Delighting World Break Ⅸ
その日の月は、赤かった。
雲一つない藍色の空であったが、そこに不気味に光り輝く赤い月が俺の目に、記憶に焼き付いた。
その月を見た時、目の前に居たのは…
「クライド…」
「…ギールッ…!?何を…!?」
俺は宙に浮いていた。いや、違う。落下しようとしているのだ。
俺は突き飛ばされたのだ。
崖からまさに落ちようとしている。その瞬間だ。目の前に居た白い毛皮の獣人の身体から赤き鮮血が飛び散ったのは。
「…!」
赤き潜血は俺の顔に殴りかかるように勢いよく付着した。
今思えば、俺が見ていたあの赤き月は…彼の鮮血に染まった月だったのかもしれない。
そして、この時、ギールは俺に何かを言っていた。だが、それは俺の耳に残らぬまま…虚空へと消えていった。
これが今から6年前のことだ・・・
第三章 ~Episode クライド・ネムレス 赤き月光の夜~
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魔王デーガの城に辿り着いたビライトたち一行は、デーガに出会う直前、アルーラによって足止めを受ける。
アルーラの魔法によってレジェリーとクライドは過去の記憶を呼び覚まされようとしていた。
レジェリーは自身の中にあった消えてしまった師匠のデーガとの記憶を呼び起こした。
自身の身勝手な行動でレジェリーは一度死に、デーガに蘇生させてもらっていた。
そしてその行動はよりイビルライズを活性化に導いたともされた。
そして魔王デーガの内に眠る真の魔王、魔王カタストロフとの出会いをしたレジェリー。
デーガとカタストロフは告げる。
自身の決して消化することの出来ない、飽和して毒となった魔力がやがて限界を超えたその時、自身は絶対悪として君臨し、世界を支配、破滅する為の存在となり果ててしまうということを。
そして、彼らの望みは…レジェリーたちに絶対悪となった自分たちを倒してもらうことだった。
その前に自分たちと戦える相手かどうかを見定めると告げていたが、レジェリーはデーガの願いを受け入れることを当然ながら躊躇った。
一足先に戻ってきたレジェリーはビライトたちに、自身に起こったこと、魔王デーガと魔王カタストロフのことを話し、一行はこれからのことを考えながら、クライドが戻ってくるまで待つことになった。
まずはデーガに認めてもらう。それが叶えばボルドーのスフィアも復元される。
だが、それはすなわち、そのあと全ての毒を吸収し、絶対悪として君臨するデーガたちと戦う資格を得ると言うことなのだ。
飽和した魔力を全てデーガに取り込み、自身ごと倒せば魔力も消える。毒が世界に悪影響を与えることは無くなる。
事実上、これはイビルライズとは異なる、世界の脅威の一つなのだ。
レジェリーたちに課せられたこと。それは世界を救うことと同義だ。
だが、レジェリーは葛藤する。何故なら、レジェリーは魔王デーガが、魔王カタストロフが好きだからだ。
クライドを待つ間、レジェリーたちはこの問題に対して真剣に考えることとなるだろう。
レジェリーは可能性が低くても、デーガを助けられる道を捨てたくないと決意する。
アトメントはその言葉に乗り、時が来ればデーガを助けられる手段を教えると伝える。
まだまだ希望は残されているのだ。
―――そしてこの間、クライドもまたレジェリーと同じく、自分の過去に向き合っている。
そしてデーガがクライドを選んだ理由もまた、明かされるだろう。
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「…クライド、戻ってこないわね。」
「だな。」
レジェリーが戻ってきてはやくも1時間以上が経過しているが、クライドに変化はない。
「コイツは長くなると思うけどな。」
アトメントが呟いた。
「そうなのか?」
「あぁ、コイツのことお前らあんまよく知らないだろ?」
「そうね、クライドは自分のこと全然話さないから。」
「そうだな…俺たちはクライドのことを知らなすぎる。」
クライドは自分のことを何も話さない。
分かっているのはナグとの関係ぐらいだ。
