10.風に舞う少女の声(後)
「そうなんだ……」
歯切れが悪い僕の説明に、エアンはがっくりと肩を落とした。ガディさんの話をそのまま聞かせるわけにもいかないので、荷物の搬入や搬出作業で人手が割けないのだと、仕方なく言い訳を繕うしかなかった。
「元気出せよ、エアン。僕は腕利きのパイロットを知ってるんだ」
「兄ちゃんが?」
「ああ、とびきりの美人パイロットだ。事情があって今は手伝って貰えないけど、まだジュエル号は四日も停泊しているんだ、何とか頼んでみるさ」
バギーから降ろした修理機器を準備しながら話す僕を、エアンがにやにやしながらじっと見つめている。
「どうした、エアン?」
「ねぇ……その女の人って、兄ちゃんの恋人?」
「馬鹿、そんな訳無いだろ?」
僕はがっくりと肩を落とし、何となく装甲板に“の”の字を書く。
いじけている暇なんて無い、僕は早速ぐったりとうずくまる『VM-2型』の修理に取りかかった。
案の定、破損箇所は皆無だった。
この機体には気の毒だが、やはりパイロットに乗り捨てられただけのようだ。メインコンピュータが起動しないのは、機体の制御プログラムを記録した内蔵ディスクが長い間放置されているうちに、データ破損を起こしてしまったからだ。
僕が持っているディスクには、様々な装甲兵に使用されているプログラムが圧縮されている。必要なシステムを解凍してメインコンピュータに新しく記憶させるだけで、全ての不具合は解決してしまったのだ。
「リスティ兄ちゃん!」
「あ?」
メンテナンスモードでメインコンピュータを起動し、コクピットで各部の機能をチェックしていると、イリューザーの足下から僕を呼ぶ声が聞こえた。
「どうしたんだ、エアン!?」
僕がコクピットから顔を出すと、下ではエアンが大きな包みを頭上に掲げていた。
「姉ちゃんが、お昼にってお弁当作ってくれたんだ!」
「ああっ、ありがとう!」
もうそんな時間になるんだ。
腹ぺこに気付いた僕は、機体乗降用リフトでイリューザーから降りる。
エアンから包みを受け取ると、その場に腰掛けた。ミーシャさんに感謝してさっそく包みを開くと、色とりどりのサンドイッチがバスケットの中に綺麗に並んでいる。
正直な僕のお腹の虫が、ぐう! と鳴った。
「兄ちゃんってば、何度呼んでも返事しないんだもんな。俺、疲れちゃったよ!」
サンドイッチを頬張る僕に不満を漏らし、エアンはイリューザーへと向かった。
「ああ、ごめん!」
機械類をいじり始めると、つい夢中になってしまう悪い癖だ。
苦笑いしながら照れ隠しに頬を掻く。僕はミーシャさんお手製の美味しいお弁当を全て胃の中へと収め、もうひと頑張りしようと腰を上げた。
コクピットで計器類のチェックを始めると、エアンが興味深そうにその作業を眺めている。
「面白いのか?」
「うん!」
エアンは黒い瞳を輝かせて、大きく頷いた。
「兄ちゃんは、装甲兵が好きなの?」
「いや、僕は機械ってものが好きなんだ」
そう、僕は取り分けて装甲兵が好きという訳ではない。
今やらなければならない事、自分の力が一番役に立つ事をしているに過ぎない。
「機械?」
「そう、機械さ。組み合わされたひとつひとつの部品には、大きな部品も小さな部品もそれぞれの大切な役割がある。そんな部品をたくさん組み合わせれば、とても人の手には負えないような、大きな仕事をこなしてくれる機械だって作れるんだ!」
思わず興奮気味にしゃべってしまった。話が少し難しかったのかも知れない、きょとんとしたエアンが首を傾げて見せた。
ああ、何を熱くなっているんだか。僕がぽりぽりと頬を掻いていると、突然、轟音が深い森に響き渡った。
驚いた野鳥達が飛び上がり、森の小さな生き物が枝の上を逃げ去った。
大きく揺れる木々の枝の間、かすかに見える空を横切った三つの黒い影。
「兄ちゃん! 盗賊だ、盗賊が街に向かったんだ!」
エアンが大声で叫ぶ。
「何だって!」
僕は慌てて、メインコンピュータを起ち上げた。
レーダーを作動させると、三つの光点が現れる。間違いない、三つの光点はエディフィスの街へと向かっているようだ。
「ど、どうしよう……」
ジュエル号は今荷物の搬入をしている最中だ。こんな所を狙われたらひとたまりもない。
美鈴さんだってあの具合では、まだブレイバーの操縦などおぼつかないだろう。
