24.白き翼の女神
心臓の鼓動が激しくなる、僕はペンダントを握りしめる手に力を込めた。
僕の目の前で揺れている薄桃色の長い髪、僕を見つめる優しい瞳、少女の確かな存在感。
「ミュルフラウゼ……」
間違いない、間違えようなどないが……しかし。
とまどいを隠せない僕がそうつぶやくと、不意にミュルフラウゼの表情が歪んだ。
「リスティ!」
淡い桜色のスカートの白いレースがふわりと翻り、ミュルフラウゼが僕に抱きついた。
小さな体が震えている、両手で触れた震える肩はとても華奢で温かい。僕は幻影でも見ているのだろうか?
『ミュルフラウゼ』……それは、人の名前ではない。
海上都市ヴィラノーヴァをコントロールしている中央制御システム。ミュルフラウゼは、そのインターフェイス・プログラムだった。
僕はどうしてそんな事を思いついたのだろう。システムの中に構築された彼女に、僕が扱えるすべてのプログラムを駆使して疑似人格を形成した。
プログラムの更新を繰り返していくと、ミュルフラウゼは徐々に会話をもこなせるようになった。システムの中のスペース、疑似空間の中で一人歩きを始めた彼女の姿を見るのは楽しかった。
緑の草原や美しい花、刻々と変わる空の様子、巨大な滝、数え切れないほどの野生動物。
ミュルフラウゼは僕が与えるデータの中でも、旧時代の自然の様子がとても気に入ったようだった。彼女に神秘的な自然の映像を見せることで、僕は絶望の中に救いと安らぎを求めていたのかもしれない。
しかし彼女は所詮、プログラム上の存在でしかないはずだ。
それなのに……。
胸に頬を寄せていたミュルフラウゼはゆっくりと両腕で体を支えると、何かの決意を秘めた青い瞳で僕を見上げる。
「大切な事を伝えに来ました……」
瞳に浮かべていた涙を小さな手で拭い、凜とした表情の少女はしっかりとした口調で言った。
☆★☆
しなやかで力強い翼が大気を切り裂く。
女性的なシルエットを持ったミネルバは、黄金色の燐光を発しながら最大加速で天空へと上昇していた。
「シミュレーターなんかとは比べ物にならない……」
ヘルメットのバイザー内に映し出される様々な数値を読みながら、美鈴はそう言葉を漏らした。身体を包み込むような造形を施されたコクピット内はまったく圧迫感を感じない。心地良い機体との融和感、シミュレーターではいつも感じていた不快感に苛まれることがなく、ごく自然にミネルバが伝えてくる情報を全身で感じる事が出来る。
天空に満ちた冷たい空気、大地に広がる悪意、人々の恐れと嘆き……そして祈り。
美鈴は思考を集中させ、機体すべてのコントロールを把握した。刻々と変わる周囲の状況を映し出す、様々な情報をチェックしながら戦闘準備を進める。
「機体コントロールシステム及び、火器管制の動作正常。各武装、最終セーフティ・ロックまで全て解除」
美鈴はヘルメットのバイザー内の映像を切り替えた。それまで伝えられていたミネルバの機体データが、簡易表示として視界の下方に移動する。バイザー内に煌めく照準が現れて海上を進むセラフィムの編隊の動きを捉えた情報が次々と更新されていく。
「見えた……」
ミネルバは白い翼を大きく広げ、凍り付くほどの冷気を充分にはらませて急制動をかけると、両の腕双方に構える長大な銃身のライフルのエネルギーレベルを最上限に設定し地表へと向けた。
星が瞬く虚空を背負い、ミネルバの美しい翼がふわりと広がる。
眼下に見えるのは数百機にも上るセラフィムの編隊。
美鈴はミネルバの両手それぞれが握っているライフルの感触を確かめる。球状の感応機が微かに輝きミネルバはライフルのトリガーを強く引き絞った。
銃口を中心にして瞬間的な広がりを見せた、同心円の光が虹色に輝いて霞みゆく。ミネルバのライフルから放たれた目映いエネルギー衝撃波は、大気を焦がしながら真っ直ぐに地表へと伸びていく。
輝きを放つ二筋の光の矢は突き進みながら大きく拡散し、まるで幾筋もの流星のようにセラフィムの編隊へと降り注いだ。
突如襲い掛かった無数の光の矢に撃ち抜かれるセラフィム。海上で花咲くように閃光が広がった。機体が消滅する際の爆光がエスペランゼを照らす。
センサーの範囲外からの攻撃に晒され、大多数のセラフィムが為す術もなく爆砕する。直上からの攻撃に遅れながらも反応してシールドを頭上に構えるが、降り注ぐ強力なエネルギー弾はシールドを貫通し次々にセラフィムの機体へ穴を穿つ。
編隊の三分の一を失った頃、ようやく回避行動に入り体勢を立て直したセラフィム達が、遙か上空で滞空するミネルバへと一斉にライフルを向けた。
見通す事などかなわぬ、暗い天空へと向けられたライフルの銃口が煌めく。
「目標への着弾確認……回避!」
モニター画面に広がった無数の爆光を確認したミネルバは、素早く回避行動に移る。
その瞬間、ミネルバが放ったエネルギー弾の光跡を辿り、空間を紅に染め上げる反撃の矢がプラズマを伴って殺到してくる。
