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1/3

前編

短編投稿の予定でしたが、長くなってしまったので2つに分けました。



「キャァアァァアア――――――!!!」



 わたくしに向かって突進してきた女生徒が目の前でいきなり真横に跳び、そこにあった階段を転げ落ちていきます。


 ……何を言っているのか分からないでしょうね。けれど、わたくしもよく分かっていないのです。そのようにしか説明できないことが目の前で起こってしまいました。

 訳が分からないなりに咄嗟に彼女に向かって手を差し出したのですけれど、普段社交に必須なダンス程度しか運動に触れる機会のない、いち令嬢にこのような非常事態に対処する技能があるはずもなく。

 大きな悲鳴を上げて階段を落ち切った彼女は踊り場で倒れ伏したまま動かなくなりました。


 顔色を読まれてはならないと幼少時から叩き込まれて育ったので、恐らくわたくしは普段とさほど変わらない顔をしていることでしょう。内心では心の底から驚いてその場から一歩も動けないでいましたが。

 わたくしが立ちすくんでいる間にも、悲鳴を聞きつけた生徒たちがどんどん集まってきていました。




「フォートレル公爵令嬢」


 今まで校内ではお話したことのない令嬢から呼び止められたのは、本日の講義を全て終えて帰り支度をしている時でした。


「ごきげんよう。ニクロー男爵令嬢」


 わたくしが挨拶を返すと彼女は驚いた表情を浮かべました。個人的に言葉を交わしたこともなく、クラスも違う生徒の名前をわたくしが憶えていることが意外だったのでしょう。よくある反応です。

 少しやりすぎかという自覚はあるのですが、わたくし自身の意向として同じ学校に通う生徒のお名前はできる限り憶えるようにしています。将来どういう関わりを持つようになるか分かりませんから、備えておくに越したことはありません。

 二か月前に入学してきたばかりの新入生ですとまだお顔とお名前が一致しない方ばかりですが、彼女は同学年ですので問題ありませんでした。


「ごきげんよう。急に呼び止めたりして申し訳ありません。オランド先生からのご伝言を預かってまいりました。お話ししたいことがあるので本日の講義が終わったら研究室まで来ていただきたいそうです」


 ニクロー男爵令嬢は一息に言いました。少々緊張なさっているご様子です。呼び止められた理由は分かりましたが、わたくしは内心で首をかしげました。

 オランド先生は経営学の講師です。経営学の講義は一時間前に履修したばかりだというのに、その時になぜ先生は声をかけてくださらなかったのでしょう。講義後に用事ができたのでしょうか。

 疑問は残るものの、ここで考えていても仕方がありません。先生に直接お伺いすることにいたしましょう。


「わざわざありがとうございます」


 微笑んでお礼を申しますと、ニクロー男爵令嬢は明らかに安堵した様子で一礼して去っていかれました。

 生徒たちの模範たるよう常日頃から心がけているつもりではありますが、同学年の生徒がわたくしに話しかけるのにあんなに緊張されるのは良くありません。もう少し柔らかい表情で過ごすように気を付けてみましょう。

 迎えの者に遅れる旨を伝言してわたくしは別棟にあるオランド先生の研究室へ向かいました。


 研究室まで来るとドアには『帰宅』の札が下がっていました。やはりおかしいと思いつつ、念のためノックして来訪を知らせます。


「オランド先生、テレーズ・フォートレルです」


 呼びかけてしばらく待ちましたがお返事がありません。思い切ってそっとドアノブを押してみましたが鍵がかかっていました。やはりいらっしゃらないようです。

 なんだったのでしょう。不思議に思いましたが、迎えを待たせています。オランド先生とのお話は明日にすることにして、わたくしは玄関ホールへの最短ルートを歩き始めました。

 別棟は研究室がメインなので放課後は人通りがほとんどありません。誰とも会うことなく歩を進め、目の前の階段を下りれば正門に続くメインストリートに出られる……女生徒がわたくしの方へ一直線に走ってきたのはそんな時でした。




