旅人のユカリ #1
記憶か自我か命か…。とにかく何かを失ったはずだ。そうでないと、こんな夢の中の様な世界に来てしまったことに説明がつかない…
世界は灰色だった。ぼやけた視界が、徐々に輪郭を取り戻す。一本書きのように細い足が水に浸かっていて、ちゃぷちゃぷと波打ってはかつてないほど細い、腰を濡らした。顔を上げると、友人が描いた棒人間の絵があった。
否、それは絵ではなく限りなく細い生命体だった。
生命を保っていることを疑うような体。頭の位置には丸い、風船より丸い、真円の顔があった。青い帯状の布を額に巻き付けている。
「…あなたは、誰?」
白い顔に切れ目を入れたような目と口が問い返してくる。
「あなたこそ。名前は何ですか?」
「私はっ…、…?…!」黒い両手で口を覆ったが、指があまりに細い。
私は、私が分からなかった。手のひらを見たままで言った。
「名前が、分からない。なに、これ…まるで怪物…」
「僕はアオイ・イト。アオと呼んでください。
…あと『怪物』は僕たちに対して失礼ですよ」
小さい手帳のようなものをぱたりと閉じて言った。
「…はい」
アオ、という生物は私の言葉を聞き届けると続けた。
「僕はオリジナル棒人間と言う超人種類です。
あなたが前は何だったのかは知りませんが、名前が無いのは
呼びづらいので、ユカリ、と名乗ってください。ユカリさん」
業務的に名前を決められてしまったが、憤慨する暇さえ
与えてくれなかった。
「はい」
「泉の中は冷たいですよ。早くこちらへ来てください」
怒っているのに優しい。
…この人のことが分からない。
「とりあえず、この布を羽織ってください」
「はい」
ずっと敬語なのに。すっと受け入れられる言葉たちにはトゲを感じない。心のない発言をした人にも優しさを与えられるなんて。どうして、まったく矛盾した感情を持ったままでいられるの?無言の問いに答えは返らない。
私が布を羽織ったと見るや、森を突っ切ってアオは歩き始めた。
「どうしたんです、ついて来て下さい」
「…はい」
森を歩いていると前方に小さく、家が見えた。
近づくにつれて、その家の壁の木目がはっきりしてくる。
アオはその家の扉を開けて踏み込んだ。私もそれに続く。
「アイゼ、居るか。また泉から人が来たぞ」
ゴトリと音がして、近くのすだれがスッと持ち上げれられて開いた。
白い風船頭に白い布を羽織って、頭に包帯を巻いている人だった。
棒人間は皆、風船頭なのだろうか。
「アイゼ、今度はこの人だ」アオが私を指して言った。
私は慌てて頭を下げる。顔を上げたとき、アイゼと呼ばれた人も
頭を下げていた。意外に腰が低いのかもしれない。
「ユカリと呼んでください」
「分かった」
短い受け答えだったが、ゆっくり頷きながらだった
からか、あまり悪い印象は受けなかった。
私はこの家の主人から、白い衣服と金属製の腕時計、そして白い一反木綿を貰った。
「アイゼさん、こんな高そうな物を貰ってしまっていいのですか?」
私は貰ったものを示した。
「いいや、いいんだよ。ユカリさん。君のためにつくられた物だから」
微笑したアイゼさんは私の手を丁寧だが強く押し戻した。
「布の使い方はアオに聞けばいいからね」
アオが私を呼んでいる。
「ユカリさん、説明しなければいけないことがあります。一番奥の部屋に来てください」
そういえば。私はここのことを何も知らないままでした。
綺麗なおうち。木の匂いがとても落ち着くログハウス。
白い木の棚。磨かれた彫刻たち。
すてき。
「夢みたい…」
「この椅子に掛けてください」
アオが窓際の椅子を示して言った。
「ユカリさん。大切なことを言います、よく聞いてください」
「…はい」頷いて見せた。
「キミは、もともと棒人間ではない。そうだよね?」
「はい。違います」
聞き届けると、アオは言った。
「でも、キミにはここに来る前の記憶がない」
大きな違和感が私を包む。
「…!!…ほんとうだ…」
思い出せない?友達の顔も?!……どうして!
