名前を
眩しいあなたが。俺を見下ろしている。
「わる、い」
カラカラなのどのせいで上手く声が出せない。彼女は小さく首を振ってから、俺の前髪に触れた。
「こわい夢でもみた?」
小さい子へかけるような声音に苦く笑いかけて……でも上手くはいかなかった。
枕元だけを照らすための淡い明かりに目が慣れてくるにあわせ、呼吸も落ち着いていく。戻ってくる。たった今まで囚われていた感覚がひとつひとつ。久しく味わうことのなかった悪夢から。
半身を起こしていた彼女はベッドから抜け出て、タンスへ向かう。重たげな身体が気がかりで追うように自分も起き上がった。
「風邪ひくから」
新しい寝間着。渡されたそれを見てやっと、自分の身体が汗で濡れていることに気づいた。
「いうこときかないと、一緒に寝てあげない」
俺から見るとちょっと厚着ぎみの彼女は、両手を腰へあてた姿勢で効果のまるでない睨みをきかせている。対する俺は肩をすくめて早々に降参の意をあらわした。
長居しすぎの残暑が去ると、やっと暦に見合った風が吹くようになった。今年の冬支度は早めに始めて念入りにしないと、な。冬が好きだと言いながら寒さに弱い妻のために。
最近の彼女の口調はどこか――教師のよう。おおらかというか、のんきというか。そのくせ頑固で危なっかしいそんな彼女なりの、これも準備の一環なのかもしれない。彼女も俺もひとりっ子で子供に接してきた経験がないから。
言いつけ通りに着替えてみせれば、我が家の先生は満足げに笑った。
腹部をかばいながらベッドに横になるのを見届けてから明かりに伸ばした手は、彼女によって止められた。
「昼寝しすぎたみたい。つき合ってくれる?」
枕に深く頭をあずけ直し見上げてくる目は悪戯っ子のそれで。
唯一の自慢だと自分で豪語するだけあった艶やかな髪は、妊娠がわかってすぐの頃バッサリと切った。まだ早いだろって言ったのに、彼女はその姿と同じく軽やかに笑うだけ。全身から嬉しさがあふれていた。
「休まないと身体に障る」
真夜中に起こした張本人のセリフじゃない。
「過保護すぎるのも良くないって」
「お義母さん?」
「わたしの気晴らしのために電話してあげてるって言うけど、しゃべってるのほとんどお母さんなんだから」
向かい合った体勢で話す彼女の肩に布団を掛けてやる。首だけ出た格好で俺にも掛けようとするから、自分でかぶった。
「お父さんね、若いころは亭主関白だったんだって」
賑やかに話す義母の横でニコニコと笑う、物静かな義父を思い浮かべた。
「まったく想像できない」
「ね。あなたのところは優しい旦那様で本当うらやましいわぁ、だって」
真似た口ぶりが親子だからか良く似ていて笑った。
義父も義母も良くしてくれる。もったいないほどに。結婚を決めるまでの俺の迷いようは、娘の親からみれば充分に不誠実と映ったはずなのに。
優しいとはあのふたりのような人のことを言うのだろう。そして彼女のような。俺は違う。俺のは彼女の見よう見真似にすぎない。それもそうとうに出来の悪い。
「もう自転車も買ったらしくてね、ランドセルはなに色がいいかって。ホント気が早いよねぇ」
ふたりして笑いながら彼女の手は俺の腕を、噛み痕に赤くなっているはずの箇所を撫でる。なにも感じなかったそれが彼女に触れられただけでじくじく疼き出す。
なんで彼女にはわかってしまうのだろう。
前に一度、聞いてみたことがある。愛の成せる技、と彼女はおどけて言ったあとで教えてくれた。
――会ってないときもあなたのことを考えてるから。
「だめ」
「まだなんも言ってない」
「名前はあなたが考える。約束でしょ」
彼女の身体に宿る命。生まれ出るときはもうじき。
子供が欲しいとずっと望んでいた彼女の願いが叶おうとするまでに時間がかかったのは、俺自身の問題によるところが大きい。
「そんなに嫌?」
からかいを納めた彼女が静かに問う。 ……嫌、というより。
「荷が重い」
のだと思う。
家族、というものを持つつもりはなかった。
捨てられる前に捨ててしまえと自分のほうから生みの親を排除したのは、いくつのときだったろう。
際限なくわき上がる嫌悪と憎悪は彼らへだけでなく、自分につけられた名前にも向けられた。
どちらかといえば男につけるには珍しい名であることも、嫌うようになるのに拍車をかけた。
口にすることも。呼ばれることも。書くときも。目にするときも。どこへ行こうとそれはついてまわる、外せない枷。
眉間に触れてくる彼女の指。猫にでもするようにぐりぐりと撫で、深いらしい溝を伸ばそうとする。自分では制御できない身体に走る強張りを、彼女はいつもそうやってほぐしにかかる。俺はそれを目を閉じて受け入れるだけ。
甘やかしすぎだと友人たちには言われているらしい。以前は別れろ縁を切れだったから、評価はだいぶ回復しつつある……だろうか。
彼女の気持ちを知っていながら決定的なことはなにひとつ言わず受け入れもせず。かといって突き放しもしない。その気持ちを利用して玩具のように扱っていた。
優しくしたいと一方では思うのに、出てくるのは向けてくれる本気の思いをあざ笑い、試すような言動ばかり。それでも彼女は。
矛盾する身勝手なだけの息苦しさから逃げたくて飲めないアルコールに手を出した。自分のその姿が記憶のなかの大嫌いな背中とダブって、苦しくて。気づけば彼女のアパートの玄関で倒れていた。
――無理しないでいいから。わたしは。
眠ったふりの耳に届いた声は。
――そばにいさせてくれるだけでいい。
開けた目に映った、笑っているのに泣いてるようなその表情。屈託なく笑う女性だった。それが。
一気に頭は冷えて。戸惑う彼女の手を掴んでご両親に会いに行き、その場で結婚させてほしいと頼みこんだ。
――それってまずわたしに言うんじゃないの?
