第三章「過去」
テーブルに突っ伏し涙を流す母。雫はそれをただじっと見つめた。その視線に気付いたのか、母はそっと顔を上げ涙を拭い無理に笑顔を作った。
「どうしたの、雫」
「お母さんが心配で....」
「そっか、ありがとね。でもお母さんは大丈夫よ」
嘘の笑みを浮かべる母に雫はそっと側に寄り添った。
「あんまり無理しないでね」
今にも泣きそうなくらいに悲しい表情を浮かべる彼女に母は涙を流し
「....ごめんなさい、ごめんなさい」
とただひたすらに謝り続けた。謝る意味などないのに。その謝罪は一体誰に向けてのものか、雫には分からなかった。
「もう遅いから寝なさい....」
「うん....」
母の言う通りに彼女は自分のベットに向かった。そこにはまだ小学生の剛が眠っていた。彼の隣に寝転び天井をじっと見つめる。いつか幸せな人生を送りたい。そう願い静かに目を閉じた。まだ、リビングから母の啜り泣く声が聞こえてくる。雫が眠りにつくまで、その声は止まなかった。
家に帰るといつもは居るはずの母がいなかった。何処にいるのだろうと探していると自分の部屋に鍵を閉めて引きこもっていた。
「お母さん、どうしたの?」
大きな声でそう問いかける。
「独りにして....」
その声は枯れ果てた涙声だった。何処にも打ち明けようのない母の苦しみを雫は理解したかったが、それは到底叶わないことだった。苦しむ母に何もしてやれない。その現実が彼女にとってとても悔しかった。その日から母は部屋から出なくなった。キッチンで母の分の晩御飯を作っていると携帯に電話がかかってきた。親友の小鳥遊凛からだった。暗い気持ちを無理矢理取り繕い、明るい声で電話に出た。
「もしもし」
『雫、用があるので近くのファミレスに来てください』
「一緒にご飯?」
『そうです』
「わかった。でもちょっと待ってね。お母さんのご飯作ってるからその後でね」
『分かりました。ファミレスでずっと待っています』
「うん、じゃあまた後でね」
そう言って電話を切った。この苦しみを彼女に打ち明けたい。でも、本当にそんな事をしていいのだろうか。たとえ親友であっても、それは迷惑だろう。母の晩御飯の料理を済ませ支度をする。心配させたくない。この暗い表情を消すために、雫は冷たい水で自分の顔を洗った。
ファミレスに着くと、凛はすぐ近くのテーブル席で待っていた。可愛いぬいぐるみで遊んで楽しそうにしていた。
「ごめんね待たせちゃって」
雫が来たことに気付くと、凛は無表情になり抱えていたぬいぐるみを隣に置いた。
「別に大丈夫です。雫を待つのは楽しいので」
彼女は少し変わり者で、ポーカーフェイスなのだ。しかし、可愛いものには目がなく、ついその無表情が解れてしまう。
「それで用って何?」
椅子に座りながら雫は彼女にそう訊いた。
「雫と一緒にご飯を食べたいのです」
「そっか、じゃあ食べよっか」
そう言って雫は店員を呼んで飲み物と食べ物を注文した。
「雫、学校は楽しいですか?」
唐突にそう問いかけられ、それにすぐに答えることが出来なかった。慌てて笑顔を作って
「うん、楽しいよ」
と言ったがその一瞬の間で彼女は察したようで、相変わらずの無表情だったが瞳は心配の感情を浮かべていた。
「悩みがあるのなら聞きますよ」
雫はすぐに否定しようとしたが、するだけ無駄だと思い素直に凛に話した。
「お母さんがね、引きこもっちゃって....これからどうすればいいのかなって思ってるんだよね....」
凛はすぐに雫の手を掴んで
「私の家に居候してもいいですよ?」
と言った。その時だけは、彼女の無表情は崩れていた。雫は彼女がポーカーフェイスじゃなくなるくらい心配してくれているのだと思い、嬉しい気持ちに包まれる反面、辛い気持ちも強くなった。
「そう言ってくれて嬉しい。でも、剛もお母さんも独りにはできないよ」
凛は悲しい表情を浮かべてそっと雫の手を離した。
「そうですか....」
彼女は隣に置いたぬいぐるみをぎゅっと抱き締めた。
「雫がすごく心配です....」
今にも泣きそうなくらいに凛の瞳は潤んでいた。そんな彼女の隣に雫は座って彼女に抱きついた。
「ありがとう、こんな私を心配してくれて。やっぱり凛は私の一番の親友だよ」
凛はそっと涙を流して雫を抱き締め返した。
「困ったらすぐに私を頼ってください」
「うん、そうする」
慰めるように雫は凛の頭を撫でた。そして反対側の椅子に戻る。丁度そのタイミングで注文した飲み物と料理が届いた。凛は雫の気持ちを少しでも楽にさせようと明るい話を沢山した。その優しさに雫は素直に感謝し料理を食べ終えた。凛は雫の分までお金を払った。流石にそこまでしてもらえるとは思っていなかったが、そうさせないと凛の気が済まないので素直にそれに甘えた。
「ありがとう、少し気持ちが楽になったよ」
「それなら良かったです。私は雫の親友なんですからいつでも頼ってください」
「うん、ありがとね」
去り際に見せた笑顔は作ったものではない。純粋に心の底から出た笑顔だ。それを見て凛は安心したかのように笑って雫と別れた。家に戻ると剛が既に帰ってきていた。
