婚約破棄した令嬢の部屋に招かれた
言い争いをしていた公爵令嬢フィアレシア様が「もういいです!」と話を切り上げてこちらに駆け出した。食堂を出て自室に戻るのだろうと思ったのもつかの間、明らかに俺の体めがけて足を回しているのに気がついた。
まっすぐ腰回りまで伸ばした髪が令嬢らしからぬ揺れ方をし、まっすぐな瞳で俺の目を射抜く。騎士団に内定しているものとして直線的に向かってくる相手ぐらい簡単にいなせなければならないのだが、どうしても動くことができず流れに身を任せるしかなかった。
ほんの短い距離なのに息遣いを荒くしたフィアレシア様が最上級貴族特有の、現在流行りのハーブとやらの匂いを感じさせるほど俺に近づいて膝に手を当てた。それから長く息を吐き、睨みつけるように俺を見た。
よくない気配を感じた俺は制止をかけようと「フィアレシア様」と声をかけるつもりだったが、そうさせてはくれなかった。彼女に首の後ろに手を回され、唇に唇を押し付けられたからだ。
途端、「きゃあ」とか「まあ」などと色づいた声が空間を彩った。男の声は聞こえない。色めき立つより先にこれからどう行動するのが自分の身を守るのか逡巡しているからだろう。
そう、過去に例のない事件が起きたのだ。王子と婚約している女性がたかだか子爵家の次男坊にキスをするという、未来永劫もう二度とありえないはずの事件が。
フィアレシア様が名残惜しそうに吐息を漏らしながら口と口の接触を解いた。色っぽい息が俺の体温を上げる。ただただ彼女を見つめることしかできない俺と目が合うと、頬を赤くしてうつむき、恥じらう乙女になった。より一層食堂が彩りを見せようとしたそのときだった。
「な、なんのつもりだフィアレシア!」
アルドヘルム王子の怒号が一瞬にして白と黒の世界に変えた。歯を食いしばりながら王子を見れば、殺意にも似た禍々しいものをフィアレシア様に向けていた。駆け寄りながらつづける。
「私というものがありながらラノシェインごときに恋着しているというのか!」
先の先まで力の入った人差し指が俺に向けられる。
「ええ、そうですとも。わかりませんか?」
闇夜に冷たく光る暗殺者のナイフのような声色が場に沈黙を作った。
と、とにかくこの状況をなんとかしないと。しかし、どうすれば。王子に「私はフィアレシア様とそのような関係ではございません」と言えば公爵令嬢に恥をかかせるばかりか、公爵家の派閥の家々からなにをされるかわからない。
反対に、フィアレシア様を立てる発言をしたらどうなるか。王子の不興を買うことになる。この場合も、なにをされるかわからない。
どちらの家の権力も俺の命はもちろん、お家を潰すことだってたやすくできるほどに強大だ。どちらも敵に回してはならない。
「このっ、そもそもいまの破廉恥な真似はなんだ! 人前で接吻など貴族のふるまいではないぞ!」
「訣別の意思を見せるふるまいとしては、それなりのものだとは思いませんか?」
「なっ……、まさか婚約破棄するとでも言うのか!?」
「その通りでございます。しかし、なぜ『まさか』と言えるのか理解しかねます」
「私は王子だぞ。その第一夫人の名誉を捨てるだなんてあり得ぬ!」
「……生まれたときからわたくしたちの婚約は決まっていましたが、アルドヘルム様はミリセントにご執心ではないですか。先ほどまで彼女の作ったお菓子を二人で食べていたぐらいですからね。まさか、まさかです。まさかわたくしの誕生日にほかの女性と食堂という衆人環境で愛を確かめているとは思いませんでした。ねえ、アルドヘルム。いまのいままで一度でも彼女に向けるような愛情をわたくしに与えてくださいましたか?」
「与えていただろう。其方が応えようとしなかっただけで」
「よくもそんなウソを付けますね」
だめだ。とても階級が下の俺が口を挟める雰囲気じゃない。
しかし上の方々とは距離を置いて生きてきたが、この二人が信頼を築くのに失敗していたとは思わなかった。王子は多数の女性を従えていて、なかでもお気に入りのミリセントとよく一緒にいるが、フィアレシア様は「わたくしはアルドヘルム様の第一夫人という栄誉にあずかっておりますから」と公言していたから、てっきり話し合ったうえでのものだと考えていた。愛はなくても問題ないだけのお互いの利益。そういうものがあるのだと。
しばらく二人だけで不満を言い合った。周囲の者を棒立ちにし、人生で二度と味わいたくない修羅場を見せつけ、現在形成されている貴族社会の秩序を乱そうとしている迷惑な行為はいつまでつづくのかと思ったとき、フィアレシア様が王子から視線を外して言った。
