後編
笑みを消し、鋭い目で周囲を見回しながら殿下は生徒たちに問いかけました。
「おかしいと思わないか? 最近なにかと生徒の噂になっている令嬢二人がたまたま人通りのない別棟で鉢合わせて、しかもそこでたまたま事故が起こるなんて」
作為的なものを感じるよね。と呟いて、殿下はわたくしの方に目を向けます。
「そうなると、自ら進んで別棟を見学していたアロシュ男爵令嬢はともかくテレーズは故意に呼び出された可能性が高い。君を経営学研究室に呼び出した生徒は誰?」
「ニクロー男爵令嬢です」
「そうか」
彼女はこのような計画をするような方に見えませんでしたが……。少し話しただけなので断言はできませんけれど。
「ではニクロー男爵令嬢、ここへ」
「はい、殿下」
硬い表情で人垣からニクロー男爵令嬢が進み出てきました。
「どうしてニクロー男爵令嬢がここに!?」
アロシュ男爵令嬢が叫びます。
「私が呼んだんだよ」
涼しい顔で答える殿下。
「誰が呼び出したか知ってるんならわざわざフォートレル公爵令嬢に訊かなくても良くないですか!?」
「確認は必要だからね」
可憐な令嬢の皮が剥がれかけているアロシュ男爵令嬢。呼ばれたから出てきたのに置いてきぼりにされているニクロー男爵令嬢が困っています。
「おっとすまないニクロー男爵令嬢。待たせたね。君はどうしてテレーズを経営学研究室に呼び出したのかな?」
「アロシュ卿に頼まれたからです。伝言を頼まれたが義妹が揉め事を起こしている相手だから声を掛けづらいと……」
ニクロー男爵令嬢はアロシュ卿を睨みながら答えました。アロシュ卿の顔が蒼白になっています。
「嘘だ! お前が勝手にやったことだろう!」
「頼まれた時、近くにクラスメイトが何人かいたので彼らにお尋ねいただければ真偽が分かるかと思います。高位の貴族相手に低位貴族が殊更神経を遣う気持ちは私も分かりますからお引き受けしましたが、こんなことなら断るべきでした。フォートレル公爵令嬢、申し訳ございませんでした」
アロシュ卿の怒声にも怯まず冷静に切り返したニクロー男爵令嬢は、わたくしに向かって深々と頭を下げました。わたくしは笑顔で首を振り、気にしないでと伝えます。むしろ巻き込んでしまっていたたまれない気持ちです。
「適当な理由をつけて私をここに誘導したのも君だよね、アロシュ卿。それも無関係だと?」
殿下がアロシュ卿の前に立って尋ねました。シュエットはアロシュ卿のすぐ脇に移動しています。取り押さえる気満々ですね。
「僕じゃない! 殿下、信じてください!」
「実は、他のアロシュ男爵令嬢に対する嫌がらせの件だけどね。少し調べたらすぐ見つかったよ。彼女が『嫌がらせ』をされた時期にバケツで水を運んでいる所やインク塗れの手をしてうろついている君を見た生徒たちが。どういうことかな?」
「し、知らない! 僕は嵌められたんだ!」
ここまで王族に証拠を押さえられているのに、頑なに否定を続けるアロシュ卿。へなへなとその場に座り込み、違う違うと繰り返しています。シュエットが軽く腕を引いても立ち上がろうとせず、頭を抱えてしまいました。
「はーぁ、ばっかみたい」
「い、イザベル……?」
状況に終止符を打ったのはアロシュ男爵令嬢でした。アロシュ卿の後ろからサッと進み出ると、殿下に一礼します。庇護欲をそそる儚げな印象はすっかりなりを潜め、意思の強そうな瞳が真っ直ぐに殿下を見据えました。
「殿下、こうなった以上アロシュ男爵家が罪に問われるのは避けられませんよね?」
「そうだね」
「何を言うんだイザベル!」
へたり込んだアロシュ卿が絶叫しますが、アロシュ男爵令嬢は目もくれません。殿下だけを見てはっきりとした口調で言いました。
「では、殿下。連行される前にこの場で義兄に言葉を掛ける許しをいただけませんか?」
殿下はそれを聞いて面白そうな顔になりました。
「いいよ」
「ありがとうございます。殿下」
では、とアロシュ卿に向き直るアロシュ男爵令嬢。あえてこの場で何を言うのかと、アロシュ卿も怪訝な顔で彼女を見上げます。
「この、ノータリンのボンボンが!!!」
場が凍り付きました。
ええと、この見事にドスを利かせた声はアロシュ男爵令嬢が出しているのですよね?
