9 銀月の騎士と、林檎の記憶
焼きあがったパイの匂いが、あたりいっぱいに広がっている。
マリアンヌは歓喜の声をあげた。
「ロキシー!パイを焼いたのね!!!」
マリアンヌが好きな食べ物はアップルパイだが、その中でも世界で一番おいしいのはロキシーのパイだと、自信を持っている。
「やっぱりロキシーのパイは、世界で一番ね!」
夫のジョセフを亡くしてから、ロクサーヌが元気の実を失っていたことを彼女は知っている。だからこそ、⌈ちゃんと」焼かれたパイの香りに胸が熱くなった。
「夫人に頂いたパイは、先ほどのものも素晴らしく美味でしたが…」
控えめに伝えるレヴィンにロクサーヌは静かに首を振った。
「いいえ。私のパイは、あんなものではございませんのよ」
今日一日で随分と自分の気持ちは変わったものだと、ロクサーヌ自身、その変化に驚いていた。この変化は彼女が胸に灯した、小さな、けれど確かな自負だった。本気で、最高の一皿を、この美しい客人に味わわせたい。亡き夫が愛した「本物」を、今。
「先ほどもお出ししましたが、よろしければ、こちらもいかがかしら?」
二人の美しい客人は優雅に礼をして、「是非」と笑った。
「ねぇ、俺たちにも貰える?」
無邪気に笑う、新たな客人も交えて。
ロクサーヌがご自慢のアップルパイを切り分けていると、マリアンヌが落ち着かない様子で近づいてきた。ロクサーヌが目で問いかけると、意を決したように「これ!!」と白い封筒を差し出してきた。
首を傾げて、裏を返すと、そこには見知った文字で「君のジョー」と署名されていた。ロクサーヌは目を見張った。
「これは…」
「ジョーから頼まれたの、一年経ってもロキシーに元気がなかったら渡してって」
手紙に綴られた、癖のある優しい筆跡。それは間違いなく、彼女の半身であったジョセフのものだった。
「どうか、光り輝く大樹のような笑顔の君でいて」
たった一行の短い一言に触れ、溢れ出した涙が手紙に滲む。
その瞬間――。
「……アツッ!! 熱熱熱ッ!!!」
リンの胸元で、カニの魔導具が太陽のような烈火を放った。次の瞬間、バフッ!という情けない音と共に、一級品のローズクォーツが粉々に砕け散る。
「あああ! 最後の支給品があぁぁぁ! 」
ガイの絶望的な悲鳴が、感動の余韻を物理的に粉砕した。
ロクサーヌが夫の海よりも深い愛に包まれ、リンとガイが新たな借金地獄の底なし沼にずっぷりとはまった瞬間であった。
そんな二人をさておき、優秀な『天球の灯』の先輩魔導士たちはロクサーヌにそっと寄り添う。
「夫人の、ご自慢のパイをいただいても?」
ロクサーヌは濡れた瞳をそのままに、新しく芽吹く新緑のような爽やかな笑顔で、自慢のアップルパイを差し出した。
「喜んで……っ!」
テーブルの上には、シンプルなティーセットと、焼き立てのアップルパイ。
ふんわりと香り立つ林檎の優しさに心がスッと穏やかになる。
これからの地獄に打ちひしがれていたリンとガイも馴染みのない家庭的なその優しさに惹かれて、興味津々と見入っている。マリアンヌは好物を目の前にして、しっぽが振り切れそうな子犬のようだ。
賑やかな客人たちに、カップに注いだ紅茶を差し出しながら、それで…、と切り出した。
「私の書いた『おまじない』が、『世界樹』を救うのに役立つはずだというのね?」
とても信じられないわ、と困惑気味に首をかしげるロクサーヌを、レヴィンが穏やかに見つめた。
「光の祝福」というものが、もしあるのなら、それはきっとこういうものに違いない。その瞳に見つめられると、まるで凍てついた湖の底に、春の陽光が差し込んで来るような、希望に満ちた暖かさを感じる。
