第三章「幸福の誓い」END
休日、拓也は家でグラと戯れていると携帯が着信した。手に取り画面を見ると雫からメールが来ていた。
『唐突だけど一緒に遊ぼうよ』
本当に唐突だなと少し可笑しく思いながらそれに了承の返信した。
『了解、家まで迎えに行くよ』
携帯を閉じてポケットに入れるとすぐに返信が来た。
『うん、待ってるね』
文面から彼女の喜びが伝わってくる。拓也はグラと少し戯れてから支度を終えを出た。
空は少し曇っていた。雲に滲んだ陽光が微妙に街を照らす。何だか雨が降りそうだと少し天気を気にしながらも、拓也は雫の家へ向かった。家に近付くにつれ空が怪しくなってくる。彼女の家に着いた頃には空は分厚い雨雲に覆われて太陽の光はすっかり消えてしまった。まるで夜になったかのように街は暗闇に包まれた。インターホンを押してしばらくすると玄関から雫が出て来た。
「お待たせ」
あまりの暗さに雫は一瞬立ち止まって辺りを見渡した。
「真っ暗だね」
「ああ、まだ午前なのにな」
不思議な光景を雫は少し眺めていた。光を一切通さない分厚い暗い雨雲は、何だか少しだけ幻想的に感じた。雫はそっと拓也の手を取った。
「今日は来てくれてありがとう。今までお世話になったから今日はその恩返し」
少し照れ臭そうに言う彼女の恥ずかしさが拓也にも伝わって彼も顔を赤くした。彼女に連れられ、拓也は少し大きなショッピングモールに着いた。
「欲しいものがあったら何でも言ってね。私が買ってあげる」
堂々と胸を張ってそう言う彼女に拓也は手を横に振って遠慮した。
「そんなの申し訳ないよ」
「遠慮しないで、これは恩返しなんだから」
拓也は少し微笑んで彼女の頭を撫でた。
「お金じゃなくていいんだよ。東さんと一緒にいるだけで十分だから」
顔を真っ赤にして彼女は固まった。そんな彼女を可愛らしく思えて彼は笑った。
「で、でも....」
「今日は二人で楽しもう」
「うん」
そう言って拓也は彼女の手を取った。雫は少し納得していない表情を浮かべていたが、すぐに笑顔になって彼の手を強く握った。
一通り遊び終え時間も夕方になっていた。空は相変わらず暗い雲に覆われていた。その下を歩いていると、いつ大雨が降ってくるのかと緊張してしまう。そんなことを考えている拓也に雫は
「恩返しできたかな?」
と笑って尋ねてきた。拓也は笑顔で頷いた。気が付けば拓也の家の側まで来ていた。彼女と一緒にいる時間がとても名残惜しく感じる。それは雫も感じているのか、家の前で互いに手を離さず立ち尽くしていた。そんなことをしていると、遂に雨が降り出した。
「あ、雨....」
感傷に浸る間もなく土砂降りになった。それに慌てて二人は拓也の家に飛び込む。その間に二人はびしょ濡れになってしまった。濡れた髪から水滴が流れていく。
「びしょ濡れになっちゃったね」
「うん、タオル取ってくる。あと風邪ひかないうちにお風呂沸かしとくよ」
「うん、わざわざありがとね」
床を濡らすのは少し嫌だったがそんなことを気にする暇などなかった。洗面所からタオルを取り出して急いで彼女に渡す。彼女は礼を言いながら受け取りそのタオルで髪を拭き始めた。拓也は風呂場に向かい濡れた部分を拭きながらお湯を沸かした。
「このままだと風邪引いちゃうね」
後ろから声を掛けられて拓也は少し驚いた。振り返ると雫が扉から顔を出していた。
「濡れた服は洗濯機に入れといて。服は俺のやつ着ていいから。リビングのクローゼットに入ってる」
「わかった、ありがと」
