第三章「元通り」
昼休み、いつもの屋上で拓也と雫はぼんやりと過ごしていた。雫は膝の上で戯れるグラを愛おしそうに見ていた。
「東さん....」
「なに?」
「お金とか大丈夫なのか?」
ふと気になったことを質問すると雫は少し曇った表情を浮かべたが、すぐに笑顔になった。
「バイトしないとね」
不安の感情を表に出さず彼女はそう言った。風俗以外の仕事で今までと同じように暮らせるのだろうか。その問題を、拓也も彼女の事情から察した。
「俺もバイトする。給料とかも全部東さんに渡すよ」
唐突なその言葉に、流石に彼女は遠慮をした。
「そんなの、申し訳ないよ」
「でも、そうしないと東さんがまた独りで頑張っちゃうじゃないか....」
拓也はそっと雫の手を握った。
「今は俺がいる。だから俺をいっぱい頼ってくれ」
雫は嬉しそうに拓也に微笑んだ。そしてぎゅっと拓也を抱き締めた。
「ありがとう、大好き」
その言葉に拓也は顔を赤くしたが、彼女に頼られていることが嬉しくなりその恥じらいもすぐに消えた。とは言ったものの、働く当てが全くないので暗中模索の状態だった。何も分からないまま時間は過ぎて昼休みは終わってしまった。
終礼を終えグラを抱えて雫の元へ行こうとしたら、偶然にも紗江と鉢合わせた。
「元気そうだね」
「はい」
「やっほーグラちゃん」
紗江は少し無邪気にグラの頭を撫でた。
「あの、先生」
「なに?」
「俺、バイトしたいんですけど良いとこ紹介してくれませんか」
「えぇ!?」
彼女は驚いたのか心配の表情を浮かべて拓也をじっと見つめた。
「今のままじゃ厳しいの!?わざわざ拓也がバイトしなくても私が出すよ!?」
その焦りように拓也は思わず吹き出してしまった。
「な、何がおかしいの?」
「いや、そこまで心配しなくても良いじゃないですか。あと、そういうわけではないです」
首を傾げ状況を全く察せない彼女が何だか面白くなって拓也はまた吹き出してしまった。紗江は恥ずかしそうにそっぽを向いた。
「それで....何でバイトなんてしようと思ったの?」
拓也は彼女に事情を説明した。話を終えると紗江は少し驚いた顔をしていた。
「東さんと付き合うことになったのね。それで生活が苦しい彼女の為に自分も働こうと」
それに拓也は頷いた。
「そっか、そういうことだったんだね。丁度良かったね、拓也。知り合いにバイトを募集してる人が居るの。今度紹介するね」
「ありがとうございます!」
深々と頭を下げて紗江に礼を言った。
「そんな頭下げなくても、当然でしょ」
紗江は拓也に手を振り、最後にグラの頭を撫でると長い廊下へ消えていった。拓也は嬉しそうに笑顔を浮かべ雫の元へ向かった。
「遅かったね」
教室に入ると雫はそう言った。
「うん、先生と相談してて」
「相談って?」
「俺と東さんの今後のこと」
そう言うと雫は少し驚いた顔をしたがすぐに微笑んだ。
「そっか、ありがとね」
「それで、バイトする所を紹介してもらうことになったんだ」
「本当に?」
「うん、本当」
雫は嬉しそうに笑って拓也の手を握った。
「本当にありがとう」
「どう致しまして」
そう言うと雫は拓也の頰にそっと口付けをした。それに拓也は驚き顔を真っ赤にして雫を凝視した。彼女も拓也と同じくらいに顔を赤くしていた。
「大好き....」
彼と出会って本当に良かった。その気持ちがただ心を覆い尽くしていた。彼の優しさに雫は心を癒され救われていた。
「二人で一緒に頑張っていこうぜ」
胸を叩いて誇らしげにそう言う彼はとても逞しく感じた。そんな彼に雫は微笑み、そして幸せを感じた。
数日後、紗江は拓也と雫の二人をバイトを募集している知り合いの元へ連れて行った。学校からは五つも駅が離れているが通えない程の距離ではなかった。二人は緊張しながらも少し楽しみになっていた。
「着いたよ」
そう言って紗江は最寄駅から数十メートルしか離れていないカフェを指差した。颯爽と中に入る紗江に続き二人も中に入った。内装はシンプルでありきたりな雰囲気だった。壁に取り付けられたスピーカーから心地の良いジャズが流れている。中を眺めているとカウンターの奥から一人の女性が出てきた。
「いらっしゃいませ....て紗江じゃないの」
「久しぶりだね」
会話から察するに彼女が紗江の知り合いなのだろう。
「この二人が紗江が言ってたバイトしたいって子?」
そう言ってその女性は拓也と雫を交互に見た。二人は取り敢えず会釈をした。紗江はその質問に頷いた。
「そう、良い子達だよ」
「そっか、じゃあさっそく働いてもらおうかな」
女性は二人を手招きし奥の部屋まで連れて行った。
「取り敢えず自己紹介だね。私はこのカフェの店長、中原麻由美です」
彼女に続いて二人も自己紹介をした。その後は基礎的なことを教わり、雫は接客、拓也はコーヒー作りを任された。雫の方は経験があってか接客をそつなくこなしていたが、拓也の方は全くの未経験なのでなかなか上手く出来ずにいた。あまり良い成果を残せないままバイトは終わってしまった。
