邪気眼侍 短編版
「ふん……疾風が呼んでいる……争乱が来ると……」
時は泰平、場所は江戸。八百八町と呼ばれる大都会にて、一人の若い男が佇んでいた。
全身、カラスのように真っ黒な着物と羽織を着ている。右腕には白い包帯が巻かれている。さらに左目には蛇の模様を付けた眼帯をしている。
何とも奇妙な男だが、佇んでいるところも変だった。
火の見櫓の中に立っているのだ。
煙となんとかは高いところを好むと言うが……
「旦那あ! 桐野の旦那あ! あぶねえですから、下りてきてくださいよう!」
櫓の下で喚いているのは下男風の男だった。
二十代半ばで、奇妙な男よりも年長だった。汗を流しながら櫓を揺すっている。
「我が相棒よ……揺らすではない……」
「相棒って言われるのは嬉しいですけど、下りてもらわないと。火消しの迷惑ですから」
「分かっている……しかしだな……」
奇妙な男はそう言いつつ下りようとしない。
やや疑問に思った下男。
そして気づいたのか、はあっと溜息をつく。
「……怖くなって下りられないんなら、初めっから登らんでくださいよ!」
「な、何を言うか。我に、畏れの感情など、あ、ありは……」
「もっと揺らしますよ!」
「や、やめよ! わ、我に本気を出させるな!」
いい年の大人が騒いでいる様子を鼻たれ坊主が「あれなにー?」と母親に訊ねる。しかし母親は「見ちゃいけません」と目隠しをした。
この辺りでは有名な奇人なのだ――桐野政明という邪気眼侍は。
◆◇◆◇
「桐野の旦那。あっしは冷や冷やもんですよ。いつご主人様に見つかると思うと」
「……我に、父親などおらん」
「ご健在じゃないですか。ご母堂も。あっしはご主人様に言われて従者になっていますけど、奇矯な振る舞いはやめておくんなせえ」
下男風の男は腰が砕けてしまった桐野を背負って歩いている。
その様子を町行く者たちはくすくすと笑う。
「我が相棒よ……俗世間の話はやめるのだ……大志を語れ……」
「相棒じゃなくて弥助と呼んでくだせえ。身分がちげえます」
「しかし……ククク……貴様にはまだ早いか……」
「ええ、そうですね。お役目を賜る前に気づけていればと思います」
そうして二人は彼らが営む店――万屋へと入る。
畳の上に桐野を乗せた弥助はふうっと安堵の溜息をつく。
すると――
「あ、あのう。お店の人ですか?」
「おおう? なんだお嬢ちゃん?」
店の奥から可愛らしい女の子が出てきた。
年は十二か十三。町人風の装い。恐らくどこかの商家の奉公人だろう。
ふくよかな体型で、お世辞にも痩せているとは言えない。
「ククク……貴様は……不在時の待ち人か……」
「えっと、なんとおっしゃって……」
「気にすんな。それで、お嬢ちゃん。万屋に何か御用?」
弥助が優しく訊ねながらお茶の準備をする。
娘は「いえ、お構いなく……」と桐野を警戒しつつ居ずまいを正した。
「私――ともみ、といいます。白福屋で女中をやっております」
「白き幸福を司りし店……」
「白福屋って有名な呉服問屋じゃないか」
ともみに弥助が茶を差し出す。
「ええまあ。仕事は大変ですが、その分給金はいただいております」
「対価に対する報酬……その欲望に見合っていればの話だな」
「旦那は黙っていてください。その女中さんがいったい、何の用で?」
ともみは茶を啜りながら「実は、出るんです……」と小声で言った。
弥助も自然と声を落として「出るって何が?」と問う。
「……幽霊が、出るんです!」
その言葉に素早く桐野が「彷徨える魂が出ると言うのか」と右腕を抑える。
いつもの発作が始まったと思いつつ弥助は「本当かい?」と疑わしい目で見る。
「本当です! 奉公人のほとんどが見たんです! 私もこの目で見たんです!」
「……うーん。それで、ともみさんはいったいあっしらに何をしろと?」
「幽霊を追い払ってください! このままじゃ怖くて働けません!」
必死に訴えるともみに弥助は「うちは神社の神主じゃないんだけどねえ」と苦言を呈する。
「あっしらは普通の人間だよ? できるわけが……」
「でも、そちらのお方は『邪気眼』をお持ちだとお聞きしました! どんな幽霊もたちまち追い払えるって!」
突然、水を向けられた桐野は「ふぇ!?」と変な声を出した。
ともみは「私、実際に見て確信しました!」と期待を込めて言う。
「そんな怪しげで変な恰好をしているのは邪気眼のせいだって、市中では評判です!」
「……旦那が怪しげな恰好をしているのはただの悪趣味だ」
さらりと弥助は酷いことを言いつつ「ま、一応調査はしてみますがね」と話をまとめる。
「そちらの店の主人にも話通さないといけません。明日、見に行きますよ」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
