表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
もう猫を被るのは疲れました。 悪役令嬢全開でいかせていただきます。  作者: 渚月(なづき)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/10

第6話 蜘蛛の巣を断つ

ハンスは、いつもと変わらぬ所作で応接間に入ってきた。白手袋。柔和な微笑み。完璧な一礼。三十年間磨き上げた所作は、裏切りの最中でさえ揺るがない。


「お呼びでしょうか、お嬢様」


「座ってちょうだい、ハンス」


彼は静かに椅子に腰を下ろした。私は向かいに座り、その目を真っ直ぐに見た。


「単刀直入に聞くわ。父の記録を、誰に渡したの」


ハンスの表情が、一瞬だけ凍りついた。ほんの一瞬。だがすぐに微笑みが戻った。


「何のことでしょうか。私は——」


「嘘はいいわ。昨夜、書斎で冊子の写しを取っていたのをメルテが見ている」


沈黙が落ちた。そしてゆっくりと、微笑みが消えた。代わりに浮かんだのは、私が一度も見たことのない表情だった。疲労。そして、どこか追い詰められた者の諦め。


「……そうですか」


「ギルモア伯爵ね」


ハンスは答えなかった。だが、否定もしなかった。その沈黙が、答えだった。


「いつから」


「……二年前からです」


二年。父がまだ健在だった頃からだ。この二年間、ハンスは毎日完璧な給仕をしながら、裏では情報を流し続けていた。


「理由を聞かせて」


ハンスは白手袋を脱いだ。私が初めて見る、素手だった。荒れて、節くれだった手。三十年間、休むことなく働き続けた手だ。


「お嬢様。私は三十年、この家に仕えてまいりました。旦那様には感謝しております。心から。ですが——」


彼は目を伏せた。


「私には息子がおります。十二になる、才のある子です。読み書きを覚えるのも早く、算術の才能もある。ですが使用人の子に学問の門は開かれない。どれほど才があっても、生まれた家で人生が決まる。ギルモア様は、息子を宮廷文官の見習いにしてくださると……」


「それが、裏切りの対価」


「対価と呼ばれれば、その通りです」


感情が波のように押し寄せた。怒り。悲しみ。そして——理解。ハンスの苦しみが、分からないわけではなかった。身分という壁は、この世界では何よりも厚い。


だが、理解することと許すことは別だ。


「ハンス。あなたが渡した情報で、父の計画は敵に筒抜けになっていた。父の死期を早めたかもしれないと、考えなかったの」


ハンスの肩が震えた。


「……存じております。その罪は、一生背負うつもりです」


私は立ち上がった。


「ヴァイス家の執事長を解任します。ただし——」


ハンスが顔を上げた。目の縁が赤くなっていた。


「出て行く前に、ギルモア伯爵に渡した情報のすべてを書き出してちょうだい。何を渡したか、いつ渡したか、どのような指示を受けたか。すべて」


「それは——」


「あなたの息子のことは、私が面倒を見ます」


ハンスの目が見開かれた。


「教育の機会が欲しかったのでしょう。ならば正当な方法で与えるわ。裏切りの対価ではなく、ヴァイス家が領地の優秀な子弟に与える奨学制度として」


長い沈黙の後、ハンスは白手袋を椅子の上に丁寧に置いた。三十年間、毎日つけていた手袋を。


「……かしこまりました」


彼が書き出した情報は、膨大だった。二年間分の裏切りの記録。だが皮肉なことに、ハンスの裏切りの記録そのものが、ギルモア伯爵の策略の証拠となった。


そしてもう一つ。ハンスは最後に、重要な情報を残した。


「お嬢様。最後に一つだけ。ギルモア様の弱点は、五年前の冬にあります。あの冬、北方に密使を送っていました。その密使の名を、私は知っています。ドナート・シュヴァルツ男爵です」


蜘蛛の巣が見えてきた。少しずつ、糸の一本一本が。



数日後、ノエルが再び領都を訪ねた。


「報告がある。王都で動きがあった」


「何が」


「ギルモアが、北方交易路の直轄案を正式に宮廷会議に提出した。審議は二ヶ月後だ」


「二ヶ月……短いわね」


「だが猶予はある。それと、もう一つ」


ノエルは少し躊躇った。彼が言葉を選ぶのは珍しかった。


「クレスト男爵令嬢——オーレリアから、おまえ宛に手紙が来ている。俺の領地経由で届いた」


「私に?」


差し出された手紙を開いた。


「お会いしたいのです。二人だけで。どうか信じてください。私はあなたの敵ではありません」


(……何を信じろというの)


王太子の新しい恋人から、こんな手紙が来る理由が分からなかった。罠か。挑発か。あるいは——


「どうする」


ノエルが聞いた。


「会うわ」


「危険だ」


「危険でも、情報がない状態のほうが危険よ。それに——」


私はオーレリアの手紙をもう一度見た。筆跡が微かに震えている。


「この手紙は、覚悟を決めた人間の書き方よ」


ノエルは黙った。反対の言葉を飲み込んだのが分かった。


「……ならば、俺も行く」


「二人だけで、と書いてあるわ」


「会談の場所の外で待つ。何かあればすぐに入れる距離にいる」


私は少しだけ笑った。


「それは護衛ですか」


「困るからだ」


いつもの台詞。けれど、その声はいつもより低く、いつもより真剣だった。


メルテが旅支度を始めた。


「お嬢様。ハンス様がいなくなって、少し寂しいです」


「私もよ」


正直な気持ちだった。裏切りは許せない。けれど、三十年の月日まで否定することはできない。


そして今、蜘蛛の巣を断つための鋏が、手の中に揃いつつある。


——王都へ向かう馬車の中で、オーレリアの手紙を読み返した。あの翠色の瞳の奥に、何が隠されているのか。答えは、もうすぐ分かる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