落ち着かない気持ちを抑えるように、すでに一切れを食べきったリンに「もう一ついかが?」と勧めるふりをして、目を逸らす。
「夫人…、このパイは先程と少しだけ味わいが異なりますね」
低く、鼓膜を心地よく震わせる、極上のヴィオラのようなレヴィンの声が、静かにロクサーヌを捉える。
「先程頂いたパイも美味しかったですが、この一皿は、先ほど頂いたものとは『魂の熱量』が違います。比類なき至高の味だ。そして我々が欲しているのは、この極上の一品を産み出せるほどの、夫人の『想い』の力です」
自分の作ったパイは神への貢ぎ物になったのかと錯覚するほどの神々しさで、愛を語るように囁かれてロクサーヌは気絶寸前である。
「そのくらいで、勘弁してやりなよ。レヴィンの顔は、無差別爆弾なんだから」
リンの言葉を裏付けるようにマリアンヌが真っ赤な顔で震え、宗教信者のように拝み始めていた。
「静かに夜を照らす、気高い銀月のよう!そう、神!神が降臨したんだわ!」
「レヴィン教、爆誕じゃん!」
どうどう、と興奮するマリアンヌをなだめながらガイが爆笑する。
リンとシオンは、改めてロクサーヌに、向き直った。
「あんたに自覚がなくても、あんたの『旦那を想う気持ち』が、護符の力になってるんだ」
「夫人の描かれたこの図『恋乙女の護符』は、古代文明時の魔方陣であることが、判明しました。世界樹の固有振動数に合わせた外部入力用の魔力端子の役割を果たしており、起動キーが、誰かを想う強い『感情』だったんです。これまでの純潔を必須とする『清らかな乙女の祈り』の定説が覆った」
ロクサーヌはパチパチと目を瞬かせた。専門用語が多すぎて、専業主婦には難しすぎる。正直に理解できないと告げた方が良いのか迷っていると、マリアンヌを落ち着かせながらガイが明るい声で割り込んできた。
「つまり、婆ちゃんの『ときめき』力が必要ってことだよ!」
「「『ときめき』言うな!」」
それは研究者として、断じて認めたくない古代魔法の『真理』であった。
「まぁ…。でも、突然『ときめき』と言われても」
夫を亡くして、もう一年。だが、まだ一年。
まだ彼を愛しているし、何より夫に対する裏切りのようで、とてもそんな気持ちにはなれない。求められた役割の負担にさらに困惑を深めるロクサーヌに、マリアンヌの声が突き刺さる。
「違うのよ、ロキシー!ジョーを忘れなくて良いの。素敵な人を想って『ときめく』ことは、悪ではないの!ジョーは、ロキシーにとって永遠に沈まない『太陽』。でもね、それとは別に、夜空を彩る気高い『月』を愛でたっていいのよ! 欲を押し付けず、ただその尊さに感謝し、その健やかさを祈る……それが『推し』という名の活力なのよ!」
それは、思いもよらないことだった。雷に打たれたような衝撃を受けながらも、逸らした視線が無意識にレヴィンに吸い寄せられる。
「分かるわ、ロキシー!煌めく湖の貴公子、月光の精霊!もはや夜空の銀月そのもの!そう、レヴィン様を共に推しましょうよ!」
その勢いは、さながら美の狂信者であったが、マリアンヌの言う『推し』の概念は何から何まで新鮮だった。
「ただ、愛でることの……幸せ……」
呟いた瞬間、シオンが手にしていた魔方陣が、人智を超えた神秘の光を放った。 近代最強の『乙女』――たった一人で数十年、純粋な愛だけで世界樹を支え続けた女性の力が、ついに解き放たれたのだ。
奔流となった魔力はオーロラのごとき河となり、黄金の粒子が雪のように降り注ぎ、枯れかけていた枝先がパキパキと音を立てて若葉を芽吹かせていく。圧巻の大パノラマの中、世界樹はかつての、いや、かつて以上の荘厳な力強さを取り戻したのだった。