「……わたくしなりに好きになろうと、努力していたのですけどね」
こぼしたばかりのお茶がテーブルクロスに染みを広げるように、悲しみや切なさ、怒りや諦念といったものがこの場にあらわれ、静寂という形になった。
ふいに手を取られた。
「行きましょう」
フィアレシア様に引っ張られながら食堂を後にした。
「ラノー、遠慮しなくてもいいのよ」
鼻の奥まで届く嗅いだことのない匂いのするお茶を側近に淹れさせて、体面に座るフィアレシア様が笑った。
濃い色をしているが澄んだ感じもしていて、公爵令嬢が自ら自室に招き入れた男性に勧めるものなのだから我が家で提供することがあり得ないほどの高級品だとわかる。
――ということはどうでもよくて。
「フィアレシア様、ひとつよろしいでしょうか」
「フィアでいいわ。なにかしら」
「……フィアレシア様、私はこれからどうなるのでしょう。どのように転んでも悪いようにしかならない気がするのですが」
あなたのせいで、とはさすがに言えない。
フィアレシア様は小さく首をかしげた。俺の主張を意味がわからないものだととらえているかのように。
「なりませんよ?」
「しかし、王子の不興を買ってしまったのでは……」
「そんなことですか」フィアレシア様が微笑む。それからお茶を一口飲んで味と香りを堪能したようなとろけた表情をした。「あれの天下はじきに終わりますよ」
どこからそんな自信が、というのが表情に出てしまっていたのか、令嬢がため息とともに目尻を下げた。
「ラノーはわたしを侮っているのではなくて? あれだけのことをしたのです。根回しはすべて終えていますよ」
「……では、私はとくに罰を受けないと?」
「ふふっ、疑いの眼というのも、お慕いしている方からならうれしいものですね」言ってからことさら上品に咳払いをして座り直した。「なんでもありませんよ? ラノーに不利益が来ないようにしてあります」
「そのようなことが、本当に……?」
とても信じられないという意を伝えると、フィアレシア様が側近の名前を告げた。側近が「はい」と芯の通った返事をして何枚かの紙を用意した。
フィアレシア様がそれらを受け取り、少し目を細めてさらりと文面に目を通す。通し終わると満足そうに唇の端を上げ、紙をテーブルに滑らせて俺の前に移動させた。
「これはっ……!?」
王家の家紋が印されたその紙にはアルドヘルム王子を後継者候補から外すとある。
さらにフィアレシア様の訴えが認められたとも書いてある。
「どうです、これで信じてくれるでしょう?」人前で見せたら公爵令嬢失格の烙印を押されるほどにこやかにフィアレシア様が声を弾ませた。「苦労したのですよ? あれはあれで自分に都合のいい報告書を送っているのですから。王子の側近を買収して不義理の証拠を集めたり、先生方に協力してもらって王の後継者として力不足であることを証明しなければならなかったですし、あれのほうが立場が上ですから明確な証拠が集まるまでにあれに勘付かれてしまったらわたしが罰せられますし」
「それほどまでに王子は嫌だったのですか?」
「当たり前でしょうっ!」
私的な場であっても公爵令嬢にふさわしくないと苦言を呈されても仕方ない、と彼女によって背後に倒されたイスが音を立て、側近が苦々しい笑みを作って咳払いをした。
フィアレシア様はそれらにかまわず前のめりになり、身ぶり手ぶりを交えて主張した。
「いいですか? あの男は名目上すでに手に入れている女には見向きもせずご機嫌も取らず、婚約破棄されるなどまったく考えずに別の女を人前で口説くような男なのですよ? 好きになるはずないでしょう。強力な身分をまとい下の者に女を侍らせていることを口止めしているにも関わらず自らの成績はせいぜい上の下止まり。王子という責任ある立場なのだからもっと上にいないといけないでしょう。そのことを恥じていればまだ救いはありますよ? それをあの男は「私もなかなかやるだろう?」なんて言うのです。わたしはもう恥ずかしくて恥ずかしくて考えを改めるよう何度も伝えたのですが甘やかしてくれるミリセントや取り巻きの女どもの言葉しか受け入れようとしない情けない男なのです、あれは。……まだまだありますけど聞きたいですか?」
「いえ、結構です」
「わたしとしても貴重な時間をあれの話に費やすのは避けたいですから、もうやめておきます」
結構ノッていた気がするのですが。
側近が倒れたイスを起こしてフィアレシア様が上品さを取り戻すように座る。喋り疲れもあるのかお茶を飲んで脱力した。