そう言って雫はその場から消えていった。湯船にお湯が溜まっていく様子を呆然と眺めていた。一つ屋根の下で男女が二人っきり。その状況に気付いた途端、拓也の胸は激しく脈打った。思春期の男なのだから、当然そういうことがあるのではないかと期待してしまった。雫も同じことを考えているのだろうか。緊張感から落ち着かなくなった拓也は軽く背伸びをして深呼吸をしながら心を落ち着かせた。気がつくと湯船にはお湯が溜まっていた。拓也は風呂場を出て雫を呼んだ。
「お風呂湧いたよ」
リビングから出てきた雫は拓也の服を着ていた。彼女には少し大きいサイズの服の隙間から見える素肌が何だかとてもいやらしく見えてきて、そんな目で見ている自分が嫌になり、拓也は咄嗟に目を逸らした。
「ありがと、お風呂借りるね」
「うん、ゆっくりしてって」
そう言うと雫は笑顔で頷いて洗面所の扉を閉めた。拓也はリビングに戻り溜め息を吐き冷蔵庫から飲み物を取り出してそれをぐいっと飲み込んだ。窓の景色は土砂降りの雨で霞んで全く見えなかった。
『にゃー』
鳴き声が聞こえたと同時に足に何かが擦り寄ってきた。足元を見るとグラが拓也の足に頬擦りしていた。拓也はグラを持ち上げてソファに座って膝の上に乗せた。
「相変わらず可愛いなあ、お前は」
『にゃー』
「何が言ってるか全然わからないけど、取り敢えずありがと。お前は俺の癒しだよ」
そう言ってグラの顎を掻くと気持ち良さそうに鳴いた。グラと戯れてしばらく経つと雫が風呂から上がってきた。それに気付いたグラはすぐさま拓也の膝から颯爽と飛び降りて彼女の元へ走っていった。
「お風呂上がったよ」
そう言いながら足元に駆け寄ってきたグラを雫は持ち上げた。服の間から見える火照った体から拓也はすぐさま目を逸らした。
「下着とか勝手に借りちゃったけど....大丈夫かな?」
「うん、気にしないから大丈夫だよ」
「そっか」
拓也は雫のことを見ないように立ち上がって少し慌てた口調で
「じゃあ俺入ってくるよ」
と言って風呂場へ向かった。洗面所の扉を閉めて服を脱ぐ。微かに香る雫の甘い香りに頭が朦朧とする。理性を保つ為に風呂場に入った途端冷たい水を全身に浴びた。身震いしながらも、不純な感情を取り除くまで拓也はその冷たい水を浴び続けた。でも、その感情いつまで経っても消えなかった。
体が温まった所で拓也は風呂から上がった。激しい鼓動はいつまで経っても収まらない。そんな状態のまま、拓也は服を来て洗面所を出た。雫はソファに座って眠りにつくグラを優しく撫でていた。拓也に気付いた雫は窓の外を眺めながら
「雨、全然止まないね」
と呟いた。拓也は彼女の隣に座ってグラを撫でた。
「そうだな」
「今日、泊まってもいい?」
その言葉に拓也は全く驚かなかった。むしろ何処かでそれを期待していたような気がした。
「うん、こんな大雨の中で帰らせる訳にもいかないからね」
そう言うと雫は安心したような笑みを浮かべた。そしてそのすぐ後に顔を赤くした。気不味い雰囲気の中で沈黙が生まれる。それが気不味さを更に際立たせた。
「そういえば、晩御飯まだだったよね。私作るよ」
「あぁ、そうだったね。頼むよ」
何処かぎこちなく感じるやり取りが少し可笑しく感じたが、緊張のせいで全く笑えなかった。キッチンで雫の料理をする音が響いてくる。その間に緊張を解こうと眠るグラを撫でるが、そんなことをしても無駄な程に緊張していた。溜め息を吐いて気を紛らわせ別のことを考えようとしても、すぐに今のこの状況のことを考えてしまう。彼女は風俗で働いていた。もしそれにトラウマを抱えているとしたら、例え恋人である拓也とでもそういうことに拒絶するのではないか。そう思い、彼は必死に自分の心を抑え堪えた。