「う、うぅ……」


 踊り場に倒れた女生徒のうめき声で、呆然としていたわたくしも我に返りました。慌てて階段を下りて女生徒のそばへ向かいます。受け身は取れていたようですが、一度医師に診てもらうべきでしょう。


 うめいていた女生徒はゆっくりと顔を上げました。ふわふわとしたピンクブロンドの髪こそ乱れてしまっているものの、顔に傷はなさそうに見えます。

 先ほど突進してきたときは驚きが先に立ってよく見ていませんでしたが、改めて今お顔を見ると抜群に可愛らしい少女だと分かります。大きな青い瞳に思わず触れたくなるような桃色の唇。


 あぁ。この方が三ヶ月前、一つ下の学年に途中編入してきたアロシュ男爵令嬢なのですね。


 階段を下りながらそんなことを考えていると、痛そうに少しお顔を歪めているアロシュ男爵令嬢と目が合いました。お怪我はありませんかと尋ねる前に彼女はヒッと声を上げて身を竦ませます。そして悲痛な声で叫んだのです。


「申し訳ありませんでした! もう出しゃばった真似は致しませんから……どうか……! ごめんなさい! もうやめて……!」


 集まった生徒たちがわたくしとアロシュ男爵令嬢を交互に見やり、状況を把握しようとしています。


「何を騒いでいる」


 そこへ人垣を縫うようにしてやってきたのは。


「殿下」

「エミリアン様ぁ!」


 わたくしの婚約者であり、この国の第一王子でいらっしゃるエミリアン殿下でした。

 どうしてこうなっているのかはわたくしにも説明ができませんが、騒ぎになっている経緯くらいはお話しできます。アロシュ男爵令嬢はどうやらわたくしが怖いようでもありますし先に殿下の方へ足を向けると、直前までうずくまっていた彼女が急にわたくしと殿下の間に割り込むように飛び出してきました。


 まあ。なんて機敏なんでしょう。


「エミリアン様っ! わたし、こわかったです……!」


 目を潤ませて殿下に訴えかけるアロシュ男爵令嬢。そのまま顔を覆って泣いてしまいました。

 周囲の視線がわたくしに集中します。あら、これではまるで……。


 わたくしはここまで追い込まれてやっと気が付きました。

 この状況ではまるでわたくしがアロシュ男爵令嬢を階段から突き落としたように見えてしまうこと。さらにはそうしてわたくしを犯人に仕立て上げるために、彼女はあんな奇行を取ったのではないかということに。




 とんでもない美少女がこの学校に来た、と編入早々話題になったアロシュ男爵令嬢が、再び生徒たちの噂になり始めたのはおよそ一ヶ月前のことです。


「テレーズ様、アロシュ男爵令嬢のことはご存じですか?」


 カフェテリアで昼食を摂っているときに友人の侯爵令嬢に尋ねられたのもその頃でした。


「えぇ。殿下と仲良くされているご令嬢ですわね」

「仲良く、どころじゃありませんわ! 学年だって違いますのに毎日のように殿下について回って……!」


 エミリアン殿下はわたくしより一学年上の四年生です。第二王子殿下はまだご入学されていないため、校内で「殿下」と発言するとエミリアン殿下のことであるというのが暗黙の了解となっています。