「コイツも色々苦労してんだよ。失ってる記憶もあるしな。」
「記憶を失ってる…?」
「おう。コイツはガキの頃のこと覚えてないのさ。訳あってよ。きっとコイツはそれを見せられてる。」
アトメントは続けて話す。
「コイツが情報屋始める前、暗殺者だった頃の記憶とかよ、その辺もぜーんぶ追体験させられてんじゃねぇの?」
「…魔王デーガは何のためにそんなことを…?それで魔王デーガは得でもすんのかよ。」
ヴァゴウはアトメントに問う。
「ん~…まぁアイツはよ“クライドのことが可愛い”んだよ。」
「「…はぁ?」」
きょとんとする一行。レジェリーとビライトはつい声が出てしまう。
「まぁクライドとデーガが話してくれたらお前らも知れるかもしれねぇけどよ。多分2人共お前らには教えねぇだろうな。」
「何よそれ…なんにしてもよ、良い思い出ばかりじゃ…ないんでしょ?」
レジェリーはクライドを見ながら言う。
「ん~…コイツにとっての黄金時代もあれば、思い出したくもない夜も、そして自身の出生と悲劇もあるな。」
アトメントは笑う。
「想像出来るか?過去にあった最高の幸せを失ったことがある。そんな今はもう無い最高の思い出を蒸し返される気持ち。」
「…最悪。」
「…失って、もう取り返せないモンを幻想として見せられる…か。気持ちがいいモンじゃねぇな。」
「そ。つまりコイツが見てるモンは決して最高の思い出なんかじゃねぇ。ただの地獄だ。」
失った最高の幸せを再び見せられる。それは現実ではなくてただの過去。幻想なのだ。
それを見せられるクライドはきっと辛いであろう。
「けど、アイツは未だにネムレスの使命だと掟だなどに縛られてる。そんなんだから友人をこの手にかけることになった。」
ナグをこの手で殺したクライドはネムレスの掟に従った。
「コイツは理解する必要があんだよ。」
アトメントはクライドに向かって声をかけるように言う。
「いつまでも縛られ、掲げてやがる掟も、プライドも、もう何処にもねぇんだってことをな。」
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気付くとそこはアーデンの中だった。
しかし、現在のアーデンとは様子が違う。現在廃墟となっている建物がまだ綺麗な状態で誰かが住んでいる。
そしてその家はクライドが動揺を見せたあの家であった。
「こんなものを俺に見せたところで…何も…変わらん…!」
クライドは何も見ても動じるものかと、心に覚悟を決めて歩き出す。
―――建物に入った瞬間、クライドの心がゾワッとざわつきを見せた。
「…ッ、俺は…俺はやはりここを…知っている。」
これは過去だ。
そして、自分はここを知っている。つまり…
(俺は自分の出生を知らない…だが俺はここを見て懐かしいという気持ちを感じている…俺は…きっと…)
「この家で生まれたのだ。」
「ほら見て、笑ったわ。」
「あぁ、本当だ。はは、可愛いなぁ。」
建物の2階から声が聞こえる。女性の声と男性の声。
クライドは階段をあがり、2階の部屋へ。
それは現実だと子供部屋に当たる場所だ。
「…なんとなくだが分かる、あそこに居るのは…」
男性は獣人、女性は竜人のようだ。
そして小さなベッドで眠っている獣人は、クライドとそっくりで足も竜人の足をしている。
「…あんたたちが俺の両親か。そしてこれは生まれたばかりの俺なのだな。」
両親の姿を見てクライドは複雑な顔をする。
クライドは両親の顔を知らないのだ。全く覚えていない。自分が持っている最後の記憶はワービルトの路地裏だ。それより前の記憶は無い。
「…関係あるものか。」
クライドはそう呟くが、両親が赤ん坊の自分をあやしている姿を見続けていた。
「本当に可愛いわね。顔はあなたにそっくりよ。」
「足は君に似ているね。」
「この村は閉鎖的で…外に出る人はめったに居ないけど、私たちはデーガ様の許可を貰って外に行ける。だからこの子も連れて行って…色んな景色を見せてあげたいわね。」
「そうだな、そしていつか…この子が旅に出たいと言ったら笑顔で送ってやろう。」
「…なるほど。行商人か。」
クライドは子供部屋を出て、両親の部屋に。