今度こそ泣き出した彼女は本気で怒り、俺は二日酔いのボロボロな顔と格好。酷いプロポーズ。あれでよく許してもらえたと今でも思う。
だれかと過ごす生活。始めてみると日々は穏やかでくすぐったくて。そのすべてが、身構える俺を思いやる彼女の気遣いのおかげなのだと気づいたのは、少しあとになってからだった。
「眠れないのはそのせいだけ? 最近ずっとだよね」
「睡眠は足りてる」
「そういうことじゃない。ちゃんと教えて」
俺の表情、息遣い、言葉の言い回しに含まれた真意にいたるまで、彼女は読み取ろうとしている。ごまかせない。こうなるだろうことは、明かりを消すなと言ってきたときからわかってた。
「結婚、後悔してる?」
「こっちが聞きたい」
「出会ってから今この瞬間まで、後悔なんてしたことない」
息が、止まる。
ホント、彼女こそ男に産まれたほうが良かったかもしれない。
「頭にきて殺してやろうと思ったことは何度もあるけど」
……笑えねぇ。
「死んでも治らないだろうけどな」
「そんなに、ゆるせない?」
なにを。だれを。
「本当は忘れたくない。そう思ってる」
消せるなら。ぜんぶなかったことに出来るならどれほど楽か。
「いつまでそうやって昔のことにこだわり続けるの」
知りもしないくせに知ったふうなことを言うな。
挑発だとはわかってる。繋ぐ手から伝わる震え。わざと怒らせてまでなにを言わせたい?
「なによりも大事に思ってる」
「わたしも」
自分のことより。
「でも」
なのに。
「うん」
だめだ。言うな。
「子供を愛せる自信がない」
対峙する目が揺れた。
怖い。
あの人たちのように。自分たちを取り巻くことにしか興味がなく。自分たちしか守ろうとしなかった彼らと同じことを、生まれてくる子供にしてしまったら。
うとましいものでも見るような目を向けてしまったら。
自分と同じ憎しみのこもった目を。あの目で今度は自分が見られるのだと思ったら。
彼女に良く似た子に。
耐えられない。
おそろしくてたまらない。
「だめ。噛んじゃだめ」
腕をとられる。
毎晩、泣いた。うるさいと怒鳴られるから、声が漏れないように腕を噛むようになった。
泣くことに疲れた。いつからか泣かなくなった。赤い噛み痕も消えた。
彼女は痛みに顔を歪ませる。自分が傷を負ったかのように。だれがつけた傷だ。お前だろ。
言うべきじゃなかった。俺は知っているのに。つわりに苦しむ姿を見てきたのに。いま一番不安なのは彼女のほうなのに。
叶えてあげたいと思った。与えてもらうばかりだから今度はって。俺だけだから。叶えられるのは俺しかいないから。
自分自身が親になるのだという覚悟も持たないまま。
「ごめ……」
彼女の腕に胸に抱かれる。震えて上手く動かない手を伸ばして大きな腹を押さえないようにすがりついた。
耳元でなんども囁かれるのは――名前。
注がれるたび、繰り返されるたびに呼吸は鎮まる。嫌なはずなのにどうして。
いや。本当はもう、それほど嫌ってない。この声に、慣れさせられたから。
……そうか。これか。
さっき目が覚めたわけは。悪夢から逃げおおせたのは。そうやってあなたが呼んでくれてたからか。
「でもね。わたし、予感がする」
少し掠れた声。でもどこか楽しそうに彼女は言った。
小さな「彼」を初めてこの腕に抱いて。見事にひるんだ。
座ってるのに腰が引けてると笑われる。初めてなんだからしかたないだろ、そう言い返したくても、胸のなかで眠る彼があまりに柔らかくて潰してしまわないかと気になってそれどころじゃない。
「お疲れ」
彼女に対して発せた言葉はそれだけ。労るとか、もっとほかに言うべきことはあるだろうに。それでも彼女は疲れた顔を優しくほころばせ、ひとつうなずいた。
生まれてくれた。ふたりが無事ならもうそれで。それだけでいい。
彼はこっちの心配などお構いなしにスヤスヤと眠っている。不思議な感覚。そのままずっと覗きこんでいたら、最大の懸案は思いのほかすんなりと解決を迎えた。