「入学してすぐの時期に迷子になっていたところを助けて以来懐かれた、と殿下は仰っていましたけれど」

「それにしたって限度があります! 婚約者のいる殿方に……!」


 同席していた令嬢たちも思うところがあったようで、大きく頷いている。わたくしが傷ついていないか心配してくださっているのですね。ありがたいことです。


「中途半端な時期に編入してまだ日が浅いですもの。彼女も心細いのではないかしら。平民出身と伺っていますから、貴族のマナーや特有のルールにも不慣れでしょうし……」

「心細ければクラスメイトと親睦を深めればいいのです。それに一学年上にはテレーズ様だっていらっしゃるのですから、教えを乞えばいいのですわ」

「それは……頼ってもらえればわたくしは嬉しいですけれど」


 友人たちは納得のいっていない顔をしていましたが、わたくしがあまり気にしていない様子を見せたのでひとまず静観の姿勢をとってくれることにしたようでした。




 ……ですが、こんな事態になるのであれば一度彼女と話し合う機会を設けておけば良かったのかもしれません……。

 現場に集まった生徒たちの疑惑に満ちた視線を浴びて、わたくしは困ってしまいました。

 この状況で「彼女が自ら階段へ身を投げました」と申し上げて、果たして皆さんに信じていただけるでしょうか。


「恐れながら、殿下に申し上げます!」


 思い悩んでいるうちに、上ずった声が場に響きました。人波をかき分けて進み出た声の主は、アロシュ男爵の嫡男であるラウル・アロシュ様でした。


「ぼっ、僕は見ました! そこの階段の上にいた義妹(いもうと)を、フォートレル公爵令嬢が突き落としたのを……!」


 アロシュ卿の発言に周囲がざわめきました。それを手振りで制すると殿下がすぐ目の前ですすり泣くアロシュ男爵令嬢に尋ねます。


「それは本当か、アロシュ男爵令嬢」

「どうかイザベルとお呼びください、エミリアン様。その……わたしは、背中に衝撃を受けたと思ったらあっという間に……ごめんなさい、よく分からなくて……」


 上手い言い方だわ、とこんな時なのにわたくしは感心しました。本当です、と答えるよりよほど事実のように聞こえます。


 涙を堪えるアロシュ男爵令嬢にひとつ頷きを返すと、殿下はわたくしに目を向けました。


「この者たちはこう言っているが、テレーズ?」


 殿下に問われて、わたくしは深く一呼吸しました。落ち着いて。何もしていないのです。殿下の婚約者らしく、堂々としていればいい。


「アロシュ男爵令嬢が階段から落ちていくところはわたくしも目撃しました。ですが、わたくしが突き落としたからではありません。わたくしには……」

「嘘をつくな! 僕は確かに見た!」


 わたくしの言葉を遮ってアロシュ卿が叫びました。


「お義兄様、フォートレル公爵令嬢だってわざとわたしを押したのではないかもしれません。身体が当たってしまったのかもしれませんもの」


 アロシュ男爵令嬢がわたくしを庇うような発言をします。その言い方ではわたくしが原因だと言っているも同然なのですが……。

 ただ怒鳴り散らすアロシュ卿より彼女の方が厄介かもしれません。このままでは故意であれ偶然であれ人を階段から突き落とした汚名を着せられてしまいます。

 わたくしは再度口を開きました。


「わたくしには、彼女が自ら階段へ飛び込んだように見えました」

「そんな! ひどいわ!」

「なんてことを! 当たり所が悪ければ死ぬかもしれないのに、なんのためにそんな自殺行為をする必要がある!?」


 案の定アロシュ兄妹が悲鳴を上げます。常識的に考えればその通りですよね。しかもわたくしには彼女を害する理由がないわけではないのです。わたくしに全くそんな気がなかったとしても。


「おおかた、義妹が殿下の寵愛を受けているからと嫉妬してやったのではないか!?」


 アロシュ卿がこう仰るように。


「……アロシュ男爵令嬢が最近殿下と行動を共にしているのは存じ上げておりました。しかしそれは生徒同士の交流の範囲を逸脱したものではありませんでしたし、婚約者といえどもお互いの交友関係に必要以上口を挟むべきではないと考えております。推測でわたくしを悪者にされては困りますわ、アロシュ卿」

「義妹はしばらく前からいじめに悩まされていたんだ! 貴女の差し金なんでしょう!?」

「そのようなことはしておりません」


 完全に主張は平行線になってしまいました。自然と皆の視線はこの場で一番の決定権を持つ殿下の方へ向かいます。殿下は普段と変わらぬ穏やかな口調でわたくしたちに言いました。