どうやらクライドの両親はアーデンで唯一の行商人であり、時々オールドに出ては物資を仕入れてきているようだ。
それをアーデンに提供し、アーデンの生活水準を上げているのだ。最も、現在はどうなっているのかは不明だが…
「!」
しばらくしていると景色が歪む。どうやら舞台が変わるようだ。
ぐにゃっと景色が変わり、場所は…魔王デーガの城の前だ。
「デーガ様、生まれました。私たちの子でございます。」
「ほ~…小さくて可愛いじゃねぇか。」
(…こいつが魔王デーガ…)
初めて見る魔王デーガの容姿。黒く禍々しい。
竜人に見えるが、実際は魔族だ。
「…ふ~ん…」
デーガは何やら不思議そうに赤ん坊の俺を見ている。
「デーガ様ったら、そんなにお気になさったのですか?」
「ん、あぁいや、すまん。なんつーかよ…似てたんだよ。俺の昔のダチによ。」
「なんと!では将来この子が大きくなったら…是非遊んであげてください。」
「あ、あぁ。しょーがねぇな。」
デーガは赤ん坊の俺を抱いた。
「…ホント、そっくりだ。」
デーガはとても穏やかな顔をして見せた。それと同時に少し切なそうな面影も感じていた。
デーガは今、どのようなことを思って俺を見ているのか。それは分からなかった。
「あぁそれとデーガ様、近いうちにまた行商に行ってまいります。よろしいでしょうか。」
「ん、あぁもうそんな時期か。良いぜ。向こうまで転送してやるよ。」
「ありがとうございます。」
「いいって。お前らが物資の流通をして欲しいって頼んだのは俺だからな。」
デーガはクライドの両親に行商を頼んでいたようだ。
「アーデンにも外のモンを取り入れて生活を豊かにしたいっていうのはお前らのお陰で実現してるんだ。助かってるぜ。」
「我々もそのお陰で今こうやって平和なアーデンで暮らせておりますので。」
行商のタイミングになるとデーガはクライドの両親を外に転送し、帰るときもデーガがコッソリ出向いて転送させているようだ。
(…)
その光景を黙って見ているクライド。
そして周囲はまた歪みだす。舞台が変わるようだ。
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クライドの父、セリオ・グルーブは獣人の男性。アーデン生まれのアーデン育ちだ。
幼少の頃からアーデンの外に憧れており、その夢をよくデーガにも語っていたようだ。
そしてセリオが成人し、そのタイミングでデーガは行商人にならないかと提案を持ちかけたようだ。
そしてセリオは行商人となり、外でリィンと出会った。
クライドの母、リィンは竜人の女性。出身はワービルトであり、セリオともワービルトで出会った。
いつも世話になっていた雑貨屋の看板娘として働いていたリィンと交流をしていくうちにやがて恋人同士となり結婚。
アーデンに2人の家を新しく建て直して、以来は共に暮らしている。
そしてその間に生まれた子供がクライドだ。
しかし、今のクライド・ネムレスという名前はギール・ネムレスから名付けられた名前だ。
クライドには本当の名前がある。
自覚は夜となり、子供部屋から両親は夜空を見ていた。
「この子の名前は決まった?」
「ウム…ルナールというのはどうだろう。」
「ルナール?」
「あぁ、この子の額、三日月の模様がついているだろう?月をイメージして名付けたんだが…どうだろう。」
「うん、いい名前ね。ほら、ちょうど月が出ているわ。綺麗な三日月よ。」
リィンは窓の外から月を指さす。
「あぁ、綺麗だね。そして…美しい。ルナールもきっとこの月のように綺麗で美しい世界で生きて欲しいものだね。」
(ルナール…か。)
“ルナール・グルーブ”。
それがクライドの本当の名前だ。
本当の名を知ったクライド。そして…
(綺麗で、美しい世界か…そんなもの…俺は見たことが無い。これから俺に待ち受けているのは…暗殺者としての世界だ。)
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「ルナールか…」
(あぁ、そのような名となったようだ。)
「…フッ、良い名じゃねぇの?」
(…そうだな。だが、お前はあの赤子をルナールとして見れるのか?)