僕は慌ててヘッドセットを被り、通信機のスイッチを入れる、しかしどうチューニングしても、がりがりとひどいノイズが響いてくるばかりだ。
「くそっ!」
いまいましいヘッドセットを投げ捨てる。
迷っている暇など、少しも無かった。
「エアン!」
僕は意を決すると、隣にいるエアンの肩を両手でしっかりと掴む。
「バギーの運転は出来るか?」
「た、多分出来るけど……どうするんだよ、兄ちゃん!」
心細そうな顔のエアンに、僕は無理に笑って見せた。
「僕が何とか奴らの足を止める。エアンはジュエル号に、この事を知らせてくれ!」
エアンは驚いたようだ。
「兄ちゃんはパイロットじゃないんだろ、無理だよ!」
「ところがやれるのさ! 僕はまったくの素人って訳じゃない。色んな重機だって扱える、装甲兵だって同じ機械だよ!」
装甲兵に乗ることと、操縦することは大きく違うけど。
僕は今精一杯虚勢を張っている、爪を噛んで考え込むエアンの顔を、僕はしっかりと見つめた。
「う、うん、行くよ!」
コクピットから這い出したエアンは、ぱっと身を翻して、乗降用ウィンチも使わず地上に飛び降りた。
「頼んだぞ、エアン! 必ず街の手前で食い止めてみせる。そう伝えてくれ!」
急発進したバギーを運転するエアンの背にそう叫び、僕はコクピットハッチを閉めると、シートへと身体を固定した。
震える手で、メインスイッチを入れると、ジェネレーターが呻りを上げ始める。
ごくりと唾を飲み込み、両腕で操縦桿を引き起こした。
画面に映る起動チェックを全て強制的にカットすると、一度不機嫌そうに身震いしたイリューザーが起動する。
「い、行くぞっ!」
躊躇などしていられない。
僕はフライト・ユニットへ思いっきり点火した。
「わーっ!」
思わず口から悲鳴が飛び出した。太い幹をした森の大木を叩き折り、イリューザーはもの凄い勢いで空へと上昇する。
よ、よし!とっ、取り敢えずは飛んだぞ。
だけど、素人の僕なんかにどうにか出来る事態なのか? そう思った瞬間、イリューザーがこのまま墜落しそうな、頼りない心細さが沸き上がってくる。
震え出しそうになった僕の耳に、鈴の音のように綺麗な音が響いた。
それは柔らかな風にのって、僕の耳をくすぐるように過ぎていく。
「なんだ?」
微かに聞こえる、これは声?
(……だよ)
「良く聞こえない」
じっと耳を澄ます、これは女の子の声?
(だいじょうぶだよ……)
ゆらゆらと揺れていた可愛らしい笑い声が、次第に薄らいで消えていった。
「大丈夫……か」
この際何でもいい。あんなに可愛らしい声なら、死神の類ではないだろう。
僕は服の上からぎゅっとペンダントを握りしめ、少女の言葉をお守りのように心に刻んだ。レーダーを使って、三機の消えた方角を確認する。
僕は思い切って、イリューザーを最大加速させた。
「み、見えた!」
前方でゆっくりと飛行している三機の装甲兵、盗賊達のセラフィムが確認出来た。
イリューザーの装備はチェック済みだ。ライフルにバルカン砲は、いずれも実弾使用。そして接近戦用のブレードが一振り。ブレイバーと違い、光学兵器は一切搭載されていない。
「で、でも不意打ちなら、なんとか!」
やけくそ気味に叫んだ僕はライフルを構え、機体をさらに加速させる。
しかし。
「ひええっ!」
装甲兵に限らず戦闘経験など無い僕は、最大加速する機体の速度感になど馴れてはいない。イリューザーはあっという間に、一機のセラフィムへと追いついた。
まさか、追っ手がいるなどとは思わなかったのだろう。最後尾のセラフィムが、緩慢な動作で振り向いた。イリューザーのメインモニターへ、大写しになる紫色の機体。
「わーっ!」
イリューザーは、振り向いたセラフィムへ向けてシールドを前面に構えたまま、思いっきり体当たりしていた。
シールドで頭部を力任せに殴りつけられたセラフィムが、のけぞって吹っ飛ぶ。
「あ、あれ? と、取り敢えず一機撃墜!」
喜んでなどいられない。へろへろと地上へ落ちていく仲間に驚いた残りの二機が、戦闘態勢に入る。二機は腰の辺りに装備したラックから、斧の形をした接近戦用ブレードを引き抜いた。
な、何て凶悪な形の武器を持っているんだ、こいつら。
「とっ、飛び道具を持って無いんなら!」
僕はライフルの照準を絞り、操縦桿のトリガーを引く。
しかし発射された実弾を、セラフィムはいとも簡単に回避した。
「くそっ照準が……ブレて!」