ともみはうきうきとして帰っていく。
対照的に弥助は沈んだ気持ちになる。
また誤解されてしまったか――
「安心しろ、我が相棒よ……」
頭痛の種が弥助に告げた。
「怪奇現象を沈めてやろう……我が邪気眼で! くっ!? 右腕が疼く……抑えろ、抑えるんだ、我が力……!」
弥助は盛大に溜息をついた――
◆◇◆◇
翌日。桐野と弥助は白福屋に訪れていた。
すると店の主人である、白福屋権兵衛がわざわざ出向いてくれたのだ。
「ああ、万屋の方々、ようこそおいでくださりました」
「どうもご丁寧に。あっしは弥助。こちらは桐野政明といいます」
「ククク……白き幸福の主か……」
「はあ。白き幸福の?」
「無視してください。そういう病ですので」
権兵衛は桐野の奇矯な振る舞いに若干引きつつ、店の中に通した。
一室に案内されると「うちのともみの依頼に応じてくださってありがとうございます」と丁寧に頭を下げた。
「実を言えば、内々のことですので、あまりこう、大騒ぎにしたくなかったのですが。店の者が怯えてしまっていて。仕事にも身が入らないのです――」
権兵衛の説明によると、毎晩、店の中庭ですうっと枯れ木のような『女の幽霊』が現れるらしい。権兵衛も一度見たことがあり、その恨めしそうな顔を忘れられそうにないと言う。
「ちょうど、あそこの中庭です」
障子を開けてすうっと指さす権兵衛。
弥助は特段霊感などないが、説明された後なので不気味に見えてしまう。
「ククク……我が邪気眼が反応しておる……」
「えっと、それは……」
「気にせんでください。うーん、とりあえず一度見てみないと分からないので。しばらく泊まっていいですか?」
「ええ、もちろん。幽霊退治をしてくださるのなら、安心します」
権兵衛が「おーい、与作!」と声を出した。
すると年寄りの奉公人と思われる痩せた男がやってきた。
「何でしょうか、ご主人様」
「この方々はしばらく泊まるので、準備のほうを。万屋さんも困ったことがあれば与作に話してください」
権兵衛が出て行くと、与作は「こちらでございます」と泊まる部屋の案内をする。
そこは中庭が一望できる場所だった。
「それでは、失礼をいたします」
すうっと障子を閉めて、与作は出て行った。
弥助は「どうなんですか、旦那」と話し始める。
桐野は「……店の者に話を聞かねばならん」とぼそりと呟いた。
「我が相棒よ……仔細は任す……」
「そりゃあ、旦那よりあっしのほうが聞きやすいですけど」
「我はひと時の眠りに入る……」
今眠らないと桐野は夜中の間、起きられないのだ。
弥助はやれやれと思いつつ、横になった主をそのままにして、情報を集め出した。
◆◇◆◇
「どうやら、白福屋権兵衛には息子がいたらしいですよ」
「ククク……生まれ落ちし者か……」
真夜中。与作が用意した夜食を向かい合って食べつつ、仕入れた情報を桐野に話す弥助。
「ええ。平六って言うんですけどね。どうも道楽息子らしく、勘当されちまったようで」
「縁を切られし、悲しき輩か」
「まあ旦那も同じようですけど。でもご主人様に一言詫びれば戻れますよ」
「それで、どんな道楽息子だったのだ?」
桐野のまともな問いに弥助は「読本を書くのが好きだったらしいです」と言う。
読本とは伝奇風の読み物のことだ。
「それに熱を上げ過ぎて、本来の仕事をなおざりにしていたようです」
「ふむ……その読本はあるのか?」
「いえ、権兵衛さんが全て処分してしまったようです」
するとそのとき、中庭のほうから物音がした。
桐野は物凄く驚き、弥助はその反応に驚きながら、中庭が見える窓を覗き見た。
皆が寝静まる中、白い着物を着た、枯れ枝のような髪の長い女が、つうっと廊下を歩いている……
「ま、まさか、いるなんて……」
「わ、我が相棒よ、行くのだ……」
「嫌ですよ、一人だなんて!」
「我も参ろう……」
案外勇気があるなと思いつつ、二人の主従は中庭へと向かう。
廊下を曲がる――すぐ傍に女の幽霊がいた。
「うわあああああああああああああ!?」
店中に響き渡る大声を出したのは弥助だった。
まさかこんな近くに遭遇するとは思わなかった。
一方、邪気眼侍の桐野政明は動かない。
びたっと、幽霊を睨みつけている――
「どうしたんですか!? なにが――」
弥助の声に反応して、権兵衛やともみ、店の者が出てきた。
そして幽霊を見て言葉を失う。ゾッとしてしまった。
幽霊は身を翻して中庭の廊下を静かに走り――とある部屋に入る。
「ま、待て!」
弥助と店の者が追う――部屋を開けた。
しかし、部屋の中には、誰もいなかった……
「ど、どういうことだ?」
弥助は言うものの、まったくの謎だった。
他の者もよく分からない様子だった。