「…まぁ…そうだな。努力はするさ。あいつは“ジャイロ”じゃねぇ。」
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更に視界が歪み、舞台は大きな大草原へと変わっていた。
見覚えがある景色だ。
「ここは…ジィル大草原?」
ジィル大草原の北部の方だ。ワービルトが奥の方に見える。
「…あれは…」
ラプター便が走っていくのが見えた。
それはこちらに向かってくる。
クライドはジャンプしてラプター便の上に乗る。
これは過去の記憶だ。今見ている出来事に自分は干渉できない。だが、物には触れたりすることは出来るようだ。
動かしたりは出来ないようだが、クライドが現在ラプター便に乗れているのだから、それが証拠になる。
クライドは人が乗る荷台を上から覗いた。
そこに居たのはセリオとリィン、そしてルナールもとい、クライドだ。
「…この頃の俺は…そうか、この日だ。」
クライドの最後の記憶はワービルトの路地だ。その時、自分が何歳だったかは分からないのだが、この時の自分の見た目と、今自分が見ているクライドは間違いなく同じだ。
つまりこの日、この一家に。ルナール…いや、クライドに何かが起こる。
―――
「見て、美しい草原でしょう?あなたの9歳の誕生日にここに来られて嬉しいわ。ルナール。」
「うん!綺麗!」
今までに見せたことのないような明るい笑顔でキャッキャとしているルナール。
これが今のクライドになるのだと知ったら両親はどう思うのだろう。
クライドはそんなことを考えながらラプター便の上で様子を見ていた。
そしてこの時自分は9歳であったことも判明した。
現在から17年前である。
「…殺気…!」
クライドは前方、そして左右を見た。
あちこちから殺意を感じる。
ラプターがキョロキョロと周囲を警戒しながら走っていることが覗え、ラプターを引いているセリオも違和感を感じていた。
「妙だ。ラプターの落ち着きがない…」
「…!」
殺気の正体が姿を現した。
魔物だ。それも大型の狼型の魔物が何十と群れを成して、見えない場所から飛び出してきた。
「う、うわっ!?」
ラプターを倒し、便の荷台ごと叩き横転させる魔物たち。
「魔物…!しかも…こいつらは…!」
クライドは魔物たちを見て動揺した。
「リ、リィン!ルナール!」
転落したセリオはすぐに体勢を立て直し、荷台に居たリィンとルナールの元に走る。
「…!」
しかし、セリオの前には大型の狼型の魔物が行く手を塞ぐ。
「くっ、そこをどけっ!!」
セリオは護身用に持っていた短剣を持ち、魔物たちに立ち向かうが…
「くっ、くそっ!ぐぁっ!!」
相手はセリオよりも大きな魔物だ。それも複数がかりでセリオを襲い、セリオの武器はあっけなくその手から離れ…
「グッ、ぐあああああっ!!!」
腕を、足を噛まれ、首を噛まれ…血が噴き出す。セリオの痛々しい悲鳴が響き渡る。
「…!」
それを見ていることしか出来ないクライド。
そして…
「こ、こっちよっ!こっちに来るのよ!」
リィンだ。
リィンは1人で魔物たちを誘導するべく声をあげる。
「ハッ、ハッ。」
魔物たちは一斉にリィンを目掛けて追いかける。
「…ッ、リ、リィ…ン…」
セリオはもう立ち上がることが出来ない。地面を這い、荷台にまでたどり着く…
そして混乱するラプターを掴み、セリオは訴えた。
「あの…子を…ルナール…ルナ…ルを助けて…や…って……くれ…頼む…!」
セリオの言う言葉で我に返ったラプター。
セリオの目の前に居たのは気を失っていたルナールだったのだ。
しかし魔物の目からは逃れられたのか、無傷であり、荷台の横転の時はリィンがかばったのだろう。
ラプターは気絶しているルナールを加え、背中に乗せた。
そしてラプターはワービルトに向けて走り出した。
