忘れ花
日めくりカレンダーを一枚、また一枚とめくる。
その紙は足元にたまり続けて、床は日付で埋め尽くされていく。
寂しさというものは次第に薄れ、色々な経験をした僕は少しだけ強くなったと、そう……思っていた。
いや。そう、思い込みたかった。
自分についてきた、小さな嘘の数々。
――まだ、大丈夫。
――僕は辛くなんて、ない。
――絶対に、また会える。
――きっと……幸せになれる。
大丈夫。大丈夫……。大、丈夫……。まだ……大丈夫。
その言葉たちを何度も、何度も唱えて自分自身に言い聞かせてきた。
それらは僕の中の「嘘」という概念をついてはいけないものから、嘘をつかなければ生きていけないものにまで変えてしまった。
そしていつしか塗り重ねた嘘は自分さえも騙し、それを真実に変えてくれるのだと信じていた。
そうして感情を奮い立たせていなければ、真っすぐ立っていられなかったことにも僕自身、気が付いていた。
ある時。雅がいない事以外のすべてが、変わらず動いていていることに心が耐えられなくなった。
ひとりで考えているうちに雅は亡くなってなんていなくて、本当はどこかで生きているかもしれない。そんな、気がしてしまった。
高熱で魘されていた時のように僕は怖い夢を見ていて、事故なんて実際にはなかったのかもしれない。
そんな非現実的だか、希望の持てる思考。
だから僕は彷徨うように、一緒に行った事がある場所へと足を運んだ。
クリスマスの日。寒い中、手を繋いで歩いて行った坂の上にあるカフェ。
少し遠出して行った、県外の美術館。車を運転している雅の横顔は、見惚れてしまうほど格好良くて。
ちらりと、何度もその姿をこっそり見ていた。
一緒に乗った観覧車。夜景が綺麗で、それを背景にして座る雅。
その姿に僕はどうしようもなく、好きが増していくのを感じた。
雅が、どこかにいるかもしれない。
僕が探し続けていれば、会えるかもしれない。
きっと会える。だって、僕と雅は運命なのだから。
思い出をなぞるようにして、倦怠感の酷い体で懸命に歩を進める。
他にも色々と行ってみたけど、その中のどこにも雅の姿はなかった。
僕はそんな事、分かっていたはず。
なのにそれが苦しくて、辛くて。
ただ、自分自身を追い詰めただけ。
でも僕は、その行動をやめることは出来なくて。
そんな無茶な事をしていれば体調は日に日に悪化していき、ついにベットから起き上がることすら難しくなった。
重力が掛かり泥のように重い体を引き摺り這うようにして、部屋の中を移動する。
この部屋にも、たくさんの思い出が色濃く残っている。
僅かにでも雅の存在を感じたくて、クローゼットを開けた。
そこにある洋服の匂いは時が経って、薄れつつある。
それでも雅が着ていたものだからと顔を埋めれば、微かに甘い匂いがして、瞳には水分が集まってきてしまう。
気に入って、よく着ていたジャケット。
柔らかい肌触りのトレーナー。
雅が好きで集めていた柄物のシャツ。
セットアップのスウェット。
服が好きな雅はよく、僕のコーディネートもしてくれた。
頭から爪先にいたるまで雅の色に染められるかのようで、僕は嬉しくて好きだった。
髪をセットしてくれる時に優しくふれてくれる手と、目尻に皺を寄せて満足そうに笑ってくれるその笑顔を見たくて。
手を繋いで、隣を歩く。そんな日常が、僕は何よりも幸せだった。
それらの服をすべて、抱き寄せた。
僕を包むこの世界だけが、あの日から時計の針を止めている。
目の縁から細長く大きな白い花びらが一枚、ひらりと落ちた。
透けるように薄く触れれば吸い付くような柔らかな質感がして、鼻をくすぐる芳しい香りがした。
その甘く気品を感じる、重厚な香りには覚えがあった。
「月下美人」という花を、祖母は大切に育てていた。
祖父が好んでいたらしいその花は夜にしか咲かず、一年に一晩しか開花しないという。
「新月や満月の夜を選んで花を咲かせて、朝にはしぼんでしまうという逸話もあるのよ」
おばあちゃんは確かそう、言っていた。
実際には月の満ち欠けは関係なく、生育環境などによっては年に数回花を咲かせることもあるという。
一夜花とも呼ばれ、月明かりの下で見せる幻想的な景色と開花から数時間しか咲くことのない儚さに、祖母は心惹かれていた。
その花をよく、祖父の仏壇の近くに飾っていた。
一度、命日に月下美人の植えられている鉢を愛おしそうに見つめるおばあちゃんが教えてくれたその意味に、心が締め付けられた。
花言葉は「ただ一度会いたくて」
その神秘的で美しい大輪の花には、そんな花言葉が存在する。
僕は呆然と、真っ暗な部屋で花の涙を流すしかできない。
はらりと降り積もる花びらからは甘い匂いがしていて、その香りは僕の心を狂わせる。
雅のものではない違う匂いが付いてしまうのが嫌で、そっとクローゼットへと戻す。
ただ一度だけでも、雅に会いたい。
手慣れた動作で、花を袋へと詰め込む。