「僕にはこんな残酷なことしか言えませんが…キミの世界にはもう…戻れないよ」
「私は、もう、人間じゃないの?」
涙で前がかすんできた。何か言ってよ、アオ。
アオに向かって手を伸ばした。
「明日、旅に出よう。方法は教える」
何言ってるのアオ。
アイゼさんも部屋に入ってきて言った。
「私は君の一生を見たよ。夢人として、たくさんの人と笑いあうのを」
頭が痛い。もうちょっと時間をちょうだい。いますぐには分からなくて…。
ああ、夢だったらよかったのに!
今生の分かれっていうなら、さよならくらい言わせてほしかった!
どうして私は生きているの。
せめて、生きていると、元気にしてると、家族やみんなに言いたかった。
人じゃなくなって、今までも、人なんかじゃなかったって知って、
悔しくないわけないじゃない!!
私は涙を拭いた。
「…全部、教えて!」
知らない場所では何が起こるかわからない。
たとえ戻れると分かったとしても、いくら時間が要るのかもわからない。
生きよう。心に浮かぶ家族の為に。顔も思い出せない友達の為に。
この感情全てが、私が私であることを証明してくれる。
戻れなくても、この時間を最善で生きられるように。
私は、皆を信じて生きるわ。
アオは淡々とした口調で説明を始めた。
泉から生まれるという人は私だけではないようで、一切感情を挟まない説明の有効性は分かる。しかし、その薄情さには違和感もある。
冷静を装っているが、アオの人のよさは隠しきれていない、そんな感じだ。
良かった。この世界で初めて会う人が悪い人ではなくて。
ちゃんと集中して話を聞けそうだ。
「まずは、大まかに歴史について話します。昔、戦争があって世界は滅んでしまった。でも、神様によって、子供たちが救われたということになっている。でも、最近は神様なんていないっていう説が強いので、特殊能力を持った子供が戦争孤児として生き残ったという話になってきているよ。その中の一人になる子供が魔導士として魔法の体系を開発した。現在では魔法は能力の一つとして考えられているけれど。そんな歴史の中で、生き残った者たちで作った国がラジリタ。ほかにも国は存在するけど、戦争はないと言い切っていい。世界すべてが一つの多民族国家みたいなものだから。つぎに、キミがしなくちゃいけない事だけど、ユカリさんの家族や友達と通じ合う手段はいくらでもある」
「えっ!あるんですか!!」
今までじっと聞いていたけど、居てもたってもいられなくなって叫んだ。
アオがかすかに微笑んで言った。
「大丈夫、ちゃんと説明する」
私は頷いて座りなおした。
「今まで泉から来た人はほとんどが記憶や感情などに異常が見られた。キミも例外じゃない。実際に、名前が思い出せていない。処置としてユカリという仮の名前を使っている。でも、感情は取り戻せる可能性も大きい。記憶を取り戻すのはそこから難易度がちょっと上がるけど、記憶を取り戻した例もある。元の体をユカリさんは失っている可能性が高いから、元の状態のキミの故郷に帰れる可能性はない。でも、さっきも言ったけど、通じ合う手段はほかにもある。元の世界に干渉する鍵も元の世界に関する記憶だ。だから、許されている程度までは家族や友達に干渉できる。でも、僕たち、つまりこちらの住民には君の故郷には干渉できない。だから、ユカリが、ユカリの力で克服するしかない。ここまではいいね?」
私はゆっくりと理解して、頷いた。