ラプターは賢い魔物だ。きっとワービルトまでルナールを送ってくれるだろう。そう信じ、セリオはー
「…ルナール………生きるんだぞ…」
そう言い、ついに出血多量で力尽きた。
そしてその同じ頃、遠くで女性の悲鳴が響き渡った。
静かになった数分後、魔物たちはワービルトに向けて走り出した。
「…俺の両親の命を奪ったのは……そうか…」
クライドは物陰から出てきた獣人の女性を見て呟いた。
「あーあ、何処行っちゃったんだろ魔物たち。」
その獣人の女性は小柄で身軽そうだ。手にはムチを持っていた。
「…魔物使いの暗殺者、ミア・ネムレス。」
ネムレスの名を冠するということは、クライドと同じく、ヴォールのメンバーだ。
そして、クライドとももちろん…同士だ。
「ま、一応任務完了したからいっかぁ。」
獣人の女性、ミアは微笑んで死体となったセリオを見た。
「ごめんね。これも依頼なの。未踏の地からやってきたという行商人の獣人の男と竜人の女の殺害。恨むならアタシにこれを依頼した強盗団に言ってね。」
「…なるほど…依頼で俺の両親が暗殺対象に選ばれたか……そして、俺の両親に子供がいたことは知らされていなかった。だから俺は…生き延びたのか。」
ミアは悪くない。
これは依頼だ。俺たち暗殺組織ヴォールの仕事なのだ。
それからしばらく経ち、強盗団と思われる連中がやってきて、珍しそうなアーデンの物品を奪い、笑顔で去って行った。
ただそこに無残にも死んでしまったセリオとリィンなど見向きもせずに…
「…ッ…」
視界が歪む。
今度はワービルトのすぐ傍だ。
ラプターが気絶した俺を背に載せて走っている。
だが、奥からは先ほどの魔物の群れがラプターを狙っていたのだ。
ミアの支配から逃れて自由になった魔物は餌を求めてラプターを追ってきたのだ。
ワービルトの門の近くまで逃げ延びたラプターだが、たまたま門前には誰も居ない。
ラプターは足を滑らせて転倒し、ルナールを放り出してしまった。
壁に激突した衝撃で目を覚ましたルナール。
「…ッ、お、お父さん?お母さん?どこ?ここ、どこ?」
状況が全く飲み込めていないルナール。
目の前では多くの魔物たちに囲まれているラプターが居るのみ。セリオとリィンの姿は見えない。
「何?何なの?何なんだこれ…!」
ラプターが襲われている。
ラプターは必死で何かを庇っているように見える。それは間違いなくルナールだ。
「あ、や、やめろっ!ラプターいじめるなっ!」
ルナールは震える声で言う。
魔物たちは一斉にこっちを見た。
「…あ…」
魔物たちはルナールにゆっくりと近づいてくる。
そんな魔物たちの中に1匹だけ何かを大きな牙にひっかけている。
「あ、あぁ…うぁ…」
それは…母、リィンの―頭部だった。
「お、か……さ…」
ルナールの目は憎しみの目に変わった。
「うあああああああ!!」
身体を震わせながら叫び、魔物に向かって走り出すルナール。
(!なんという無茶を…!)
その光景を見ていたクライドだが、クライドには何も出来ない。ただ、この事態の結末を見ていることしか出来ないのだった。
「よくも!よくもお母さんを!!うあああああ!!」
ルナールは小さな身体で魔物に立ち向かうが、あっさりと大きな手で弾かれてしまい、地面に倒れる。
「い、いた、いたい…でも、でも、お前は、お前は…許さない!!」
その声に呼応するかのようにラプターが目の前に立つ。
「…ラプター…」
ラプターは大きな声で鳴いた。
それを見ていたクライドは、このラプターに対して既視感を覚えていた。
(…このラプター…つい最近会ったような気がする…)
ラプターはどれも同じような容姿をしているが、今幼いルナールをかばっているラプターは、何処かで会ったような気がしていた。
(…あの時、ジィル大草原で俺たちがワービルトに向かう時に居たラプターか…?)