「二人ともお疲れ様。鷹ヶ峰くん、次はもっと上手く出来るようになろうね」
「はい....」
店を出て拓也は溜め息を吐く。落ち込む拓也に雫はそっと手を握った。
「大丈夫、鷹ヶ峰くんなら絶対に上手く出来るよ」
その慰めの言葉を拓也は素直に有り難く感じた。
「うん、頑張るよ。ありがとう....」
そう言って雫に微笑む。その笑顔を見て彼女も安心して笑った。
家に帰ると剛が優しく出迎えてくれた。
「おかえり、お姉ちゃん」
「ただいま」
「遊んできたの?」
「ううん、バイト」
「そっか、頑張ってね」
「うん、ありがとう」
そう言って雫は剛の頭を優しく撫でた。剛という守るべき存在が居たから今まで頑張ってこれた。犠牲にしたものはとても隠し切れるものではないけど、それでも彼女はこれから先も頑張っていく。今度は、拓也という心の支えがいる。その現実が、彼女にとって幸福だった。
「お母さんは?」
剛にそう問いかけるとさっきまで浮かべていた笑顔を消して廊下の奥の部屋を指差した。
「相変わらずだよ....」
「そっか....」
雫は扉の前に立ち深呼吸をした。扉をゆっくりとノックする。
「お母さん?入るよ」
そう言ってドアノブに手を掛けた。扉は素直に開いた。暗い部屋で母は俯いていた。雫は部屋の電気を点けて母の隣に寄り添った。
「お母さん....いつでも戻ってきていいからね。それまで、私頑張るから。それに恋人が出来て今すごく幸せなの。今度家に連れて来るね」
そう言っても母は黙ったままだった。雫は悲しい表情を浮かべて立ち上がった。部屋を出ようと扉に手を掛けると
「ごめんね、雫」
と言った。雫は振り返り母を見つめた。彼女は悲しい顔でじっと雫を見つめていた。
「今までごめんなさい....こんな母親で、雫に沢山迷惑かけちゃって」
「大丈夫だよ。お母さんの気持ちが落ち着くまで待ってるから今はゆっくり休んで」
「優しいね、雫は。彼氏さんも雫のその優しさに救われてるんだろうね....」
その言葉を聞いて、亡き母のことを話す涙を流す拓也の事を思い出した。あの時の雫がかけた言葉で彼は救われたのだろうか。そう思いながら雫は
「大袈裟だなぁ。それじゃ私ご飯作って来るね」
と苦笑いを浮かべながら部屋を出た。するとそのすぐ横で剛が座っていた。
「剛?どうしたの?」
そう問いかけると剛はそっと立ち上がった。
「これから、戻っていくんだね」
そう言った彼の表情が安らかな笑顔だった。その笑顔に吊られて雫も微笑む。
「そうだね、みんなで頑張っていこ」
休日、特に予定もないので雫は家でのんびりとくつろいでいた。母は相変わらず部屋で引きこもっている。剛は友達と何処かへ出かけて行ってしまった。テレビに流れる映像を呆然と眺め時間を潰していると、突然インターホンが鳴った。雫はソファから立ち上がり玄関の扉を開けると見ず知らずの男がいた。
「....どちらさまですか」
恐る恐るそう尋ねると男は素直にそれに答えた。
「加藤蓮、君のお母さんの友達だよ」
その言葉を雫は信じられず警戒心を抱き続けた。そんな彼女を見て蓮は笑って
「と言っても信じる訳ないよな」
と言って携帯を取り出して雫に写真を見せた。そこには高校生の頃の蓮と母が写っていた。
「これで信じてくれるかな」
写真をしっかりと見た後に雫は頷いた。蓮は携帯をポケットに入れて
「中に入っても?」
と雫に尋ねた。彼女は困惑しながらも頷いて蓮を家に入れた。家に入ると蓮はじっと部屋を見渡し、そして笑みを浮かべた。その笑みはどこか寂しさを感じさせた。
「君のお母さんは何処に?」
「奥の部屋に居ます....」
廊下の奥の部屋を指差すと蓮は礼を言ってその部屋へ向かった。扉をノックし
「響子、俺だ。入るぞ」
と母の名前を呼んで部屋の中へ入っていった。二人が中で何を話しているのかは雫には皆目見当がつかない。しかし、盗み聞きするのも何だか許せないので雫は大人しくリビングで待っていた。微かに聞こえてくる話し声、聞き取ることはできない。しばらくすると蓮と母が部屋から出てきた。
「ありがとう、蓮くん」
「あんまり落ち込むなよ」
「うん、頑張るよ」
蓮は響子の笑顔を見て安堵したかのように笑って玄関の扉に手をかけた。
「それじゃ、俺は帰るよ」
「うん、じゃあね」
手を振って響子は彼を見送った。蓮の姿が消え扉が閉まると彼女は静かにキッチンへ向かった。
「何話してたの?」
「昔の話」
そう答えた響子は何だかとても嬉しそうだった。
「今まで頑張ってくれてありがとう、私はもう大丈夫だから」
彼女は雫の頭を優しく撫でた。雫はその優しい暖かみに涙を流した。今までいろいろ犠牲にして来たその報いが、やっと彼女に訪れた。
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