昼の熱
休日の午後一時をまわったころ、アパートから歩いて三分とかからない知る人ぞ知る、というより、地元民からはもちろんのこと愛され、インターネットで情報を得た遠来のお客がしめやかなこの郊外までわざわざ電車を乗り継いでやってくるほどのカレーの名店で、一説では開店以来まもっているとされる厳選された四種類のうちから、今回は『欧風まろやかカレー』をひなのと二人して選んで、いつものように今日も朗らかに舌鼓を打った帰り道、
「やっぱり美味しかったねえ。こういうときはいいよね、平日休みも。土日なら絶対混んでるだろうし」と、ひなのが感慨を漏らすのに、頷きつつ自分は、
「それに味が確かなのが素晴らしい。接客でゴリ押し出来るわけもないし」
業種こそ異なるものの、二人共おなじく一般消費者を顧客にした仕事、いわゆる「B to C」企業に勤める身なので、月末が近づけば近づくほど必然上司からつつかれたり、周りとの穏やかにして激しい争いに否応なく呑み込まれ、もちろん自分の気概も手伝った末に結果として客の背中を押すというよりも売りつけるという恰好になってしまう事もないわけではなく、その事情をお互いによく知っていて、どことなく決まりの悪くなることもあるのだけれども、今食べてきたお店の、平均よりかえって安価なくらいで、広告も最小限に抑えながら、味一本で純粋に勝負しているのが舌に確かに感じられるところに、自分は羨望と羞恥の入り混じった一種の尊敬を覚えるのだった。
「また行こうね」
ぼんやり物思いにふける自分の先に立って歩いていたひなのは、ネイビーのショートパンツからのびる細くすこやかな両足でフィギュアスケートの女子選手さながらくるりと回転してこなたを向き、なかば顔を上げて爽やかな秋波を送りつつそう言うと、ハンドバッグを後ろ手に握ったままかかとを踏み出して、後ろ向きに歩みながら、
「来月とか、ううん、来週でもいいくらい。ね、そうしよう。来週だって休みはいっしょだし」と、ひとり盛り上がって決めてしまう。
いくら美味しいとはいえ、来週の気分までは今から計れないし、自分は即答を避けるつもりで、
「ほら後ろ、あぶないよ。つまずくよ、大きな石がある」そう注意をうながして話題を逸らそうとすると、ひなのはすぐさま感づき、
「絶対うそ。嘘つき。石なんてないよ」そう声高に宣言して、振り向いて確かめもせず、今度は上目づかいにこちらを淑やかに睨み、真っ白な鼻先を左右に細かく振る。
結局自分が折れて機嫌を取り、カレーの話は有耶無耶にしたまま、それでもちゃんと進行方向に向き直ってもらって仲良く歩み丁字路を左折して間もなく見えたアパートに帰り着き部屋をあけると、我先にすり抜けて腰をかけたひなのは、玄関口からこちらが注視するなか、それを物ともせず片足を中空にすっと浮かせて手早くローテクスニーカーの紐をほどき、靴下に包まれたもう一つの足先も軽やかにほどいてぬぐと、隅に寄せて揃えて置き、すっくと立ちかけたところで、普段は男女の身長差に比例するまま、ひなのが見上げ、こちらが見下ろすのが常なのに折から平行に交わりそうなのを潮に、自分は部屋に歩み入り背中で密室の完成を告げる祝祭の鐘が打ち響くのを待つ矢先、徐々に細まりゆく灯の中それよりも一層白くまろやかなものが目を射たと思うと後ろにまわされ火照りが首すじをやさしくなぜて柔らかな唇が触れ合った刹那、平生よりも穏やかに鳴った音に引き続いてほのあたたかい華やかな辛味にまつわりつく潤いになすすべもなくほだされ溶けた。
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