小動物のような愛らしい見た目の彼女からそんな言葉が飛び出すのが信じられなかったのか、アロシュ卿は声の発生源を探してきょろきょろしています。
それと、ノータリンってなんですか?
「てめえの目は節穴か! なーにが『殿下とフォートレル公爵令嬢は政略上の婚約者に過ぎず関係は義務的』よ! どう見ても殿下が一方的に溺愛してんじゃないの! 三年も一緒の学校にいて何見てたのよ、ド阿呆!!」
「だっ、で、殿下とフォートレル公爵令嬢は一緒に食事もしてなくて……」
「どこの世界に婚約者の行動を逐一把握してて、屋外どころか家の中まで一日中自分の護衛を張り付かせとく『義務的な関係』があるのよ! ラブラブな婚約者だってそんなこと普通しないって、貴族初心者のあたしでも分かるわよ! 偏執的に執着してるじゃない!」
そうなんですか? これが婚約関係の『普通』では? 同意を求めて周りの生徒たちを見たら一斉に視線を逸らされました。えっ、違うんですか?
「殿下……?」
「君を大事にしているんだよ」
思わず殿下に呼びかけると、笑顔で手を握られました。
……なんだかこれでごまかされてはいけない気がします。
わたくしたちがそんな会話をしている間にもアロシュ男爵令嬢の罵倒は続いていました。
「どーぉりであたしがいっくら愛想振りまいても社交辞令しか返ってこないわけよね! おかしいなと思って大丈夫か聞いても『殿下はイザベルに夢中だ』としか言われないし。あのヒゲガマガエルオヤジもその程度の頭でよく権力闘争なんか手を出すわねと思うけど……」
ヒゲガマガエルオヤジってアロシュ男爵のことかしら。……言われてみれば以前お会いしたアロシュ男爵は恰幅の良さも手伝ってカエルに似ていたかもしれません。
それにしてもアロシュ男爵令嬢は悪口のバリエーションが豊富ですね。わたくし、初めて聞く単語ばかりで感心してしまいます。殿下が横でわたくしの耳を塞ぎたそうにチラチラ見てきますが、とても気になるので気づかないふりをしてしまいましょう。
「こちとら家族を人質に取られて仕方なくやってんだから! 下調べとか! 根回しとか! それぐらいちゃんとやってよね!! 計画が杜撰すぎんのよ!」
と、聞き捨てならない言葉が耳に飛び込んできました。殿下も目を鋭くしてアロシュ男爵令嬢に問いかけます。
「アロシュ男爵令嬢。君はアロシュ男爵が愛人に産ませた娘だと聞いているが、違うのか?」
アロシュ卿の頭にかじりつかんばかりの勢いで彼を罵っていたアロシュ男爵令嬢は、殿下の言葉にハッと我に返ると再度殿下に一礼しました。
「お聞き苦しい言葉の数々、大変失礼いたしました。ですが、わたしの両親はあんな屑どもではありません。お願いです。家名ではなくわたしのことはイザベルとお呼びいただけませんか。あいつらと一緒くたにされるのはもううんざりなんです」
「……分かった、イザベル嬢。貴女のご両親は……?」
「二人とも病で既に他界しています。今は孤児院のシスターと子供たちがわたしのかけがえのない家族です。それを、あの、ガマ野郎が……!」
怒りが再燃したのか、奥歯を噛みしめてうなるアロシュ男爵令嬢……いえ、イザベルさん。ギッとアロシュ卿を睨みつけると、再度口を開きました。
「わたしの容姿に目を付けたアロシュ男爵は、わたしに男爵家の養女となって殿下を誘惑するように命令しました。逆らったら裏から手を回して、孤児院を潰してやると。子供たちもまともなところに就職できると思うなと、脅してきたんです」
イザベルさんはわたくしの方へ視線を向けます。
「罪もないご令嬢を陥れるのはとんでもないことだと分かっていました。平民の孤児たちと次期王太子妃の公爵令嬢だったら公爵令嬢を優先するのが当然だということも。でも、わたしは家族を捨てられなかった」
イザベルさんはその場に跪いて、神に祈りを捧げるように手を組みました。
「わたしはどんな処罰でも受けます。ですから、孤児院にはお咎めのないように計らって頂けないでしょうか。こんなことお願いできる立場じゃないですけど……。シスターも、みんなも、今回のことは何も知りません。みんな、わたしが裕福な貴族に引き取られて幸せに暮らしていると信じているんです」
血を吐くようにそう言うと、イザベルさんは組んだ手に額を当ててぎゅっと目を閉じました。