雅と一緒に過ごした日々は全てのものに対価があるのだということを、忘れてしまうほどに幸せな日々だった。
そんな簡単な作業ですら今の僕の体には負担が掛かってしまうようで、視界を上手く定められない。
這い上がるようにして、ベットへと戻る。
回る世界が気持ち悪く不快で、それをどうにかしたくて手を必死に動かして探す。
指先にふれた布を、引き寄せた。
それは部屋着として、雅が着ていたもの。
その服を強く抱きしめ、鼻先を擦り付けるようにしてうめて僕は静かに目を閉じた。
そのまま僕は、暗く深い水の中を深く、ふかく沈んでいく。
夢と現の間を、彷徨っている。
「紫翠、愛してる」
項を擽られるように唇を落とされてから、そのまま背骨を辿りなぞられる。
甘く蕩けるほどに愛されて、体の感覚が曖昧になる。
ふれた所から体温が混じり合い、ひとつになるような心地よさに包まれていく。
「ぼくも、あいしてる」
その中で僕も、懸命に愛を伝える。
それはもう、きっと伝えられない言葉。
僕と一緒に、花となって消えるしかない気持ち。
ごめんね。ちゃんと責任をもって、最期まで抱き締めていくから。
見慣れた天井が、ぼやけて見える。そしてまた、雅はもうこの世にいないのだということを突き付けられる。
どちらにも行ききれない事が、酷く苦しい。
――はやく、楽になりたい。
でも痛かったり、苦しかったりするのは嫌だな。
眠るように、消えられたらいいな。
とろりと僕の意識は、また落ちていった。
気絶するように眠り、また目覚める。何度も、何度も。ずっと、その繰り返し。
雅がいない世界は、永遠に続く。
僕の時間は完全に止まっている。あの日から。
鼻と鼻がふれてしまいそうな距離で囁くように話すのが、二人だけの秘密の時間みたいで大好きだった。
僕だけしか聞けない甘い声で呼ばれてから、優しく唇を奪われるのが嬉しくて。
枕元に置いてあるスマートフォン。
ひとつは今使っているもの。もうひとつは、僕が昔使っていたもの。
その古い機種に残っていた、留守番電話の履歴。
蓮くんが家に来てくれた時、偶々見つけたもの。
とても、懐かしくて。電源を入れて、何気なく見ていた時。その存在を思い出した。
僕は徐に手に取り電源を入れて、再生ボタンを押す。
「もしもし、紫翠? こっちは早く終われたから、今からお家行くね……愛してるよ!」
僕の大好きな、甘い音を含む声。少しだけ気恥ずかしそうな愛してるに、涙が溢れる。
愛してる……僕は今も、ずっと愛してるよ。
赤い薔薇の花と、赤いカーネーション。ひらり、ひらりと落ちていく。
雅が好きな、赤色の花。
女々しい。こんなのに、縋るなんて。
「本当に馬鹿、みたい……」
無機質な冷たい機械を握りしめ、声にならないほどに花を溢す。
人は声から忘れていく、それを思い出した時。記憶の蓋は開く。
それを恐れて人間の脳は、無意識下で自分を守るために忘れようとする。
僕がこんな風に雅に話しかけられることは、もう二度とない。
その事実は苦しくて、痛くて。
なのに、この声を忘れたくない。だけど、辛い。
矛盾するふたつの、気持ち。
ずっと消すことのできない、留守番電話。
少し冷静さを取り戻す頭。重い体を引き摺って、リビングへと降りてテレビをつけた。
ソファに体を預け、流すように見ていた。
不意に、あの事件の犯人である男に検察官が死刑求刑を求めたというニュースが流れてきた。
「みやびを、返してよ……」
ぽつりと、ひとり溢した言葉が虚しく響く。
世の中に不満があって、それを晴らしたかったという。
そんな理由を目にした時、感じたことのない程の怒りの感情が湧き上がった。
お前のそんな身勝手な理由で、僕は雅と引き離された。
死んで償えるわけなんてないだろっ! テレビに向かって叫び、泣き喚く。
大きな声を出したことにより、少しふらつく。
紫色の芍薬の花びらが、たくさん落ちる。
ニュースが終わり、暗くなった画面。
温度が下がった頭は何も考えることが出来ず、重くなり体はぐらつく。
次第に意識は遠のいて、咄嗟に座り込んだ。
視界は回り始め、僕はうつ伏せに倒れ込む。
その拍子にぶつけた鼻が痛むが、そんなことお構いなしに瞼は勝手に下がっていく。
あいつが、死ねばよかったのに――。
僕は、そのまま意識を失った。
夢、を見た。雅と手を繋ぎ、幸せな頃のゆめ。僕の手を包み込む、温かい手。
「紫翠、こっち」
目覚めると僕の周りには、紫の花びらが散乱していた。
ぼやける視界が徐々にはっきりとしてきて、思う。
まだ、僕は生きている。
こんなに泣いても、雅は迎えに来てくれない。
どうして……。
少しハート形にも見えるそれらにも、意味はあるのだろうか。
習慣となりつつある、花の種類を調べるこの行為をなぜか僕はやめることが出来ない。
手慣れた手つきで、花の名前を調べる。
紫の芍薬。花言葉は「怒り」「憤怒」
乾いた笑いが、止められなかった。
僕は何に、憤怒の感情を抱いている?