「……白き幸福の主よ、ここの部屋は誰が主ぞ?」
桐野は冷静に、立ちすくんでしまった権兵衛に問う。
権兵衛は「い、以前は、息子の部屋でした」と答える。
「今は誰も使っておりません……」
「……そうか。なあ主よ」
権兵衛の耳元で何かを囁く桐野。
その内容に、商人は「本当ですか!?」と大声で言う。
「ああ。次の夜、全て解決する」
自信満々な桐野の元に弥助が戻ってきた。
「旦那、本当ですかい? だって今――」
「我が相棒よ。頼みがある……」
弥助は「分かっております」と肩を貸した。
桐野は驚きのあまり、その場から動けなくなってしまった。
◆◇◆◇
桐野が昼間に訪れたのは、しがない町人長屋だった。
その一画にある家に「御免」と声をかける。
「なんでえ……まだ昼間じゃねえか……」
そう言って無精ひげを生やした若者が出てくる。
顔立ちが権兵衛に似ている――桐野は「平六だな」と問う。
「うん。ていうか、あんた変な恰好しているな……」
「我がまやかしの姿に戸惑うな……貴様に頼みたいことがある」
「読本の執筆依頼……ってわけじゃないな?」
「ああ。貴様の生まれし家のことだ」
平六は「戻ってこいって言うんじゃねえだろうな」と面倒そうに言う。
桐野は「そうではない」と答えた。
それから少しのやり取りで己の考えに自信が出た桐野。
そしてすべての真相を告げると平六は「本気で言っているのか?」と問う。
「確かに、あいつと俺は親しかったが……」
「喜べ。信奉者が増えたのだ」
複雑そうな顔をしている平六。
桐野は「すべてが解決したら」と告げる。
「一度話し合え。それが至高の選択だ」
「分かったよ……明日の朝、実家に戻ればいいんだろ?」
「それでいい。我が推察は全てを超える」
◆◇◆◇
そして真夜中の白福屋。
今度は部屋に権兵衛とともみも一緒にいた。
弥助は心配そうに「大丈夫ですかね?」と桐野に問う。
「二日連続で現れるもんですかね?」
「ククク……昨日は成功したのだ……それに我らがいるときに行なえば、ますます信じられてしまう……」
そうこうしているうちに、またも幽霊が現れた。
ともみが怯える中、桐野は「行くぞ、皆の者」と言う。
「すべての真相を――明かそうではないか」
桐野と弥助が先頭となり、幽霊の元へ向かった。
今度は全く恐れない二人に幽霊は戸惑いつつ、件の部屋へと入っていった。
権兵衛とともみが一緒にいる中、桐野は部屋を開ける――誰もいない。
「一体、どこに消えたのだ……」
「消失ではない。ただ隠れただけだ」
桐野は部屋に隅の畳を指さした。
少しだけ浮いている――弥助が隙間に手を入れて、すっと開けた。
そこには女の幽霊がうずくまっていた――
「きゃあ!?」
「な、なんだと!?」
驚くともみと権兵衛。
それと対照的に桐野は「貴様が犯人だ」と告げる。
「そうだろう? 与作よ――」
「……あなたさまは全て分かっていたのですね」
観念したのか、女の幽霊の恰好をした与作が立ち上がった。
幽霊の正体見たり枯れ尾花ならぬ痩せ男だった。
◆◇◆◇
与作が何故、幽霊騒ぎをしたのか。
それはひとえに権兵衛の息子、平六のためだった。
読本とは伝奇風の読み物であり、その中には怪談も含まれている。
もしも実家で幽霊騒ぎが起こり、それをきっかけに平六が実家に戻り、このことをネタにして読本を書くか、それか真相を暴くことができるのなら、権兵衛との間のわだかまりを失くすことができるかもしれない――そう与作は考えたのだ。
「私は平六様の読本が好きなんです。どれもこれも傑作でした。それをご主人様は読みもせずに駄作だとおっしゃった。その仕返しもありました」
そう白状した与作を複雑そうな顔で見る権兵衛。
桐野は「一度、話し合ったほうがいい」と権兵衛に告げた。
「親子で話し合って妥協点を見つけるのだ。お互いが納得するような」
「……はい。お世話になりました」
こうして白福屋の幽霊騒動が解決した。
人の口に戸は立てられぬので、今回の事件を解決したのが、邪気眼侍だと江戸中に広まり、桐野は『近寄りたくない英傑』の名声を得るようになった。
その後、実家に戻った平六は権兵衛と話し合い、店の跡を継ぐ修行をしつつ読本を書くことを許された。
元々、傑作を書くほど賢い男だったので、次代を継ぐ優秀な男になっていくのだった。
「それにしても、よく与作が犯人だと分かりましたね」
「ククク……我が相棒よ。貴様のおかげだぞ」
「へっ? あっしですか?」
「貴様が大声で叫ばなければ、その場にいなかった男が与作だと分からなかったぞ」
「あ。案外冷静だったんですね」
邪気眼侍、桐野政明は不敵に笑いつつ、己の従者に告げた。
「我は常に、冷静である……腕と眼が疼かなければ……ククク……」