其の一、明石屋出向
石畳の美しい道路を人々が行きかう桜の頃、駅に着いた路面電車から風呂敷をひとつ抱えたまだ年若い青年が下りてきた。顔だけ見ればどこにでも居そうなあどけなさの残る好青年、とでも言えるだろうか。道行く女学生の群れが彼を見ては少しはしゃいで通り過ぎる。しかし大抵の者は、彼を見るとそそくさと道を開けて足早に去って行ってしまう。
(もうこの季節では、冬服は少々暑いな…)
繊細な刺繍の施されたハンカチで汗を拭った彼を包むのは、漆黒のいかにも高級そうな軍服である。襟の徽章には金色の桜が光り、それは彼が帝国軍でも精鋭中の精鋭しか入れない近衛隊の一員であることを示していたからである。近衛隊といえば身分、実力共に揃った者しか入れないというのは周知の事実であり、一般市民が進んで交流を持とうとする身分ではない。むしろ、下手に関わると面倒だ、と考える者の方が多いだろう。だからという訳ではないが、やはり自然と近衛隊の者が多く生活するのは職場でもある皇居の近くで、しかし今彼が居るのは皇居とは全く離れた帝都の外れ、大通りから一本入った細い路地の古びた建物の前だった。
『旧イモノナンデモ扱ヒマス』
軒先に掲げられた大きな看板に、青年は今一度渡された地図とその場所が相違ないか確認する。間違いない、確かにここが目的地の古美術屋である。
ひとつ小さくため息をこぼすと、彼はいかにも建付けの悪い木戸に手をかけた。
――ことの始まりは三月の近衛隊での人事異動発表の日、ひとり掲示板の貼り出しにも名前がなく普段なら顔も見ないような上官から呼び出しを食らった時からである。
室内に入れば近衛隊の隊長である四十も半ばの有馬という直属の上官が「遅い」と一言放った後、渋面で一枚の紙を手渡してきた。
『御園頼一 近衛中尉
四月一日ヲ以テ右ノ者ヲ明石屋ヘノ出向ヲ命ズ
侍従長 金森幹麻呂』
「極秘…という程ではないが、内々の人事だ。お前を出すのは俺の本意ではないが、如何せん相手が悪すぎる」
「…何故、私の人事に侍従長が?」
「知らん」
近衛隊の者が隊を出されるのはよくある話で、それは主に他での経験を増して帰ってこい、といういわば出世コースの一つである。しかし、近衛隊の人事に侍従職が絡んでくるなど聞いたこともない。疑問を一蹴されつつなおも怪訝な目を上官に向けると、有馬は目だけで「これ以上聞くな」と言ってきた。
「畏れ多くも侍従長直々の命令だ。ありがたく拝命しろ」
「はい。御園頼一、明石屋への出向に応じます」
「…なるべく早く隊には戻れるよう、働きかけるつもりだ」
励んで来い、と少しだけ笑った有馬の目じりには、小さな皺が浮かんでいた。
「失礼いたします。御園頼一と申します、が…」
店主はご在宅か、と続くはずだった御園の声は、店内の異様な光景に奪われてしまった。
一言で言えば雑多。いや、雑多が過ぎるにも程があるような雑多加減である。入ってすぐの土間には大小様々な箱が高く積み上げてあり、走り書きから恐らくは掛け軸や絵画、着物に刀剣といった物だろうか。そういった箱が何十何百と、店の奥の畳の間にまでずっと続いているのである。埃っぽさはないことから定期的に手は入れているのだろうが、それにしてもおよそ古美術商の店とは思えない。御園の知っている古美術商といえば、いかにも高そうな壺などをいかにも高そうな箱に厳重に詰めて、さも素晴らしい物であるかのように見せながら売り歩いている者ばかりである(それが本当に良い品かどうかは別として)。こんな扱いで客が来るのか、と不審に思いながらももう一度声をかければ、店の奥の方からあらあらお客様だわ、大変大変、と全く急いでいない女のコロコロした声の後に、「こっちだ」と太い男の声が聞こえてきた。人ひとり通れるか通れないかの幅の箱の隙間を縫って奥に進めば、そこにいたのは和服姿の男が一人。煙管を燻らせ、書物に目を通していた彼はつと目を上げるとにやりと笑った。
「さすが近衛の軍人さん。お早いお着きだねえ、感心感心」
立ち上がった男の背は案外御園よりも低かった。御園自身が低い方ではないので恐らく男の背は標準程度と思われるが、先ほどの笑みといい座っていた佇まいといい、醸し出す雰囲気が彼を大きく見せていたようである。