犯人に対して?
それとも、あの日自分があの場所へ行こうと言ったこと?
もう自分が考えていることが、わからない。
「あははは…………たすけて。みやび」
頭の中は混乱を極め、涙の花は止まらない。
ひとり、泣き笑う。
はらはらと数種類の花びらが足元に落ちて、絨毯のように広がっていく。
星のような形をしていて、白から薄く青へ変化する花びらを持つ、ハナニラ。
その花言葉は「恨み」「悲しい別れ」「耐える愛」
鮮やかなオレンジや黄色が目を惹く、キンセンカ。
花言葉は「寂しさ」「別れの悲しみ」
またひとつ。僕の中の何かが、壊れた音がした。
限界……だと思った。
遅れて頭を金槌で殴られているような、激しい痛み。
脳内を危険信号が駆け巡り、警鐘を鳴らす。
――神様、僕をこのまま殺してください。
雅の存在を求めて、言うことを聞かない体を引き摺り、寝室へ向かう。
足は縺れ、階段を上がることにすら結構な時間を要す。
その間にも花びらは僕の眦から落ち続け、辿り着いた時には息も絶え絶えで視界は歪む。
クローゼットを開けてその狭い空間に倒れ込むようにして入り、雅の匂いに包まれる。
「あいたいよ……みやび」
手探りで落とした服を抱えるように抱きしめて、そこへ顔をうめれば先程まで感じていた、頭痛は少しだけ和らいだような気がした。
僕はそのまま目を閉じて、その場に足を抱えるようにして横になる。
もっと雅を感じたくて、奥側に落ちている服へと手を伸ばした時。何か、箱のようなものに触れた。
覚えのないその箱を、引き寄せてみる。
僕の両の手に乗せられるほどの大きさの箱は、アンティーク調の見た目をしていてまるで宝箱のようだった。
「何……これ?」
鍵穴のようなものはあるが、その鍵はかかっていないようで僕は蓋に手をかけて、そっと開けた。
箱の中にはもうひとつ、桔梗の花のような色のベルベット生地の小さな箱。
その隣には、香水らしき瓶が入っていた。
その瓶のラベルには「to shisui」と記載されていて、さらにその下には、Je t'aime pour toujoursとあった。
フランス語……?
瓶を持ち上げたその時。ぱさりと一枚のカードのようなものが、落ちてきた。
そこには雅の字でこう、書かれていた。
ジュ テーム プール トゥジュール。
その意味は「永遠に愛してる」
「みやびっ、こんなのき、いてないよ……」
おかしいな……前が見えない。
その時。赤い薔薇の花びらが、静かにそっと落ちた。
箱の中にたくさんの花びらが、降り注いでいく。
震えてしまう手で小さな箱を開けると、指輪がふたつ並んで収められていた。
「これは、結婚指輪……?」
あの時の言葉が、よみがえる。
「今はこっちだけど、いつかちゃんとここに指輪を贈らせてね」
雅は、ずっと覚えていてくれたのだ。
胸が張り裂けてしまいそうで、息ができなくて。
いたい、くるしい。くるしい……会いたい。
あの時、あんな事がなければ。
今頃、僕たちは……幸せだったはずだ。
なんで雅は、いま僕の隣にいないの?