ライフルの照準のせいだけではないのだろう、微調整が上手くいかず僕は焦った。
もたもたしている僕の隙を突いて突進してきたセラフィムが、大きく斧を振りかぶる。
「わぁっ!」
白熱化した凶刃がライフルの銃身をいとも簡単に切断し、僕は仕方なく使い物にならなくなったライフルを投げ捨てた。イリューザーを囲む二機のセラフィムは、獲物をなぶるように旋回しながら、じりじりとその包囲網を狭めてくる。
「ぶっ武器、武器は!」
武装の確認は、何度もしているはずだけど。
しかし二機の装甲兵を相手にしている僕の頭からは、そんなことは綺麗さっぱり消し飛んでいた。
「このっ! このこのこのこのこのっ!」
汗ばむ手で操縦桿を握る、親指に当たったスイッチを押し続ける。
シールドに機体を隠してバルカン砲を休むことなく撃ちまくるのだが、盗賊達のセラフィムはまるで僕をからかうように、のらりくらりと弾を避けてしまう。
今まで続いていた機体の振動が、突然止まった。
「排気音だけ、たっ弾切れ!?」
バルカン砲の弾が切れ、この機を待っていたように突出してきた一機のセラフィムが、斧を大きく振りかぶった。
「くっ!」
斧を叩きつける連続の斬撃。
機体に激しい衝撃が走り、ついに振り下ろされた斧がシールドを溶解させ、高熱を発する刃がずぶりと食い込む。
シールドに深々と食い込んだ斧を、セラフィムが引き抜こうとした瞬間。僕はフライト・ユニットを全開にして、セラフィムに体当たりした。
斧が食い込んだままのシールドを投げ捨て、抗うセラフィムに強引に組み付くと、ラックから引き抜いた接近戦用ブレードを逆手に持ち、セラフィムのフライト・ユニットへ突き刺して最大発震させる。急激に振動を開始したブレードが、セラフィムのフライト・ユニットの内部機関を切り裂いた。
マニュピレーターを外すと、ブレードが突き刺さったまま、フライト・ユニットから煙を噴き上げたセラフィムは落下していく。
「これで、二機っ……まだ!」
両肩を上下させ、荒い息をつく僕の耳を打つ甲高い電子音。コクピット内に接近警報が響いた。真後ろからの攻撃。しかし、イリューザーには武器など何一つ残ってはいない。
「まだだ、まだこんなところで死んでられないんだよ!」
心に深く根付いた、ただ一つの思いが頭を持ち上げてくる。
僕は勢い良くイリューザーを振り向かせると、背部のフライト・ユニットを切り離し、右のマニュピレーターでぶら下がるようにして捕まった。
「これで、どうだっ!」
脚部スラスター、補助バーニアを全開にし、突進してくるセラフィムへ目掛けてフライト・ユニットを思い切り叩き付けた。
セラフィムに激突したフライトユニットが爆発し、その上半身部分が半壊する。
浮力を失ったイリューザーはセラフィムへ組み付いたまま、もつれるように森の木々を引き倒しながら小高い丘へと落下した。地面を大きく削りながら滑る機体が、バラバラにならなかったのが不思議なくらいだった。
どうやら森の木々のおかげで、墜落の速度が緩和されたらしい。
朦朧とした意識の中、僕は歯を食いしばって土にめり込んだイリューザーを立ち上がらせた。
しかし鋭い警告音と振動が響き、がくんとイリューザーが力を失い、大地に膝を付く。
限界を超えてしまった関節各部の衝撃緩衝用のシリンダーから、まるで血のようにオイルが吹き出した。
イリューザーの足元にはぴくりとも動かない、半壊したセラフィムの残骸が転がっている。コクピットから這い出したのか、盗賊風の男が一人ぐったりとのびていた。
「か、勝った、勝ったぞ!」
呆然としていた僕は、我に返って大声を上げた。
後は、エアンの知らせを聞いたジュエル号が何とかしてくれるだろう。
今も続く心臓の鼓動は激しく、作業服はぐっしょりと汗で濡れ全身が怠いほどの疲労を訴え掛けている。操縦桿を握ったまま、固まっている指を苦労して引き剥がすと、震える手でモニター上にマップを開いた。
エディフィスの街、手前一キロのポイントを現す光点が点滅している。
「本当に止めたんだ。やった、やったーっ!」
ガッツポーズで叫んだ瞬間、激しい衝撃に僕はシートから投げ出された。
「いてて」
どうやら、イリューザーが前のめりに転んだらしい。
コクピット内が警告灯の光で真っ赤だ。
ふらつく頭を振ってモニターに映る機体情報を見た僕は、ぎょっとした。
左腕上腕部より大破……欠損!