ビライトたちの旅の道中で行動を共にしたラプターだ。
確証は無いが、そのような気がしたのだ。だとするならば、あの時のラプターはクライドのことを覚えていたのだろうか。だからこそ、あそこまで懐かれたのか。
だがそれは今となっては確かめようが無い。
咆哮はワービルトの中にまで大きく響き渡った。
ラプターはルナールを加えて、茂みの中に放り投げた。
「アッ…!」
茂みのすぐ後ろはワービルトの周囲を流れる川だ。
落ちるか落ちないか瀬戸際にルナールは居た。
ラプターはルナールを一目見て、再び魔物たちに向かって威嚇を続ける。
ラプターはルナールだけでも逃がそうとしたのだ。お互いけん制し合う魔物たちとラプター。
やがて多くのワービルト兵士たちが門の前に集まった。
「お、おい!ラプターが襲われているぞッ!」
「助けるぞ!総員!戦闘用意!」
獣人兵士たちが魔物たちに向かって戦いを挑む。
その激しい戦いをただ見ていることしか出来ないルナール。
しかし、ルナールは助けを求めなければと兵士たちに自分の存在を知らせようとした。
だが…
「アレ…」
ふらっと身体がよろめいた。
そして…
「ア…」
ボチャン
―――
誰にも気づかれない音。
ルナールは川に流されてしまった。
そんなルナールのことは誰も分からぬまま、ワービルト兵たちは魔物たちに苦戦しながらも戦う。
ラプターはワービルト内に避難し、兵士たちで戦う。
「何をしておるかッ!そんな魔物ごとき我々ワービルトの足元にも及ばぬことを思い知らせろッ!」
「ヴォロッド様!申し訳ありません!」
「フン。ケダモノ風情が立ち塞がるか。」
ヴォロッド・ガロル。現ワービルト王、当時29歳。
彼はまだこの当時は王になったばかりであるが、この時から現在と変わらず威厳のある王としてこのワービルトを立派に治めていた。ただ、現在よりは血気がより盛んであり、多少暴力的な面も垣間見えている。
魔物たちは勢いよく飛びあがりヴォロッドに襲い掛かる。
「ケダモノ風情が。我が前に牙を剥くなど愚かな。」
ヴォロッドはあっさりと躱し、斧を振り、魔物を一刀両断した。
「さ、流石でございます。ヴォロッド王。」
「片付けておけ。」
「はっ。」
「…しかしこの魔物…まるで野生とは思えぬ動きをしていた。誰かに飼われていたとみてよかろう。情報隊に調査させろ。ヴォールの者の仕業かもしれぬからな。」
「はっ。」
ヴォロッドは兵士に指示を出し、魔物の処分を任せてワービルトに戻っていった。
そこまで見届けたクライドの視界は再び歪む。
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次にクライドが立っていたのワービルトの下層。
―――川はワービルトの中に繋がっている。ルナールはワービルトの下層に流れ着いた。
人通りが全くない路地裏の更に奥の方の下水道に流れ着いたルナールが再び目を覚ました時にはもう時間は夜だった。
「…ウ……」
ルナールはずぶぬれの状態で目を覚ます。
下半身は川に沈んでおり、上半身だけが水から出ている状態だ。
その状態で何時間も気を失ったまま誰にも気が付かれていなかった。
「…ここ…何処…?」
ルナールはその後に呟いた。
「…僕は……誰?」
(…そうか、俺の最後の記憶がワービルトなのは…こういう経緯があったからか…)
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雨が降ってきた。
ルナールは行くあてもない、自分が何故ここにいるのかも、自分が何者なのかも分からない。
ルナールはワービルト下層のボロボロの建物の裏側…路地裏をフラフラと彷徨い、やがて空腹で動けなくなり…建物の壁に身体を寄せ、座って蹲った。
来ていたフード付きの服も雨で全体が濡れてしまい、風邪をひいてしまいそうだった。
「…」
もはや、何も考えられなかった。何もかもが分からないのだ。
雨に打たれながら蹲るルナール。そんな中、奥から歩いてくる獣人が居た。
その獣人は白い毛皮に長く固い髪が背中まで伸びている。
顔にも傷があり、赤く充血したような目と鋭い黄色の目玉は獣人らしく眼力が強い。
背も高く、他の獣人とは明らかに違う雰囲気を出していた。
「…」
