第一話 見えなくてもそこに在る
透明人間。不可視の人間。
見えなくてもそこに居る。
見えなくてもそこに在る。
「……お願い。宗明……」
薄暗い部屋だった。蝋燭の揺らめきが二つの影を壁に映し出している。
「明香里……でも……」
ベットに横たわる彼女は、すがるような目で僕を見てきた。
ここは一週間前まで地下の物置だった。
ここは六日前から病室になった。
ここは三日前から美術室になった。
ここは昨日から理科室になった。
そして今まさに、ここは霊安室になろうとしている。
「……もう……耐えられないの……」
必死に吐き気をこらえ、汗をぬぐう。それが緊張によるものだと言い逃れできる程、僕は冷酷ではなかった。だからこそこの事態を招いたといっても過言ではないのだが。
彼女、明香里は僕の恋人だった。笑顔が可愛くて、気が利いて、勉強ができて、優しくて。言葉を尽くしても足りない程、魅力的な女性だった。
人は未来に生きなければならない。そんな言葉があったと思う。だが僕は、過去に生きたい。そう切に願っていた。いつだっていい。今までの苦しみをもう一度味わっても構わない。世の中のすべてが幸せに満ちていると思っていたあの頃に帰りたい。彼女のことを愛せたあの頃に帰りたい。
そんなどうしようもなく愚かな希望を、こんな最後に抱いている。酷く滑稽だった。変わり果てた彼女を目の前にしてここまで客観的でいられる僕は、おそらく世界で最も非道な男だろう。
__人体模型。彼女の容姿はそう例える他になかった。透けて見える心臓の脈動が、虚空を捉える眼球が、さながら理科室の備品のような気味悪さを醸し出している。
「……私を、助けて」
明香里という名の通り、かつて太陽の如く眩しかった彼女の笑みは、もはや見る影もなかった。今や雨雲に隠されてしまった彼女の幸せは、シーツを濡らすことしかできない。
どうしてこんなことになったのか。愚問を虚空に投げかけた。答えが返ってくる代わりに、手に持った包丁が重みを増す。
まさしく僕は今、一人の人間の命を、汗ばむ手で握っているのだ。
一週間前、何の変哲もない冬休みの午後にそのニュースは発表された。
『生体の透明化、これはまさに幻想が現実へと変わる瞬間だといっても過言ではありません。あの透明人間が実現するのも遠い未来ではなくなってきましたね』
今時では珍しい、テレビが置いてある喫茶店でのティーブレイク。
「ねぇねぇ宗明。アフリカで目に見えない牛が発見されたんだってさ。まるでSFだよねー」
「ウェルズもびっくりな事件だな。そのうち本当に透明人間でもできるんじゃないかと思うと胸が熱くなるよ」
僕と明香里は、日常というよりもはや凡庸に近い午後を送っていた。
自分で言うのもなんだが、僕らは最近のカップルにしては余りに清純な関係だと思う。キスさえも最近したばかり。肌を重ねるなんて寝言にも言えない。お互いに初恋であることを差し引いても、これはいささか清純すぎやしないだろうか。
だがどんなに平凡な一日でも、僕にとってこれほど嬉しいことはなかった。愛する人と飲む紅茶、愛する人と交わす言葉の一つ一つ、その全てが虹色に輝いて見える。
この際はっきり言おう。僕は彼女が大好きだ。愛している。彼女の為なら死ねると言ってもいい。
「あ、もうこんな時間かー。今日はバイトがあるから、ごめんね?」
そんな僕の気を知ってか知らずか、彼女は相変わらずマイペースに言う。そんな性格もひっくるめて好きなのだが、もう少し僕の気持ちを汲んでくれるとうれしい。
「いいよいいよ。それじゃまた明日」
もっとも流される僕も僕なのだが。しかしこればかりは仕方ない。何せ告白したのは僕なのだから。
「まったねー!」
日が落ち始めたころ、僕は彼女とホテルに行くでもなく、一人で帰路についた。途中明日行く予定の映画のチケットを渡しそびれたことを思い出したが、どうやら手遅れの様である。
多少陰鬱になりながら布団をかぶり眠りについたが、僕は知る由もなかった。その心配が悪い意味で杞憂になってしまうことを。
僕は携帯電話の着信音で目を覚ました。
約束の時間に遅れたのかと焦ったが、窓の外の暗さを見る限りどうも違うらしい。
「……もしもし? どうしたんだよ明香里。こんな夜遅くに」
携帯のディスプレイを見ると、発信者は昼間に会ったばかりの彼女であった。
『…………』
向こうからかけてきたというのに、スピーカーからは何も聞こえてこない。寝ぼけているのだろうか、そう思って通話を切ろうとしたその時、
『……宗明……』
そよ風の音だけでかき消されてしまうのではないかというほど、小さな声。世界の悲哀を一身に背負ったような声が聞こえてきた。
『……一丁目の公園まで来て……今すぐ』
「どうしたんだよ明香里。そんな元気の無い声で」
『いいから来てっ!』
叫び声が僕の脳を一気に覚醒させると同時に、通話は切れてしまった。
多少の疑問を感じながらも服装を整える。彼女からの呼び出しとあっては彼氏として行かざるを得ない。
僕の家から走っておよそ三分。申し訳程度に街頭で照らされた公園に彼女は立っていた。
可愛らしい黒髪のボブカットに、相変わらずセンスのない子供っぽい服装。間違いなく明香里である。しかし彼女の表情は異常と言っていいほど青ざめていた。それに右腕全体が包帯で覆われている。
「……宗明……私……私……」
彼女は急に涙を流し、抱き着いてきた。
どう見ても様子がおかしい。今まで見てきたどんな彼女よりも、目の前の彼女は恐怖の色を孕んでいる。
「ど、どうしたんだ明香里! その腕も! 怪我でもしたのか!?」
肩をつかんで多少強引に問い詰めた。こうでもしないと僕まで恐怖にのまれてしまう、そう思ってしまうほどに悲哀に満ちた声だったからだ。
そんな僕の詰問に明香里は一瞬ためらう様子を見せたものの、意を決したように包帯をほどく。
「…………え?」
そこにあったのは……否、そこになかったのは、腕だった。そう、本来あるべき人体の一部がないのだ。
いや、先ほどまで包帯でかたどられていたのだから、確かに腕は存在するのだろう。
無くなっているのではない。
「私の腕……見えなくなっちゃった……」
透明になっているのだ。
はいどうも初めまして。電子レンジもとい、まいくろうぇいぶと申します。
一応透明人間ものとなります。あと恋愛(笑)ものです。それなりに暗い話です。
ええと、投稿は週に一回くらいになるかと思います。
この小説はそこまで長くありません。5~7回くらいで終わりです。何せ初投稿なもので色々と至らぬ点があるとは思いますが、どうか見てやってください。感想をくださると発狂するほど喜びます。
なにとぞよろしくおねがい致します。