「出来たよー」
その声と共にキッチンから料理を持って雫が戻ってきた。拓也は礼を言いながらテーブルの上を片付け、雫はその上に料理を置いた。
「今日は唐揚げにしたよ。結構自信作なんだけど....」
拓也は箸で唐揚げを摘んで囓った。濃厚な旨味が口一杯に広がった。
「うん、美味しい」
「そっか、よかったぁ」
そう言って雫は安堵の笑みを浮かべた。その笑顔に拓也も微笑む。
「ねえ鷹ヶ峰くん」
「ん?」
「私たち、付き合ってるのに一度も名前で呼んでないよね」
「そういえばそうだったね」
何故か二人とも黙り込んで顔を赤くした。これは名前で呼び合う流れ、ということをわかっていたからだ。
「じゃ、じゃあ名前で呼ぶ?」
拓也は少し苦笑いを浮かべながらそう言うと雫は赤い顔のまま頷いた。
「どっちから....?」
「鷹ヶ峰くんから....」
沈黙が二人を包み込む。初々しい感じが何とも言い難い恥ずかしさを生んだ。彼女の名前をなかなか口に出せない。恋人なのだから、名前で呼び合うなんて当たり前のことなのに、初めての二人にはとても難しいことだった。長い沈黙の末、拓也はやっと彼女の名前を口にした。
「雫....」
名前を呼んだ瞬間、凄まじい恥ずかしさが心に広がって拓也は顔を真っ赤にした。雫も同様に顔を真っ赤にした。
「じゃあ、次は私の番だね....」
拓也は深く息を飲んだ。彼女も彼と同じように名前をなかなか呼べなかった。おどおどする彼女の姿がとても可愛らしく思えてそんな彼女を見ていると自然と緊張が解れた。拓也はふと笑みを浮かべた。
「た、拓也....くん」
真っ赤になった顔を見せたくないと雫は顔を俯かせた。拓也はそっと彼女の頭に手を乗せて
「緊張するよな。俺もまだまだ慣れないからこれから徐々に慣れていこうか」
と言った。彼女の緊張を解そうと思って言ったのだが、あまり効果はなかった。彼女は俯いたまま頷いた。
「早く食べよっか」
「うん....」
耳まで赤くして恥ずかしがる彼女を微笑ましく見つめながら拓也は彼女が作ってくれた料理を堪能しながら食べ終えた。
「ご馳走様、美味しかったよ」
「うん、また食べたくなったらいつでも言ってね」
「うん、ありがとう」
拓也は立ち上がり食器をまとめて持ち上げた。
「片付けよっか」
雫は頷いて自分の分の食器を持ち上げ、キッチンの洗面台で一緒に洗った。静かな家に、食器に弾ける水の音が響く。食器を全て洗い終えると拓也はソファに座った。雫もその隣に座る。夜に家で二人きり、改めてその状況を気不味く感じた。雫はそっと拓也の手を握った。
「ねえ、拓也くん....」
不慣れな名前呼びに少し驚いた。
「な、なに」
「その、今まで私に優しくしてくれてありがとう。こんな私を良くしてくれて、本当に嬉しかった」
そう言うと彼女は拓也の頰に手を添えて見つめ合った。
「だからね、大好きだよ」
彼女の幸せに満ちた笑顔に拓也は思わず見惚れてしまった。雫はそっと顔を近付けて拓也にキスをした。
「大好き....」
「俺も....雫が好きだ」
「うん、好き」
二人は何度も唇を重ねた。さっきまで思い悩んでいたことが馬鹿馬鹿しくなり、拓也はそのまま彼女を押し倒した。そっと唇を離すと彼女は優しく微笑んだ。
「あの....今更だけど、こういうの大丈夫?」
