01. 別れと新しい出会い
ヴィオレッタ・グランシェルが婚約を破棄されたのは、春の終わりのことだった。
その日は朝から穏やかに晴れていて、庭園には淡い色の花が咲き、風が吹くたびに細い枝先が静かに揺れていた。五年も婚約している相手から大切な話があると呼び出されたのだから、ヴィオレッタも何かしら改まった話なのだろうとは思っていた。結婚まであと半年ほどに迫っていたため、式の日取りや今後の予定について相談でもあるのかもしれないと考えていたくらいで、まさかそのすべてを終わらせる話だとは思ってもいなかった。
「婚約を解消してほしい。急にこんなことを言われても困ると思うし、君を傷つけることも分かっている。それでも、曖昧なまま結婚する方がもっと不誠実だと思ったんだ」
向かいに立つオスカー・レーヴェンは、いつになく緊張した様子だった。ヴィオレッタはすぐには言葉を返せず、彼の顔をじっと見つめた。聞き間違いであってほしいと思ったわけではない。ただ、五年という時間があまりにも簡単な一言で終わったことを、頭がすぐには理解できなかったのである。
「理由を聞いてもいいかしら。五年間続けてきた婚約を終わらせるのだから、それくらいは知っておきたいわ」
「好きな人ができた。ネリーナ・クロフォード嬢だ。去年の冬頃から社交の場で話す機会が増えて、最初はただ気が合う相手だと思っていた。でも、気づけば彼女のことを考えるようになっていた。こんな気持ちのまま君と結婚するのは違うと思ったんだ」
ヴィオレッタは何も言わなかった。胸の奥に冷たいものが広がっていく感覚だけが妙にはっきりしていた。オスカーと激しく愛を語り合ったことがあるわけではない。それでも、婚約者として積み重ねてきた時間があり、当然のようにこの先も隣にいると思っていた。結婚した後の暮らしについて話したこともある。互いの家族とも長く付き合ってきた。それらすべてが嘘だったとは思わない。ただ、これから先へ続くと思っていたものが突然途切れたことだけは、どう受け止めればいいのか分からなかった。
「そう。だったら、仕方がないわね」
「責めないのか。もっと怒られると思っていたし、泣かれるかもしれないとも思っていた。それだけのことをした自覚はある」
「泣いて頼めば、私と結婚してくれるの?」
オスカーは答えなかった。その沈黙だけで十分だった。怒りがないわけではなかったし、悲しくないわけでもなかった。むしろ今すぐ一人になれたなら、みっともないほど泣いてしまうかもしれない。それでも、別の女性を好きになった男へ縋りついて婚約だけ続けても、そこに何の意味があるのか分からなかった。
「なら、婚約は解消しましょう。私はあなたと結婚するつもりでいたから、もちろん傷ついているわ。でも、あなたの気持ちが別の人へ向いているのに、形だけ婚約者でい続けても仕方がないもの」
「……すまない。本当に、君を傷つけたくてこうしたわけじゃないんだ」
その言葉に、ヴィオレッタはほんの少し眉を寄せた。傷つけるつもりがなければ傷つけても構わないわけではない。それでも今は言い争う気力もなく、ただ両家への説明だけは自分ではなくオスカーからしてほしいと伝えた。彼はすぐに頷き、すべて自分から話すと約束した。そのまま終われば、少なくとも最後まで嫌いにはならずに済んだかもしれない。
「ヴィオレッタなら大丈夫だと思う。俺なんかより、もっと君を大切にしてくれる男がきっといる。君には幸せになってほしいんだ」
「……そう願ってくれるのなら、ありがたく受け取っておくわ。では、これで失礼するわね」
その言葉を聞いた瞬間、ヴィオレッタは初めて彼から目を逸らした。どうして自分を捨てる人間から、そんなことを言われなければならないのだろうと思った。幸せになってほしいと言いながら、その幸せだと思っていた未来を今まさに壊しているのはオスカー自身なのに、彼にはその矛盾が分かっていないらしい。
それ以上は何も言わず、ヴィオレッタは庭園を後にした。屋敷へ戻る馬車に乗り込み、扉が閉まり、見慣れた庭園が遠ざかっていくまで涙は出なかった。けれど一人きりになった途端、堪えていたものが崩れたように頬を涙が伝った。五年という時間が惜しかったのか、オスカーを失ったことが悲しかったのか、それとも自分だけが何も知らずに未来を信じていたことが悔しかったのか、自分でもよく分からなかった。
婚約解消の話は、その後驚くほど淡々と進んだ。レーヴェン侯爵家もオスカー本人から事情を聞いていたため強く反対することはなく、一方的な申し出である以上は相応の補償をすると申し出た。グランシェル伯爵家も娘の意思を確認した上でそれを受け入れ、家同士としては大きな争いになることもなかった。書類が整えられ、約束されていた結婚式は取り消され、ヴィオレッタとオスカーは正式に婚約者ではなくなった。