もちろんです。と即答してあげたかったのに、わたくしは……わたくしの立場が、安易に口を開くことを許しませんでした。
殿下も同じようなお気持ちなのでしょう。わたくしが視線で確認を取ると困ったように眉を下げて見せました。
……わたくしの一存は決められない案件ということですね。
「イザベルさん」
わたくしが声をかけるとイザベルさんはビクリと震えて目を開けました。期待と諦めで揺れる瞳がわたくしを映しています。
「確約はできません。わたくしにはその権限がないのです。できることといえばこの件に関係している一令嬢の要望として司法省に嘆願することくらいしか……」
「それで十分でございます。ご厚情ありがとうございます」
納得のいく返答ではないでしょうに、イザベルさんはわたくしたちに向かってゆっくりと首を垂れました。そしてサッと立ち上がると、イザベルさんの真意を知って茫然自失のアロシュ卿を連行しに来た兵に率先してついて行ったのでした。
数日後。わたくしと殿下は限られた人間しか立ち入ることの許されない王宮の奥庭に設えられた東屋で、午後のお茶を楽しんでいました。
ここ数日は本当に忙しかったのですよ。今回の事件の事情聴取に始まり、王家との会談。わたくしに悪意のある『真相』が広がらぬよう顛末の説明を兼ねたお茶会に、殿下との関係の良好さをアピールするために普段行かないような夜会なども積極的に参加しました。
会談の場ですとか夜会のエスコートですとか何かと殿下と一緒にいる機会はあったのですが、じっくりお話ができる状況ではなかったのです。
各方面のスケジュールを調整して、ごく短い時間ではありますがやっと二人で会う時間を作ることができたのでした。
「アロシュ男爵家とイザベル嬢のことだけど」
「はい」
時間が限られていますので、殿下が単刀直入に切り出します。
「男爵家は取り潰しになったよ。君のお父上が大変お怒りだったからね。その後の彼らの扱いに関しては一任してある」
「ご配慮いただきありがとうございます」
彼らはわたくしの命を狙った訳ではないですし、王太子の婚約者の簒奪も結局未遂に終わりました。処刑にまでは至らないだろうと踏んでいましたが、お父様に任せたのですか……今頃炭鉱にでも送られているかもしれません。
「元アロシュ男爵への聴取と捜査の結果、孤児院は無関係だということが証明されたよ」
「あぁ、よかった……!」
イザベルさんの言葉は真実味がありましたが、関わっていないことを証明するのは関わっていることを証明するより難しいものです。
「孤児院を取り仕切っているシスターが几帳面な人で、アロシュから送られてきた手紙を全てきちんと保管しておいてくれたんだ」
手紙にはイザベルさんを引き取るにあたっての事務的な手続きについての内容と、愛情を持って接していると模範的な養父を装って書かれた言葉しかなかったそう。つまりは孤児院側には何も彼の計画が知らされていなかったということです。
「それに家宅捜索していて判明したんだけど、アロシュはイザベル嬢に知られないようにこっそり孤児院を潰すつもりだったようだね。愛妾の子という触れ込みで社交界デビューさせたイザベル嬢の本当の出自を知っている者を消し去りたかったんだろう」
「そんな……」
孤児院を救うためにイザベルさんは我が身を差し出したのに、そう脅した舌の根も乾かぬうちに約束を反故にしようとしていたなんて……。
「そこでイザベル嬢の今後についてなんだ」
殿下が手に持っていたティーカップをソーサーに置いて、わたくしの目を見つめました。今日の本題はこのことのようです。わたくしもティーカップを置くと居住まいを正しました。
「正直このような事情だろう? 官憲も同情を禁じ得ないようでね。どの程度の量刑にすればいいか決めかねているようなんだ。そこで今回一番の被害者である君に、僕が非公式に希望を聞いてみると言ったんだ」
「わたくしの置かれている立場上お咎めなしというわけにはいかないでしょうが、できうるかぎり軽い罰にしていただきたいです」
わたくしは迷いなく言いました。イザベルさんは家族を捨てられなかったと言っていましたが、わたくしだって誰の助けも得られない状況で両親や兄のことを持ち出されたら同じことをしてしまうでしょう。
