猫と傘番外編「猫と傘と、この世のおしまい」
この町の雨は、止むことがない。と言えるのも、町があってこそである。いまここには雨もなく、雨雲もない。天を突く高層ビルもなければネオン管を模したサインもなく、行き交う人もなく、透水舗装の施された道路も、地面もない。当然その下にあるべき配水設備もなければマシンブッダが圧縮読経する地下寺院も、一六七七万色鼠の走り回る下水もない。上を見てもいつものドローンも、広報広告バルーンも、そのさらに上を飛ぶタクシーも、さらに上に有るはずの鉄道も、何も見えない。つまりは、上にも下にも何もなかった。いや、星空はあった。夜空である。そして、ちぎれて伸びた太陽があった。いつもの明るさを失い、ただやる気なく、そして大きくだらしなく伸びている。
「うーん、なにがあったんだろうね」
「何があったというか、なくなったというか」
和傘をさした、和装に二本差しの人影。雪駄はしかし何を踏むでもなく。
「どうも頼りないね、地に足が付いていないというのは」
人影が顔を触る。いや、その顔は猫のものであった。猫の顔から生えた髭を、摘まんで引いている。
「そういうもんか?俺は足が地に着くときはたいていろくでもない使い方されてるときだから、わからんね」
「ま、こうなってしまっては、そのろくでもない使い方もそうそう出番がないだろうけどね」
「違いねぇや」
周囲を見回し、確かに見える範囲に何も、人影どころか月も見えないのを確かめて、猫はふう、と息を吐いた。
「思い違いをしてたかねぇ」
「人がかくあれかしと思うから、二本の足で歩きもするし、油を喜んで舐めもするのだと思っていたんだが」
「ああ、なんかそんな話を前にしてたな」
「こう、見渡す限り人がいなくなっても、他の化け物もいなくなっても、ここにこうしてこの姿でいる」
そう言うとまた髭を引く。
「ならば、私は私としてここに、このように在るってことなのかね?」
「お、私ときたか。初めてじゃねぇの?自分を指すコトバを口にするの」
「そうだねぇ。あまり口にする機会もないしね。他者がいるなら、それと違う自分は当たり前にここにあるだろう?」
「ふつうは逆だと思うんだが、まあいいや。で?」
「いやね、私は人を、人の意志を感じられると思っていた。で、人に望まれて猫又に成ったと思っていたのだけどね」
傘をさしたままくるくると回す。飛び散る水滴は、ない。
「そうじゃなかったのなら、私は何なのかな、と」
傘を、ちぎれた太陽に向けて、翳す。傘の向こうに隠れる太陽。
「難しいことはわからないんだがよ」
傘の調子はいつもとかわらない。
「誰かの意志で、誰かの期待で、誰かの恐れで」
そこで少し言葉が止まる。
「……誰か、があって、それで俺らが在るんならさ」
「うん?」
「お互いに俺らが、相手が在ることを、こう在るはずだと思う限り、終わりは来ないんじゃないのか?」
ひゅっ、と猫が息をのんだ。空気が極端に薄いが、それは彼らにとって意味を持たない。
「……なるほど、そういうことなら腹をくくろうじゃないか」
傘を、畳む。
「世界の枠組みは壊れてしまったよ。あの町がなのか、この星がなのか、あるいは我々を閉じこめていた何らかの世界が、それを維持していたモノごと吹き飛んだのか、そんなことはわからないが、とにかく今ここには壊れた太陽と星空しかない」
「言われなくても見りゃぁわかるさ」
「それは、なんというか、悪夢のようなものだと思わないか」
「ああ、なるほどね。確かにそれは悪夢だな」
傘の声が、にやりと笑ったように聞こえた。猫の口もつられて歪む。
「じゃあ、頼むよ」
傘を、鞘のように持つ。
そして、猫はその柄を掴むとゆっくりと引き抜いた。