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8 焼き上がる記憶と、赤き林檎の導き

 暖かな日差しを受け、その大樹は静かに、けれど圧倒的な存在感でそびえ立っていた。一軒家の屋根を軽々と越える壮大さでありながら、木漏れ日は見る者を慈しむように柔らかい。


世界樹(ユグドラシル)


 世界の魔力を司る根幹、その神秘の緑は今、密やかに、けれど確実に翳りを見せ始めていた。忍び寄る枯渇の足音に、気づく者はまだ少ない。


 さて、一行が調査に向かおうとしたその時、思いがけず同行を願い出た者がいた。


 『乙女(アーモリス・)選考会(セッション)』で、リンとガイが不合格の不名誉を与えられた時、合格者の栄誉を手にしたマリアンヌである。


 ふわふわとした薄い赤みがかった髪と、新緑のような緑の目が印象的な、可憐な少女だった。


「あたし、ロクサーヌさんとは顔見知りなの!お願いだから一緒に連れて行って」


 何やら必死に訴えるマリアンヌに、一同は顔を見合わせたが、「まあ、いいか」と頷きあった。理屈はともかく、知った顔がいた方がロクサーヌも話し易くなるだろう。そんな実利的な判断もあり、彼女の同行はあっさりと許可されたのだった。


 マリアンヌはロクサーヌと同じ地の出身だが、中心街に住んでいるため『世界樹(ユグドラシル)』の麓の村に住む、ロクサーヌとは、月に数度会う程度だという。しかし、付き合いは長く、彼女の夫が存命の頃から、村では手に入りにくい生活用品などを届けていたそうだ。


「ジョーとロキシーには、ずっと可愛がって貰ってたの」


 思わず愛称で呼ぶほど、ロクサーヌとその夫ジョセフとは親密だったのだろう。いつも、温かく迎えてくれた二人を思い出したのか、自然と笑みをこぼすマリアンヌの顔は優しい。


「でも、ジョーがいなくなってから、ロキシーの元気が、どんどん無くなっちゃって…」


 震える手で握りしめたスカートにグッと寄った皺が、マリアンヌの痛めている心の内を現しているようだった。だけど、と彼女は強い目で顔を上げた。


「手紙があるの。一年経っても、ロキシーが元気にならなかったら、渡してほしいって頼まれたの…」


 今日が、ちょうどその一年目だった。


「手紙?」


 レヴィンが首を傾けた。月光も霞むような美しい銀の髪が、さらりと滑り落ち、その静かな湖のようなペールブルーの瞳が神秘的な色を湛えて、マリアンヌを捉える。その瞬間、まるで熟れた林檎のようにマリアンヌが頬を染めた。


「痛っっっ!」


 間髪入れず、リンの胸元の例のカニがローズクォーツを輝かせ、カチカチカチ……と、壊れた時計のようにハサミを鳴らした。判定は――致命的なほどの「ひと目惚れ」。


 それからロクサーヌの家までの二十分間、マリアンヌはのぼせ上がったまま、夢遊病者のようにフラフラと進んでいくことになった


「……あの人、いつも『星屑の天球儀(アストラル・オーブ)』に来る、目の肥えた貴族しか相手にしてねーから」


「耐性のない街娘に、あの顔面(凶器)は劇薬すぎるよな……」


 ガイの囁きに、リンは憐憫の眼差しを向けて肩をすくめた。


 程なくたどり着いた目的の場所で、ぼんやりと庭の椅子に腰を下ろして、『世界樹(ユグドラシル)』を見上げるロクサーヌだったが、人の気配を感じて、ゆっくりと、立ち上がった。


「まぁまぁ、お帰りなさい」


 それは、レヴィンとシオンに向けたものだったが、すぐに隣のマリアンヌに気がついて、さらに顔を綻ばせた。


「あらあら!小さなマリアンヌじゃないの!」


 塞ぎがちだったロクサーヌの久しぶりに聞く明るい声に、マリアンヌは小走りで駆け寄って抱きついた。


「『小さな』は、もうやめてって言ったじゃない!」


 少し目元が光っているのは気のせいではないだろう。


「心配してたのよ!」


 そう言ってぎゅうぎゅうと抱き締めた。


 ーーー


 さて、シオンとレヴィンが荒れ狂う後輩の暴発を眺め、「やれやれ」と管理局へ向かった後、残されたロクサーヌは、久しぶりに「ちゃんと」パイを焼こうかしらという気持ちになった。


 久しぶりに客人に振る舞ったことで、ロクサーヌの胸には、静かな「不本意」が澱のように残っていた。


  ――本当の私のパイは、ジョーが愛してくれたあの味は、あんなものではなかったはず。ジョーが一口食べるたびに、目尻を下げて「これだよ、ロキシー」と笑ってくれたあの黄金の味。


 それを再現できないままでは、彼の愛した時間まで曇ってしまう。


 美しき青年たちは「美味しい」と微笑んでくれた。けれどそれは、夫との思い出が形作った「最高の一皿」ではなかった。小さな、けれど許容しがたい不本意。


 事情も知らぬ他人に、不完全な記憶の片鱗を差し出してしまった自分への不満。


  「……やはり、作り直しましょう。あのレシピで」


  それは、止まっていた彼女の時間が、小さな音を立てて再び動き始めた瞬間だった。


 準備を整え、あとはオーブンが魔法をかけるのを待つばかり。ロクサーヌは、夫がその手で削り出した、今や肌に馴染みすぎた椅子に深く身を預けた。


 視線の先の、いつもと変わらぬ大樹の梢の下、ゆっくりと思い起こす。この木漏れ日の下で、どれほどの笑い声を夫と分かち合ってきただろう。甘やかな追憶の海に静かに身を浸していると、その穏やかな静寂を破るように、外から賑やかな騒めきが舞い込んできた。


「心配してたのよ!!」


 そう言って、抱きついてきたのは幼いころから可愛がっていた孫娘のようなマリアンヌだった。興奮しているのかほんのり赤い頬が、まるで紅玉のようで可愛らしい。


 思わず笑みがこぼれた。


「今日は、本当にお客様の多い日だわ」


 香ばしいバターと、キャラメリゼされた林檎の甘い芳香。アップルパイが焼きあがる音がした。


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