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完全安心装置

作者: はまゆう
掲載日:2026/02/21

その装置は、あらゆる不安を取り除くために開発された。


「装着は簡単です。手首にはめるだけ」

白衣の技師がそう言って、透明な輪を差し出した。

「痛みも副作用もありません。ご安心ください。むしろ安心が増えます」


発表会場の記者たちが笑った。冗談だと思ったのだ。


だが装置は本物だった。脳波、脈拍、皮膚電位、瞳孔収縮。持ち主の不安の兆候を検知すると、微弱電流と音もなく放出される神経調整信号が脳に作用し、穏やかな安堵感を生じさせる。


「不安は人類最大の敵です」

壇上の大臣が言った。

「不安があるから争いが起こる。不安があるから憎しみが生まれる。ならば――不安をなくせばよい」


拍手が起こった。技師が補足した。

「臨床試験では、被験者のストレス指数が平均九三%減少しました」


「残りの七%は?」と記者。


「測定誤差です」


笑いが起き、翌日の新聞は一面でこの装置を称賛した。

政府は即日、全国民への無償配布を決定した。



最初に喜んだのは心配性の人々だった。


「先生、最近どうも落ち着いてるんです」

診察室で患者が言った。

「会社が倒産しそうなんですが、ぜんぜん気にならなくて」


「それは重症ですね」と医師は言った。「いや、失礼。装置のおかげですね」


主婦は言った。

「夫の帰りが三日遅れてるんですけど、なぜか平気なんですの」


学生は言った。

「試験勉強してないのに、妙にさわやかで」


装置は完璧だった。交通事故のニュースを見ても誰も顔色を変えない。株価暴落の速報が流れても、喫茶店では穏やかな会話が続いている。


「最近、世の中が優しくなりましたね」

アナウンサーが街頭インタビューで言った。


「ええ」と老人が微笑んだ。「世界はもともと平和だったのかもしれませんなあ」



次に喜んだのは政府だった。


「苦情件数は?」

「前月比マイナス九八%です」


「デモ申請は?」

「ゼロです」


「失業率は上がったが――」

「国民満足度は過去最高です」


閣議室に安堵の空気が満ちた。


「ついに理想社会だ」

大臣が深くうなずいた。

「問題はまだ山ほどあるが、問題だと感じる者がいない」


官僚たちも満足げだった。

「社会不安の解消こそ最大の福祉ですから」



ただ一人、古い学者だけが首をかしげていた。


「どうしました」

助手が尋ねた。


「妙だね」

学者は装置のついた自分の手首を見た。

「不安がない社会は、本当に安心なのかね」


「不安がなければ安心でしょう」


「そうとも限らん。不安というのは警報装置みたいなものだ。火事のベルを止めれば静かにはなるが、火事が消えたわけじゃない」


助手は笑った。

「先生、考えすぎですよ。装置、効いてません?」


学者は黙った。



その夜、彼は装置を外してみた。


外した瞬間、胸の奥がざわついた。

心臓が速く打ち、妙な予感がした。


「ほう……」

彼はむしろ満足した。

「これだ。この感じだ。何かがおかしいと知らせる信号だ」


彼は書斎へ行き、新聞の山を読み返した。統計、法案、予算、条文、但し書き。読み進めるほど胸騒ぎは強くなる。


「なるほど……そういうことか」


彼は徹夜でメモを書き続けた。

翌朝。


ニュースキャスターが明るく告げた。


「政府は本日、安心装置の最新版アップデートを発表しました。新機能として――」


学者はテレビの音量を上げた。


「装置を外そうとした際に生じる心理的不安を自動的に除去する安全機構が追加されました。これにより、装置を外す必要性そのものが感じられなくなります」


スタジオのコメンテーターが感心した。

「すばらしい配慮ですね。外してしまう不安まで解消するとは」


「まさに完全安心社会です」


街頭では若者が言った。

「外そうと思ったことないですしね。必要ないじゃないですか」


主婦が言った。

「政府が安心だって言ってるんだから安心でしょ」


老人が言った。

「昔は不安なんてものがあったらしいですなあ」



学者はテレビを消した。


机の上には夜通し書いた紙の束。そこには、装置の規約条文の注釈、法改正の時系列、予算配分の偏り、そして赤字で大きく一文。


〈不安を消せば、危険は歓迎される〉


彼はしばらくそれを見つめていた。


やがて静かに言った。

「さて、どうしたものか」


手首には、外したままの装置。


それを見ているうち、胸騒ぎがまた強くなった。

このままでいいのか。何かしなければならないのではないか。警告の鐘が鳴る。


彼は深呼吸した。

「……落ち着かん」


装置を手に取る。少し考える。ためらう。


そして、はめた。


一瞬で胸のざわめきが消えた。


「ああ――」


彼は椅子にもたれ、心から安堵した。

机の上の紙束が目に入ったが、もう内容を確かめようとは思わなかった。


「たいした問題じゃない」

彼は穏やかに微笑んだ。

「もし問題なら、きっと誰かが心配しているだろうからね」


外では、拡声器の声が流れていた。


「本日より旧型装置は回収となります。未装着の方は違和感を覚える可能性がありますので、速やかに装着してください。これは皆さまの安心のためです」


学者はその放送を聞きながら、深くうなずいた。


「それなら安心だ」

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― 新着の感想 ―
映画『リベリオン』に登場した架空の薬「プロジアム」を想起しました。 「完全安心装置」は薬物ではありませんが、 装置に一度でも頼ってしまうと、不安を抑え込む脳本来の能力が衰え、 装置を外したとたん禁断…
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