怒涛と呼ぶに相応しい生活が始まった。家のなかはすべて彼を中心にまわり、彼女も俺も自分のことは合間にすませるようになった。おかげで夜はよく眠れて夢を見る暇もない。
様子を見に来た義父と義母からはぐったりした自分たちを笑われ、歩くようになってからのほうがもっと大変だと恐ろしいことを言われた。
子供を連れていると話かけられることが増えた。今まで挨拶くらいしか交わしたことのなかった近所のひととも、彼女や彼を介して知っていく。
ふたりが世話になるのだと思えば、苦手だなんだとは言っていられない。
いろんなひとの話を聞いたほうが、ひとりのときよりももっと面白いものが出来るのだと気づいてからは仕事に対しての意識も変わった。以前はまるで難しいゲームの攻略に挑み果たせば悦に入る、そんなものだったと思う。
町の歩き方も。季節の移ろいに足が止まり、草木や風に匂いがあることを知った。
綺麗なものを見つけたら教えたくなる。旨いものを食えば持って帰ってやりたいと思う。
「すっかり溺愛パパだな」
上司のからかいも笑ってかわせるほど、今の自分は悪くはなかった。
「――洗濯物、取りこんでくるから」
「ん」
背中に感じる視線が動こうとしないので振り返ると、彼女はニヤニヤと笑っていた。なんだよ。
「まぶたが引っつかないように見張っててね」
そう言い逃げて行く後ろ姿を見ながら舌打ちした。一年以上も前のことを……。
生まれたばかりの赤ん坊があんなに寝るもんだと思わないから、心配になってちょっと聞いただけだろうが。あのときもしつこく笑いやがって。
抱っこもマシになったし寝かしつけは俺のほうが上手い。さっきまで満開の桜に興奮していた彼は腕のなかでうつらうつら、夢心地。
そっとベッドに下ろした……途端、大きな目は開き手足をばたつかせだした。
「現金だな、お前」
名前を呼ぶと見つめてくる。まだ自分のことだとはわかっていないだろうけど、返事をしたように思えてつい笑ってしまう。
襟元に花びら。桜がまぎれたか。取ってやろうと手を近づけたら指をぎゅっと掴まれた。
「なんだよ」
小さい手は思うより力強い。見上げてくるまっすぐな目も。だれかがいないと生きてはいけないほど脆いくせに。
「悪かったな。あんなこと言って」
頬が熱い。
「悪かった」
泣いているからだと自覚したときにはもう止められそうもなかった。
ずっと。ひとりで生きていくのだろうと思ってた。
痛いのは嫌だ。
帰りを待ちわびるのも。空腹に眠れない夜も。求めて伸ばした手を払われることも。
なら。
最低限の関わりだけをまわりと保ち、心を波立たせず。泣くことのない代わりに笑うこともなく。風さえも吹かないような場所でひっそり終わればいい。
でも。出会ってしまって。目の前の世界は大きく広がった。
どうしてこんなに痛む。
自分なんてどうなろうとよかったはずなのに。
彼の泣き声に身体は反応し、すぐさま抱き上げた。ひどい形相で泣いてる俺が怖いのだろう、火がついたようにわめき立てる。それすらも嬉しくて。
温かい手に頭を撫でられる。歪む視界の先では彼も同じようにあやされてる。でも涙は止まらない。
空いたほうの手で彼女の身体を抱き寄せて強く力をこめた。確かな手触りと重み。
からっぽだと思ってたこの手のなかに、大事なものが三つもある。
心底おかしそうにあなたは笑って。
「ね。当たったでしょ?」
ああ。どうやらあなたの予感は、見事に当たったらしい。
「――ちゃん。じいちゃんっ」
やかましい。
頼むから身体を揺らすな、気分が悪くなる。いいとこだったというのに。
「じいちゃんっ。じいちゃんってば!」
キャンキャン続く甲高い声にしぶしぶ目を開けた。
「ごはん、できたって!」
視界いっぱいにどこかで、でもさっきまで見ていたような少年の顔が迫ってくる。ずっと腹が重かったのはこのせいか。
「……なんだ、お前。また小さくなったのか。あれだけデカくしてやったのに」
少年は目をぱちくりさせてから。