はやく、僕のもとにきてよ。
あの時みたいに、これを雅の手ではめてよ。
「み、っやび……なんで、そばにっ、いないの?」
苦しいよ、みやび。
ぼくのこと、はやく迎えにきて。
あいたいよ――。
雫形の純白の雪華草。「君にまた会いたい」
様々な色の萼の中に小さな花を咲かせるスターチス。
「変わらぬ心」「途絶えぬ記憶」
紫色の花びらに、薄く白い筋が入っているクロッカス。
「愛の後悔」「あなたを待っています」
そして見慣れてしまった、赤色のカーネーション。
色鮮やかで美しいはずなのに、見えている光景は僕を苦しめる。
もう直接、伝えることができない思い。
たくさん散らばっているのを見ているのは、辛い。
もう、いやだ。はやくむかえにきて。おねがい、たすけて。
想いが叶ったあの日。雅への恋情をしまっていた箱は、雅から愛を貰いそれをためておく為の箱に変わった。
箱の中にはたくさんの雅からの愛が入っていて、愛は色んな形をしている。
ハートの形をしたもの。星形のもの。丸くて雲のような形をしたもの。
ピンク色や水色、オレンジ色に黄色。
抱えるのが少し大変なくらい、大きなもの。僕の手のひらサイズくらいの小さなもの。
ふわりとした柔らかくて温かい愛は、そのどれもが綿菓子のように甘くて、幸せな味がする。
会えない時はそれを少しずつ食べて、寂しさを誤魔化しその期間を耐え凌ぐ。
そうして次に会えた時にまた、箱から溢れるほどたくさん貰って箱の中をいっぱいにする。
それを、ずっと繰り返す。繰り返せるのだと、あの日までは疑うことなんてなく過ごしていた。
雅がいなくなってからも、大切にその箱を抱えている。
だけどその箱いっぱいにためた愛は、底をついてしまいそうで飢餓寸前。
少しずつ遺された愛を大事に食べて、今まで頑張ってきた。
箱を抱えて、蹲るようにして僕の体は倒れた。
呼吸が、少しずつ浅くなっていく。
息も上手く吸えくなってきて、視界も次第に霞んで見えなくなってきた。
これで、やっとみやびの所へいける。
……もう、我慢しなくてもいいのかな。
すべての感覚が、遠のいていく。もう、何も感じられない。
「紫翠」
大好きな声が、聞こえた。
静かに目を開けたそこには、焦がれてたまらなかった雅の姿。
「紫翠、おいで。よく頑張ったね」
大好きな腕の中に、たまらず飛び込んだ。
「……うん。やっと迎えに来てくれたんだね、みやび……会いたかった」
ぎゅうっと苦しいくらいに抱きしめられて、温かい腕の中に閉じ込められる。
愛してやまない、雅。やっと、会えた。
目頭が、熱くなる。僕の目からは溢れてきたものは、花ではない水の粒。
それを、雅が人差し指で拭ってくれる。その行動にさらに涙は溢れて、とまらない。
「紫翠の涙は綺麗だね」
雅が、ここにいる。ただ、それだけで僕の心はこんなにも満たされていく。
心からの幸せであふれた涙は、きらきらと輝いていた。
「紫翠。左手、出して」
雅は王子様のように跪いて、僕の薬指にキスをひとつ。
その後、そこにそっと指輪をはめてくれた。
僕の左手で輝きを放つ、指輪。
あんなに暗く色の無かった世界に、色彩が戻り明るく光り輝いて見える。
「雅、もう僕のことを離さないでね」
「ひとりにして……寂しい思いをさせてごめんね、紫翠。これからは、ずっと一緒だよ」
大好きな雅の温かい手が、僕の頬に添えられた。
そのまま、磁石が引き合うように唇がふれる。
くっついたそこから愛が流れ込んできて、全身を駆け巡り心が満たされる。
やはり、雅の存在は僕にとってかけがえのないものなのだと実感する。
このぬくもりを、もう二度と離したくない。
僕を甘く蕩かす声も、それを紡ぐ柔らかな唇も、包み込んでくれる優しい体温も雅の全てを愛してる。
どれだけ伸ばしても届かなかった幸せに、ようやく手が届いた。
たくさん泣いてどれだけその名前を呼んでも、ずっと会うことはできなくて。
辛く暗いトンネルをやっとぬけてようやく手に入れた、愛する人がいる温かい場所。
今際の際で、死に花を咲かせる。
花吹雪が、舞う中。僕たちは、手を取り合い歩く。
二人の手には、永遠の愛を誓うお揃いの指輪。
繋いだ手を、もう二度と離さないように指を絡める。
雅と一緒なら、何も怖くなんてない。
――涙零花弁症に罹患する患者には、ひとつだけ共通点がある。
それは、愛する人を「亡くしている」ということ。
この病は人を愛する気持ちが生み出す、呪いの一種であるのかもしれない。
だけどそれは裏返せば、それだけ相手に愛されているということ。
溢れる花びらは、紛れもない愛の証。
幸せの花を君に捧ぐ。
この花たちは紛れもなく、僕が幸せだった証拠なのだ。
――愛してるよ、紫翠。
――僕も愛してる、雅。
これからは永遠に、僕のそばにいて。
雅さえいれば僕はそれ以外、何もいらないのだから。