只の古美術商ではない。
御園は一目で彼をそう判断した。男にしては長めの髪を無造作に後ろで一つに纏めているところや顎の無精髭に目が行きがちだが、立ち上がる所作一つとっても常人のそれではとてもない。優雅な、貴人のそれである。自然と伸びる背筋に少しだけ緊張しながら御園が名乗ると、彼の態度が変わったのを察したのか男はますます笑みを深くして手を差し出した。
「まあそう固くなりなさんな、お若いの。明石屋店主、朔良竜二だ。よろしく」
出された手はいわゆる握手、というものらしいが、御園の頭にはまだまだ馴染みのない西洋の文化である。貴人に対する気後れと未知の文化に戸惑っていると、朔良は「まだ早かったかな」と呟いてさっさと手を引っ込めた。慌てて非礼を詫びようとするも、彼自身は非礼とも何とも思っていないらしい。付いてこい、とさらに奥に進んでしまい、御園は慌てて朔良に続いた。
そうして通された六畳一間に御園が間借りする形で住み込んでから三日。御園は朔良への当初感じた貴人のそれなど、はっきり言って勘違いだったと声を大にして言いたかった。形は上官になるので呼び名こそ「あなた」や「朔良様」で保ってはいるが、それ以外の態度はすでに色々と崩れてきている。有馬隊長の渋面はこれが原因だったか、と今となっては確認のしようもない上官の態度を思い出しつつ、御園は重い気分で階段を下りた。
「あなたって人は…何をどうしたら一晩でここまで部屋が散らかるのですか?言い訳があるなら聞きたいものです」
御園の朝一番の仕事は、まずとんでもなく自堕落な生活を送る店主を叩き起こすことだった。頭と足の位置が逆になった朔良の顔に容赦なく着替えを叩き込むと、せかせかと床に散らばった本や小物を人が楽に歩ける程度に片づける(残りは何が何でも朔良自身にさせている)。
「なんかこう…口うるさい嫁さんを貰った気分だ」
「気持ち悪い例えはやめていただけますか」
朔良は朝も悪ければ夜も悪い。御園の自室の下からは毎晩誰かしらとの楽しげな話し声が止まないし、ついでに言えば女にも男にも手を出しているようで御園が店先に立った日には訪れる女からも男からもまるで仇のように睨まれたことが何度あるか。一度など年若いまだ女学生と思しき女性が御園を見た途端声にならない悲鳴を上げて失神したものだから、その場で朔良の性癖を洗いざらい告白させた。ちなみに件の女学生にはまだ手を出していない、と大威張りで返ってきた言葉に、『まだ』ですか、と嫌みたっぷりに言い返したのは記憶に新しい。思い出せば頭が痛くなる現状に我慢我慢と言い聞かせて三日を過ごしたものの、なんだこの体たらくは。そもそも自分は近衛隊の一員で、平々凡々順調に日々を送っていたというのに。
「御園―、眉間の皺。怖いぞ。せっかく黙ってさえいりゃそこそこ器量良しなのに」
「あなたに言われても全く嬉しくありません。…それで、今日も私は店番ですか」
「そうだな、俺はちょっと出てくるから」
店番、というものは御園には初めての仕事だったが、天性の才能か初めからある程度そつなくこなせていた。というのも、客は予約した物を買って行く者が殆どだったため、仕入れで届いたものをそのまま客に代金と引き換えに渡せば良かっただけであるし、市民と軽い雑談をしたり店先を清めたりといったことも御園には簡単なことである。それよりも日毎剣術や馬術の鍛錬をしないことの方がよっぽど気がかりではあったが、上官の色恋沙汰さえなければ、全く平和な日々だった。
カラン、と。
夕暮れになり店を閉めようとしたその時、彼は居た。
「…坊や?どうしたんだい、こんな日暮れに。おうちの人は?」
風貌は粗末な着物に下駄を履いた、帝都の路地にならばどこにでも居そうな少年である。しかしその目だけが異様に爛々と輝いており、きょろりとした様はまるで魚のようだった。
「竜坊はどこだ」
「たつぼう?ええと、それは…もしや、ここの店主のことかな」
「そうだ。どこに行った」
「どこって、その」
「おそでが来た」
「おそで?」
「日が暮れる、急げ」
少年は言いながら空を指さす。御園がつられて空を見て、再度少年に目を戻すと…そこにはもう、誰もいなかった。
(人じゃ、なかった?)
