塩をふると、火のそばに立てた。これは修行というよりキャンプってやつじゃないかとシイは思った。
振舞われた塩焼きを、イトはあっという間に平らげた。
「管狐が大食いというのは、本当みたいだ」二本目、三本目をイトに与えながら時雨が興味深げに言う。
それでもイトの腹がぐうぐうと鳴るので、彼女は更に焚き火台を取り出した。その上で肉と野菜を焼く。これはバーベキューってやつだなとシイは思った。
日差しが和らぎ始めた頃、ようやくイトの腹もくちた。無邪気に「美味しかったです」と感想を述べる。
「おまえ、食い過ぎだぜ。食料ほとんど食いつくしたじゃねえか」
「いいさ。明日の晩には村に下りるしな」
「なあ、ご馳走になって悪いが、本当にイトの主人に覚えはないのか」
シイが立ち上がって問いかけるが、時雨は釣り竿の様子を見ながら「ない」と素っ気なく返事をした。
「あったとしてもだ、他人の式神に肩入れする筋合いなどない」
「でも、時雨さまはご飯をくれました」短い脚でちょこんと正座をするマルが首を傾げる。
「これは、自分の食事に付き合わせただけだ。なかなかの食いっぷりだったな」
「手がかりくらいなんかあるだろー。なんでも手伝うから教えてくれよ」
「嫌だね」
シイはちらりと犬神の方を見たが、そばに伏せている犬神は首を上げて左右に振った。ケチと言いかけて、満腹の自分の腹をおさえて我慢する。なお取りすがるが、時雨も犬神も全く聞く耳を持たない。
イトはしょんぼりと耳を垂れ、岩場に座り込む。
「ほら、用がないならもう帰りな。それともここに泊まっていくか」
イトを連れて、シイたちはそこを去ることにした。あっかんべーぐらいしたい気持ちを抑え、シイはマルとイトを連れて夕暮れの山を飛び始める。優しいのか冷たいのか、わからない女だ。だが、これ以上あそこに居ても収穫はないだろう。
「シイさま、これからどうするのですか」
マルが不安そうに聞いてくるが、シイにも当てはない。そうだなと言ったきり返事ができなかった。イトは下手をすれば涙が流れてしまうのか、泣かないようじっと黙っている。
麓近くまで来た頃、突如風がごうと呻った。思わずその場に竦む三匹の前には、再び真っ白な犬神が立ち塞がっていた。
「な、なんだよ急に」
驚きつつも虚勢を張るシイに、犬神は「行くぞ」と言った。
「行くぞって、どこに行くんだ」
「主は、嫌だねと言った。だから我がお主らを連れていくのだ」
「おい、全く意味が分かんねえぞ」
「……困ったことにな、主は大層な天邪鬼なのだ」
当の主から遠く離れているためか、犬神は大きくため息をついてやれやれとかぶりを振った。
「主の是は非。非は是なのだ。幾分治っていたのだが、時たま天邪鬼が発症してな。仲間が少ないのもそのためなのだ」
ほう、とシイは考える。「おまえも大変なんだな」
「お主らが去ってから、おそらくイトが辿って来たであろう道の話を始めてな。それとなく案内するよう、我に命じたのだ」犬神は前足で軽く地面をかきながら言う。「困ったものだ」
「犬神が出かけて、時雨は困らないのか」
「主がそう仰ったのだ、構わぬ、明日の夜までに戻れば問題ない。夜には麓の村での仕事だが大したものでもない。終われば酒が待っているそうだ」
「おまえの主は、なんつーか、自由なんだな」
シイの言葉に、犬神は満足げに頷いた。
「実に面白い主だ。だから式神を辞められない」