子犬が怪我をした話
「た」
つぶやく様な小さな悲鳴がした。兄が振り向くと、子犬が左手を抑えている。その指先から血が滴り落ちた。
「見せてごらん」
手を取って少し高く上げさせて、傷口を確かめる。
「うん、深くない」
痛みに涙を浮かべる子犬を安心させる様に言って、指先を軽く咥え傷を舐めてやる。その間に腰に下げた鞄から応急用の一式を出して、傷薬を塗り、包帯できつ目に巻いて止血する。あっと言う間に手当された指先を目を丸くして子犬は見る。まだ痛みは残るけれど、ずっとマシになった。
「ありがと」
子犬は赤い目元のまま笑って礼を言う。
「どういたしまして」と兄は笑顔で答えながら考える。子犬の利き手は左のはずだった。なのに左手を怪我したと言うことは。
「右手で使おうとしたのか」
子犬の足元に落ちていた刃物を拾い、刃先の血を拭いながら子犬を見る。問われた子犬は顔を曇らせ、小さく「うん」と答える。
「何故?」
兄は子犬の顔を覗いて、優しい声で尋ねる。
「…兄いは、右手で使うから」
「そうか」
子犬は兄のする事をよく真似る。言葉もそうしてすぐに覚えた。兄も子犬に何でも教えてやりたいし、挑戦も良い事だと思う。けれども。兄は屈んで子犬の目を見て言い聞かせる。
「試してみるのは良い事だよ。でも刃物は安全が一番だから。自分が使い易い手で使いなさい」
「…うん」
子犬は俯いて手当された手を見る。まだ涙で滲む目元を、兄は指で拭ってやった。
その日、子犬は手当された指を何度も見る。兄と同じ様にしたかったのに上手く出来ずに気落ちしていたけれど、きれいに巻かれた包帯を見る度に兄が手当してくれた事を思い出して気持ちが温かくなり、自然と口元が緩む。やっぱり兄は何でも出来るんだな、と思う。だから一緒にいる自分も何でも出来るようにならないと。そう子犬は胸に強く思う。
深い傷ではないものの、利き手を怪我してしまっては暫くは不便だろうと、兄はさりげなく子犬を気遣った。元々世話を焼きたい気持ちはある。けれど子犬には子犬の自尊心があるし、特に今は子犬が怪我をして不甲斐無く思っている様子なので、余計なお世話にならないようにと見守った。
一日が終わり、子犬と兄は二人の部屋に戻る。新しい包帯と傷薬を用意しながら兄が言った。
「手を見せてごらん。寝る前に包帯を替えよう」
子犬は困った顔をして、手を隠すように後ろに回す。
「このままで良いよ」
「包帯を替えて清潔にしないと、治りが悪いよ。ほら」
促されて躊躇いつつ手を差し出す。兄は子犬の頭を撫でて手を取り、包帯を解いて「おや」と言う。深くないとは言え、良く研がれた刃物で切った傷が治るには10日は掛かるはずだった。けれど子犬の指の傷はもう殆ど塞がっている。
「痛みは?」
子犬は何だか申し訳なさそうな顔をして、首を横に振る。兄は笑って言う。
「お前も治りが早い体質だね」
子犬は驚いて顔を上げる。
「兄いも?」
「うん。お前程では無いだろうけど」
子犬は面映くなって照れ笑いをする。兄はそんな子犬に笑顔を返して言った。
「少し不便だけど。傷跡が残らないように、もう一日薬と包帯は付けておこうか」
子犬はさっと頬を赤くする。兄に左手を取られたまま、拗ねたように視線を逸らせる。
「傷跡なんか、平気だし」
「うん。少しくらい平気だろうね。でも俺は、出来ればきれいに治したいな」
優しくそう言われて、子犬は肩の力を抜いて兄の手に任せた。
2022.07.27 追記修正