「テレーズはそう言うだろうと思ったよ。ただ良い行き先がないようでね……」
平民に戻すにしろ改めてどこかの良心的な貴族の養子に入って再教育を施すにしろ、彼女のしたことはかなりの貴族子弟に知られてしまった。また誰かに利用されないとも限らない。だからといって若い身空で外部との接触がない修道院に送るのも罰としては重過ぎるし、王都の情報が遠い辺境にやるのも目が離れすぎてしまうので望ましくない。
……ということのようでした。
「何かいい案があったりしないかい?」
殿下が少し冗談めかした口調でわたくしに尋ねます。返事はしなくてもいい仰いようでしたが、せっかく訊いてくださったのでわたくしは頭をひねります。
しばし考えて、やはり妙案は浮かばないようですとお答えしようとしたとき、ふとイザベルさんが階段から落ちた時のことを思い出しました。正確には、彼女が階段へ飛び込んで行ったときのことを。
「『影』候補として、訓練をしていただくのはいかがでしょうか」
王家の『影』は王国軍とは違い王家の人間が直接動かす戦闘員です。殿下の影のうち何名かにはわたくしの護衛なんてものをやらせてしまっていますが、本来は護衛だけでなく諜報員としての任務もこなし、有事の際には暗殺を請け負うこともあると聞いています。
「影に? なんでまた?」
わたくしの回答がよほど意外だったのか、殿下は驚きを隠せずにいます。
「イザベルさん、走ってきた勢いのまま頭から階段に飛び込んだんです」
「それで、あの軽傷?」
殿下が目を丸くします。
「ええ。あの時は驚きで頭が回っていませんでしたが、今思い返すと階段を落ちている間は寝返りを打つ時のように横に転がっていらっしゃいました。飛び込んで、階段に接地するまでの間に空中で体勢を変えられたのでは……?」
お手本のような階段落下でした。そんなお手本はないでしょうが。
「へぇ、怪我がなかったのは運が良かったのだと思っていたけれど。狙ってやったのならかなり運動神経が良さそうだ」
「こんな言い方は良くありませんが、彼女の『弱み』は明らかです。今彼女は孤児院がお咎めなしになったことで王家に恩を感じているはず。そこで彼女の暮らしていた孤児院を国直轄の運営に変え、機密を漏らさぬ条件で多少の接触を許せば王家に尽くし従う人材に育てられるのではないでしょうか」
「領主によって孤児院の運営に差がつくことが今回浮き彫りになったから、在り方を見直したらどうかという意見が出ていたんだ。先駆けとして例の孤児院を国営にすることはそう難しくないだろうね……。うん、今まで出た中で一番面白い提案だ」
「ありがとうございます」
イザベルさんは元アロシュ卿よりも言質を取らせないような言い方や立ち回りが上手でした。貴族的な所作やマナーもある程度身についていましたし、元来頭の回転の早い女性なのでしょう。
表舞台に出られないのであれば裏舞台ならどうかと思い付きで言った部分が大きいですが、イザベルさんのあれこれを思い返すにつれ本当に向いているのではと思えてきて嬉しくなりました。実現するようならいつかわたくしの護衛にも付いてもらえないでしょうか。
それからしばらくはこの数日何をしていたかをお互いに報告しました。殿下は取り調べや陛下とのやり取りなどを。わたくしは真相の根回しを兼ねたお茶会の様子を。
「ニクロー男爵令嬢には今回ご迷惑をおかけしたでしょう? 謝罪のお手紙はお家に出したのですけれど、今度個人的にお茶会にもお招きしようと思っているんです」
「それはいいね。僕は彼女と接点がないけど、留学経験のある才女だと聞いているよ」
「素敵! 留学中のお話をぜひお伺いしたいわ」
「仲良くなったら僕にも紹介してほしいな」
「もちろんですわ、殿下」
「それだよ、テレーズ」
「えっ?」
急に真顔になった殿下の様子に、わたくしは間の抜けた声を上げてしまいます。何か粗相をしたでしょうか。
「元アロシュ卿……ラウルが言っていただろう?『義務的な関係』と。今後同じような事件を起こさない為にも、私たちはもっと周囲に仲睦まじいと思われるよう努力していくべきだと思うんだ」
「そうですか……? 先ほどお話ししたお茶会でご一緒した方々は『彼が極めて特殊な例外』とおっしゃっていましたけれど……」
