天使の声
天使の声
向井は忙しかった。
この後、講堂でピアノを弾いたら、すぐに電車に飛び乗って、ボランティア先に行かなければならない。
細身の黒いパンツに白いワイシャツ。
出来るだけ音大生っぽさが出ている服装に身を包んで、向井は足早に構内を横切った。
ところが、向井は音楽科ではない。
文学部文学科だ。
音楽科にいる知り合いの名前を借りて、講堂のピアノ練習枠をとったのだ。
どうせ弾くならば、音が気持ちよく響く場所で弾きたい。
ブルグミュラーの『天使の声』。
これを練習している。
ピアノは習っていた経験があるから、弾ける。
それも結構真剣にやっていたから、大概のものは弾ける。
向井は児童館で支援員のボランティアをしている。
もうすぐ、夏の児童館公演があるのだ。
子どもも支援員も出し物をする。
向井はピアノだ。
2曲はj-popだが、『天使の声』はクラシックだ。
子どもたちは、飽きずに聴いてくれるだろうか…。
ハッヘルベルの『カノン』と迷ったが、『天使の声』の方があの子たちには合うかなと、選曲し直したのだった。
j-pop2曲も、アニメのテーマソングに使われているものを選んだ。
選曲は、悩みに悩んだ。
こういう悩みに付き合ってくれる仲間が、心底欲しかった。
しかし、向井にはそんな友達はいなかった。
将来教職に就こうとか、子供の支援ができる職業にしようとか、周りは考えていなかった。
ー自分とはベクトルが違う。
向井は、周囲との温度差を毎日感じていた。
講堂につくと、まだ若い男性の清掃員が、客席の清掃をしているところだった。
「すみません、まだ終わってなくて…!」
「あ、大丈夫ですよ。よかったら聴いていってください。」
男性の清掃員は、少し飛び上がったように見えた。嬉しかったらしい。
早速練習に入る。
指練習のハノンから初めて、『天使の声』、j-pop2曲…。
清掃員は、身じろぎもせずに、客席に立ったまま、じっと聴いてくれている。
そろそろ自分の練習時間が終わるかなという時に、前回と同じく、ツインテールのフリフリの服を着た女子学生が来た。
「今日はカノンじゃないんですね。」
と話しかけられた。
「ええ、実は…。」
夏の児童館公演のことを話すと、意外にも、「私もなにかお手伝いできませんか?!」と言う。
向井は、観客席でまだ夢見心地な清掃員にも声をかける。
「あなたも、良かったら、当日見に来ません?当日は誰でも見にこれるんですよ!」
清掃員の彼の顔が、ぱああっと明るくなった。
「い、いく、行きます…!」
「じゃ、3人で集合っすね! 最寄り駅は…」
3人は、講堂外のテラス席に移動し、児童館公園についての打ち合わせを始めた。
もう梅雨なのか、雨が降りそうだった。
薄灰色の雲が立ち込めてきた。
話を進めていくうちに、ポツポツと、微かに雨が降り始めた。
だが、3人には、それさえも、恵みの雨に思えた。
音符が音を繋いで曲を作るように、雨は天と地を結ぶ。
そして同時に、3人の間の空気をも、親しみと歓迎をもって紡いだのだ。
3人とも、この奇妙な縁に感謝した。
打ち合わせ後は、小雨が降るにもかかわらず、足取り軽く、向井は駅までの道をスキップのように走った。