「だから、ユカリには旅に出て貰う。ひどいようだけど、現状、他人をかくまっているほど僕たちにも経済的余裕がない。それに、ユカリには自分の足で旅をして世界を見てきてもらえればと思っている。生きているのに諦めてしまうのはもったいないというのが僕たちの活動理念だからだ。それから、旅には僕も途中までついていくつもりでいる。ユカリが行きたいと思うならば、学校もある。大きな目標は欠けてしまった記憶を取り戻して、元の世界の者として『渉るもの』という者たちに認めてもらうこと。『世界の隙間』というところに住む者たちの事だよ。彼らだけが、あらゆる世界を渡ることができる。大体理解した?このくらいしか説明できないけれど…」
「…ありがとう。大丈夫」
旅か。やることはある、大丈夫。
「そうだ、ユカリさん、アイゼに布の素材をもらいませんでした?」
白い木綿のことだ。
「はい、もらいました。これってどう使うんですか?」
「ちょっと見せてね。…うん、足りそうだ。額当てとマントを作るよ。旅人のしるしだからね」
「…ふぇてる、ってなんですか?」
「僕が頭にしている額に巻くものだよ」
…覚えることはたくさんありそうだ。
シチューのいいにおいがする。
「おはようございます。ユカリ」
おはようございます、アオ。
(寝顔見られたかな。いや、棒人間に寝顔とかあるのかな。…どうでもいいか。)
アオはお盆の上にクリームシチューを乗っけて運んできた。
アオの額当ては青空のような綺麗な青に白の刺繍が施されている。
わたしのはどんな感じだろう。生地は白だったけど…。
「君の朝ごはんですよ。どうぞ」
「…おいしそう。誰が作ったの?」
この居候が一人で作ったとは思えない。いただきます。…美味しい!何というコクのある味わい。私キノコ嫌いだけどこのマッシュルームは食べられる!
「アイゼです。僕も手伝いました」
アイゼって、白い服を着た、この家の主人の事だ。昨日服を貰ったんだった。
バックの隣に私の服が置いてある。その様子を見たアオは。
「ああ!着替えるんだね。はい、僕が作った額当て」
「それじゃ、僕は部屋を出ているから、その間に着替えてね」
白い布はフェテルの材料になった。
白い地にピンクの刺繍。可愛いかも。それに、私、女の子だったね。
お気遣いいただきありがとうございます。
「いいねぇ!ユカリさん、似合ってるよ」
ありがと、アオ。
白い衣服は制服みたい。フェテルは肌触りも付け心地も良い。
付属のポケットには小物が三つ入りそう。何をしのばせよう?
私が様々な想定をして楽しんでいると。
「…楽しそうですね、気に入ってもらえてよかった」
アオはそう言って私に笑いかけるのだった。
アオは何でこんなに優しくしてくれるのだろう?
このフェテル、手が込んでいる。
今日は旅立ちの日だ。自分の無事を伝えるためにはこの世界で鍵となるものを見つけなければならないらしい。
旅にはしばらくの間アオが付いて来てくれるという。
「アオイ・イト、やっと居候から卒業だな」
アイゼさんが軽口を叩きながらアオを小突いた。
相変わらずこの二人の関係は面白いなあ。仲がとてもいいことが分かる。
私はアイゼが小ぶりの弓を持っていることに気付いた。
「これが気になる?」
わ!心を読まれたのかな。アイゼは純粋な笑顔だ。
…心を読まれたなんて、これこそ気のせいだったかも?
「これは、君にあげようと思って。こっちは洋風の箙〈エビラ〉。矢は二十五本入れておいた。矢の特徴をしっかり覚えてね。チャンスを見分けて的確に使うんだ」
アイゼは熱心に語ってくれたが、私にはちんぷんかんぷんだ。
とりあえず、頑張ろう。
お世話になったアイゼにお礼を言うと。
「言葉なんていらないよ。私には、お金で買えないものをくれないかな」
そう言われた。
アイゼの悲しそうな笑顔を見たからかな、この言葉には嫌な感情が
湧かなかった。
お金で、買えないもの…感謝の心かな。
私は改めて深くお辞儀して言う。笑って。
「行ってきます!」