直感ともいえる、薄ら寒い心地。白いシャツ一つでも昼間は暑いくらいだったのに、今はぞっとした感覚で汗が引いてしまっている。
しかし、御園の中の何かが警鐘を鳴らしていた。これは、いち早く朔良へと伝えるべき案件だ。そうと決めたら動くのが早いのは御園の長所であり欠点でもある。急いで下駄から走りやすい靴へと履き替え、相変わらず建付けの悪い木戸に手をかけた時。
「帰ったぞー…って、どうした。呆けた顔なんて初めて見るが」
ふらりと帰宅してきた朔良に、御園は言いようのない安堵感を覚えた。短く先ほどの出来事を報告すると、朔良はふうむ、と腕を組んで少し思案するとすぐに動き出した。
「御園、俺は今からちょっと物を書くから、出来たらすぐに届けてくれるか」
「手紙ですか?畏まりました」
「つっても時間がないな…御園、少し驚くかもしれんが、説明は後だ」
文乃、と朔良が店の隅の紙束に向かって呼びかけると――彼女は、まるで初めからそこに居たかのように、気がつくとそこに、いた。
「はいはーい。お呼びかしら?」
「な、な、な…!」
御園は驚きで言葉にならない。文乃、と呼ばれた女性は、確かにさっきまでは誰もいなかった空間に突如現れた、いや、御園には紙束から抜け出るようにして現れたように見えたのだ。
「今から言う事を文にしてくれるか。枚数は百は欲しい」
「竜さんの頼みなら何枚でも」
「――おそでが来る。帝都にありったけの雨を降らせ給え」
朔良の言葉と共に、いつの間に用意したのか文乃はすらすらと紙に筆を走らせている。そうして手が止まったかと思えば、ふわりと紙が文乃の手を離れ、次の瞬間、それは大量の手紙の束となって彼女の手に納まっていた。
御園としては、何が何だか全く訳が分からない。
「ほれ、お前にはこれだ。頼んだぞ」
朔良に渡されたのはその中の一通で、御園はその宛名に息を呑んだ。金森幹麻呂殿。侍従長の名である。
急かされるようにして明石屋を出て、久方ぶりの皇居に入り上官の有馬に一先ず手紙を託すと、有馬はすぐに侍従長に渡すと言ってくれた。
「…雨だ」
そうして明石屋へ戻る道中、先ほどまで晴れていたのに、雨がざあざあと降り出した。「雨を降らせ給え」、そう言っていた朔良を思い出す。
(何か私の知らない力、とでも言うべきか…?)
文乃という女性といい、雨といい、これはまるで呪術だ。
明石屋に戻った御園は表にしっかりと鍵をした。出掛に朔良から「俺が先に戻っていなかったらきちんと鍵を閉めといてくれ」と妙に念入りに言われたからだ。
暗くなった外に人気はなく、しんと静まり返っている。
…静まり返っている?
御園は慌てて外を見た。いつからか――そう、あれは大通りを外れたころから――雨が不自然に止んでいた。
明石屋の近辺だけ雨が降っていない。
気づいてぞっとした御園は思わず窓から身を離した。その直後である。どんどん、と木戸が大きく叩かれた。
「すみません、近所の者ですが。回覧をお持ちしたので、開けてもらえませんか」
落ち着いた女の声だった。しかし、御園は何か薄ら寒いものを感じ取り、とっさに息を潜めた。
「すみませえん」
人を探すように声は続く。始めは極めて普通だったが、御園がいつまでも黙っているとしびれを切らしたのか、木戸をがたがたと揺らし始めた。
「すみませええん。どなたか、いらっしゃいませんかあ?」
がたがた、がたがた。しつこい程の音がいつしか止み、ほっと息を吐く御園。やれやれと木戸の鍵の確認に一歩踏み出した時だった。
「いらっしゃるじゃないですかあ」
御園の背後に、それはいた。
声は女のそれ、姿も華奢なものだが、一瞬で御園を組み敷いたその力は女のものでは到底なかった。
(しまった、裏口をまだ閉めていなかったか!)
