2
イトはまだ新米の管狐だった。
管狐は普段、竹筒の中にいる。雌雄一対の組み合わせで、イトにも、トミという姉のような管狐がいた。そんなトミの制止も聞かず、いつもと違う空気を嗅ぎ取ったイトは、こっそり竹筒から遊びに出たのだ。
そこは、見たことのない場所だった。
黒っぽい地面が広がり、向こうにある大きな道路から車がひっ切りなしに入ったり、また出ていったりする。平屋の建物があって、その周囲にも多くの人たちが行き交っていた。何かを食べたり、写真を撮ったりしていた。
初めての場所に喜び、イトは主人から離れて探検をした。あと少し、もう少しだけ。そう思っている内に、小さな子どもが自分を指さしているのを見つけた。
うっかり姿を現わしてしまったことに気が付き、天地がひっくり返るほどに慌てて、そばにあった筒に飛び込んだ。ほっと一息ついたのもつかの間、それがトミのいない間違った筒であることに気付いた時には、蓋はしっかり閉められてしまった。
「それで、この村にまで運ばれちゃったんです」
しょんぼりと肩を落とし、思い出し泣きをしながらイトは言った。話を聞くシイの傍らでは、何故かマルがもらい泣きをしていた。
「おいらが入ったあの筒は、なんだったんでしょう」
水筒じゃないかと誰かが言った。
「水が入ってなかったか」
シイが尋ねると、イトは水が入っていたと言った。子どもの話し声が近かったとも言った。どうやら、村の子どもが持っていた水筒に入り込み、そのまま運ばれたらしい。
「帰りたいよう」
イトはその場に座り込み、わんわんと泣き出した。つられてマルもわんわんと声をあげて泣く。モクリコクリたちは耳に指を突っ込み、シイも同じポーズをとった。だが二匹とも泣き止む気配がないので、イトに近づいた。
「なあ、イトはどこに住んでたんだ」
「それが、わからないのです」ぐしぐしと涙を拭きながら、弱った声を出す。「おいら、生まれたての式神で、なんにもわかんないんです」
だから全てのものが珍しく見えるのだろう。「陰陽師の名は」と誰かが問いかけた。
「ええっと」イトは小さな頭を抱えて考え、ようやく思い出した。「たちばな様、と誰かが言ってました」
だが、それだけでは到底場所の当てが付けられない。たちばなという陰陽師の居場所。陰陽師に縁のないモクリコクリたちが、知りうるはずもなかった。
「悪いが、それだけじゃ帰れないぜ」
小さな管狐の一匹ぐらい、村で暮らすことはできるだろう。若干だが姿も似ているし、きっと仲間外れにするやつもいない。だが、そんなシイの思惑を知ると、イトの目は再び潤み始めた。
そうは言っても、とモクリコクリたちは顔を見合わせる。その内の一匹の台詞が、シイの耳に届いた。
「長に相談してみないと」
「おい、待て!」
飛び立とうとする仲間をシイは呼び止める。
「どうしたんです、シイ様」
きょとんとする仲間を目に、「オレがなんとかする」とシイは言っていた。皆が目を丸くする。しかし、ここまで来て父親の手を借りることに、シイは抵抗があった。なんてったって、自分はシイ様なのだ。一度関わった問題をそっくり親父に投げるだなんて、みっともない。
「なにか、当てはあるんで?」
「ない。ないが、探す。任せとけ」
どんと小さな手で胸を叩くと、周囲から「おおー」と歓声が上がった。さすがシイ様だ。誰かが言い、「シイさますごい!」とマルが飛びついてきた。
取りあえず、腹を空かせた管狐に食べ物を与えることにした。もともと空腹に耐えかねて、祠の供え物に手を出したらしい。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
謝りながら、イトはもりもりと供物を食べていく。団子も果物も野菜も、瞬く間に小さな身体へ吸い込まれてしまう。
