第三章「傷の舐め合い」
拓也が小学生の頃、彼の母は病気で倒れた。少し広い病室で、心拍計の音が忌々しく響いていた。不安そうな表情で、幼い拓也は母の元を父と共に訪ねた。
「おかーさん....」
「拓也、学校どうだった?」
優しい笑顔で問いかける母に拓也は曇った表情で首を横に振った。そんな彼を見て、母は悲しそうに笑う。
「拓也、こっちおいで」
そう言って手招きをする母に、拓也は素直に彼女の元へ寄った。すると彼女は拓也の頭をそっと撫でた。
「お母さんがいつかお家に帰れるときまで拓也の楽しい話が聞きたいな」
寂しくそう言う母に拓也は首を縦に振った。
「うん!おかーさんがかえってくるまで、たのしいこといっぱいおはなしする!」
「ありがとう、拓也」
それから、拓也は毎日見舞いに行き、母の辛い思いを慰めるように楽しい話を彼女に沢山した。時は流れ、母は会う度に成長していく拓也に安堵し、同時に拓也は顔色が悪くなっていく母に不安を覚えていた。いつしか父は母と顔を合わせなくなった。中学生になった拓也は、ある日母にこう問いかけた。
「お母さんの病気っていつ治るの?」
少しの沈黙の後、母は笑って彼にこう言った。
「もうすぐだよ。大丈夫だから」
彼女の浮かべる笑顔が嘘だと、成長した拓也は分かっていた。だが、あえてそれを口に出さずに彼も嘘の笑顔を浮かべて
「良かった....」
と言った。互いにその嘘を見抜いていながらも、互いに嘘を吐き続けた。それでも彼は毎日母の見舞いに行った。どんどん白くなっていく母の顔を見て、彼女の病気が悪化していることを拓也は察していた。そして中学の卒業式、拓也の母は遂に息を引き取った。母の遺体の前で拓也は独り泣き叫んでいた。そこに父の姿はなかった。医師から話を聞いたところ、数年前から母の病気は治らないことが確定していた。そして今日が峠だということも。それを知った父は、二人を置いて出て行ったのだ。だから、今この場に彼の父はいない。動かなくなった母に縋り付く拓也の号哭は、病室に大きく響き渡った。
全てを話し終えた拓也の目にはもう涙は流れていなかった。雫は俯く拓也をただ悲しそうに見つめていた。
「お父さんとは、どうなったの?」
「今年、何の前触れもなく帰ってきたけどすっかり気を病んじゃっててさ。今は元気に実家で就職先を探してるよ」
「そうなんだ....」
雫はふと窓の外を眺めた。日はすっかり落ち、外の景色は暗闇で何も見えなかった。枯れ果てた拓也に雫は何かしてやりたいと思ったが躊躇した。そんなことをする資格があるように思えなかった。深入りしたら駄目。それを掟としていた彼女も、辛い過去を明かした拓也の前ではそれを守っていられなかった。でも、彼と同じように全てを打ち明けたら、拒絶せずに受け入れくれるだろうか?その不安から、彼女は何も言えなかった。
「話聞いてくれてありがとう。少し楽になったよ」
嫌な静寂が包み込む。こういう時に限って、いつも二人の間に入るグラは眠っていた。すっかり冷めたカレーを、拓也は何も言わずただ食べ始めた。
「やっぱりお母さんのと同じ味だ」
そう呟く彼の瞳には途轍も無い悲しみを感じた。その目を直視出来ず、雫はそれから目を逸らした。
翌日、拓也はいつもと変わらずグラを抱えて学校に登校した。案の定、グラの周りに女子が集まるが最近はそれも少なくなった。昼休みを終え、拓也はクラスの女子にグラを預け雫の元へ向かった。相変わらず彼女は教室の窓辺で外の景色を眺めていた。声をかけずに教室に入り彼女の元へ行く。彼女の肩を叩こうとした瞬間に周りの女子の陰口が聞こえた。それが耳障りになり拓也は雫の手を掴んだ。突然のことで驚く彼女に構わず強引に彼女を引っ張る教室を出て行った。いつも通り屋上へ向かう。
「相変わらず強引だね」
屋上に着くと少し呆れた口調で彼女はそう言った。
「あそこに居て楽しいのか?」
「愚問だね。見れば分かるでしょ」
晴天の空の下で太陽に照らされる拓也を日陰にいる雫は少し眩しそうに見つめていた。
「今日はグラちゃんいないの?」
「教室にいる」
「そっか....」
気不味さに目を逸らす雫に拓也はゆっくりと近付く。そして彼女の腕を掴みそれに驚いた彼女に顔を近付ける。
「もうずっと嘘で本当の自分を隠さないでくれ。俺なら、東さんのことちゃんと理解できると思うから」
その言葉を聞いて、雫は救いを求めるかのように彼の手を握った。だが、すぐに彼を突き放した。
「駄目なの....たとえ、貴方が私を受け入れたとしても絶対傷付くことになる。そうなるのは嫌なの....」
「それでも俺は構わない」
「私が嫌なの!」
叫ぶ彼女に圧倒され拓也は彼女の手を離してしまった。
「お願いだから....これ以上私の中に入ってこないで....」
そう言う彼女の瞳は涙を浮かべていた。その瞳を見た拓也は、彼女の手を再び掴んだ。
「俺は、そんなに頼りないのか....?」
彼女が自分に心を開いてくれない。その事実が、拓也にとってはとても悲しいことだった。好きな人に、頼ってもらえない。信じてもらえない。それが拓也の心を蝕んでいった。そんな自分がこうして彼女の手を掴んでこの場を去ろうとする彼女を無理矢理留めていることに、どうしようもないくらいに罪悪感を感じた。俯き落ち込む拓也に、雫は涙を拭い彼の手を掴んだ。それに驚いた彼は顔を上げて彼女を見つめた。
「鷹ヶ峰くんは、私のことちゃんと受け止めてくれるだね....」
安堵の笑みを浮かべる彼女を見て、拓也は自然と涙を流した。
「え....鷹ヶ峰くん?」
「ごめん....嬉しくてさ....」
安心と嬉しさの余り涙を流す彼を見て、雫は可笑しそうに笑った。
「嬉しくて泣くなんて、初めて見たよ」
そして彼女も涙を流す。
「でも....嬉しい涙って....いいね」
そう言って彼女は拓也に抱きついた。彼女の温もりが体に溶け込むようで、心も一緒に安堵に包まれた。拓也も、そっと彼女の背中に手を回し抱き締めた。その瞬間、チャイムが煩く鳴り響いた。
「放課後、教室に来て。話したいことがあるの」
静かにそう呟く彼女に拓也はこくりと頷いてそのお願いを承諾した。綺麗な快晴の空を眺めて、雫は過去の記憶を思い出していた。
あとがき
最後まで読んで頂きありがとうございます。
感想や指摘など頂くと嬉しいです。
続きを楽しみにしてくれると更に嬉しいです。
これらに登場する人物、地域、団体は全てフィクションです。