虹色の光に満たされるコクピット内。回避行動に入ったミネルバの白い翼から放出される黄金色の粒子が空間を満たす。襲い掛かる反撃の矢は、散りばめられた星々の明かりよりも目映い。
その光の矢を、ミネルバは軽やかに機体を回転させてかわしていく。
セラフィムの反撃を全て回避したミネルバは、両手に握るライフルをすっと手放した。広げていた翼が本物の羽のように滑らかに畳まれ、機体に搭載されたバーニアを最大出力にして急降下を始める。
己を流星へと変えて、あっという間に地表へと帰還したミネルバは、眼前に迫る海面へと腰部の両脇へ搭載されたビームキャノンを放った。大きくうねる海面に突き刺さった膨大な熱量のエネルギー弾は、海面を瞬間的に沸騰させ、爆発的な蒸気が巨大な柱となって吹き上がる。
海面を放射状に広がる衝撃波が駆け抜け、荒れ狂う風がぴたりと収まった。
柔らかな綿帽子のように、ミネルバは静かに海上で滞空する。居並ぶセラフィムへ両手を広げ、ゆっくりと両腕を差し伸べた。
しかし裁きの神エスペランゼの下僕たる堕天使達は、慈愛溢れる女神の抱擁を受け入れようとはしなかった。ライフルを投げ捨て、その双眸に憎悪を漲らせ腰から剣を抜き放つ。
白き女神は諦めたように小さく嘆息した、しなやかな翼を大きく広げて水面を滑るように後退する。
まるで哀しみを堪えるように体を折り曲げたミネルバが顔を上げる、その両手に握るのは剣の柄だ。
セラフィム達は白き女神をその剣で切り刻もうと四方から一斉に殺到する。
しかし、その凶刃はミネルバへと届く事は無かった。
急速に接近するセラフィム達に反応したミネルバのメインカメラが青く輝く。両手に握る剣の柄が光を発し、長く伸びたエメラルドグリーンの光は双剣の刃となった。
胸を張るように上体を伸ばし、体を捻ったミネルバがステップを踏んだ。装甲から迸る光の粒子は汚れ無き純白、まるで上質の絹のようにふわりと広がる。
ドレスをその身に纏ったかのようなミネルバ、それはまさに美しい女神の姿だ。
双剣を構えたミネルバが上昇を始めると、力強く羽ばたく白き翼が激しい風を生み出した。海上に突如現れた巨大な竜巻の中で、双剣を構える女神が激しく舞い踊る。
光芒を放つ双剣が鋭い牙を剥き、突進してくるセラフィムを次々と空中へ巻き上げては切断していく。
暗き絶望の舞台で舞う白き女神は、希望という光を伴う旋律にその身を委ねる。
新たな爆光が竜巻の周囲に広がった……。
数百機のセラフィムすべてを撃墜し、再び静かに滞空するミネルバがふわりと翼を広げた。
「堕天使達には舞台を降りて貰ったわ。ミネルバ、ラスト・ダンスよ……」
つぶやいた美鈴の意識に突き刺さるのは、黒翼の守護神が放つ強烈な悪意。
魂を砕く咆哮に気付いた美鈴の目に映ったのは、遙か前方で両の翼をいからせたエスペランゼの姿。
黒い翼の一部が大きく開き鈍い光を放つ砲身が姿を現している。翼にまとわりつく紫電が漆黒の機体を激しく照らす。今まさに滅びをもたらす光槍を投げ放たんとする暗黒の破壊神を睨み付け、感応機を両手で強く握る美鈴は声高に叫んだ。
「放射ミラーウイング急速展開! 全砲身発射態勢、エネルギーチャージ、レベルマキシマム!」
ミネルバが純白の両翼を左右へ最大展開すると同時に、背部に装備された高出力砲撃ユニットが四つの長い砲身へ分離し、前方へとせり出す。
「間に合って!」
美鈴が手の平を当てる感応機が、まばゆい緑色に輝き始める。上空で互いの両翼を広げ、向かい合う白と黒の戦神。
エスペランゼが大きく広げた漆黒の両翼から、瞬きと共に純白の光が迸り。
同時にミネルバの四門の砲身から、青白く輝く光が放たれる。
真っ向から衝突した膨大な光のエネルギー衝撃波は、互いの目標を大きく逸れて、あらぬ場所へと着弾した。
凄まじい轟音と激震が、大気を引き裂く。
空が、海が、そして大地が……まるでこの星が絶叫を上げたかのようだ。
純白の光は小島を瞬間的に塵へと変え、巨大な火柱が輝くように蒼天を焦がす。青白い光は海面へと突き刺さり、海が沸騰でもしたかのように爆発的な蒸気が遙上空まで吹き上がった。
「あいつ……」
息をのんだ美鈴は、衝撃波と激震を受けるミネルバの機外の光景に戦慄した。それは、まるで神話の時代に繰り広げられていたであろう神々の戦の舞台だ。
エスペランゼとミネルバは共に、リスティがたった一人で造り出した人型兵器だが、その双方の機体に秘められた破壊力はあまりにも強大だ。
「とんでもない機体を造るんだから」
美鈴の強い光を帯びる黒曜石の瞳が見据えるメインモニターに映るエスペランゼに紫色の紫電がまとわりつき、小さな爆発と共に黒翼から迫り出した砲身が四散した。
「相打ちか、計算通りね」
美鈴のヘルメットのバイザー内に警報が映し出される。
ミネルバの背部に装備された砲撃ユニットの四門全てが使用不能になっていた。
「高出力砲撃ユニット、パージ!」
ミネルバの背部で破裂音が響き、役目を終えた砲撃ユニットが強制排除されて海へと落下した。