第6話 蜘蛛の巣を断つ
ハンスは、いつもと変わらぬ所作で応接間に入ってきた。白手袋。柔和な微笑み。完璧な一礼。三十年間磨き上げた所作は、裏切りの最中でさえ揺るがない。
「お呼びでしょうか、お嬢様」
「座ってちょうだい、ハンス」
彼は静かに椅子に腰を下ろした。私は向かいに座り、その目を真っ直ぐに見た。
「単刀直入に聞くわ。父の記録を、誰に渡したの」
ハンスの表情が、一瞬だけ凍りついた。ほんの一瞬。だがすぐに微笑みが戻った。
「何のことでしょうか。私は——」
「嘘はいいわ。昨夜、書斎で冊子の写しを取っていたのをメルテが見ている」
沈黙が落ちた。そしてゆっくりと、微笑みが消えた。代わりに浮かんだのは、私が一度も見たことのない表情だった。疲労。そして、どこか追い詰められた者の諦め。
「……そうですか」
「ギルモア伯爵ね」
ハンスは答えなかった。だが、否定もしなかった。その沈黙が、答えだった。
「いつから」
「……二年前からです」
二年。父がまだ健在だった頃からだ。この二年間、ハンスは毎日完璧な給仕をしながら、裏では情報を流し続けていた。
「理由を聞かせて」
ハンスは白手袋を脱いだ。私が初めて見る、素手だった。荒れて、節くれだった手。三十年間、休むことなく働き続けた手だ。
「お嬢様。私は三十年、この家に仕えてまいりました。旦那様には感謝しております。心から。ですが——」
彼は目を伏せた。
「私には息子がおります。十二になる、才のある子です。読み書きを覚えるのも早く、算術の才能もある。ですが使用人の子に学問の門は開かれない。どれほど才があっても、生まれた家で人生が決まる。ギルモア様は、息子を宮廷文官の見習いにしてくださると……」
「それが、裏切りの対価」
「対価と呼ばれれば、その通りです」
感情が波のように押し寄せた。怒り。悲しみ。そして——理解。ハンスの苦しみが、分からないわけではなかった。身分という壁は、この世界では何よりも厚い。
だが、理解することと許すことは別だ。
「ハンス。あなたが渡した情報で、父の計画は敵に筒抜けになっていた。父の死期を早めたかもしれないと、考えなかったの」
ハンスの肩が震えた。
「……存じております。その罪は、一生背負うつもりです」
私は立ち上がった。
「ヴァイス家の執事長を解任します。ただし——」
ハンスが顔を上げた。目の縁が赤くなっていた。
「出て行く前に、ギルモア伯爵に渡した情報のすべてを書き出してちょうだい。何を渡したか、いつ渡したか、どのような指示を受けたか。すべて」
「それは——」
「あなたの息子のことは、私が面倒を見ます」
ハンスの目が見開かれた。
「教育の機会が欲しかったのでしょう。ならば正当な方法で与えるわ。裏切りの対価ではなく、ヴァイス家が領地の優秀な子弟に与える奨学制度として」
長い沈黙の後、ハンスは白手袋を椅子の上に丁寧に置いた。三十年間、毎日つけていた手袋を。
「……かしこまりました」
彼が書き出した情報は、膨大だった。二年間分の裏切りの記録。だが皮肉なことに、ハンスの裏切りの記録そのものが、ギルモア伯爵の策略の証拠となった。
そしてもう一つ。ハンスは最後に、重要な情報を残した。
「お嬢様。最後に一つだけ。ギルモア様の弱点は、五年前の冬にあります。あの冬、北方に密使を送っていました。その密使の名を、私は知っています。ドナート・シュヴァルツ男爵です」
蜘蛛の巣が見えてきた。少しずつ、糸の一本一本が。
◇
数日後、ノエルが再び領都を訪ねた。
「報告がある。王都で動きがあった」
「何が」
「ギルモアが、北方交易路の直轄案を正式に宮廷会議に提出した。審議は二ヶ月後だ」
「二ヶ月……短いわね」
「だが猶予はある。それと、もう一つ」
ノエルは少し躊躇った。彼が言葉を選ぶのは珍しかった。
「クレスト男爵令嬢——オーレリアから、おまえ宛に手紙が来ている。俺の領地経由で届いた」
「私に?」
差し出された手紙を開いた。
「お会いしたいのです。二人だけで。どうか信じてください。私はあなたの敵ではありません」
(……何を信じろというの)
王太子の新しい恋人から、こんな手紙が来る理由が分からなかった。罠か。挑発か。あるいは——
「どうする」
ノエルが聞いた。
「会うわ」
「危険だ」
「危険でも、情報がない状態のほうが危険よ。それに——」
私はオーレリアの手紙をもう一度見た。筆跡が微かに震えている。
「この手紙は、覚悟を決めた人間の書き方よ」
ノエルは黙った。反対の言葉を飲み込んだのが分かった。
「……ならば、俺も行く」
「二人だけで、と書いてあるわ」
「会談の場所の外で待つ。何かあればすぐに入れる距離にいる」
私は少しだけ笑った。
「それは護衛ですか」
「困るからだ」
いつもの台詞。けれど、その声はいつもより低く、いつもより真剣だった。
メルテが旅支度を始めた。
「お嬢様。ハンス様がいなくなって、少し寂しいです」
「私もよ」
正直な気持ちだった。裏切りは許せない。けれど、三十年の月日まで否定することはできない。
そして今、蜘蛛の巣を断つための鋏が、手の中に揃いつつある。
——王都へ向かう馬車の中で、オーレリアの手紙を読み返した。あの翠色の瞳の奥に、何が隠されているのか。答えは、もうすぐ分かる。