何が起こったのだろう、イリューザーの左腕は無かった。しかし右腕一本でも、バランサーが働いていれば問題ない。イリューザーが立ち上がった瞬間、またも激しい衝撃を受けて今度は仰向けに転んだ。この時になって、僕はやっと気が付いた。
コクピット内には、接近警報が響いていたのだ。
ノイズがちらつくモニターへ映っているのは、こちらを見下ろしているセラフィムの姿。
「最初に体当たりした奴が、生きてたのか」
切れ切れにつぶやく。
またもや衝撃、今度は右腕が切断された。イリューザーに上体を起こさせてみたが、両腕を失っているのでどうにもならず、また思い切りセラフィムに蹴り倒された。
モニターへセラフィムの足の裏が迫ってくる。
ざ……。
二度三度踏みつけられ、衝撃にモニターの映像が激しく乱れる。
『この野郎、やってくれたじゃねえか』
装甲板を通じて、コクピットの中に酒に灼かれた濁声が響いてくる。
甘かった。
薄れる意識をなんとか繋ぎ止め、僕はモニターへと映るセラフィムを睨み付けていた。
コクピットハッチを踏みつけたセラフィムが、白熱化している斧を大きく振り上げる。
あの熱く焼けた刃がコクピットへ振り下ろされれば、僕の身体は蒸発して無くなってしまうのだろう。セラフィムの動きがまるで映写機のスローモーションのように、スクリーンであるモニターへと流れる。
その時、右の方向から何かがフレームインして来た。
「あれは……」
僕は目を見開く。
「紅の天使?」
僕が叫んだのと同時に、フライト・ユニットのバーニアを全開にしたブレイバーが、セラフィムを思いっ切り蹴り飛ばしたのだ。
まるでボールのように、地上を二度三度バウンドして、もうもうと土煙を上げるセラフィム。
その映像を僕が知覚したとき、時間の流れが正常に戻った。
起き上がろうとするセラフィムにライフルを向けたブレイバーは、躊躇することなく速射の四連射でセラフィムの四肢を撃ち抜き、行動不能にしてしまった。
「リスティ!」
動きの悪くなったメインカメラの視点を動かそうとしていると、怒気を含んだ声と共に、美鈴さんのどアップがモニターへ映し出された。
「あ、あの」
「この馬鹿野郎!」
凄い剣幕で怒鳴られた。
可愛らしいネコ柄パジャマのままの美鈴さんが怒っている、もの凄く怒っている。
「あんたの馬鹿さ加減には呆れたわよ。一人じゃなんにも出来ないクセに、いっちょ前にかっこつけようとしてんじゃないの! 怪我したら痛いのよ?ちゃんと解っているの?!」
牙を剥いて怒鳴り散らすモニターの中の美鈴さんを、僕は呆然と眺めていた。
そりゃあ、僕にも言い分の一つや二つあったのだが。そんなこと、今はどうでも良かった。
「美鈴さん」
「なっ何よ?」
なおも怒鳴り散らしていた美鈴さんは、はっとして口をつぐんだ。
「熱は下がったんですか?」
ぶつっ!
その瞬間回線が切れ、モニターから美鈴さんの姿が消えた。
「あれ?」
故障かな? 僕が首を傾げて操作盤に手を伸ばそうとすると、
「その機体、もう動かないんでしょ?早く降りなさい、帰るわよ」
ややくぐもった音声のみが聞こえてきた。
ひょっとして、風邪がぶり返したんじゃないだろうな?