「まあ、わたしのような上位の者と距離を作っていたあなたがいきなり『王子は王子としてふさわしくない』と言われても信じられないかもしれません。ですが、数日後には真実だったとわかるはずですよ」
「……私を侮りすぎではありませんか?」
フィアレシア様が「どういうことでしょう?」と興味深そうに笑みを作った。
「王家の家紋付きの書類に記されているのです。間違いなく王子の地位は失墜するでしょう。この程度のことがわからなければ、その者はもう人とは呼べません」
「ふふっ」唇に丸めた拳を当ててフィアレシア様が楽しげな声を漏らした。「相変わらず非難の声が厳しいですね」
「……あのときのことは忘れていただきたいのですが」
二年前、離れた町にフィアレシア様が所用でお出かけになる際、俺は護衛の一人として選ばれた。俺のような学生だけでなく、当然大人の護衛も連れての遠出だった。一部の学生も連れられたのは危険がそれほどない道のりだったことと訓練を兼ねてのことだった。
道の途中、当時の俺でも簡単に蹴散らせる弱い魔物が三匹あらわれた。前に出て魔物を倒すグループとフィアレシア様を側でお守りする後ろのグループに護衛は別れた。俺は後ろだった。
全然危機的状況ではなかったのだが、そのとき彼女が「あの程度の魔物なら止まることもないでしょう」と不機嫌に言い放ったのを聞いて俺は怒鳴った。俺も天気の崩れのせいで思いのほか日にちが経ってしまっていたことや、慣れない任務ということもあってイライラしていたのであっという間に頭に血がのぼってしまった。なんて言ったかは覚えていない。ただ、そうとうなことを言ってしまったことは覚えている。あのときのおびえたフィアレシア様はいまでも思い出せる。
「絶対に忘れませんよ。すごく怖かったのですから。わたし、あれほど怒られたのは初めてでした。両親は甘いですしわたしの身分が高いから周囲の者はご機嫌を取りにかかるものがほとんどで、わたしのことを嫌いな人はそっと離れていくだけでしたから」
「その節は申し訳なく思っております」
「いいのですよ。あれはあきらかにわたしが悪かったです。それに、怖かったけどうれしかったのですよ? 堂々と苦言を呈してくれる人がわたしの周りには少なすぎますから。王に王子に、それとメーベルとマーシャ、ナディーンぐらいですか」フィアレシア様がちらと側近を見た。メーベル様とマーシャ様はフィアレシア様のご友人で、ナディーンはこの側近の名前だ。「……あのときから気がついたらあなたのことを目で追っていましたわ」
「……嫌われているものだと思っていました」
公爵令嬢がくすくすと笑った。「そう思われても仕方ありませんね。あれ以降、言葉を交わすのは今日が初めてなのですから」
「しかし信じられません。碌に女性に言い寄られたことのない私がフィアレシア様に慕われているなど……」
「自信を持ってください。毎日鍛錬に励み、友人と語らい、一番強い騎士になる夢を持つあなたは非常に魅力的ですよ。そう思っていなければ、人前で唇を当てたりしません」
接吻のときのことが脳裏に浮かぶ。首の後ろから自らの方へと向かわせようとする手は確かな熱を持ち、俺の顔に対して斜めになった顔が近づくにつれ閉じていく濡れた瞳。弾力のある唇を力加減を探るように押し付けられた、俺の初めての接吻。味はわからなかったが、温もりと彼女の匂いは鮮明に覚えている。俺の髪の毛が小さな手に絡みつき、情念がフィアレシア様をフィアレシア様たらしめるすべてから俺の内部に染み込んでいくような感覚は、死ぬまで忘れないだろう。
「あらラノー、耳まで真っ赤ですよ」
「フィアレシア様こそ心配になるほどですよ」
「わたしはいいのです。……だって、ずっとお慕いしていた方と結ばれる日が、ついにきたのですから」
意識のすべてが彼女に飲み込まれるかのような錯覚に陥る。時間の流れが急激に遅くなり、彼女の幸せに支配された所作や表情を見逃すまいとしているかのような不思議な感覚が湧き出てきた。胸が高まって頭が惚けそうになる。体が浮き上がりそうになってそのまま身を任せてしまいたくなった。初めて経験する猛烈な熱情に流されるがままになっていると、フィアレシア様が目を伏せて言った。
「これからよろしくお願いします」
心臓がやかましいくらい音を立て、うまく息ができているのかもわからない。ただただ彼女を見つめる。華奢な体。輝く髪。彼女の周りの空気が虹色に光っているような、そんな気さえした。
徐々に徐々にフィアレシア様が顔を上げ、水のたまった瞳で上目遣いで俺を見つめる。それを見て俺は、自然と口を動かした。
「こちらこそよろしく。……フィア」