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幸せの花を君に捧ぐ  作者: 綴 朔哉


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ペトリコール

 


 雨音が聞こえる――。


 昨日まで当たり前にあった日常というものは泡のように脆くて、夜空に上がる花火のように儚い。


 それは、決して永遠には続かないものだ。


 あの日、病を告知されてから六年の時が経過した。


 二十七歳の時に発症し次の誕生日が来れば、僕は三十三歳になる。


 雅がいなくなってからの数年間には何の意味も、価値もなかった。


 医師の余命宣告の通り長くても、五年ほどの命なのだろうと希望を抱いていた。


 だが、皮肉にも僕はまだ生きている。


 毎日をなんとなく消費し、ゆるやかに「死」というものが迎えにきてくれるのを静かに待っている。


 あの後、正式に僕の主治医となった医師の上月先生は最善を尽くしてくれていた。


 だけど、僕自身に「生」というものへの執着はない。


 診察を受ける度に心苦しい気持ちは積み重なり、少しでも病気の解明に繋がればと僕なりに感じた事や症状等は、できるだけ伝えるようにしている。


 あれから僕は横断歩道を渡るのが怖くなり、人混みに行けなくなった。


 外出をして幸せそうにしている恋人同士を見ると、胸が苦しくなり見ていられなくなった。


 どうして僕の隣には、誰もいないのか。


 なぜ雅と離れなくては、いけなかったのか。


 起こってしまったことはどうしようも出来ないという事を、頭では解っているつもりだ。


 それでも心は上手くそれに適応してくれることはなくて、過去を変える事なんて出来ないのに考えてしまう。


 あの日、僕があの場所に行こうなんて言わなければ。


 僕がもっとゆっくりと歩き、雅のことを急かしたりしなければ。


 考えても仕方のない「たられば」は永遠に湧き出し続け、その思考に追い詰められた心は重く黒く変色していく。


 僕の世界は完全に色を失い、見えている灰色の景色は冷たく、寂しい。


 ありふれた日常は大きな音を立てて、崩れていった。


 心に傷を負った事により、出来なくなったことが増えていく。

 そんな自分にどうしようもなく嫌悪感を抱き、気分は塞ぎ込む。


 そうして涙を止めどなく流し続ける日々は、生きていることそのものが苦痛以外のなにものでもなかった。


 当時、涙零花弁症という聞いたことのない病気の診断は僕にとって、一種の希望を与えてくれた。


 健常な状態であればいつ訪れるか予想のつかない死というものに、余命宣告付きであるこの病は期限をつけてくれた。


 その期限さえ耐え抜けば、僕はみんながいるあちらの世界へと行くことができる。

 愛する家族も、恋人もいないこの世界に未練なんてものはひとつもない。


 思い通りにいかない体と心が及ぼす影響は計り知れず、それによる倦怠感・めまい・耳鳴り・頭重感といった体調不良は格段に増えていった。


 これらの症状により酷いときには、ベットの上から起き上がることすら困難な生活を余儀なくされた。


 体調が安定せず、日常生活すらもまともに送れなくなった僕は仕事を続けることは難しいと早々に判断し、職場へ退職の手続きを申し出ていた。


 上司は籍を置いたまま療養してはどうかと勧めてくれていたが、完治の見込みのないこの身では迷惑を掛けてしまう事は明白だった。


 いずれ訪れる自分の訃報を聞かせてしまう事に抵抗を感じ、丁重に断りをいれ僕は退職をした。


 薬剤師として働き将来の為にと貯蓄していた分があれば、僕ひとりで細々と生活をしていく分には困ることはない。

 それに、祖母が遺してくれた家もある。


 治療の方も対症療法が主なものになる為、入院や頻繁に通院する必要もない。

 薬の処方のために月一度から二度、診察を受ける程度。


 もし医師が話していた通り本当に死体が花びらに変わってしまうのならば、葬式はおろか火葬すら行う必要はない。


 病院以外での外出は必然的に減り、茫然とベッドへと横たわり、無気力に過ごす毎日。


 体を支配している倦怠感と、心の底から湧いてくる寂しさに抗うことが出来ず、涙を零す日々は辛く、苦しくてたまらない。


 このまま自分が零すこの花たちで窒息し、余命など待たずに消えてなくなる事ができれば。

 そんな事を、何度となく考えた。


 お揃いのマグカップは、今も食器棚に並んで置いてある。


 雅が使っていたものは、全てその定位置に置いたまま。


 着ていた洋服も、靴も全部そのまま。


 雅がいつ、戻ってきてもいいように。


 そうやって叶うはずのない現実を、諦め悪く求め思い描く。



 ――ふとした時に思い出す、雅との幸せな記憶。


 雅の腕の中は、僕にとって世界で一番幸せな場所。


 雅の全身で包まれた状態で唇を重ねれば、ふわりと幸せに揺蕩うような気分になる。


 戯れに重ねた唇が離れていくのは、さみしい。


 だけどその後。目が合って微笑み合えば、擽ったいほどの安らぎが訪れる。


 それに少し恥ずかしくなって雅の胸に顔をうめれば、大好きな匂いがして僕の心を満たす。