家同士の話が穏便に終わったからといって、社交界まで穏便にしてくれるわけではなかった。婚約を解消した事情は細かく公表されなかったが、侯爵家の嫡男から五年続いた婚約を解消されたという事実だけで、人々には十分な話題だった。夜会や茶会へ出れば、直接何かを言われなくても視線を感じるようになった。近くを通れば急に声を落とす者もいれば、逆に聞こえるように「何か問題があったのでは」と話す者もいた。しかも少ししてオスカーとネリーナが公に交際を始めると、噂は一層分かりやすい形へ変わった。ヴィオレッタは別の女性に婚約者を奪われた令嬢であり、五年も一緒にいながら最後には選ばれなかった女だと、勝手な物語を作られるようになったのである。
それでも、ヴィオレッタはネリーナを憎むことができなかった。一度、夜会で顔を合わせたことがある。ネリーナは勝ち誇った顔をするでもなく、むしろ申し訳なさそうに視線を伏せて、小さく会釈しただけだった。もちろん、婚約者のいる男へ気持ちを向けたことについて何も思わないわけではない。しかし最終的に婚約を終わらせることを選んだのはオスカーであり、ヴィオレッタにはそれ以上ネリーナを責める気にはなれなかった。
そのため、行き場のない感情だけが残った。オスカーを恨み続ければいいのか、自分を笑う者たちに怒ればいいのか、それとも選ばれなかった自分に何か足りなかったのだと納得すればいいのか分からない。気づけば以前より外出することが減り、社交の誘いも断ることが増えていた。
そんな生活が数か月続いた頃、母がヴィオレッタの部屋へ一通の招待状を持ってきた。母の姉、つまりヴィオレッタの伯母が開く小さな茶会への招待だった。大きな夜会ではなく、親戚や親しい知人だけを呼ぶ気楽な集まりらしい。それでもヴィオレッタは行く気になれず断ろうとしたが、母は珍しく譲らなかった。
「無理に元気になれとは言わないわ。でも、あの婚約が終わったからといって、あなたの人生まで終わったわけではないでしょう」
少し厳しい言い方だったが、ヴィオレッタには反論できなかった。結局その言葉に押される形で茶会へ出席し、そこでフェリクス・アルディーンと初めてまともに話すことになった。
フェリクスは公爵家の次男だった。顔と名前くらいは以前から知っていたものの、互いに挨拶以上の会話をしたことはほとんどない。そんな彼が、窓辺で一人本を読んでいたヴィオレッタへ声をかけてきた。
「その本、南方の紀行記ですよね。面白いですか?」
「ええ。行ったことのない土地だから、読んでいるだけでも楽しいわ」
「そこなら一度だけ行ったことがあります。この著者は少し大袈裟に書いていますけれど、夕暮れの景色だけは本当に綺麗でしたよ」
それをきっかけに、二人はしばらく南方の話をした。フェリクスは旅行中に道を間違えて知らない村へ辿り着いた話や、そこで食べた菓子が思いのほか美味しかった話をして、ヴィオレッタは久しぶりに自然な笑みを浮かべた。
その間、フェリクスは一度も婚約破棄について触れなかった。可哀想だとも、元気を出せとも、新しい相手を探せとも言わなかった。ただ一人の相手として普通に接してくれた。それが、ヴィオレッタには驚くほど心地よかった。
その後も二人は親戚同士の集まりや演奏会などで顔を合わせるようになった。すぐに恋愛めいた関係になったわけではない。ヴィオレッタはまだ結婚という言葉を聞くだけで身構えてしまうことがあったし、フェリクスも無理に距離を縮めるような真似はしなかった。けれど本の話をしたり、旅行の話を聞いたり、時には家族の愚痴を笑いながら話したりするうちに、ヴィオレッタは少しずつ以前の自分を取り戻していった。
婚約していた頃の自分は、いつも未来ばかり見ていたのだと、その頃になって初めて気づいた。侯爵家へ嫁いだらどうするか、結婚式には何を準備するか、どんな妻になるべきか。もちろんそれが嫌だったわけではない。ただ、あまりに先のことばかり考えていて、今の自分が何をしたいのかを深く考えたことがなかった。
婚約がなくなってから、時間は急に自分だけのものになった。母と街へ出かけ、欲しかった本を買う。兄と些細なことで言い争い、翌日には何事もなかったように菓子を分け合う。伯母の屋敷へ顔を出し、フェリクスとくだらない話で笑う。そんな日々を重ねるうちに、婚約破棄されたという出来事が人生のすべてではないと思えるようになっていった。
そんなヴィオレッタの変化を、本人より先に気にし始めたのがオスカーだった。




