拾われる話
赤い髪をした小さな生き物は自分がナニモノか分からなかった。
名前を呼んでくれる人がみんないなくなった時に、その人達と一緒にいた場所に自分の名前を置いて来た。それ以来、ナニモノなのか分からなくなってしまった。
けれど一人で生きるのに不自由は無かったから、居場所も行き先も定める事なく、独りぼっちのまま生きていた。
彷徨うある日、獲物の群れを見つけた。あれは羊だ、と小さな生き物は思う。毛並みが良く数も多かった。出来るだけたくさん食べるにはどうしたらいいかと見ていると、羊の近くに二本足がいるのに気付いた。自分も二本足である事を忘れて、ずいぶんと久し振りに見たなと思う。あれはどうしようか、と思う。羊を狩る為には厄介な気がした。
あの群はやめよう、とあっさり決めて場を離れた。
いくらか離れてから、でも、と思い返して立ち止まる。あれだけの獲物を諦めるのは惜しい気がした。こんな風に立ち止まるのは彷徨うようになってから初めての事だった。一晩だけ考えてみようと思い、その夜を過ごす場所を探した。
夜が明けて、まだ諦めるとも決めかねていると、地面を伝って四本足の蹄の音を聞いた。昨日の羊の群れがいた方からだった。荒野でも見る四本足だがそれとは様子が違う。遠くへ去るのを待とうと思っていると足音は近付いて来る。ここに来るんだ、と気付いた。
足音が止まった。相手を確かめる為に身を潜めていた場所から立ち上がる。そこには四本足と、昨日の羊の群れの近くにいた二本足がいた。
あの二本足は何者だろう、と思う。四本足は荷物を下され草を食んでいた。荷物からはいい匂いがした。あれを奪おうかと考える。どんな相手か分からないけれど自分の方が強いと自信があった。だから無造作に歩いて近付いて行った。二本足はそれに動じる事なくその場に腰を下ろして待っていた。
声の届く距離で立ち止まる。
じっと見ていると、二本足は荷物からいい匂いの物を取り出して小さな生き物に話し掛けた。知らない言葉だった。だから意味は分からない。なのに不意に思い出した。この声音の意味を知ってる。
『おいで』
あれは親しみを込めて自分を呼ぶ声だ。
呼ばれるままに近付く。もう荷物を奪う気は失せていた。そんな必要は無くなった。
目の前に立つと食べ物を手渡される。また何か言うと、自分の上着を脱いで小さな肩に掛けた。
小さな生き物はお腹がいっぱいになるまで夢中で食べて、改めて目の前の青年を見る。にこにこと笑いかける彼が何故こうしてくれるのだろうと思う。でも自分の足跡を追って来たのは分かった。自分の耳が良いように、彼は目が良いのだろう。これからどうするのだろうとじっと青年を見ていると、頭を撫でられた。撫でられるままにいると、膝の上に抱き抱えられた。さすがに驚いて、かと言って抵抗する気も起きずにいると、青年は小さな肩を軽く叩いて拍子を取り、低い声で歌い始めた。知らない歌だった。だけど子守歌だと分かった。
空腹は満たされた。喉も渇いていない。暖かい衣服と腕に包まれて瞼が重くなるのに抗えない。そんな風に寝かし付けられるような、もう小さな子供じゃないよ、と思いながら眠りに落ちた。
青年の腕の中にすっぽり収まって、小さな生き物は眠っていた。赤いぼさぼさの髪を撫でてみる。よく眠っていてまだ目を覚まさない。幼馴染には人間の子供と犬の子は違うだろうと呆れられたが、青年にとってはどんな生き物も変わらないし、お腹を満たして良く眠らせてやれば懐くものだと考えていた。実際上手くいったし、あとはたくさん撫でてやろうと思った。
初めて姿を見た時には、感情も表情も読み取れない獣のような目をしていた。けれど今は丸くなって昼寝をする子犬のようだ。これから一緒に暮らすのが楽しみだった。名前は何と言うのだろう、と思う。そう言えばまだ一言も話すのを聞いていなかった。
午後も遅い時間になって子犬が目を覚ました。周囲を見回して自分の置かれた状況に少し驚いた顔をしたが、青年と目が合うと照れたような笑顔を見せた。
おはよう、と声をかけると答えるより先にお腹が鳴って、しょげたような困った顔をする。思った事がすぐ顔に出るらしい。食べ物を差し出すと嬉しそうにまた笑う。食べるのに邪魔にならないように長過ぎる袖を折ってやった。
何度目かのお代わりを差し出すと満腹になったらしく、にこにこして腹をなでて首を振る。もう一緒に帰ることができそうだった。
その前に、と子犬の顔を見つめて尋ねた。
「お前の名前は?」
子犬から笑顔が消える。戸惑った様子で少し首を傾げ、口を開きこう言った。
「オマエノナマエハ?」
それを聞いて、今まで口を利かなかったのは言葉が通じなかったからだと理解した。伺うように自分を見つめる子犬に笑顔を返し、自分の名前を教えた。子犬はまた繰り返す。子犬は言葉を覚えたいようだった。青年の言葉に耳を傾け一字一句同じに繰り返す。良い子だと言って頭を撫でるとイイコダと繰り返して笑った。
それから青年は子犬に名前を付けた。
「お前は俺の弟だよ」
そう言って抱きしめた。子犬はまだ意味は分からなかったけれど、大事なことを告げられたこと、もう一人では無いことを知った。
2020.02.26 一部修正