 そんなふたりきりの世界は綿飴が口の中で蕩けるようにあまやかで、幸せに満ち溢れていた。


 このベットの上は本来ならば雅に包まれて、心が解放されるような愉悦に浸れる場所だった。


 今は見る影もなく、ここは孤独の牢獄と化してしまった。


 現実を受け入れられない僕は、眠ることが出来なくなっていった。


 毎夜ひとりのベットの上で雅が使っていたブランケットに身を包み、自分を守るようにして小さく体を丸める。


 もう随分と時間が経ってしまって、雅の匂いはわからなくなってしまったが、包まれている間だけは雅に抱きしめてもらっているような気持ちになれた。


 暗く静かな寝室で瞼を閉じ、今日こそは雅のそばにいけるかもしれないと、少しの期待と希望を胸に薬の力を借りて深い眠りへとつく。


 翌日、ぼんやりと見える天井にその希望は打ちひしがれたのだと理解し、ひとりの朝を迎える。


 雅がもうこの世にはいないと聞かされたあの日から、未だに僕はその朝を繰り返し、現在に至るまでその願いに捉われ続けている。


 絶望は血管を通り酸素や栄養を運ぶ血液のように、体中を巡り巡って心臓に重く、深く染み込み続ける。


 処理しきれない感情に心は容量が不足し、機能不全を起こしたのだろう。

 いつからか、自分の気持ちがわからなくなった。


 楽しいや嬉しいなんていった心情は、どんなものだったのだろうか。


 どうすればいいのか。


 何が正解なのか。


 わからなくなり、そんな思考に疲れ果て「何かを考える」という行動そのものが嫌になった。


 だが、ふとした時に雅の事を考えてしまっている自分に気づく。


 なぜあの時、あの場に行ったのか。


 何かが違えば、未来は変わっていたのではないか。


 雅がいなくなる運命なんて、なかったのではないか。


 結局、気づけば一日の大半の時間を費やしてしまっている。

 自分でも悪循環を起こしていることを、頭では理解できている。


 だけど、心はついてきてくれない。


 一方でその心に反して、苦しさから逃れる為の防御反応とでもいうのか、僕の脳は雅のことを忘れようとする。


 昔、雅と並んで見ていたテレビで、何かの専門家の人が言っていた。

 人間が一番最初に忘れてしまうのは声で、それに反して最後まで覚えていられるのは匂いなのだという。


 聴覚・視覚・触覚・味覚・嗅覚といった並びで忘れ、人間の脳はあまり使わない情報を優先的に忘れていく傾向があるという。


 声は目に見えず視覚的な記憶と比べて残りにくい上に、毎日聞いているわけではないために記憶から薄れやすい。



 ――あの時。隣で一緒に見ていた雅が言った言葉を、思い出す。



「毎日聞かないと徐々に忘れちゃうなら、柴翠が大好きな俺の声を忘れちゃわないように、毎日聞いてもらわないとだめだね」

 少しいたずらっぽく笑う、雅との思い出が再生される。


 それは僕にとって紛れもなく幸せで、雅との大切な記憶のはずだ。


 なのに、その中の雅の声を思い出すことができない。


 あの時。こんなにも大好きな雅の声を、僕もいつか忘れてしまうのだろうかと怖くなったんだった。


 恐れていた、その時が来てしまった。


 本当に忘れてしまったのだと、思い知らされる。


 その事実は僕の体を容赦なく切りつけ、傷を付けてくる。

 忘れてしまう悲しさを身に染みて実感なんて、したくなかった。


 涙は僕の瞳からこぼれ落ちた瞬間に、ひらりと花びらへ姿を変えて、座っている僕の太ももの辺りに音もたてずに落ちていく。


 その光景を画面の向こう側を見ているような、どこか他人事で眺めていた。


 一頻り泣いて、茫然としていた僕の目に赤色のカーネーションと、ころんとまるい苺のような形の花が映る。


 漠然とその花の名前が気になった僕は近くに落ちていたスマートフォンを手繰り寄せて写真を撮り、画像検索にかけた。


 その花の名前は、どうやら千日紅というらしい。


 この花にも何か、意味があるのだろうか。


 調べた花言葉は複数あり、そのうちの幾つかが目に留まる。


「永遠の恋」「色褪せぬ恋」「変わらぬ恋」


 雅との記憶は宝物として変わることなく、その輝きを失わずに僕の心の中へと存在している。


 いっそ、綺麗さっぱり忘れてしまえれば楽になれるのに。


 なのに、僕の心はその記憶を忘れまいと必死に抗う。


 その度に、心臓をぎゅっと鷲掴みにされたように息ができなくなる。


 ――大好きな人を、忘れたくない。



 感情は昂り、またころんと千日紅が二個、三個と落ちた。


 大好きな体温に、もう一度ふれることができたのなら。


 そんな夢想を繰り返し何度、空に願っただろうか。


 神様なんて、信じていない。


 だけどこの苦しみから救ってくれるのであれば、例えそれが悪魔なのだとしても、何でもいい。


 雅を返してくれるのならば、どんな代償でも払える。


 僕は本気でそう、思った。


 胸が張り裂ける思いで、大量の花びらを袋へと詰め込む。


 花びらの海に溺れてしまうのではないかというほど泣いても、僕の命が尽きることはなく、雅が僕の前に現れてくれることはなかった。


 雅は、僕のすべてだった。

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