「式神ってのは、そんなに食わないといけないのか?」
「わかりません。でも、とてもお腹が空くのです。お腹が空くと、力が出ないのです。お仕事ができないのです」
あちこちの祠からモクリコクリたちが持ってきた食べ物を、あれよあれよと平らげる。妖怪たちの呆れを他所に、自分と同じ長さのキュウリを身体の中に収めてしまう。
その日は、マルにイトを任せた。二匹は同じ祠に籠って眠った。
翌朝、シイたちモクリコクリは、山中の神社にいた。木漏れ日の差し込む境内には、十数匹のモクリコクリと、一匹の管狐。そしてもう一匹、真っ白な狐。モクリコクリの何十倍もの大きさをした妖狐は、名前を椿姫という。椿姫はこの神社で奉られる神様だ。
「確かに、この姿かたちは管狐ですね」
しかし妖狐の立場はこの村ではモクリコクリよりも低く、石畳にきちんとお座りをして、足元の管狐のにおいを嗅いでいる。管狐は神聖な妖狐の姿に見とれているのか、彼女を見上げてぼんやりとしていた。
「たちばなって陰陽師の式神らしい」椿姫の頭に乗ったシイが言う。「なにか、心当たりあるか?」
「ありません」
きっぱりと言い放った椿姫に、モクリコクリたちはがっかりと肩を落とした。
「陰陽師の知り合いもいないのか。椿姫、一応神様だろ」
「私はれっきとした神様です!」
椿姫がふんと鼻から息を吐き、イトはころころと後ろに転げた。
「陰陽師に恨まれるような真似はした覚えがありません。私は真面目な神ですから」
「まあ、こんな小さな神社に陰陽師がくるわけないよなあ」
ぐるりと周囲を見渡すシイに、椿姫はもう一度鼻息を荒げた。
「神社の優劣は広さではないのですよ、シイ様!」
「わかったわかった。当てはないってことだな」
しかし、シイの言葉に椿姫はふと考え込んだ。そして石畳をとことこと歩き、茶色の地面まで来ると前足の爪で土を引っ掻く。
「陰陽師が修行をする山なら知っております」
地面に表れたのは地図だった。村と線路、そして山に道路。
「村を出る線路を辿ると、やがて高速道路が見えてきます」
こうそくどうろ? 誰かが呟いた。椿姫が頷き、「人間が山を切り開いて作った道路です。ひゃっきろの速さで車が走るといいます」と説明した。
「その道路を越えた山は、陰陽師の修行の場として有名だそうです」
「なるほど、そんじゃ、そこに行けば陰陽師には会えるかもしれないってことだな」
ふむふむと頷き、シイはぽんぽんと椿姫の頭を叩いた。
「よっしゃ、ありがとな、椿姫! 恩に着るぜ!」椿姫の頭から地面を見下ろす。「イト、行くぞ!」
「はいっ!」
イトは目を輝かせて返事をした。
「シイ様、長に叱られませんかね」
「気付かれたら、説明してやってくれ。ま、すぐに戻ってくるぜ」
心配の声もなんのその。村の出入り口で、シイは隣にいるイトに目配せした。
「シイさま!」
しかし、反応したのは仲間たちの中にいるマルだった。
「ぼくも、つれてってください!」
ぴょこぴょこ跳ねてやって来るマルを、シイは両手で制する。
「駄目だ。おまえは子どもだからな」
「もう子どもじゃありません」ぷんぷんと怒り、次には両手を合わせて懇願する。「ぼくも、イトの役に立ちたいんです」
「おまえは役に立たねえ」
「そんなこと言わずに!」
マルとイトはすっかり仲良しになっていた。今も肩を並べている。
「なんでもします、荷物持ちでもなんでもしますから!」
「荷物なんてないぜ」
「シイさまお願い! きっとぼくの泣き虫も治ります!」
そう言われて、はたとシイは考えた。所かまわず泣き出すチビ介が役立つとは思えないが、連れていくだけで泣き虫が治るなら安いものかもしれない。もともと、大妖怪に襲われるような冒険でもないのだ。
「おまえまで、帰りたいって泣くなよ」
シイが言うと、「はいっ!」と返事をしてマルは胸を叩いた。