にやにや笑う女はそう、妖怪、とでも言うべきか。強かに床に打ち付けられた体が痛むが、それ以上に馬鹿力に抑え込まれて身動きが取れない。
「お兄さん、美形だねえ。燃やし甲斐があるよう」
女が翳した手から、ゴッと炎が上がる。そのまま御園を燃やすかと思われた炎は、だがしかし寸前でばしりと何かに弾かれた。思わず瞑っていた目を御園が開けると、女と御園との間には一枚の札。それは豊富な水を湛えて、まるで盾のように御園を女から守っていた。
「ちゃんと戸締りしろって言っただろうが…ったく」
表には朔良が立っていた。伸ばされた右手は札の方を向いており、彼が札を投げたであろうことを御園は理解した。どうやら自分は、朔良の不思議な術によって助けられたらしい。
「観念しろ、おそで。この建物は特殊な術がかけてある。燃やそうたって、そいつと同じ目に遭うぞ」
「なら、あんたを燃やすだけだよう!」
「…やれやれ」
襲い掛かるおそでを、朔良は指の動き一つで制してみせた。外の小道に引きずり出すと、どこからか召喚したのか大きな水の塊を一気におそでにぶつける。この世の者とは思えない不気味な悲鳴を上げて、おそでは着物を一枚残して掻き消えた。
「終わった、な。無事か?御園」
座りこんでいた御園に手を差し出した朔良は、「悪かったな」と呟いた。
「ここにおびき寄せたは良かったんだが…お前さんにお守りを付けるのを忘れててな」
「おびき、寄せる」
「雨だよ。明石家の周りだけ、降ってなかっただろう?」
おそでは雨を嫌うから、と言った朔良は落ちていた着物を拾い上げた。それは真っ赤な女物の振袖で、金の刺繍が施された豪華なものだった。
「振袖火事、って知ってるか?御園」
「明暦の大火ですか」
「そうだ。あれを起こしたのも、おそでの一種だよ」
朔良は丁寧に振袖を畳むと御園を座敷に呼んだ。この世には人ならざる者がいる、という突拍子もない言葉から朔良の話は始まったが、先ほどの出来事を思えば信じないわけにはいかない。曰く、おそではいわゆる妖怪や物の怪といった類のものだそうだ。夕方御園におそでが来るのを報せたのは河童の小僧で、文乃は古い手紙の付喪神。明石屋は古美術屋である一方、そういった人ならざる者によって起きる問題を解決する何でも屋でもあるという。
「まあ、うちにある古美術の九割は付喪神化してるな。何、皆気の良い奴ばっかりだ。そのうちお前の前にも現れるようになるだろう」
思わず辺りをぐるりと見渡した御園。そう言われると、自分に無数の視線が突き刺さっているような気がしないでもない。
明石屋は帝都の守護に欠かせないものだ、と朔良は言った。
「手が欲しいと言ったら、お前が送られてきた。ありがたいことだ。男でそんだけの霊力のある奴はなかなかいない」
「霊力、ですか?私に?」
「普通、あれだけの至近距離でおそでに襲われたら妖力に当てられて一瞬であの世行きだ」
しれっと言われたが、どうやら自分は相当危険な目に遭っていたようだ。
「まあ、そんな理由だ。今回はおつかいご苦労。これからも職務に励んでくれたまえよ、御園?」
にっと笑った朔良は、出会った時と同じように手を出してきた。握手である。
「…職務内容は承知しました。御園頼一、職務に励みます」
御園は右手を挙げて――朔良の手は取らず――そのまま敬礼した。近衛軍で叩き込まれた、寸分の狂いもない見事な敬礼。出した右手を無視された形になった朔良はしかし御園の敬礼を見ると心底嬉しそうに破顔した。
「それでこそ近衛兵。よろしくな、御園」
――こうして、御園の明石屋での日々は始まったのである。