「お帰り、お姉ちゃん」
「剛、帰ってたんだ」
「うん、お姉ちゃんこそ何処行ってたの?」
「友達とファミレスで晩御飯食べてたの」
「そっか」
何気ない会話を交わし母の部屋の前に行った。トレイに乗せていたご飯が無くなっていた。それを見て雫は少しだけ安心した。
母が引きこもって数ヶ月経ったが、案の定生活は安定しなかった。剛にはそれを悟られないように振舞っているがそろそろ限界だった。バイトをしようと雫はネットでいいところがないか調べていたが、どれもこれも給料が足りないところだった。半分諦めながらもネットで調べていると、遂に到達してはいけないところを到達してしまった。風俗だ。最初はそこで働こうだなんてちっとも思っていなかったが、調べれば調べる程、その意思が強くなっていく。理性では駄目だと分かっていても、それをしなければいけない程に彼女は追い込まれていた。長時間思い悩んだ結果、雫はその風俗店に電話を掛けた。怖い男のような重たい声の人が出るのかと思えば、何処にでも居るような平凡な声の人が出た。その声でほんの少しだけ緊張が解れた。
「あ、あの....面接を受けたいのですけど」
「面接ですか?ではお名前と電話番号を」
そう言われて雫は電話相手に名前と電話番号を教えた。
「それでは明日、夕美ヶ丘駅前で待っていてください。担当の方が迎えに行くので」
「あ、はい、わかりました」
返事をすると向こうから電話を切ってきた。無事に面接を予約出来たが採用されるかどうか、それだけがとにかく不安だった。自分はどうなってもいい。家族が幸せになるのなら、この体が壊れてしまっても構わない。雫はそう覚悟を決めた。翌日、雫は指示通りに夕美ヶ丘駅前で待っていた。人通りが多い場所で、自分のことをちゃんと見つけられるか要らぬ心配をしていた。しばらく待っていると、突然誰かに声を掛けられた。
「東雫さんですか?」
声の主はおそらくその風俗店の者だろう。素朴な黒いスーツを着ていて、一見ただのサラリーマンだった。
「は、はい、そうです」
「車を用意してあるのでそちらへ」
男に誘導されて黒いワゴンに乗る。運転席に男が乗ると車は発進した。一体何処に連れて行かれるのだろうかと少し不安を抱きながら車に揺られていた。しばらくすると車はどこかの駐車場に停まった。車から降りるとそこには大きな建物が。きっとここがそうなのだろう。男に案内され建物の中へ入って行く。中は意外にも綺麗な場所だった。想像していたものと違う風景に呆気にとられる雫は、いつの間にか面接室に着いていた。扉をノックし
「失礼します」
と大きな声で言うと向こう側から
「どうぞー」
と少し陽気な声が返ってきた。扉を開けるとそこには綺麗な女性がいた。
「貴方が東雫さん?」
「はい、そうです」
「じゃあとりあえず座ろっか」
そう言って女性は椅子に手を差し伸べた。雫はそれに座って姿勢正しくする。それを見た女性は可笑しそうに笑った。
「そんなに固くならなくて大丈夫よ」
「あ、はい」
そう言われても、この緊張を解くことは出来なかった。一体どんなことを聞かれるのかと少し覚悟を決めていたが、案外何も聞いてこなかった。テーブルの上にすっと一枚の紙を置いた。
「ここに名前とか生年月日、あと住所。書けることだけでいいから書いちゃって」
「はい」
雫はペンを手に取り名前と生年月日を書いた。住所は流石に書けなかった。一通り書き終えて紙を返すと女性は驚いた表情をした。
「雫ちゃん未成年なの?」
「は、はい....」
「へー、そうは思えないくらいに凛々しくて綺麗に見えるよー」
「そうですか....?」
追い返されるかと思っていたが、意外にもこの女性は優しかった。
「あ、でも未成年が風俗で働くのは法律違反だから他言はしないようにね。こっちでも都合とか合わせるから」
女性の親切さに雫は感謝した。きっとこの人じゃなかったら追い返されていただろう。
「採用ということですか....?」
「うん、そうだよ。今後ともよろしくね」
「よろしくお願いします....!」
安堵から雫は無意識に笑みを浮かべた。それを見た女性はまた笑った。
「やっぱり雫ちゃん、笑うと綺麗だよ」
その言葉に雫は照れ臭そうに笑った。
「最初は嫌なこととかあるかもしれないけど徐々に慣れていったら大丈夫だよ。私たちもサポートするから」
「ありがとうございます」
礼を言って会釈をし、雫は面接室を後にした。部屋を出ると車で送ってくれた男が側にあったソファに座って待っていた。雫を見ると立ち上がり近付いてくる。
「無事に採用になりました。今後ともよろしくお願いします」
そう挨拶をすると男も会釈をした。
「おめでとうございます。こちらこそよろしくお願いします」
そう言って男は懐から名刺のような小さな紙を差し出した。
「何かあったらこちらに連絡を」
そこには電話番号が書いてあった。雫はそれを受け取り男に礼を言って建物を出て行った。無事に採用された雫にとって、これから起こる辛い出来事を知る由もなかった。
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