「お互いの認識に齟齬があるようだね。最初から確認しようか。まず、アロシュ男爵令嬢」

「もぉ、イザベルと呼んで欲しいと言ってますのに……」


 アロシュ男爵令嬢は甘えた声で殿下に仰いましたが、意に介さない様子で殿下は続けます。


「君はなぜ、授業のないこの時間帯に別棟にいたんだ?」

「えっとぉ、それは、学校にも慣れてきたので、まだ行ったことのないところも見てみようと思ったんですぅ」


 次に殿下はわたくしに質問しました。


「なるほど。テレーズ、君は?」

「はい、オランド先生がわたくしに御用があるとご伝言をいただきましたので、研究室に伺っておりました」

「オランド教授が? でも君は今日経営学の授業で教授にお会いしているはずだろう?」

「わたくしも同じことを思いましたが、講義を受けたのは二時間前のことでしたし授業後に何かお話したいことができたのだろうと……」

「そんなことはどうでもいいでしょう!? 義妹が階段から突き落とされ、その時その場にはフォートレル公爵令嬢しかいなかった! それ以上の情報が必要ですか?」


 またしてもアロシュ卿がわたくしの発言を遮る形で叫びました。学園内では爵位関係なく生徒は皆平等と謳っているとはいえ、殿下との会話に割り込みあまつさえ意見するなんて勇気のあるお方です。

 どんどん増えている周囲の生徒たちがさすがに失礼ではと顔を見合わせて囁きあっていますわよ?

 しかし殿下は咎めることなく、むしろそれを聞いていたずらっぽい笑顔を浮かべました。


「それが、そうでもない」


 そして、つい、と天井を見上げると虚空に向かって呼びかけました。


「シュエット」

「はい」


 今までどこに隠れていらっしゃったのでしょうね。低く響くような声と共に、殿下の隣に降り立ったのは目元以外を全て灰色っぽい色の布で覆った男性です。

 急に現れた異様な風体の男性にそこかしこから驚きの悲鳴が上がります。殿下はそういった生徒たちに大丈夫というように頷いて見せました。


「紹介しよう。彼はシュエット。テレーズの護衛だ」


 そう、シュエットはわたくしの護衛です。本名は存じ上げません。平時は常にどこかに隠れていらっしゃるので、お姿をお見掛けするのも久しぶりのことです。


「護衛!?」

「知っていたか?」

「いや……」


 などという声が飛び交っています。護衛されている当人のわたくしでさえ普段どこにいるか分からないのですから、一般の生徒の皆様がご存じないのは当然のことでしょう。


「シュエット。今日別棟に入ってからアロシュ男爵令嬢が階段から落ちるまでのテレーズの行動をすべて報告してくれ」

「はい」


 それからのシュエットの言葉は怒涛のようでした。


「16時32分、お嬢様が別棟に入られました。同38分、経営学研究室に到着。3度ノックをされましたが応答なし。そのまま2分ほど待機。再度ノックし、扉に鍵がかかっているのを確認したのち正門へ向かわれました。問題の階段へ差し掛かったのが44分頃です。そこへアロシュ男爵令嬢が走ってこられたので、お嬢様は階段の手前で立ち止まられました。アロシュ男爵令嬢はお嬢様の約1.5メートル手前の地点で真横に跳び、階段を落ちて行かれました」


 立て板に水を流すようにわたくしの行動が伝えられていきます。アロシュ卿でさえ口を挟む隙がありません。まさに息つく暇もないというか、まさか、息継ぎをしていないのですか?


「……と、いうことらしいが? テレーズの証言と一致するな」


 あっけにとられる一同を現実に引き戻すように殿下が仰いました。ハッとしたアロシュ卿が殿下に食ってかかります。


「そ、そんな! この男は彼女の護衛でしょう!? 主に有利な証言をするのは当たり前です!」

「それは違うよ」

「えっ?」

「シュエットはテレーズが婚約者に内定した時に私がつけた王家の護衛だ。発言は信用に値するものだと保証しよう。私の保証だけでは不服かな?」


 殿下、王家直属の護衛をこれ以上疑ったりしないよなと暗に脅されていますか?