そんな心配をしながらハッチを強制排除して外へ顔を出すと、ちょうどジュエル号の装甲兵リャリオット二機が、僕が叩き落としたセラフィムを太い腕で引きずってくるところだった。
☆★☆
ジュエル号は、居住コア『エディフィス』を出発した。
総出で船を見送ってくれた街の人々、そしてエアンの輝く笑顔を忘れない。
美鈴さんと、ガディさんにはこっぴどく叱られたものの……。
僕を“勇気ある男”と讃えてくれた、エディフィスの街の人々。
たくさんのご馳走を振る舞われ、ミーシャさん達女性が伝統的な踊りを披露してくれた。
夜空を焦がす大きな炎を取り巻いて、激しく踊る女性達。
男達が演奏する太古の打楽器が、大地の息吹にも聞こえる振動を伝え、女性達がそのリズムに乗って躍動感あふれる踊りを続ける。
激しい踊りが表現する命の力強さを、僕は深く心に刻み込んだ。
「俺、兄ちゃんみたいに立派なジャンク屋になるよ!」
大きく手を振りながら、大声で宣言したエアン、エディフィスに住む人々の清々しい笑顔。誰がエアンにそう教えたのだろう?将来はジャンク屋を目指すと豪語する弟に、額に手を当てて首を振る困った表情のミーシャさん。
そんな事を思い出しながら、おでこに貼った大きな絆創膏をいじっていると、
「きゃーっ!」
通路の向こうから絹を引き裂くような悲鳴が聞こえ、パタパタと軽い足音が近づいて来る。
「あ、リスティ!」
パジャマ姿のままスリッパ履きで駆けて来た美鈴さんが、僕の背中に隠れてしまった。
「なっ、何事ですか!」
背中の美鈴さんに問いかけた僕は、何やらぞっとする寒気を感じて振り向く。そこには白衣がぴっちり、やや小太りのテロップ船医が立っていた。
美鈴さんを追いかけてきたのだろう、息を切らせ大きく肩を上下させている。
ふーふーと荒く息をつき目がぎらついている。正直に言うと、ちょっと危ない。
「さぁ、美鈴君、医者を困らせるんじゃない。注射を一本打てば楽になるから!」
「あたし、注射嫌いなのよ!」
僕の背中に隠れている美鈴さんは、枕をしっかりと抱いている。
完全に風邪をこじらせてしまったらしい。それにしても、美鈴さんが注射嫌いなんて可愛らしいところがあるんだ。
「さ、美鈴さん。ちくっとするだけですから、さっさと済ませてしまいましょう」
僕がちょっとした優越感に浸っていると、その時鼻がむずむずして……。
「はっ、びえっくしゃん!」
大きなくしゃみをしてしまった。
「あ゛~」
「ほほう……ぼうず、風邪でもひいたのか?」
鼻水をすする僕のくしゃみの先には、間の悪いことに偶然通りかかったガディさんが立っていた。
首に掛けたタオルで顔を拭う、ガディさんのこめかみの辺りがぴくぴく動いている。
「す、すみません。あ、あはは」
「おっと……。ちょっと待て、ぼうず!」
ガディさんに乾いた笑いを返すしかない僕は、首根っこを鋼鉄の筋肉が盛り上がる腕で、がっちりと極められてしまった。
こうなってはもう、いくらあがこうと逃げられない。
「めっ!美鈴さ~ん」
情けない声で僕が助けを求めると、もうそこに美鈴さんの姿は影も形もなかった。
ひどい!ひとりで逃げたんだ。
「へへっ、ちょうど良いや。ぼうず、テロップ先生に診てもらいな!」
ああっ! ガディさん。どうしてそんなに楽しそうなんですか!
「リスティ君」
どき。
恐る恐る顔を上げると、妙に嬉しそうなテロップ先生と目が合った。
「ちょっと目がトロンとしてるね、顔もなんとなく火照っているようだ」
「え?」
「美鈴君にうつされたのかな?これは間違いなく、風邪の症状だねぇ」
にんまりと微笑むテロップ先生が、注射器を片手ににじり寄ってくる。迫り来るのは、よ~く見ればやたらとでかい注射器。
おいおい、何でこんなに太い針なんだよ。これじゃチクッ!じゃなくて、ぶすぅ! だぞ? 美鈴さんの助けも期待出来ない……ああ、絶体絶命。
後になって聞いた話だが、テロップ先生の注射は、とてつもなく痛いと評判だった。
「ぎぃゃあああっ!」
迫る注射器、僕の悲鳴はジュエル号の広い艦内に、くまなく響き渡った。