「お父さん! じいちゃん、またボクとお父さんのことまちがえてるう!」
ああ、頼むから耳元で叫ぶな。
「じいちゃん、ボケちゃった」
あ? なんだと。
「口の悪いヤツだな。誰に似たんだ」
我がもの顔で腹に乗ったままの小僧の頬をつまんでやる。が、それすら喜ばせているだけらしい。遊んでやってるつもりはないが。
小僧の身体が首ねっこをつままれて運ばれていく。
「親父だろ」
彼女の面影を色濃く継いだ、彼の手によって。
「バカ言うな。お前に似たんだろうが」
「母さんがよく言ってたよ。俺は親父似だってさ」
なんだ、その、俺に似ているなんて心外だと言わんばかりの顔は。相変わらず可愛いげというもののない愚息との睨み合いを、孫が面白そうに見上げている。こら足に乗るな。
時は経つ。
慣れない子育てにふたりして右往左往していた日々は遥か昔のようでいて、つい昨日のことのようにも思える。酷い言葉を口にしたあの夜のことも。泣きながらふたりを抱きしめたあの日のことも。
ゆっくりと駆け足とを繰り返しながら少しずつ、でも確実にすべては変わっていく。俺自身は頭と身体が固くなったくらいだというのに。
「なあ、親父」
「世話にはならん」
「言う前に断んなよ」
いい年して舌打ちをするな。親を見くびるなよ。いつのまにか苦く笑うようになったのだと、思う。それが似合う歳になったということか。
小さいころは食が細くずいぶんやきもきさせられた。学校へ上がってからはなにかと問題ばかり起こし、そのたび彼女は、俺は自分自身を責めた。
それがやたらと縦に伸び出し、生意気にもこっちの背をこえる頃にはなんとか落ち着いてきて安心していたら。久方ぶりの帰省の土産は花嫁だとぬかしやがった。そして今は四人の子を持つ父親。
親になったことで過去の自分のふる舞いが身に染みてきたのか、最近はよくこうして家族で顔を見せにくる。なんだかんだと孫守りをさせられてる気がしないでもないが。
「ここがいい」
小さくても古くても。それでも染みついて馴染んだ匂いと思い出は手放せない。
「親父は幸せモンだな。母さんにそれだけ想われて」
「うらやましいか」
かんべんしろよ――肩をすくめて呆れる彼には素直にありがたいと思うが、口には出さないでおく。
ここで聞こえるはずの笑い声が今はしない。
子供も成人して。これからはまたふたりきりでゆっくりやっていきましょうと言っていたくせに。看病されるなんてごめんですとでも言うように、彼女はあっけなく消え去った。
別れのとき不思議と涙は出なかった。どうやら俺はあのときに生涯分を使いきってしまったらしい。
今も。眠れぬ夜は夢をみる。かつての底なしの暗闇に沈むようなものではなく、穏やかで、でもすこしばかりの痛みをともなった甘い夢を。
――綺麗なお名前ですね。
初めて会ったとき、交わした名刺を見ながらあなたはぽつりとそうつぶやいた。驚いた。そんな言われかたは初めてだった。冷静な顔の裏で足が少し震えてたこと、あなたは知りもしなかったろう。
だからってまさか一緒になるなんて、あのときは思いもよらなかったが。なんてことない、挨拶の延長みたいなものだったけど、そのひと言がどれほど――。
「じいちゃん」
あなたがくれた抱えきれない贈りもの。そのおかげでいまもこうして日々を過ごせている。ずっと変わらず情けないままの俺は、何十分の一でもあなたになにかを返せただろうか。
小さな手が指をひく。
「ぼくの名前、おばあちゃんからもらったんだよ」
誇らしげに言う一番下のこの子は写真のなかの彼女しか知らない。それでも、彼女から受け継がれた命はまた次へと。
頭を撫でてやれば、その感触がいつだって遠い記憶を呼び起こしてくれる。
目を閉じて、耳を澄ます。聞こえるのは俺の名を呼ぶあなたの声。だから俺もなんどもあなたの名前を呼ぶ。いつか届けばいいと、願いながら。
――どう思う?
――うん。いいと思う。すごくいい。
――気にいるかな。
――だいじょうぶ。この子にとっては、あなたからもらう最初の贈りものだもの。
了