 先ほどから無自覚に不敬な言動を繰り返していたアロシュ卿も、流石にここで反論するのは危険と気づいた様子でモゴモゴと言い訳をして下がりました。


「お、お義兄様。わたし、階段から落ちる時に背中に何か当たったように思いましたけど、ただ躓いただけだったかもしれませんわ。まだ貴族的な服装に慣れていないものですから……」


 アロシュ男爵令嬢がアロシュ卿の後ろから制服ジャケットの裾をそっと引いて囁きました。先ほどまで殿下の真横にいたように思いますけれど、本当に素早い方ですわね。


「む……確かに、今回の件は不慮の事故かもしれません。ただ、こそこそと嫌がらせを行うような令嬢がはたして婚約者としてふさわしいのでしょうか!」


 アロシュ卿はあくまでわたくしを悪者にしたいようですわね。アロシュ男爵令嬢が先ほどよりも強い力で裾をグイグイ引いているのにもお構いなしです。でも、義妹さんの促すとおりに今は戦略的撤退をしたほうが利口ですわよ?

 でないと。


「そうだな、せっかくだ。嫌がらせの件も今片付けてしまおうか」


 ほら、殿下がやる気になってしまいました。


「アロシュ男爵令嬢から相談を受けていたからね、内容は知っているよ。水やインクをかけられたり、教科書を捨てられたりしたんだったよね?」

「その通りです殿下!」


 嫌がらせを受けた当人ではなく義兄のアロシュ卿が勢いづいて答えます。アロシュ男爵令嬢は正直義兄だけ置いて帰りたいという顔をされていますが、当事者である以上それは許されないでしょう。


「それはいつだったかな? アロシュ男爵令嬢」

「えっ……と、あの、ショックで正確な日にちは覚えていないのですが、水をかけられたのは先週の放課後ですぅ」


 アロシュ男爵令嬢が傷ついた様子で答えます。その姿は儚げで庇護欲をかきたてられます。


「かけた人の姿を見た?」

「道を歩いていた時に上からかけられたのでぇ……。目を上げた時には誰も……」

「インクの件は覚えているよ。二週間前のことだね。昼休みに私のいる教室に来た時、スカートの後ろ側が真っ黒になっていた。君は私に指摘されるまで気が付いていなかったが……ということはこれも誰につけられたか分からない、と」

「はい……」

「教科書を破られたのは?」

「それはひと月ほど前ですぅ。お昼をエミリアン様とご一緒させていただいたあと教室に戻ったら教科書がなくなっていてぇ……。次の休み時間に探したらびりびりに破かれた状態で焼却炉に捨てられていたんですぅ……!」


 涙を浮かべるアロシュ男爵令嬢に主に男子生徒から可哀想にという声が同情の声が上がりました。これは女のわたくしでも背中を撫でて差し上げたくなりますね……。ですがそんな空気をバッサリと切り落とすように殿下はあっけらかんとおっしゃいました。


「じゃ、テレーズじゃないね」

「はい……えっ? えっ??」


 思わず返事をしかけたアロシュ男爵令嬢が当惑しています。


「なっ、なぜです!?」


 アロシュ卿の問いに殿下は即答します。


「そんなことをしている時間はないからさ」


 まあ、その通りですね。わたくしは納得しましたが、腑に落ちない様子のアロシュ卿に殿下が補足説明をします。親切ですわ。


「テレーズは毎日カフェテリアで友人のご令嬢たちと昼食をとっている。嫌がらせを受けた前後の時期も同様で、特に行かなかったり抜け出したりした日はなかった。花摘み程度の時間くらいは席を離れたかもしれないが、カフェテリアから私のいる教室までは離れている。これは同席していたご令嬢たちとカフェテリアにいた生徒たちが証明できるんじゃないかな? ちなみに放課後は王妃教育があるからね。授業が終わったら真っ直ぐ登城しているんだ」