そう問いかけると雫は可笑しそうに笑った。
「本当に今更だね」
彼女は拓也の手をそっと握り重ねた。
「ちょっと怖いけど、拓也くんとなら大丈夫だよ」
雫はそっと笑った。そんな笑顔を浮かべる彼女を見て拓也も微笑んでそっと雫に唇を重ねた。
「電気、消して」
拓也は頷いて部屋の明かりを消した。部屋に街灯の光が窓から微かに射し込んでくる。薄暗い部屋で二人は、甘く溶けたように体を交わした。
目を覚ますと見慣れない天井が目に映った。身体を起こして冴えない目を擦って眠気を覚ます。ベットから立ち上がるとすぐ側で拓也が眠っていた。
「あ、昨日は拓也くんの家に泊まったんだった」
そう呟いて欠伸をし、朝御飯を作ろうとキッチンに向かった。ふと窓の景色を見ると、昨日の大雨が嘘だったかのように空には綺麗な晴天が広がり、眩しい太陽の陽射しが部屋に射し込んでいた。冷蔵庫から卵を取り出して目玉焼きを作る。卵が焼ける音が部屋に響き、その音と濃厚な香りに拓也は目を覚ました。
「ん....雫?」
「起きちゃった?」
「うん....朝御飯作ってるの?」
「そうだよ」
そう答えると拓也は立ち上がって雫の隣まで来た。
「目玉焼きか、これに食パンも欲しいな」
「そっか、じゃあパンも焼くよ」
そう言うと拓也は雫の肩をそっと叩いて
「俺がやるよ。雫は目玉焼き作ってて」
と優しく言った。雫は少し照れながらも頷いて目玉焼きを作るのに専念した。拓也の接し方に少し違和感を感じる。昨日の夜の出来事で何か変わったのだろうか。目玉焼きを作り終えると同時にパンも焼きあがった。皿の上にパンを乗せると彼はそっとそれを彼女に渡した。雫は焼きあがった目玉焼きをパンの上に乗せた。
「なんか、夫婦みたいだな。俺たち」
何気ない感じで言う彼の言葉に、彼女は酷く驚き顔を赤くした。彼も同じように顔を赤くして恥ずかしがっているかと思ったがそんな素振りは一切見せず、ただ雫を純粋に幸せそうな顔で見つめていた。
「高校卒業したら、大学行って、それから就職して、二人暮らしして、今よりも幸せな日々を過ごすんだろうなぁ」
窓の外を眺めながら拓也はそう呟いた。そして雫を見つめ彼女の手をそっと握った。
「俺さ、絶対雫を幸せにするよ。だから....」
その瞬間、初めて彼は顔を赤らめ照れ臭そうな笑顔でこう言った。
「大人になったら結婚しよう」
その言葉に彼女は驚いた。そして不意に涙が溢れた。その涙は、告白されたあの日のように綺麗な喜びの涙だった。雫は彼の手を握り返し、満面の笑みで答えた。
「うん!」
二人は誓った。二人で一緒に幸せになろうと。消えないように、互いにその誓いを胸に深く刻み込んだ。窓から射し込む太陽の光が、二人を讃えるかのようにより一層明るく部屋を照らし出した。
『にゃー』
グラが二人の間に割って入った。自分のことも忘れないでと言っているように思えた二人は一緒に笑いグラを優しく撫でた。
一匹の猫が繋げた恋、少年少女達の物語は終わりを告げる。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
半年かけて無事に完結です。
似たような展開があったと思いますがこれからも頑張るので応援してくれると有り難いです。
また新作を書こうと思っているので、そのときまで少しの間お別れです。
感想や指摘など頂くと嬉しいです。
続きを楽しみにしてくれると更に嬉しいです。
これらに登場する人物、地域、団体は全てフィクションです。