「こんな場所で何をしている?」
声が聞こえる。
「…」
何をしているかと言われても分からない。ルナールはそれより前のことを覚えていない。
「分からないのか。」
狼獣人はスッと座り、俺の頭の上に手を乗せる。
「お前は生きたいか?」
狼獣人は語りかける。
「…」
「……それも分からぬか。良いだろう。ならばお前に生きる理由を見つけさせてやる。」
狼獣人は俺を引っ張り上げて立たせた。舌打ちして下を向いたルナールに狼獣人は無理矢理顔を上に上げさせた。
「ッ…」
「下ばかり見るな。上を見ろ。今は雨が降っていて何も見えぬが、雨はいつか止む。お前の心の中にある雨も、上を見ていれば晴れる。」
「…」
この時は必死にもなれなかった。だが、間違いなくついて行けば死ぬことは無い。
そう思ったのだ。
「行くのか?俺と共に。」
ルナールは頷いた。
「分かった。では行こう。俺の名はギール・ネムレスだ。お前の名を教えろ。」
名前も忘れてしまったルナールは首を横に振る。
「名前も分からぬか。ならばお前に俺の姓をやろう。お前は…クライド。クライド・ネムレスと名乗ると良い。」
この日、俺はルナールの名を忘れ、クライド・ネムレスとして生きることになった。
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「ここだ。」
「…!」
ギールは暗殺組織「ヴォール」のリーダーだった。
大勢の獣人たちが俺を見る。
「新しい人材を連れてきた。何も知らぬが何も知らぬということは伸びしろは無限である。」
普通の人ならここでビビッて逃げてしまうところだが、クライドは不思議と何も感じることは無かった。
「挨拶だ。」
「…クライド・ネムレス…っていう名前を貰った…」
クライドは呟いた。
「…まぁ、良いだろう。仲良くしてやって欲しい。」
「よろしくな!」
「よろしく~」
獣人たちだけで構成された組織ヴォール。
皆が気さくで優しい人たちばかりだった。
それからというもの、多くの仲間やギールから指導を受け、クライドは暗殺者として成長していった。
組織で過ごす上で、特定の人たちと仲良くなってグループのようなものが出来るのはよくある話だ。
クライドはヴォールで過ごすうちに、そんなグループの中に溶け込んでいた。
(…いつも、そうだな…この4人で居たっけな…)
クライドは自分がヴォールで過ごす時間を見守りながら、この当時の感覚や気持ちを思い出していた。
「よう、クライド。鍛錬しようぜ鍛錬。」
「もう夜遅いだろ、明日にしろ明日に。」
「夜だからこそだろ!しっかり動いてしっかり寝る!大事なことだぜ。」
「お前と一緒にするな。」
「ノリ悪っ。」
クライドと特に仲が良かったのが、ナグ・ネムレスだ。
最終的にネムレスの名を冠するヴォールの者はナグとクライドだけが生き残り、そしてナグはクライドによって殺されるのだが、これはそんな運命が来るとは思ってもいない昔の話だ。
「なぁに、まだ起きてたの2人共。明日朝から任務なんだから早く寝なよ。」
「ミアこそ起きてんじゃねぇか。」
「私は明日オフだから良いの!」
これは今思えば偶然だったのだろう。
クライドの仲が良かったグループには彼女もいた。
ミア・ネムレス。
魔物を使役することを得意とする暗殺者の猫獣人だ。
小柄で身軽な身のこなしは単独でも十分強く、そのうえ魔物を従えて戦えるので、ヴォールの中でも攻撃も支援も出来る優秀な存在とされている。
そして、クライドがルナールだった頃、家族を襲い、父と母を殺した張本人である。
最も、クライドはルナールだった頃の記憶は無い。
ミアは依頼を受けてその対象がたまたまルナールの両親だったというのだから、ミアが悪いわけではないのだが…
「騒がしいねェ…3人共早く寝てくれないとボクの仕事が捗らないかな。」
「よう、サベージ。まだ仕事してんのか。」
奥の部屋で文句を言いに来たのはサベージ・ネムレス。
彼もヴォールのメンバーであり、主に情報面での活躍をする裏方メンバーだ。
情報収集を専門として、依頼の受け口や、任務中のメンバーのサポートをする、犬獣人だ。
左目にはモノクルを付けている。
「君たち現場とは違うのさ…むしろボクらの休む時間は昼間だよ。だから集中したいのは今なの。分かったらさっさと寝てよね。」