 こちらは言わずもがな、お城の使用人の皆さまと王妃教育の先生方が証人ですわね。


「殿下はテレーズ様の毎日のスケジュールをすべて記憶しておられるんですか?」


 若干おののいた様子でアロシュ男爵令嬢が尋ねます。


「もちろん。婚約者のことだからね」


 殿下は当たり前の顔で頷いておられますが、そんなことはありません。すべて覚えていられる殿下の記憶力がずば抜けていらっしゃるのです。「えっ、こわ」とアロシュ男爵令嬢が呟いたような気がしましたが、気のせいでしょう。


「ご本人が手を下さずとも、取り巻きの令嬢にやらせているかもしれないじゃないですか!」


 アロシュ卿の方はまだ引き下がらないご様子。意地になっていらっしゃいますね。それにしても、わたくしの大事なお友達を取り巻きだなんて。

 ムッとしていると、人垣の中にまさに今「取り巻き」と揶揄されたわたくしの友人の一人が立っているのを見つけました。彼女はわたくしと目が合うと大変綺麗な笑顔で微笑んでくださいました。

 ……今後アロシュ家は王都と領地を行き来するのが大変になるかもしれませんね。アロシュ家の領地からまっすぐ王都に向かうには彼女のお家の領地を通るしかありませんもの。


「シュエット。テレーズが嫌がらせを画策するような動きをすることはあったか?」

「ありません。他の影からも報告を受けておりません。むしろ憤る周囲の令嬢をなだめていらっしゃいました」


 殿下の問いにシュエットが淡々と否定の言葉を返します。実際やっていないのでそうとしか答えようがないんですけれど。


「殿下。その者は学園内での、しかも男の護衛でしょう? わざわざ護衛の前でそんなことは……」

「学園内だけな訳がないじゃないか。内訳は教えられないけど、テレーズにはいつも男女の護衛を付けているよ。どこで何が起きても対応できないようでは護衛とは言えないからね」


 その言葉に質問したアロシュ卿だけでなく周りの生徒たちからも驚く声が上がりました。そして今までわたくしのことは完全に無視していたアロシュ男爵令嬢が初めて恐る恐るわたくしに話しかけてきたのです。


「いつもって……家の中でも、ですか?」

「えぇ、そうですわ」

「お風呂とか、寝る時にも……?」

「もちろんです」


 アロシュ男爵令嬢は信じられないという表情をありありと浮かべてわたくしを見つめました。

 元平民のアロシュ男爵令嬢には馴染みの薄いことかもしれませんが、貴族女性に護衛がつくのはよくあることです。何故周囲の方々もそんなに驚いているのでしょうか。まぁ確かに少々窮屈ではありますが。

 でも殿下直属の護衛の方が付くようになったのは第一王子の婚約者に内定した六歳のころからですから慣れたものなのです。

 殿下たちは仲のいいご兄弟ですが、水面下では派閥争いもあるのでしょう。わたくしが危険に巻き込まれないよう殿下直々に護衛を付けてくださっているのですから、むしろ感謝しています。


「これで、テレーズが嫌がらせをしていないことが証明されたかな?」


 少々芝居がかった仕草で腕を大きく広げた殿下は、生徒たちに向けて呼びかけました。アロシュ卿も苦々しい顔をして口を噤んでいます。殿下のおかげでおかしな疑いを払拭できてわたくしもホッとしました。

 周囲の生徒も各々解散の気配が見受けられます。ところが。



「……さて、ここからが本題だ。アロシュ卿」


 

 殿下の一言で場の空気が一気に引き締まりました。


本来小説ならば漢数字を使うところではありますが、シュエットの長台詞だけはテンポ良く読めてこそだと思いましたのであえてアラビア数字を当ててあります。(ローマ数字と間違えていました!ご指摘ありがとうございます)

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