なんでしたら少々呆れた顔で「いつもいつもおなかいっぱいですわ」と言われました。意味がしっかりと掴めなかったので曖昧に笑って流してしまいましたが、仲が良く見えているという解釈で間違っていなかったと思うのです。
「彼女たちは君の友人だから気を遣ってくれているんだよ。面と向かって君に『自分も仲が悪そうに見えていた』とは言えないだろう?」
「そうなんでしょうか」
疑問は残りましたが、自分の解釈に自信がある訳ではなかったので首を傾げつつ頷きました。
「そうだよ。ただ、学園内で会う時間を増やそうとは思っていない。同年代の貴族とこんなに交流が図れるのは学生の間だけだ。君だって友人付き合いがあるだろう?」
「そうですね」
「だからね、君が僕を愛称で呼べばいいと思うんだ」
「は?」
何が「だから」なのでしょうか。一足飛びどころか五足くらい飛んだ話の展開についていけず、わたくしはまたしても間の抜けた声をあげてしまいました。淑女失格かもしれません……。
「互いの呼び名というのは、周囲に自分達の関係を示すのにすごく分かりやすい指標だ。名で呼び合っていれば親密だとすぐに分かるだろう。ただ僕は既に君をテレーズと名前で呼んでいるからね、君の方に変えてもらうしかない」
「確かにそうかも……いえ、でもわたくし公式な場では『エミリアン様』とお呼びしておりますわ」
「それは弟たちと紛らわしいから単に呼び分けをしているだけだろう? 仲が良くて名前を呼んでいるわけじゃない。それに、僕が君に愛称で呼んで欲しいと思ってるんだ」
嫌かな? と眉を下げて微笑まれたら、拒めるわけがございません。
「リッ、リアン……様」
かああっと顔が赤くなります。もう、こうなるからわざと避けていたのに。元アロシュ卿をお恨みしたい気持ちになりました。
「テレーズはちっとも変わらないね。名前を呼ぶだけで、赤くなって。可愛い」
「まあ、殿下。もしかしてわたくしに意地悪をなさったのですか? そのように揶揄って」
昔から何度か殿下に「呼び捨てにして欲しい」とか「もっとくだけた話し方で」などとご要望を受けてそのようにしようと試みているのですが、いつもこうなってしまうのです。恥ずかしくて、今まではすぐに元に戻させていただいていたのですが。
「揶揄ってなんかいないさ。君が可愛らしい人なのは本当のことだからね。それより。リアン、だよ。テレーズ」
……今回は引いてくださるおつもりはなさそうです……。
「ほら、呼んで」
「……リアン……様」
「もう一度」
「……リアン様」
「うん、いいね。これからはずっとそう呼んでくれると嬉しいな」
「うぅ。いつも淑女たれと心掛けておりますのに、こんな……。リアン様ばかり余裕でなんだかずるいですわ」
ニコニコといつも通りな殿下のご様子に、わたくしがこんなに心を乱しているのにと悔しくなってしまいます。
「余裕なんかないよ」
熱くなった頬を両手で押さえるわたくしに、リアン様は優雅にティーカップを傾けながらそんなことを言います。その澄ました表情がなんとも小憎らしくて、わたくしは唇を尖らせて反論しました。
「とてもそうは見えませんわ」
「……だからいつも見ていないと、不安になってしまうんだ」
「何かおっしゃいました?」
「いいや」
殿下はふふと笑います。それはわたくしや家族の前でしか見せない素の笑顔。
仲睦まじい恋人、とまでは行かなくても、きっと殿下の気を許せる存在の一人にはなれているんだわ。わたくしも殿下に心からの笑顔を見せたのでした。
誤字を報告してくださった方、ありがとうございます。修正しました。
おまけの裏設定
一人称
テレーズ:おっとりとした性格を出したかったので、漢字の私ではなくひらがなのわたくしを当てています。
イザベル:本当の一人称はあたし。言い慣れない感じを出したくて、こちらも私ではなくわたしとひらがなで表現しています。
王家の影
テレーズについているのはシュエット(リーダー)含め5人。学園では潜んでいる彼らですが、フォートレルの屋敷内ではテレーズ付きの従僕やメイドとして働きながら護衛をしています。フォートレル家の家人と家令のみが正体を把握しており、一般の使用人には知らされていません。