サベージはそう言いながら、コーヒーを飲む。
「と、いうわけだ。さっさと寝るぞナグ。」
「ちぇ~、一人でやるから良いよッ!」
ナグは外に飛び出し、一人で鍛錬を始めた。
「ったく。」
「あはは、全くナグは元気だよね~」
「…だな。」
クライドは小さく微笑む。
「あんたも元気になって良かったよ、クライド。」
「まぁ…そうかもな…」
記憶もなく、ただ生きるためにここで暗殺者として鍛錬してきた。
そしてたまたま同室になったこの3人とクライドはいつしか友情を築き上げていた。
(…あぁ、あの時は…楽しかった。人殺しを生業にしておいてこんなことを言うのは妙だが…俺は、仲間とこうやって時には鍛錬で高め合い、そして笑い、同じ寝床で寝て、同じ飯を食う。そんな時間が俺の全てになって…いつしか自分の記憶があろうがなかろうが、それは全て過去となり、どうでもよくなっていった。)
クライドの記憶は、これから一番輝いていた時期に入る。
そして、それはもう過ぎ去ったことであることも、クライドの心には刻まれた。
この輝いていた時期も、終わることが分かっている。その瞬間をクライドは再び見ることになるのだ…
そして、クライドの見ている景色は変わる。
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舞台が変わっていた。
ここは魔王城だろうか。
アーデンでは魔王デーガが静かに怒りを見せていた。
「アルーラ…それは本当なのか…?…夫妻が…殺されだと…?」
そしてデーガの前に跪いているのはアルーラだった。
「はい。デーガ様。暗殺組織が強盗団の依頼で暗殺を企てたようで…」
「それで…ルナールは…?」
「ルナールは…行方が分かっておりません。私の方でも内密に調査をしております。今しばらくお待ちいただきたい。」
「…そうか…」
アルーラは悲しそうな顔と怒りの表情で複雑な顔をしているデーガを見て言う。
「デーガ様、ルナールを見つけた際の指示を。」
「…連れてこい…とは言えねぇ。まずは安否の確認だ。それが出来てから考えたい。そして…」
デーガがアルーラにある言葉を告げる前にアルーラは言う。
「デーガ様、私にお任せください。」
「…ったく、お前は言わなくても分かってくれるよな。」
「当然でございます。」
「…俺はこの世界の命を奪うことは出来ない。調べることもままならん。だがお前は適用外だ。それは認められる。だが…」
「心得ております。今から行おうとしていることは私個人のものによること。全ての責任は私が取りましょう。」
アルーラは何の曇りもなくデーガに言う。
「ただ、私も、貴方も誰かの死は望んでいない。ですから、最善を尽くします。よろしいですね?」
「あぁ。構わない―――すまないな。お前だけに背負わせてしまう。」
「デーガ様の望みならば、私はたとえこの命が危険に曝されようが構いませぬ。」
「…分かった。だが…お前も俺の大事な仲間だ。怪我だけはするなよ。」
「ありがとうございます。では、行って参ります。」
アルーラはデーガに深く一礼し、城の外へと出て行った。
「…ッ…俺が夫妻を外に行かせたばかりに…」
(あまり自分を責めるな。)
デーガの内側に眠る魔王カタストロフが言う。
「夫妻が死んだのは…残念だ…仕方ないとは言いたくはない。俺にも一因はあるんだ。責めたくもなる。だが…ルナールは…ルナールは無事なのか…」
(…今はアルーラの知らせを待つしかあるまい。)
「…何処の強盗団だか暗殺組織だか知らねぇが…俺の大事なモンを奪いやがって…」
デーガの静かな怒りは、抑止力としての決まり事すら破ってしまいそうなほど、その拳を振るわせた。
(…その怒りが…凶とならねば良いが…)
カタストロフは内心、そう思いながら、まずはアルーラの報告を待つことにした。
―――
(…魔王デーガ…奴は…俺の何だと言うのか…)
クライドのヴォールで過ごした大切な時間。
そして裏で動くアルーラと魔王デーガ。
更にはワービルト国王、ヴォロッド。
3つの動きが最終的にクライドのヴォールとしての最後の赤き月光の夜へと結びつくことになるのだろうか。
クライドが経験した時間はまだまだ続きそうだ…